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あじろ けい

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渡せなかった手紙 あらすじ

霊の心残りを解消し、あの世へ送り出している皇(スメラギ)拓也。ある日、亡くなったばかりの老人から一通の手紙を渡してほしいと頼まれる。手紙を渡すだけの簡単な依頼のはずだったが、スメラギの優しさが事態を思わぬ方向へとむかわせてしまう。




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テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 1-1

 外はうだるような暑さ、部屋の中でじっとしているだけでも玉の汗が吹きだしてくるというのに、スメラギ探偵事務所では、この夏、一日もクーラーをつけたことがない。
 事務所にクーラーがないわけではない。古いビルとはいえ、以前のテナントが残していった立派なクーラーがあるのだが、スメラギ探偵事務所では使う必要がないのである。
 窓をぴたりと閉めた事務所内で、ひとりきりの事務員、山口京子は、慣れたものか、額に汗もにじませず、黙々と机にむかっている。スメラギ探偵事務所所長にして唯一の探偵、皇(すめらぎ)拓也は、客用の革のソファーに体を投げ出し、昼寝をきめこんでいる。リズミカルな寝息が白い煙となって舞い上がり、天井めがけてのぼりつめては途中でかき消えていく。窓の外は陽炎がゆらめいているというのに、スメラギ事務所内は暖房でもいれたいほどの冷気がくぐもっていた。
 午後2時の時報を告げ、ラジオはニュースに切りかわった。連日の暑さと、昨日から始まった甲子園のこれまでの結果と現在行われている試合の途中経過、戦前から親しまれていた映画館が惜しまれつつこの夏で閉館するという短いニュースを伝え、ラジオは再び甲子園の実況に切りかわった。
「おい、ハリネズミ、仕事だ」
 と聞こえた声はラジオからにしては近すぎた。
 いつのまに入ってきたのか、男がソファーに寝転がるスメラギを見下ろしていた。この暑いのに、黒のスーツに黒いタイをきっちり締め、汗ひとつかいていない。
「だれがハリネズミだよっ!」
 震えながら起き上がったスメラギの頭部は、なるほど客の男の言うとおり、ハリネズミにちがいない。
 短く刈り込まれた髪の毛先はツンと尖って、今にも針となって飛び出しそうな勢いだ。毛先から根元まで見事な白髪、毛根まで白いのは染めたのではなく地毛であることを物語っている。 
「じゃ、ハリセンボンだ」
「っるせー」
 ウソついたら針千本飲ーます、と、男は低い声で調子をつけた。
「何だ、ソレ」
「指きりげんまん、ウソついたら~、だ。知らないのか」
「知らねー」
 男は、針を一度に千本飲まされるのか、それとも一本ずつ、合計千本飲まされるのか、どっちなんだと、つぶやいていた。
「…おい、死神。ハリセンボンの話をしにきたわけじゃないだろ」
 せっかくの昼寝を邪魔されてスメラギは機嫌が悪かった。そうでなくても寝起きは悪いほうで、てっとりばやく血糖値をあげるために、毎朝、起きがけには、砂糖たっぷりのコーヒーを飲むのが習慣だ。
 指きりげんまん、約束の仕草の小指をたてて男が言った。
「依頼人だ」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 1-2

 黒いスーツに黒いタイとまるで葬儀屋のような出で立ち、夕暮れ時の影のようにひょろりとした男の背後には、白髪の小柄な老人が死人のような青ざめた顔色で立っていた。
 スメラギが男を‘死神’と呼んだのは、憎まれ口ではない。
全身黒ずくめ、無表情でたたずんでいる男は、人がこの世を去るときに訪れる死神、その後ろで深々と腰を折っている老人は、ついさきほど死んだばかりの人間の魂、霊魂である。
 表向きは、浮気調査に迷いネコ探しの看板を掲げるスメラギ探偵事務所は、死人の最期の頼みをきくのが本業である。死神は時々こうしてこの世に思い残すことのある死人の魂を連れてきてはスメラギに心残りの解消を依頼する。
 この世に思いを残して死んだ人間は、時に死神の手を逃れ、幽鬼となってこの世に留まり続ける。時たま人の目に幽霊とみえるのはこの幽鬼である。人の魂をこの世からあの世へ送り届けるのが死神の仕事、この世での心残りを取り払っておとなしくあの世へ行ってもらおうと、死神はこの世に執着する霊体をスメラギのもとへと連れてくる。この世に未練のあるものの魂の引き取りほど面倒なものはない。逃げ出すものは多く、追うのは難しい。死神とて楽に仕事がしたいのだ。
 霊感の強い血筋に生まれたスメラギは、霊体が見え、言葉を交わすことができる。彼のもとには、死神に連れられたもの、死神のもとを逃げ出したもの、そうでなくてもこの世に心残りを残してさまよい続ける幽鬼たちがやってきては、あれやこれやといろいろな事を依頼していくので、スメラギ自身は、幽鬼たちの何でも屋だと認識している。実際スメラギは、恨みをはらす以外のことなら何でも引き受ける。一番多い依頼は人間関係、特に恋愛関係と家族関係が目立ち、変わったものではどうしてもどこそこのあれというラーメンが食べたいというものがあった。

 宮崎と名乗った老人の依頼、心残りは、生前渡しそびれた手紙を老人にかわって渡して欲しいというものだった。
 宮崎老人は、左前の懐から大事そうに一通の手紙を取り出してみせた。長方形の封筒の四隅はかすかに黄ばんで年月をうかがわせたが、保存状態はきわめて良く、宛名の墨もいまだ黒々としていた。
 よほど宮崎老人が大切に保管しておいたのだろう。表書きには住所と宛名が楷書で書かれてあった。点やハネははっきりと、払いの先まで筆先がのびている。のびやかな大きな字で、宛名は「宮内小夜子様」と読めた。手紙は恋文(ラブレター)で、相手は初恋の人だろうか。裏書には柏木孝雄とあった。
 「戦友から渡してくれと頼まれた手紙です。いまはの際に頼まれたのですが、どうにも渡すことができませんで。あの世に柏木にあわせる顔がなく、どうも手紙のことが気がかりでおちおち死んでもいられないと思っていましたら、こちらのお迎えの方が、それなら、と、あなた様をご紹介くださいまして」
 宮崎老人と柏木孝雄はインドシナ戦線を共に戦った。お互い学生であったこと、趣味が映画鑑賞と同じだったことから二人は意気投合した。戦線にあって映画などおおっぴらにできるはずものなく、二人は上官に隠れて互いのこれまで観た映画のあれこれを語りあい、そのうちに個人的なことまで打ち明ける仲になっていった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 1-3

 もともとひんやりとした空気に包まれていた事務所だったが、霊体の宮崎老人が来たせいで、さらに冷え込みはきつくなった。
 死人といると冷える。熱いコーヒーでも飲みたいぐらいだが、事務員の山口京子は相変わらず机にかじりついたまま、動こうともしない。依頼人にお茶のひとつも出さないなど気が利かないのだが、出したところで霊体は飲み食いはできないので、無駄になるだけではあったが。
「終戦の少し前でしたか。柏木が病に倒れたのです。マラリアでした。薬もろくにない戦地でしたから、彼は覚悟を決めたんでしょう。恋人の小夜子さんあてに手紙を書き、私に渡して欲しいと頼みました。二人は結婚の約束をしていました。柏木は手紙を私に託して安心したのか、気が抜けたようにあっという間に亡くなりました」
終戦後、復員した宮崎老人はその足で手紙の住所を訪ねたが、東京はどこも焦土と化し、あったはずの家も人もなく、それきり何の手がかりもなく、宮内小夜子の行方も知れず、60年もの歳月が流れてしまった。
「小夜子さんも、柏木の最期の思いを知りたいだろうと、どうにも気になりますので。どうぞ小夜子さんに手紙を渡してさしあげてください」
 老人は何度も頭を下げ腰を折りして、死神とともに事務所を後にした。スメラギに手紙を託したからには心置きなくあの世に行くことができるだろう。地獄へ落ちるか、天上界にのぼるか、はたまた再び人の世に生を受けるかは、生前の行い次第、閻魔大王の裁き次第だ。
 スメラギは、老人が残していった手紙を手に取った。60年の歳月を経たとは思えない状態の良いものだ。柏木孝雄の思いがこもり、誠実な友人、宮崎老人によって大切に今の今まで保管されていた手紙。
「生きてはいないか……」
 手紙を大切に持ち続けていた宮崎老人もこの世の人ではない。生きていれば80過ぎ、宛名の主もまた、この世にはいない可能性のほうが高い。それならそれで、この依頼は案外簡単に片付きそうだ。
 スメラギにとっては、生きた人間より死人たち相手の探偵業のほうがずっと簡単だ。生きた人間を捜索するにはいろいろとうるさい法の縛りがあるが、死人の捜索は閻魔大王のいる閻魔庁を訪れるだけで済む。
 黒電話の受話器を取りダイヤルに手をかけたところで、スメラギは思いなおして受話器をおろし、事務所を出て行った。かと思うと、ものの1分もたたないうちに戻ってき、机の上に投げ出されてあった紫色のレンズの丸メガネをつかみとると再び事務所のドアを閉め、出て行った。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 2-1

 東京駅地下構内。地下の奥底へと貪欲に張り巡らされたエスカレーターを降りていった先に、閻魔庁のある地獄への入口がある。
 霊視を妨げる紫水晶のレンズの丸メガネをかけていなかったら、スメラギの目には地獄への入口からエスカレーターをさかのぼって地上まで延々と伸びる死者たちの霊が見えただろう。
 死者は生前の行いによって、地獄行き、天上界行き、輪廻転生と3つの行く末が決まっている。死後の行き先を決定するのは閻魔大王だが、その裁定に不服のあるものは最大49日まで不服申し立てができる。死者の列は何とかして地獄行きを回避しようと閻魔大王に訴え出ているものたちの行列だった。
 エスカレーターをひたすら降りていくと、一番深い場所にあるプラットホームにたどりつく。スメラギはエスカレーターを降り、くるりと身をひるがえし、エスカレーターのちょうど真下にあたる窪みに身を寄せた。エスカレーター下のスペースを利用したその場所はドアを備えつけて何かの部屋があつらえてあった。
 ドアには艶やかな赤いペンキで「関係者以外立入禁止」とあり、カードリーダー式のドアノブで固く閉じられている。ためらうことなくスメラギはドアノブに手をかけ、下におろした。ドアは少し力を入れると簡単に開き、スメラギは壁とドアの隙間に体を滑りこませた。カードリーダーなど見せかけに過ぎない。カードを持っていなければ入れないとあれば、誰も入ろうとしないし、職員ですら入ってこようとはしない。もっとも、地獄のほうでは誰でも歓迎ではあったが。
 ここが閻魔庁のある地獄への入口だった。
 ドアの向こうには一本の長い廊下があるきり、壁にかかげられた篝火が等間隔に光を投げかけるだけの仄暗い廊下の両脇にはドアが立ち並んでいる。
 それぞれのドアの上には、「康広王」「変成王」「泰山王」などと十王たちの名前が掲げられてあり、中では、十王たちが死者の生前の行いを吟味している。十王たちの部屋の前を通り過ぎ、スメラギはひたすら廊下の突き当たりの部屋を目指した。ドアの上には「閻魔王」とあった。
 泣く子も黙る閻魔王の部屋は、天井から壁から絨毯に至るまで、目が散りそうな赤一色で、机などの家具は黒で統一されている。その上で殺人が行われ、床に染み出した血が階下に染み出したような天井の中央からは、水晶の豪奢なシャンデリアが吊り下がって妖しげな光を部屋に乱れ飛ばしている。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 2-2

 スメラギを迎えた閻魔王こと夜摩もまた、その体を真紅のボディスーツに包んでいた。豊満な胸を強調し、ほっそりした腰をあらわにする光沢のある素材は人の皮をなめしたもの、高く鋭く尖った踵のハイヒールブーツもまた同じ素材のものだ。豪華な黄金(ブロンド)の巻き毛に覆われた顔の化粧は濃く、燃え立つ炎の瞳は紫色のアイシャドーで彩られ、ふっくらと色っぽい唇は艶やかに赤めいている。
「地獄(こっち)来んなら、連絡ぐらいせーや」
 妖艶な姿を裏切る低い声だ。夜摩は男である。豊満な胸はある女の罪人から切り取ったもので、以来おもしろがって夜摩は女装を続けている。女装した夜摩は双子の妹、夜美にそっくりだという噂だった。夜美は地獄にはめったに姿を現さないのでスメラギは事の真偽を確かめようがないが、噂が本当であれば美男美女の兄妹ということになる。
「調べてもらいたいことがあってな」
 スメラギは、宮崎老人から預かった手紙を取り出してみせた。夜摩は人差し指をのばし、真っ赤に染めた爪先で手紙を手元に引き寄せた。
「ずいぶん念のこもった手紙やな」
「60年分の思いだからな」
「年数の問題ではないわ。念のこもったものなんぞ、やっかいやで」
「その手紙を渡してくれと頼まれただけだ」
「ふん」
 夜摩は爪先で手紙を弾き飛ばした。
「彼女、宮内小夜子のデータが欲しい」
すべての生命、虫ケラから人間、生きたものも死んだものもすべて閻魔庁のデータベース、鬼籍(きせき)に記載されている。すべての過去世から現在のステータス、カルマ、それによって死後、地獄へ落ちるか、天上界へ行くか、はたまた生まれ変わるか――地獄の行き先も細かく分かれてその行き先や生まれ変わりの来世まで、何もかもが記録されている。
 この鬼籍上で宮内小夜子を探せば、うるさい役所の戸籍よりよっぽど手っ取り早く行方が知れる。死んだのならその先、地獄か天上界か、何に生まれ変わっているのかも知ることができる。
「死んでんおもうとんのか」
「少なくとも80は超えている」
「わからんぞ。女はしぶといんや。生きとるかもしれん」
 と言いながら、夜摩は、長い爪先を器用に操ってキーボードを叩いた。
 天井から壁から絨毯まで赤一色、天井からは水晶の巨大なシャンデリアが吊り下がるという地獄趣味をのぞけば、閻魔王の部屋は、地上のオフィスとさほど変わらない設備を整えている。フラットスクリーンのPCモニター、かたわらにはラップトップPC、黒塗りのデスクに無造作に置かれたスマートフォン、電話…機械らしいものといったら、ダイヤル式の黒電話しかないスメラギの事務所とは、まるで違う。
「あかん」
 夜摩が素っ頓狂な声をあげた。
「何が“あかん”なんだ」
「宮内小夜子なんておらんで」
「そんなはずないだろ?」
「せやから、“あかん”のや」
 すべての生命のすべての記録が記載されているはずの鬼籍に載っていないはずはないと言い、夜摩は、はっと口をつぐんだ。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 2-3

 もしかしたらと連れて行かれた先は、地獄のデータ管理室だった。
 ドアの中央には、居並ぶ鋭い歯がむき出しになった歯型が埋め込まれていた。人間のものにしては大きすぎ、奥歯から前歯まで、すべて犬歯のように尖っている。動物のものにしても、犬歯だらけの動物などいただろうか。
「鬼の歯型や」
 夜摩はそういうと、長く伸ばした爪の右手を歯型に突き入れた。
 とたんに、鋭い歯が夜摩の手首に噛みつき、その真紅のボディスーツと同じ色の血が流れ、歯の隙間から滴り落ちた。
「せきゅりてぃー、ゆうやっちゃ」
 誰も地獄には落ちたくないし、天上界にいきたいと思う。死後にむかう世界は、生前の行いによって決められ、生前の行いと死後の行く先は、鬼籍に記載されている。この鬼籍のデータを書き変えて、地獄行きをなしにしようという悪い輩がいるため、管理室は夜摩の血でしか開かないようになっていた。
管理室には、3メートル以上はあるだろうという天井まで届く書架が立ち並び、その間を地獄の罪人や鬼たちが行き来していた。彼らは書架から分厚い冊子を取り出しては個々の机へと運び、黙々とコンピュータにデータを入力していた。
「たかむらぁ~」
 鬼や罪人たちの間でせわしく指示を出している男に目をとめると、夜摩は甘ったるい声を出した。
「変な声出さないでくださいよ、気持ち悪っ!」
 “たかむら”と呼ばれた男は、小野篁(おのの たかむら)、地獄のデータ管理室室長である。
 “気持ち悪い”と言われたにもかかわらず、それどころか調子にのって、夜摩は猫なで声で、体をくねくねさせながら、
「検索にひっからんデータがあんねん」
スメラギをデータ管理室まで連れてきた夜摩の考えでは、宮内小夜子のデータはまだコンピュータ化されておらず、古い冊子に記録が残っているのではないかということだった。
「検索にひっかからない? そんなはずありませんよ。新しいものから作業してますから、最近のものならもうデータベースに入っているはずですけど」
 小野篁は“宮内小夜子”と入力した。すると瞬時に検索結果が画面に出、その数はスクロールして何ページにもわたった。
「さっきは何も出なかったんやで。ほんまやて」
「何か変なことしたんでしょう」
「しとらんて」
「はいはい」
「ほんまに、ちゃんとやったって」
 夜摩の必死の言い分を小野篁は取り合わない。メガネをかけて見た目はどこにでもひとりはいる優等生風、それでいてくるりとした目と丸い顔の輪郭の童顔のせいで、どこか抜けているような印象を与えている。見た目だけなら、22、3、スメラギよりも若くみえるが、実年齢は何百歳とずっと年上である。閻魔王をはじめとして、鬼や死者の霊など異形のものががうごめく地獄にあって、篁だけが生身の人間である。

「多すぎるなあ……」
 数千件にものぼるだろう検索結果に、スメラギは言葉もなかった。夜摩は柏木の手紙をコピーしまくって全員に送りつければいいと乱暴なことを言った。数打ちゃ当たる、誰かが柏木の恋人の宮内小夜子だろうということだったが、もちろんスメラギも小野篁も、夜摩の案など本気にしなかった。
「生きていればいくつの人なんです?」
「戦後60年以上はたっているから…少なくとも80は超えている、かなあ…」
「それなら、1945年ごろに19~25ぐらいで絞り込んでみましょう」
 その他にも死に場所を検索条件に追加、東京の住所だが、戦時中は地方に疎開する家もあったので、いくつか候補をたてて再び検索すると、結果は一気に3人にまでしぼりこまれた。一人はすでに死亡、地獄に落ちている。二人目は一週間後に死亡する予定、三人目は85歳で、まだ生きていた。
「地獄やて。何したんやろ。窃盗に、放火に殺人、こらまた、たいした女やな」
 夜摩は業(カルマ)の欄を見ながらケラケラと笑った。スメラギも、彼女、宮内小夜子の生前の行いに目を通したが、とても彼女が柏木の手紙を渡す相手には思えなかった。柏木ののびやかな字がまっすぐな彼の性格を表しているようで、そんな彼が愛した人が殺人を犯すような人であるとは思えなかった。だが、60年以上の月日は人を変える。彼女が宮内小夜子かもしれない。
「ついでやから寄ってくか? この女がその宮内小夜子やったら、手紙を渡してそれでこの仕事はおしまいやろ」
 死人が行く場所、しかも地獄を、生きた身でめぐるのは正直いって気分のいいものではない。地獄を脱け出した幽鬼たちの捜索を条件に、夜摩との取り決めでスメラギは何をしても地獄に落ちないことになっていたが、それなら一生遠ざかっておきたい場所なのである。
 だが、スメラギは結局、夜摩に案内を頼んだ。夜摩の言うとおり、彼女が宮内小夜子であれば、スメラギは手紙を渡さないといけないのだ。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 2-4

 「地獄へ寄っていくか?」
 ―たしか、閻魔王こと夜摩はそう言った。
 だが、閻魔王が死んだ人間の罪業を吟味する閻魔庁を出て、連れて行かれた場所は、東京駅の最深部に横たわるプラットホームだった。
 プラットホーム中央のエスカレーター下には、長身のスメラギが背をかがめるとすっぽり嵌りこんでしまう窪みがあり、禍々しい赤いペンキで「関係者以外立入禁止」と書かれたドアがある。カードリーダーが備え付けてあるが、飾りものに過ぎず、ドアノブをひねって扉を向こう側に押せば誰でも地獄へ行くことができる地上との連絡口だ。
 地獄へ行くものだとばかりおもっていたスメラギが着いた場所は、来たときと同じ、東京駅の地下構内プラットホームだった。
 煮え立つ大釜も、血の池も、針山もなければ、罪人を苛む獄卒の鬼たちの姿も見当たらない。阿鼻叫喚、血しぶきの舞う光景を覚悟してきたスメラギは、拍子抜けしてしまった。
「おい、ほんとにここが地獄なのか?」
「せや」
 真紅のハイヒールブーツの踵をカツカツ鳴らしながら、夜摩は先にたってホームを歩き始めた。
 ホームで電車を待つ人々が夜摩を振り返る。
 豪華な黄金(ブロンド)の巻き毛を揺らし、血の色を彷彿とさせる真っ赤なボディースーツに身を包んだ夜摩は、どうしたって人目をひく。突き出した豊満な胸に、ほっそりとした腰、長い長い脚は、スーパーモデル並みのスタイルの良さだ。
 誰が、地獄の閻魔王だなどとおもうだろう。
 その身を包む真紅のボディースーツは、人の皮を剥いで縫いあわせたもの、赤はまさに人の生血で染めた色、豊満な胸はとある女の罪人から切り取ったものである。
 誰が、そこ行く人が男だなどとおもうだろう。

 通りすがりの視線をその身にまとわりつかせ、夜摩とスメラギは、スメラギがたどってきた道をそのまま逆に、エスカレーターを何層にもわたってのぼっていき、やがて地上へと出た。
 サラリーマンやOLでごったがえす東京駅は、日常の光景だ。
 間違って地上へ戻ってきたのかと思っているスメラギの目の前で、突然、男が悲鳴をあげて倒れた。
 男の胸にはナイフが刺さり、血が噴き出している。とっさに駆け出して助けようとするスメラギを夜摩が止めた。男の胸からは、みるみる血が流れだし、あっという間に広がった血溜まりに男の死体がぽっかり浮かんだ。
 すると、死んだとばかり思われた男が何事もなかったかのように起き上がり、歩き出したではないか。
 傷口も塞がっている。だが、数メートルも歩かないうちに、再び男は悲鳴をあげて倒れた。先ほどと同じ男にまたしても刺されて倒れたのである。そして同じ光景が繰り返された。男は起き上がり、歩き始める。そして刺され、殺される。血黙りに体を横たえたかとおもうと、また起き上がり……。
 気付けば、ビルの谷間で、通りの角で、残虐な行為が繰り広げられていた。
「あの男、通り魔か何かやったんやな」
 やはり、ここは地獄だった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 2-5

 地獄では自分が犯した行いと同じことが、決められた年数の間、くりかえしくりかえしその身に起こる。殺人を犯せば自らが獄卒たちに殺され(しかも自分が行ったのと同じ方法で!)、火を放って人を殺めたのであれば自らも焼き尽くされる。焼き尽くされた後にはまた元通り生身の体に戻って再び灰になるまで焼き尽くされる。しかも死ぬことなく、灰になるその瞬間まで苦痛を味わうのだ。
 それはまさに地獄だった。
 血の池も針の山も、煮えたぎる大釜もないが、まさしく地獄に違いない。
ありふれた都会の街角で、殺人、強盗、放火…日常の世界では犯罪とされる行為がいたるところで行われている。警察がかけつける様子もなく、獄卒が際限なく罪人を苛む陰惨な光景だけが延々と続いている。
 ひっきりなしにあがる悲鳴と、すえた血の臭いにスメラギは吐き気をもよおし、近くのビルの陰に駆け込んだ。
「あんた、大丈夫かいな?」
 柔らかな女の声だった。
「しっかりしいや」
 情けなくも女の肩につかまって起き上がろうとした瞬間、女はスメラギを突き飛ばし、スプリンター顔負けのスピードでビルの谷間へと消えていった。
「なっ…! 」
 尻もちついた瞬間、ジーパンのポケットに入れてあったはずの財布がないのに気付いた。シャツの胸ポケットに入れておいた手紙もなくなっている。
 さっきの女だ! やられた、スリだ!
 追いかけようと腰を浮かせた瞬間、2、3メートル先で女の悲鳴があがった。
 夜摩が女の髪を引き摺って戻ってきた。
「盗(と)ったもの、返しいや」
 夜摩は女をスメラギの目の前に、雑巾でも叩きつけるように投げ出した。
女は財布をしっかり抱えたまま
「私のもんじゃが」
 と言い張った。
 年は40ぐらいだろうか、血走った目を見開き、額にはトタン板の波のような皺がより、乾いてひび割れた唇はかすかに震えている。
 女は鬼籍データベースでその写真を確認した宮内小夜子だった。
 喉元から胸にかけて茶色の沁みのあるブラウスの胸に抱えた財布の陰に手紙の角がのぞいている。財布は彼女のものではないが、手紙は彼女、宮内小夜子宛のものだ。スメラギが自分宛の手紙を持っていると知ってとっさに抜き取っただけで、財布はついでに盗られたものかもしれない。
「なあ、財布は返してくれないか。手紙は持っててくれてかまわないから」
 と言い終わるか終わらないうちに、夜摩が財布ごと手紙を女から取り上げた。女は金きり声をあげ、手足をじたばたさせ、「わしのもんじゃ、返せ」と何度も叫びながら夜摩に飛び掛っていった。
「手紙は皇拓也という男から宮内小夜子という女あてのもんや」
「わしが、その宮内小夜子や」
「皇拓也という男を知っとるんか」
「知っとる、知っとる」
「柏木孝雄の知り合いの男やなあ」
「そやそや」
 手紙はもちろんスメラギからのものではない。スメラギは宮内小夜子を知らないし、宮内小夜子がスメラギを知っているはずもない。柏木孝雄の名前にも、夜摩の話に合わせているだけで、特に目立った反応はない。恋人だった男の名前に無反応でいられるものだろうか。
「この嘘つきがっ!」
 夜摩の怒号が飛び、女はひっくり返った。
「嘘つきがどうなるか、わかっとるやろな」
 夜摩に呼びつけられた獄卒は、泣き喚く女の口を裂き、素手で女の舌を引き抜いた。たちまち鮮血がブラウスに散り、新たな沁みを作った。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 3-1

 “宮内小夜子”と札のかかった病室を訪れ、スメラギはがっかりせずにはいられなかった。
 死人の最期の頼みをきく仕事をしているスメラギは、宮崎老人のこの世での心残り、戦友・柏木孝雄から託された恋人・宮内小夜子への手紙を渡す依頼を受けた。
 何しろ60年以上もの年月を経ているので、手紙の住所はあてにならない。生きているかすらもあやしいところだ。そうおもったスメラギは、死人の側から”宮内小夜子“捜しを始めた。
 生きとし生けるもの、死んだもの、この世とあの世のすべての魂を記録した、地獄の鬼籍データによれば、“宮内小夜子”と名乗る人物は3人。地獄に落ちた1人目は、スメラギの捜す“宮内小夜子”ではなかった。
 2人目の宮内小夜子は一週間後に老衰で88歳で死ぬ予定になっていたが、ベッドに寝かされた状態の宮内小夜子は生きているとは名ばかりの状態だった。
 すでに意識はないのだろう、人工呼吸器を取り付けられ、見舞いの花に隠れた心電計がくりだす規則正しい機械音だけが、かろうじて宮内小夜子の肉体が生きていることを告げていた。
 生きていれば、かつての恋人、柏木孝雄からの手紙を渡してそれで終わり、のはずの仕事だった。
 死んでいれば、これまた、柏木孝雄からの手紙を預かっていると言って渡して任務完了、のはずの仕事だった。
死んだ人間とならば話のできるスメラギだが、生きている人間とはその肉体が機能していない限り、話ができない。
 死ぬのを待つか―
 病室を後にするスメラギと入れ違いに若い男が病室へと入っていった。男は宮内小夜子のベッドのかたわらに腰をおろし、意識のない宮内小夜子に話しかけていた。家族なのだろう、年のころからいうと孫だろうか。
 待てよ―
 家族なら、柏木孝雄につながる何かを聞きだせるかもしれない。宮内小夜子から何かを聞いているかもしれない。
 廊下の角を曲がりかけたところでスメラギは、病室へと引き返した。
 と、スメラギよりも先に病室へと走っていく2、3人の人があった。看護師と医者だ。彼らは慌てた様子で宮内小夜子の病室へと駆け込んでいった。スメラギも後を追った。
 心電計の甲高い音が病室中に響きわたるなか、宮内小夜子は蘇生処置を受けていた。寿命が尽きるまであと1週間はあるはずだが?と、スメラギはあやしみながらベッドへと近寄っていった。
 霊視防止のための紫水晶のメガネを鼻頭に少しずらすと、医者や看護師たちの間に立っているパジャマ姿の老女がみえた。肉体を離れた宮内小夜子の魂が死んだ自分をベッドに見下ろしていた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 3-2

「あなた、お迎えの方?」
 宮内小夜子はスメラギの見事な白髪をじっとみつめた。天使にでも間違えられたのだろうか。
 スメラギは首を横に振った。
「私、死んだのかしら?」
 宮内小夜子の姿は誰にも見えず、声は誰にも聞こえていない、スメラギをのぞいては。
 スメラギがうなずいてみせると
「何だか変な感じねえ」
 老婦人は少女のように軽やかに笑った。ベッドでは必死の蘇生処置が続いている。
「寿命はまだあるから、助かるぜ」
「そうなの……」
 喜ぶかとおもったら、老婦人は少しがっかりした様子だった。
「あれはものすごく気持ちが悪いの」
 老婦人は人工呼吸器を指さした。
「無理やり空気を送りこんできて、苦しいったらありゃしない」
「1週間の我慢。1週間したら死神が迎えにくる」
「私、はじめ、あなたが死神だとおもったのよ」
 老婦人の視線がふたたびスメラギの白髪の頭にむいた。
「これは生まれつき、死神は葬儀屋みたいな恰好の無愛想なやつ」
「あなたは、生きた人間?」
 スメラギはうなずいた。
「見えないはずのものが見える特異体質」
「少し前にも来ていたわね。死神でないなら、私に何か用があったの?」
「柏木孝雄という人を知っていますか?」
 老婦人は、ほんの少しの間、考えをめぐらし、いいえと答えた。
「不思議ねえ。物忘れがあんなにひどかったのに、今はいろんな事がはっきり思い出せるわ。体も何だか軽くなって楽になった気がする」
 老婦人は透き通った手足を軽やかに動かしてみせた。足がわずかに地面から浮いて、両手を羽ばたかせたらそのまま空へと飛んでいきそうなくらいだ。
「もう戻ったほうが。家族が呼んでる」
「あの機械、気持ち悪いんだけれど……」
 医師と看護師は必死の処置、その傍らでは青ざめた頬の若い男が、小夜子の耳元にむかって「ばあちゃん!」と呼びかけ続けていた。
「私、このまま死んではいけない?」
 スメラギは黙って首を横に振った。
「家族ときちんと最後のお別れをしないと。このまま逝ってしまったら、あなたも家族も後悔する」
 自分の孫と同じぐらいの年齢のスメラギに諭され、老婦人は「それもそうね」と言い残し、ベッドに横たわる自分の体の上に覆いかぶさったかとおもうと、煙のようにかき消えていなくなった。
 と同時に、老婦人の体につながれた心電計が再び規則正しい間隔を取り戻して鳴り始めた。意識を取り戻し、うっすらと目を開けた宮内小夜子老婦人は、スメラギにむかって微かにうなずいてみせ、スメラギもまた笑顔を返してその場を後にした。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 3-3

 60年以上も前に死んだ柏木孝雄から恋人・宮内小夜子へあてて書かれた手紙を渡すよう頼まれたスメラギは、死人の側から“宮内小夜子”を捜した。宮内小夜子もまた、生きてはいないだろうとおもったからだ。
 すべての魂のあらゆる事柄が記録された地獄の鬼籍データに照会したところ、“宮内小夜子”に該当する人物は3人。地獄に落ちた1人目、生きていることは生きていたが、1週間後に老衰で死亡する予定の老婦人もまた、スメラギの捜す“宮内小夜子”ではなかった。
 3人目の宮内小夜子は86歳、死亡予定事項の住所欄には、歴史ある海辺の街の住所が記載されていた。
鬼籍には死に場所=死神が魂を迎えに行く場所が記載されているだけで、生きている人間の住所はわからない。生きている人間の行いは逐一鬼籍に記載されるが、住所などはどうでもいい情報なのだ。2人目の宮内小夜子に病院で会えたのは、たまたま彼女が死亡予定日時まで入院していたからで、これが突然死で病院へ担ぎ込まれたというケースだと、死亡予定日時きっかりにその場にいないと会えなかったに違いない。
 3人目の宮内小夜子が生きていると知って3年後の死亡予定住所欄の住所へ足をむけたスメラギだが、宮内小夜子がそこにいるとは限らない。今は別の場所にいて、3年後に引っ越してきて死ぬという可能性だってある。
 レンガ造りの瀟洒な洋館は、侘び寂びた周囲から浮き足だっていた。当時でこそ贅を尽くしただろう建物が今や、レンガの壁は蔦に覆われ、手入れのされていない庭の木々は深く生い茂り、まるで森の奥の廃屋である。ヨーロッパの城門を真似たと思われる鉄の門は、見上げる上から下まで錆で赤茶けていて、手をかけると錆の粉が手のひらにまとわりついてきた。
 とても人が住んでいるとは思えないが、表札には「宮内」と確かにあり、インターフォンのランプは、電源が入っている証拠に赤くともっている。
 幽霊でも出てきそうな屋敷には、インターフォンを利用する人間が確かに住んでいる。
 ふと視線を感じて顔をあげると、2階の割れた窓から白い顔が覗いているのがみえた。血の気のない顔色、身動きせずに門の前にたたずむスメラギをみつめている様子は死人かと思われたが、霊視ができなくなるメガネをかけていて見えたのだから、生きている人間だ。
 彼女こそ、86歳になる宮内小夜子に違いない。
「手紙を渡すだけ」―そう心に決め、スメラギはインターフォンを押した。
 返事はなかった。
 2階の窓を見上げると、宮内小夜子は顔をのぞかせたまま、動こうともしない。耳が遠くてインターフォンの音が聞こえていないのかもしれない―スメラギは錆びた門を押した。鍵のかかっていない門は、ギィーと高い音をたてて開いた。スメラギはそのまま草木の生い茂る敷地内を玄関へとむかった。
 玄関の横にもインターフォンがあったが、押すだけ無駄だとスメラギは、レリーフの施された木製の扉を思い切り叩き、宮内小夜子の名前を呼んだ。
2、3度叩いたところで、スメラギは、叩くたびに扉が軽く反発するのを感じた。扉と壁との間に隙間があって、もぐりこんだ空気が抵抗するのだ。
 玄関は鍵がかかっていなかった。扉を開け、その隙間からスメラギは宮内小夜子の名前を呼び、自ら探偵であることを名乗ったが、返事はやはりない。
「手紙をあずかってきてる」
 その一言に、今まで静かだった2階でかすかな物音がたった。床をコツコツと叩く足音がしたかとおもうと、玄関の吹き抜けに白い顔がのぞいた。
「はやく持ってきてちょうだい」
 とおりの悪いかぼそい声だが、強い命令口調だった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 3-4

 スメラギは手紙を携えて2階へと階段をあがっていった。
 歩くたびに床板がきしんで音をたてる。落ちるのではないかとスメラギはびくびくしながら次の一歩を踏み出していった。
 宮内小夜子は、割れた窓のそばの大きな肘掛け椅子に腰かけていた。椅子が大きいのか、宮内小夜子が小さいのか、背もたれは彼女の座高の倍はあり、花模様は今や擦り切れて、染みと見分けがつかない。肘かけには杖がたてかけてあった。
「はやく、手紙をちょうだい」
 またしても命令口調だが、そこにはまるで子どもが欲しいものをねだる無邪気さとかわいらしいわがままがあった。外からちらっと見えた幽霊のように白い顔には血の気が戻っていた。
 宮内小夜子は、恋人柏木孝雄からの手紙をずっと待っていたのだ。だが、柏木孝雄から手紙が来ることを、どうして宮内小夜子は知っているのだろうか……。
 宮内小夜子にせかされ、スメラギは手紙を差し出した。しみだらけの干からびて骨の浮き出た手で手紙を奪い取った宮内小夜子だが、裏書を確かめると、たちまち高揚した頬が血の気を失っていった。
「私の待っている手紙じゃないわ」
 宮内小夜子は手紙を床に投げ捨て、再びその白い顔を窓の外にむけてしまった。
 床にはコンビニの袋が散乱し、中には食べかけの菓子パンや弁当が残っているものもあった。その隙間を埋めるようにして投げ捨てられているのは、ダイレクトメールのたぐいのもので、封も開けられずにあちこちに散らかっている。
 柏木孝雄の手紙を拾おうとして、スメラギは視界に入った封の切られた手紙を手に取った。手紙には、甘ったるい文を散々書き散らしたあげく、最後は金を用立ててくれとあった。消印は20年以上前の古い手紙だ。
「本当に、この手紙ではない?」
 スメラギはもう一度手紙を差し出し、たずねた。
 鬼籍によれば、柏木孝雄の恋人、宮内小夜子である可能性のある人物は3人。地獄に落ちた一人目はスメラギ自身も違うだろうと思い、実際宮内小夜子ではなかった。二人目も人違いだった。であれば、3人目が柏木恋人の宮内小夜子でなければならないのだ。
 老婦人は86歳、「待っている手紙とちがう」というが、柏木孝雄という男の存在が記憶からすり抜けてしまっているだけかもしれない。
「柏木孝雄という青年に心当たりは? 昭和20年ごろ、あなたの婚約者だった男だけど」
「柏木? 私は佐川啓介と結婚するんです。彼は今ハワイにいるけれど、もうすぐ帰国して私たちは式を挙げるんです」
 愛おしそうに老婦人が撫でた左手薬指には大粒のダイヤの婚約指輪が光っていた。窓から差し込む午後の光に鈍い虹色の光を放つそれは、ただのガラス玉だった。男は戻ってこないだろう。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 4-1

 幼なじみの美月龍之介が訪ねてこなかったら、スメラギは飢死していただろう。飢え死には大袈裟としても、3日も飲まず食わずでいたら衰弱して当然だった。
お盆に入って3日目、美月がアパートにスメラギの様子を確かめに来たとき、スメラギは玄関先でのびていた。ちょうどお盆だったこともあって、アパートの他の住人たちは帰省してしまっていたし、発見がもう少し遅れていたならとおもうと、スメラギは背筋がぞっとする。
 人ごみが苦手な人間がいるように、霊感体質のスメラギは霊体の多い場所が苦手だ。霊気にあてられるからである。
 普段なら、紫水晶の丸メガネをかけて霊視をシャットアウトして正気を保つのだが、幽鬼たちが地上に繰り出す盆の最中に街中を歩きまわるのは、人ごみが苦手な人間が外出するのと同じぐらいの自殺行為だ。
 死んだ恋人、柏木孝雄からの手紙を渡すべくむかった海辺の街―幽霊屋敷のようなうらぶれた洋館に幽霊のようにひっそり暮らす老女は、手紙を渡す相手、宮内小夜子ではなかった。
 その宮内小夜子の洋館を出てからの記憶がスメラギにはない。
 どこをどう帰ったものか、六畳一間、風呂・トイレ共同のおんぼろアパートの部屋に帰り、玄関先に倒れていたところを美月に発見された。
「盆はだめだろうと思ってねえ」
 中学からの幼なじみである美月は、スメラギの霊視能力や、地獄、天上界を問わず、あの世のすべての霊たちが地上に一時戻る盆には体調を崩すということも知っている。
 霊視防止用の紫水晶のメガメをかけるようになってからは、さすがに倒れるほどまで霊気にあてられることは少なくなったが、それでも毎年、美月はスメラギの様子を気にかけていた。
 この盆はどうしているだろうかと心配で訪ねてきたら、案の定スメラギは自力では起き上がれないほど弱っていた。
 こんな時の対処法も付き合いの長い美月は心得ている。霊気にあてられたら、清水で清めてやればいいのだ。
スメラギが歩けたなら神社に連れていって禊(みそぎ)をさせるところだが、スメラギは意識不明の衰弱ぶりであったので、美月は近所の神社、父親が宮司、自分は禰宜(ねぎ)をつとめる富士宮神社に袴の裾をからげて急ぎ戻り、井戸の水をポリタンクにいっぱい汲んできた。自分たちも神事の前の禊に使う、澄んだ湧き水である。富士宮神社の裏にある洞穴は富士山までつながっているというまことしやかな噂があり、神社の井戸水は富士の山の雪解け水なのだと、近所ではもっぱらの評判だ。
 おなじく美月によって運びこまれた檜(ひのき)のたらい桶の底で胡坐をかいて座るスメラギの頭の上に、美月はポリタンクの水をぶちまけた。
 容赦なくスメラギの頭上にそそがれる湧き水は、桶の縁をはみだした膝頭を叩いて弾け飛び、あたりの畳を濡らした。美月は構わず水を浴びせかけ、スメラギは、肌にはりつくシャツの下で鳥肌をたてながら、桶に溜まっていく水に体を浸していた。
 生まれながらの見事な白髪の短い毛先をつたって、銀色のしずくが桶の水面を軽やかに撥ねる。地下からくみ上げた、ひんやりと澄んだ水を浴びせてもらっているうちに、スメラギの重かった頭が軽く、思考がクリヤーになっていった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 4-2

「スギさん、本当に盆はダメだねえ」
 笑うとなくなる目を細めて美月は笑った。その笑顔は、神社に仕える者のくせに弥勒菩薩を彷彿させる。仏の顔も三度まで、というが、美月はいつだって仏の穏やかな笑顔だ。
 スメラギの知る限り、美月は怒った顔をみせたことがない。感情がないわけではなく、喜怒哀楽の「怒」だけが欠けている。バスケ部のキャプテンとして、試合などでは厳しい表情をみせることもあったが、感情にまかせての怒りとは違う。
 その穏やかな微笑みに、人は自然と引きこまれてしまい、知らず知らずのうちに、美月のおもうままになってしまうのだ。
 今もまた、スメラギは美月の言うなりに、世話を焼かれてしまっている。服を着替えさせられ、風呂からあがったばかりの子どもを扱う母親のような美月に、乾いたバスタオルで生まれつきの白髪頭を乾かされている。

 美月は大量のインスタント食品を買いこんでスメラギの狭い部屋に持ち込んでもいた。お盆が終わるまで外に出られないスメラギの非常食である。
「母さんがいてくれたら、何か簡単なものを作ってもらえたんだけど……」
 美月の母親は2年前に亡くなっている。美月の母親が生きていたころは、一人暮らしのスメラギを気にかけて、美月に肉じゃがだの煮物だのを持たせてくれた。スメラギが特に好きだったのはカレイの煮付けで、カレイの身のほぐれ具合と味のしみ込み具合が絶品なのである。
「なあ、スギさん。盆には地獄の釜の火も消えて、亡くなった人はみんな地上へ戻るというけれど、母さんも戻ってきているのかなあ?」
 そう言う美月の背後には、美月に似た細面の女性が正座していた。2年前に亡くなったそのときのままの姿の美月の母親だが、美月には見えていない。
美月の母親は、インスタント食品の山を見ると、たちまち顔をしかめた。その視線を追ったスメラギを不思議に思った美月が「何?」とたずねると、スメラギは声を押し殺して笑った。
「何だい」
「お前のお袋さんが、はやく結婚してインスタントは卒業しろだとさ」
「母さんがいるのか?!」
 慌てて周囲を見回す美月に、スメラギは後ろだと指さした。
「親父さんとふたりしてカップ麺やコンビニの弁当ばかりじゃ、健康によろしくないだとよ」
「わかってるけど、父さんも僕も料理は苦手なんだよ」
「だから、お前が嫁をもらえばいいんだとさ。彼女はいないのか?だってよ」
「いやだなあ、母さん。そんな話、スギさんの前で……」
 身長180cmを超える長身で細身、笑うと目のなくなる仏顔の美月は、もてた。スメラギの知る限り、中学・高校と、彼女がいなかった時期がない。そのくせ、長続きせず、たいていは数ヶ月で終ってしまう。
 身長が高いというだけで美月と同じバスケ部に入らされたスメラギとはえらい違いだ。かたやバスケ部のエースでキャプテン、かたや、生まれながらの白髪のせいでいじめられてばかりで性格がひねくれてしまった劣等生。加えて霊がみえるとあっては、人付き合いを避けてしまいがちだというのに、彼女をつくるなどもってのほかだった。半分でいいからよこせ、と冗談を言ったことがあるが、美月は照れたように笑うだけで、スメラギの前では女性の話をしたがらなかった。
 それはいい大人になった今も変わらない。時々、近所で見かける美月はそのたびに違う女性と連れ立って歩いているが、彼女なのか、ただの女友達なのか、スメラギは知らない。聞いたところで、答える美月ではない。
「お前のことが心配なんだな、お袋さん」
「子どもじゃないんだから」
「靴ひももちゃんと結べないのに?だってさ。なんだ、お前、靴ひも結べないのか」
美月は、母親がいると思われる方に向き直り、
「母さん! そういうことは言わない!」
 と言うが、美月の母親は平然と聞き流している。
 霊気にあてられて弱っていたのもなんのその、今はすっかり調子を取り戻して腹を抱えて大声で笑っているスメラギに、美月は、禰宜は着物姿で過ごすことが多くて靴を履く機会があまりないからうんぬんと言い訳をしていた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 4-3

「ああ、ったく。僕だってみえたら、スギさんのお袋さんからスギさんの秘密なり、弱点なりを聞きだしてやるのに」
「残念だったな」
 美月の母親は、スメラギの口を通して美月の好物のサバの味噌煮の作り方とコツを教え、美月より一足先に愛する夫、美月の父親のいる富士宮神社へと戻っていた。
「何だか不思議な感じだよ。母さんがまだ生きているみたいだ。スギさんには生きている時と同じように見えているのかい?」
「まあな」
「スギさんのお袋さんも、盆には戻ってくるのかい?」
「ああ。でも親父のところだ…」
「そう」
 スメラギは嘘をついた。
スメラギの母親の霊はスメラギにもみえない。天上界にいったものだろうと地獄に落ちたものだろうと地上に残るものだろうと、霊なら幽鬼でも何でも見えるスメラギだが、存在しないものはいかにスメラギの霊視をもってしても見えない。
 スメラギが6歳のときに死んだ母親は、この世から消滅した。消滅させたのはスメラギ自身である。
 スメラギの母親が死んでこの世からその存在を消してしまって以来、もともとうまくいっていなかった父と子の関係はさらにぎくしゃくし、数年前にスメラギが二十歳の成人式をむかえると、スメラギの父、皇慎也は、親の責任は果たしたとばかりに家を出て行った。
 今は、この世にとどまり続ける幽鬼たちを説得、成仏させる全国放浪の旅に出て、たまの連絡は美月の父親あてにくる。スメラギと美月がそうであるように、父・慎也と美月の父親とは親友同士だった。
 代々にわたって富士宮神社の宮司をつとめる美月家と皇家との付き合いは長く、スメラギが美月龍之介に出会ったのは、霊視防止用のメガネを作ってもらうよう、父親に連れられて美月家をたずねたのが最初だった。
 スメラギの霊感体質は父親ゆずり、皇家は魂守人(たまもりびと)として代々、霊を鎮め、霊が生きている人間の世界に干渉しないよう、務めてきた。皇家のものとして、スメラギもまた例外なく、霊と関わる仕事をしている。
 スメラギが幼いとき、父親と母親は離婚し、スメラギは母親に引き取られた。離婚の理由は、皇家の特殊な血にあったのだろう。普通の人間と同じように霊が見えているスメラギにむかって、母は、あそこに人がいるとかそういうことは、人の前では言っちゃダメよと諭した。母は、「普通の子」としてスメラギを育てたかったのかもしれない。
 母親が事故死した後は、父・慎也に引き取られたが、母親はまだ幼いスメラギを心配してこの世にとどまり続ける幽鬼になった。
 母親は生きていた時と変わらずにスメラギの面倒をみた。死んだはずの母親の姿が常にそばにあるので、スメラギは母親が死んだとはおもっていなかった。父に隠れての母との生活は5年続いた。終止符を打ったのはスメラギ自身だった。
 ああするほかに、母親を救う方法はなかった。怨霊となった母を永遠の責め苦から救うには、母親を消滅させるよりほかに仕方がなかった。母が怨霊となったのはスメラギのせいだったから、母を救うのはスメラギの責任だった。生まれつきの白い髪のせいでスメラギはよくいじめられていた。スメラギを愛するあまり、母は、スメラギをいじめていた子どもたちに祟った。
 怨霊となった母をスメラギは覚えていない。覚えているのは、何かと世話を焼きたがる母の、ダメねえという口癖と、口調と裏腹の笑顔だけだ。
「ハックション!」
 くしゃみをしたスメラギの耳に、母のダメねえという声が聞こえた気がした。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 5-1

 地獄の釜の火が入ってというのは物の喩えで、地獄に煮え立つ大釜などないのだが、お盆が終わって“目には目を、歯には歯を”の日常が戻るはずの地獄は、慌てふためいていいた。
地上に帰されていた霊たちの一部が戻ってきていないのである。
 地獄を脱け出した彼らの行方を追って閻魔庁は大騒ぎである。篝火がうっすらと灯るだけの廊下を、幽鬼たちが行ったり来たり、普段はぴたりと閉まった十王たちの執務室も開きっぱなしで、ひっきりなしに幽鬼たちが出入りして、どこかせわしない。とはいえ、そこは幽鬼たち、物音ひとつたてるわけでもなく、実際は慌てているのかもしれないが、見た目には優雅に宙を舞っているかのように廊下を走りぬけている。
 スメラギが地獄の閻魔王室をたずねたのは、そんな騒ぎの最中であった。
「スメラギぃ! ええとこに来た~。ちょっと頼まれてンかぁ~」
 閻魔王室の開け放たれた扉をノックする間もなく、夜摩のほうが目ざとくスメラギをみつけ、猫なで声ですり寄ってきた。
「気持ち悪りぃ、それ以上近寄るなっ!」
 スメラギは反射的に体をひいた。
「“気持ち悪い”って、なんや。こんな美女つかまえて」
 夜摩は見事なブロンドの巻き毛を指先に絡めてみせ、腰をひねってしなをつくってみせた。
 真紅の瞳の流し目が、薄紫色のアイシャドーでさらに艶かしさを増している。ふっくらと肉感的な唇は赤く艶めいて、真珠のごとくにきらめく歯がのぞいている。
 人の皮をなめして血で染め上げたというボディースーツは、細くくびれた腰と豊満な胸とを露にし、さすがは地獄の閻魔王、人間ばなれした身震いするほどのスタイルの良さと美女ぶりだ。
 ただし、口を開かずに黙っていたら、である。
「女は相変わらず苦手かいナ」
「お前、“女”じゃねーし」
 せいいっぱいの媚をこめたつもりのその声は腹の底に響くほど低い。夜摩は男だ。その豊満な胸は、地獄におちた女の胸から切り取ったもので、夜摩はおもしろがってその胸をつけての女装を楽しんでいる。
「どうせ、脱獄幽鬼を捜索しろってんだろ? 毎年のことなんだから、いい加減何とかしたらどうだ? GPSをつけるとかさ」
「そないなもん、金がかかるさかい。あんさんに頼めば、タダでっしゃろ」
 地獄の沙汰も金次第、金にうるさい夜摩には金さえ積めば地獄行きも帳消しにしてもらえる。仮に地獄へ落ちたとしても、残った家族が金を送り続ければ地獄の刑期も短くなるという。噂では、夜摩は相当な金を貯め込んでいるらしかった。
 毎年、盆のあとに幽鬼たちが戻ってこないのは、実は夜摩が金を積まれてわざと逃がしているのではないかと、スメラギは睨んでいるが、あくまでも疑惑の範疇を出ない。
「金とは、日本円でないとだめなのか」と聞いたことがある。夜摩は「ドルでもユーロでも何でもええで」と、にんまり笑った。でも一番いいのは「金(きん)」だそうだ。通貨はその時々で価値が変わるが、金色の光はいつの時代の人々をも魅了する。
「あんたら人間のほうがよっぽど業突く張りやで」――PCなど、閻魔庁の設備の一部は、人間たちの業者から買い取ったものだ。もちろん、彼らは買い手が閻魔王だとは知らずに売りつけているのだったが。
「幽鬼探し、やってもいいぜ」
「ほんまにぃ!」
 抱きつこうとする夜摩を、スメラギは全力で拒んだ。
「そのかわり、頼みがある」
「閻魔王相手に取引とは、えらい度胸やな」
 語気が強まり、夜摩の紅蓮の瞳が光を増す。
「宮内小夜子を捜してほしい」
「なンや、まだ手紙を渡してなかったンかいな」
 死人のこの世での心残りを解消する仕事をしているスメラギは、とある老人から、宮内小夜子という女性に手紙を渡すよう依頼を受けた。スメラギは、まず死人の側から宮内小夜子捜しを始めた。生きていたら80歳を超えるだろう女性だったから、死んでいる可能性のほうが高いと踏んだのだ。
 この世のすべての命の情報が詰まった地獄の鬼籍データベースに“宮内小夜子”を照会したが、教えてもらった宮内小夜子は3人とも人違いだったというと、
「そんなはずおまへンで!」
 と夜摩は叫び、篁(たかむら)を呼び出した。

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ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 5-2

 「何がおかしいって言うんです」
 この世のありとあらゆる生命のすべてを記録した鬼籍データに記載漏れなどあるはずがない。鬼籍データベースの管理責任者である小野篁(たかむら)は憮然としていた。
 地獄を取り仕切り、閻魔庁のトップを務めるのは閻魔王こと夜摩だが、鬼籍データベースの実質的なトップ責任者は篁である。
 それまでの和綴の記録帳に記載されていただけの情報を電子データに移行させ、関連する情報を包括的に網羅したデータベースを作成、必要な情報を必要なときに取り出せるよう検索システムを充実させたのも篁だった。夜摩は一切関知していない。篁は、鬼籍データベースの正確性には自信をもっていたし、鬼籍データベースについて彼が知らないことは一切ない。
 それだけに、「鬼籍データベースがおかしい」と言われると、自分自身を貶されたような感じがするのだろう。ニヤニヤとした笑顔を浮かべる夜摩の顎を肩に乗せ、篁はスメラギをみすえていた。
 ♪マルかいて~マルまいて~ ― 篁の顔をみるたびに、スメラギ自作の絵描き歌が頭でぐるぐる鳴り出す。童顔の丸顔にメガネと、どこかのテーマパークで愛想をふりまいているようなキャラクターのような愛らしい輪郭だが、頭脳の回転はその外見を裏切って鋭い。篁が手がけた以上、鬼籍データベースの正確性に問題はない。
 夜摩の言い方が悪い。スメラギは、以前に出してもらった検索結果に、自分が捜している宮内小夜子という人物がいなかったと言っただけで、「鬼籍のデータベースがおかしい」とは一言も言っていない。
「おかしいなんて言ってないだろうが。この間探してもらった3人のなかに宮内小夜子がいなかったんだ」
「該当者がいない? そんなはずは…」
「もう一度調べてもらえないか」
 美月の結婚の話が出たとき、スメラギははっと気付いた。
 最初に鬼籍にあたった時、宮内小夜子は宮内姓のままだろう、またはいただろうとばかり思って、“宮内小夜子”を探した。
 白髪三白眼の見た目の凄みを裏切って案外ロマンチストなスメラギは、恋人をずっと待ち続けて独身でいるとばかり思い込んでいた。だが、もしかしたら、宮内小夜子は結婚して姓を変えているかもしれない。
 鬼籍には、死に場所や死ぬときや死んだときのデータしか記録されていない。結婚して姓を変えて死んだのなら、宮内小夜子は宮内小夜子としては鬼籍に記載されていないのである。
 宮内小夜子を旧姓で探してみてほしいと頼むと、夜摩は
「忙しいンやけどなあ…」
と文句を言い、ぐずぐずしていた。
 何でも、人斬り伊蔵として知られる稀代の殺し屋、岡田伊蔵が脱獄しており、はやく連れ戻さないと人間界に差し障りがあるので必死の捜索を行っているということだった。脱獄すれば地獄の刑期がさらに延びると知っていて、伊蔵は毎年のように地獄を脱け出す。
「地獄(こっち)で斬られすぎて、アホになったンとちゃうか」
 地獄では、現世での行いがそっくりそのまま自分にかえってくる。天誅と称して人を斬り倒した伊蔵は、今は斬られる側だ。
「出ました」
 篁が検索結果をはじき出した。ものの十秒もかかっていない。これが夜摩だと数分どころか、下手したら、検索結果なしと出たかもしれない。その長い爪のせいでなくても、夜摩はまるっきり機械に弱く、いまだに鬼籍データベースを使いこなせていない。
 夜摩の立派なPCをみながら、スメラギはひそかに、豚に真珠ならぬ閻魔王にPCと呟いた。
“宮内小夜子”は、前に調べた3人のほかに4人が追加され、合計で7人の名前が画面に表示されている。
「ふん、こいつはおもろい。ひとり、幽鬼になったやつがおるで」
 夜摩の赤く先の尖った長い爪に指し示されるまでもなく、スメラギも幽鬼となった女のデータに目を留めていた。

 【沼田小夜子】 <旧姓>宮内
 F県○×にて肺炎で27歳で死亡。魂未回収

 死んだ場所は手紙の住所からは遠く離れているが、死に場所が生きている人間の住んでいる場所とは限らない。「魂未回収」とは、死神の手を逃れ、幽鬼としてこの世に留まり続けていることを意味している。
 結婚の約束までした恋人の生死はわからないまま、女は別の男と結婚した。親に言い含められてで望んだ結婚生活ではなかっただろう。失意のまま病死した女の魂は、恋しい男が生きているかもしれないと望みをつなぎ、この世にとどまって男を捜しているのか、待っているのか――海辺の街の老女は生きながらに死に体と化して、騙した男の帰りを待ち続けている。
 宮内小夜子もまた、この世のかたすみでひっそりと柏木孝雄を待ってはいないだろうか……。
「幽鬼やで。めんどくさいで」
 夜摩はそう言い、その後に起こる悪夢を予感したかのように、くっくと喉を鳴らして不気味に笑った。

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渡せなかった手紙 6-1

 恋人の生死がわからないまま死んだ女は、もしかしたら自分のもとをたずねてくるかもしれない恋人を待って、この世にとどまり続けるのではないか――
 スメラギは、死神の手を逃れ、幽鬼となった女こそが、宮崎老人を介して託された柏木孝雄の手紙を渡す相手だと確信した。
 沼田小夜子、旧姓宮内小夜子は、恋人、柏木孝雄がたずねてくるかもしれないと待ち続けている―
 スメラギは手紙の住所をたずねた。宮内小夜子が柏木孝雄を待っているとしたら、手紙が届けられたはずの場所だろう。

 戦前の住所で宮内小夜子の実家があった場所は、いまや都内屈指の交通量を誇る幹線道路になっていた。
「ここかよ……」
 スメラギが絶句するのも無理はない。
 そこは見通しのいいにもかかわらず、事故が多発する交差点だった。スメラギが覚えている限りでは、確か数年前に、交差点の先の喫茶店にハンドルを切り損ねた車が突進し、客と車を運転していた男が犠牲になったはずだ。その後も事故は起こっているようで、歩行者信号のたもとには、真新しい花束が供えられている。
 信号が赤に変わり、スメラギは霊視防止のメガネをはずし、ダッシュボードに投げ捨てた。たちまち、歩行者の数が増える。自分が死んだとわからずに事故現場にとどまり続けている幽鬼たち…。
これだから事故現場は……
 愛車、ビートルのハンドルをにぎる手に汗がにじんだ。
 ダッシュボードには、メガネと、宮崎老人から預かった宮内小夜子あての手紙がのっている。
 金曜の夜の繁華街。夜が深まるにつれて、とこからか人が沸いて街にあふれだす。仕事帰りのサラリーマンにOL ― 仕事を背後に、週末の開放感をすぐ目の前にして、その開放感の放つ甘いかおりにすでに酔いはじめている。
 足取りのおぼつかないサラリーマン、抱きかかえられるようにしてようやく体を縦に保っているOL、ろれつのまわっていない舌で何かを叫んでいる初老の男性、肩を組んでは歌らしきものを歌っているらしい学生たち。信号が変わったというのになかなか歩道にたどり着かない人々にまじって粛々と横断歩道をわたる人々の姿がある。
 スーツを着ていたり、作業着だったり、なかには制服のようなものを身につけていたりと、その職業はバラバラだが、共通するのは全員が男で、背丈も同じほど、顔つきもそれぞれ少しずつ似通ったところがあるようにみえる。年ごろも20代前半から30歳にはなってはいないだろうとおもわれる。
 スメラギの目にだけみえている、事故の犠牲者たちだ。
 突然の事故で死んだことを知らずにこの世に留まり続ける幽鬼たち。霊のみえる体質に生まれついたスメラギには生きた人間と変わりない姿で見えている。だが、その体は酔っ払いたちの体をすり抜けて歩道へとあがっていく。
 周囲のまばゆいネオンに溶け込みかけている信号の光が青に変わり、スメラギは愛車ビートルのギアを入れ、アクセルを踏み込んだ。
 進行方向の道路中央に、女が立っている。
 自分と視線があってもたじろがないスメラギを、女は不思議そうにみつめていた。スメラギはスピードを落とさず、交差点を走り抜けた。
「柏木って男からのアンタあての手紙をあずかってるぜっ!」
 開け放した窓から叫んだ声は、周囲の喧騒に掻き消されてしまった。だが、スメラギは確信していた。彼女の耳には聞こえていると。
 車ごと女の体をすり抜けたとたん、車内の温度が急激に下がり、吐く息がたちまち白く煙る。
「柏木さんからの手紙って?」
 宮内小夜子だった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 6-2

 ビートルの助手席に、宮内小夜子が座っていた。揃えた膝の上に、整った指先をそろえて置いている。スメラギの次の言葉を待って、その目はスメラギの横顔をみつめている。
 ハンドルを握りながら視界の端にうつりこんでくる宮内小夜子の姿は、生きている人間が助手席にいるのとまるで違わない。目鼻口はすべてそろっているし、頭から足の先まできちんと1体につながっている。
スメラギの目にうつる幽鬼たちは、生きている人間と何ら変わりない。霊視防止のメガネをかけていない限り、街をそぞろ歩く人間とその間を行く幽鬼たちとの区別はスメラギにはつかない。
 もし、宮内小夜子の髪が黒くなく、膝頭が隠れる丈のスカートをはいているのでなければ、生身の人間として見過ごしてしまっていただろう。外見はまさに生きた人間と変わらない幽鬼たちの異質さは、まさにその外見にある。
 宮内小夜子の髪は黒く、あげた前髪の生え際はくっきりと富士の山を形どり、後ろ髪はうなじで、後れ毛の乱れもなくきっちりとまとめられている。眉は自然な太さで、手を加えて整えられた跡はみえない。流れるような眉の形は、美人の証だろう。化粧らしい化粧といえば赤い口紅が目立つ程度で、それも品がないというのではなく、女性らしさを強調していて、かえって可愛らしい清潔感がある。
 服装は、白いブラウスに、丈のたっぷりした濃紺のフレアスカートを身につけており、今どきのファッションの主流からはたいぶ外れている。このズレ、異質感こそが、幽鬼である証拠だった。
 現代に生きるものが昔のファッションを懐かしんで―というのとは違う。どんなに忠実に過去を再現したつもりでも、そこには時代のにおいがない。その時代に“常識”であった事柄は記録されず、調査の網から漏れてしまうからだ。だが、幽鬼たちは自分たちが生きた時代そのものを身にまとって現代に姿を現す。現代の風景から浮いた人物 ― それこそが幽鬼にほかならない。
「柏木さんからの手紙は?」 
「そこにあるぜ」
 スメラギは、あごでダッシュボードを指し示した。見覚えのある書体に、小夜子は手紙が柏木孝雄からのものだと確信し、黙って手紙を読み始めた。
 宮崎老人から託された依頼は、戦友、柏木孝雄の手紙を宮内小夜子に渡すこと、だった。宮内小夜子が手紙を手にした時点でスメラギはその場を立ちさるべきだった。そうすれば、その後の後味の悪い結末を避けられたかもしれない……。
宮内小夜子は、恋人からの手紙を何度も何度も読み返しては、声を押し殺して泣いていた。
「私、柏木さんが生きて帰ってくると信じて待っていたのよ……」
「……」
「戦争が終わったら、結婚しようって言ってくれて。でも、戦争が終わってもあの人だけが帰ってこなかった……。私たちのことは周りの誰も知らなかったから、私、あの人が生きているのか死んでしまったのか、知ることができなくて。結婚だって、親のすすめるがままだった……。どうしようもなかったの。でも、私はあの人を信じて待っているべきだったんだわ……」
ビートルの車窓を、ネオンの光がその尾を残して彗星のごとくにかけぬけていく。傍目には、白髪の短髪を尖らせた男がひとり、深夜のドライブを楽しんでいるようにしかみえていないだろう。夜光虫の漂う夜の海を泳ぐように、ビートルは光の舞う都会の夜を走りぬけていく。
「これからどうなるのかしら……」
「…死んだ人間には死んだ人間の住む世界がある。アンタはそこに行かないといけない」
「そうね…。あなたが連れていってくれるのかしら?」
「その前に、ちょっと寄るところがある」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 6-3

 やってきたのは、巨大ショッピングエリアへと変貌を遂げつつある地域にひっそりと、しかししっかりと建つ小さな映画館だった。
 今時、手書きの看板を掲げ、モダンなディスプレイの続く周囲からは明らかに浮いている。だが、同じように深夜に光を放ちながら、その映画館だけがどこかあたたかい、ぬくもりのある光を湛えて、人の出入りが絶えなかった。
 映画館の名は世界座。戦前から続く映画館で、惜しまれつつ、この夏で閉館することが決まっていた。閉館までの期間、金曜の夜はオールナイトで古い映画を中心に上映している。今夜の映画は「天井桟敷の人々」だった。
 宮内小夜子は、なぜこの古びた映画館へ連れてこられたか、その理由に察しがついたらしい。スメラギがビートルをとめるのを待たずに、ドアを通り抜け、すぅーと映画館へと姿を消していった。
「私たち、よくここで映画を観たの」
 夜中だというのに、館内は満員に近い入りだった。スメラギの目には、通路にまで溢れだした人々の姿が見えていた。かつて世界座に通った人々の霊が、最後の上映会に集っていた。
「柏木さんも来ているのかしら」 
小夜子の目が、幽鬼の観客たちの間に柏木の姿を探していた。
スメラギは黙って首を横に振った。たちまち小夜子の顔が曇った。
「上にいる」
 スメラギの視線は、ぼんやりと明かりの灯る映写室へとむいていた。
 ロビーに出ると、長身の男がスメラギを待ち構えていた。黒いスーツに黒いタイ、スメラギと目があっても挨拶するわけでもない無愛想なその男は、死神だ。
「幽鬼はどこだ」
「今ちょっと……」
 小夜子をあの世へ連れ帰ってもらうため、映画館へつくなり、スメラギはケータイで死神を呼び出した。
幽鬼のこの世での心残りを解消した後には、死神を呼び出し、幽鬼をあの世へ連れ帰ってもらうのが決まりだった。小夜子は依頼を受けた相手ではなかったが、この世にとどまり続ける幽鬼を発見、保護したからには死神に通報、あの世へ送り届けてもらうよう手配するのがスメラギの義務であった。
「手紙を渡すのが、今回の依頼じゃなかったのか」
「……」
「手紙は渡したのか」
「ああ」
「で、お前はこんなところで何をしているんだ」
「……」
 死んだ小夜子の魂の行方を追いながら、スメラギは、小野篁に頼んで秘かに柏木孝雄の行方を捜してもらっていた。
 小野篁が管理する地獄のデータベース、鬼籍には、この世の生きとし生けるもののすべての情報が記載されている。死に場所はもちろん、いつ死ぬのか、どう死ぬのか、生きている間の行い、死後の行く先、天上界か地獄か、はたまたこの世に再び生を受けるのか。
 柏木孝雄は、吉田健二という男として生まれ変わり、20歳の現在は、映画に携わる仕事がしたいと、世界座でアルバイトをしていた。
 その事実をつかんだスメラギは、小夜子を柏木孝雄の生まれ変わりと会わせてやろうと、柏木孝雄=吉田健二が働く世界座へとやってきた。
「男と会わせてやってるんじゃないだろうな」
 図星だった。
 死神にあの世に連れていかれる前に、ひとめでも、かつての恋人、柏木孝雄の魂をもつ男にあわせてやりたい――スメラギのささやかな思いだった。
 スメラギの沈黙を肯定と受け取った死神は、
「帰る。俺は忙しいんだ」
 と、ロビーを後にしようとした。
「おい、待てよ。あ、あと5分。5分でいいからさあ。なあ、彼女は…」
「待つ必要はない。あの幽鬼は今日は回収できない。待つだけ無駄だ」
「どういう意味だよ?」
「あの幽鬼はお前に心残りの解消の依頼をする。あの幽鬼の願いをお前が叶えてやらない限り、俺の出番はない」
「宮内小夜子には何も頼まれてないぜ」
「これから頼まれる」
「なんでわかるんだ、そんなこと」
「わからないほうが鈍い。お前は女心ってものがわかってない。そんなだから女に縁がないんだ」
 女心ぐらい、わかっている、だからこそ、前世での恋人に会わせてやっているんじゃないか――
 死神にくってかかろうとしたその時、小夜子がスメラギのもとに駆け込んできた。
「お願い。あの人と話をさせて」
 無愛想で無表情の死神が、皮肉な笑みを浮かべた。
「依頼人だ」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 7-1

 霊体に人は見えるが、人には霊体が見えない。ごくまれに「見えて」しまう人間もいるが、それはその人間が「見える」体質なのではなく、霊体のもつエネルギーが生きている人間並みに強い場合だ。霊体のエネルギーが生きている人間並み、もしくは霊体自身が死んだと自覚していない場合には、生きた人間として、人の目にうつることもある。だが、大抵の場合、霊や幽鬼たちは人の目には触れられない。スメラギのように「見えて」「話せる」のは、特異体質だ。
 幽鬼となった小夜子は、かつて恋人と通った映画館で、恋人の生まれ変わりである男、吉田健二と再会した。
 映写室の小さな窓から光放つスクリーンをくいいるように見つめている吉田健二は、姿形こそ違え、まなざしの強さは、かつて愛した柏木孝雄と同じものだった。
 愛しい人は目の前にありながら、小夜子は語りかけることもできず、触れることもできなかった。当然、相手も幽鬼である小夜子の存在に気付かない。小夜子にはそれが不満だった。
 せっかく会えたというのに――
 待ち続けた思いを伝えたい、映画関係の仕事がしたいと言っていた、その夢を叶えた彼におめでとうと言いたい、今も自分を想っていてくれているのか聞きたい、あたたかい腕に一度でいいから抱かれて愛しい人のぬくもりを感じたい――

 小夜子の願いを叶えるため、スメラギは、美月が禰宜(ねぎ)をつとめる富士野宮神社をたずねた。
「美月、また頼むよ、このとーり!」
 両手を合わせて拝むスメラギに、美月は目を細めて笑った。
「いいよ、スギさんの頼みだからね。で、今度はどんな依頼なのさ?」
「初恋の相手と感動の再会、の手伝い、かな」
「僕は何をするのかな?」
「ただ、相手としゃべるだけだから」
「ふーん……。初恋の相手だろう? しゃべるだけで済むのかなあ。相手は? 美人?」
「いや、相手は男で、お前にのってもらう方が女」
 女の人なら大丈夫か、と、美月は意味深なことを呟いた。
 スメラギが霊が見える特異体質に生まれついたなら、その幼なじみの美月もまた、霊をその体に取り込みやすいという特異体質に生まれついていた。左手首につけた水晶の数珠を外せば、美月はたちまちその体を霊にのっとられる。美月家の女性にのみ現れる体質が、その姉を通りこし、妹たちには現れず、どういうわけか美月に出た。
 美月の霊媒体質を、スメラギはちょくちょく、自分の依頼人である幽鬼の頼みごとに利用する。美月の体を借りるのは、生きた人間の肉体でなければ果たせない頼み事を引き受けた場合だ。
 小夜子は、柏木孝雄=吉田健二と会って話がしたいと言った。話をするだけなら、スメラギを介してでもよさそうなものだが、小夜子が拒否した。どうしても、愛する人の体温を感じたいのだという。霊は五感のうち、触感を失ってしまっているため、相手の姿をみることはできても、その存在を感じとることができない。

 「女の人なら大丈夫か……」――不安げに美月はそう漏らし「女だし、大丈夫だろう」――スメラギはそう思った。
 その美月の不安は的中し、スメラギの考えは裏切られることとなる……。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 7-2

 「ひとつだけ条件がある。女装だけは勘弁だ」――女性である小夜子の霊を、男の美月の体にのりうつらせるにあたって美月が出した条件は、「絶対に女の格好はさせない」であった。
 かつての恋人に会いにいくのだから綺麗に装いたいという女性の気持ちはわからないでもないが、自分の女装姿なんて想像しただけでも気持ちが悪いのでそれだけは勘弁してくれという美月のたっての願いで、外見だけは普段の美月のまま、小夜子の霊は美月の体を借りて、かつての恋人、柏木孝雄=吉田健二の働く映画館、世界座へとむかった。
 女装はさせなかったものの、小夜子の霊がのりうつった美月は、やはり美月ではなかった。普段着の着物姿ではなく、見慣れないラフなジーパン姿のせいばかりではない。スメラギの愛車、ビートルの助手席に座る美月、いや小夜子は、両手をきちんと、これまたきちんと閉じた両足の膝の上に置き、仕草は女そのものである。
(女装させたほうがマシだったか……)
 なまじか外見が美月なだけに、かえってスメラギは居心地が悪かった。
 美月自身は気持ち悪いといったが、案外と美人になったのではないかと、スメラギは今さらながらにおもった。
 神社の禰宜をつとめながら、その笑顔は三度以上の仏顔。笑うと目のなくなる人懐っこい笑顔の美月は、きっと亡くなった母親そっくりの美人になっただろう。
(ただし、デカい女になるけどな)
 美月は、180センチのスメラギよりさらに数センチ背が高い。

 世界座に着き、いよいよかつての恋人の生まれ変わりである吉田健二と対面という前に、スメラギはいくつか注意すべき点を小夜子に告げた。

・吉田健二が前世の記憶をもっているとは限らない。むしろもっていないとおもったほうがいい
・あくまでも美月龍一郎という「男」として吉田健二に接触すること
・男の体にのりうつっているのだということを忘れないこと
 
 スメラギの注意にいちいちうなずくと、小夜子はそそくさと館内のロビーへと姿を消した。
 ロビーには、開館から最近にいたるまで世界座で上映してきた映画のポスターがところ狭しと貼られ、それぞれのポスターの前には人だかりがあった。その映画に関する思い出を互いに語り合っている映画ファンたちなのだろう、その中に世界座のスタッフとして働く吉田健二の姿があった。
美月の体にのりうつった小夜子は、吉田を取り巻く他の人々にまじって、しきりと話しかけていた。対する吉田の反応は、他の人への反応と変わりなく、美月の体に宿る魂がかつての恋人のものだとは気付いていない様子だった。
「前世の記憶がないんだろうなあ……」
「ある人間のほうが珍しい」
 いつのまに来たのやら、呼び出しをかけた死神が隣に立っていた。小夜子との約束では、吉田と話ができたらおとなしく死神に連れられてあの世へ行くことになっていた。
 死神の言うとおり、生まれ変わった人間で前世の記憶をもっている人間は少ない。ほとんどの人間が生まれ変わると同時に過去の記憶を失う。覚えているという人間は少なく、多くの場合、何かのきっかけで思い出しただけで、はじめから覚えているということはない。
「彼は思い出すかなあ……」
 小夜子の魂をもつ人間と話すことが、前世での記憶を取り戻すきっかけになるだろうか。
「思い出しても、思い出さなくても、どちらにしても、やっかいだ」
 死神の予言はあたった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 7-3

 小夜子は明らかに吉田を独占したがっていた。吉田が他の人間と話をしているのに割り込むように会話に入ってくる。相手の言葉をさえぎって自分の言葉をたたみかける。周囲の人間は、様子のおかしい小夜子(外見は若い青年の美月)に、次第に吉田のもとを離れていき始めた。
「まずいな……」
 前世での記憶をもたない吉田に、小夜子はいらいらし始めていた。おそらく、過去のふたりの思い出でも話しだしたのだろう。あれは覚えていないのか、これはどうだとか。
 遠めにも吉田が困惑しているのが見えたので、スメラギはここらで引き上げたほうがいいと、小夜子のもとへとむかった。
「おーい、美月じゃないか」
 友人にばったり会ったようなふりで小夜子に近づいていったその瞬間、美月の体が崩れ落ち、とっさに抱きとめられた吉田の腕の中でぐったりと意識を失っていた。
「美月っ!」
「奥に事務所がありますからそちらへ!」
 スメラギと吉田に抱えられ、事務所に運び込まれた美月はソファーのうえに寝かされた。
「救急車をっ」
「いや、いいっ!」
 スメラギの強い調子に、吉田は取り上げかけた受話器をおろさざるを得なかった。
「いいんだ」
 スメラギは素早く、しかし注意深く美月の体を調べた。弱いものの脈はあり、呼吸はしている。生きてはいると確認して、スメラギは思わず大きなため息をもらしていた。
「さっき、“美月”と呼んでましたけど、美月さんというんですか、この人」
「……」
「知り合い、ですか」
「ああ」
「倒れる直前に、“小夜子です”って、言ってましたけど」
「…聞き間違えじゃないのか」
「いいえ、確かに“小夜子です、覚えていませんか?”って」
 やはり思ったとおり、小夜子は吉田の柏木としての記憶を取り戻そうとしていた。あれほど前世の記憶があるなどと期待するなと言っておいたのに。スメラギは心のうちで舌打ちした。
「端正な顔立ちですけど、男、ですよね?」
「役者、なんだ」
 スメラギはとっさに嘘をついた。前世だの、霊がのりうつっているだのと説明したところで、吉田を混乱させるだけでしかない。
「倒れたのも、演技ですか」
「……」
「心配してかけつけてきた、あなたまで演技していたっていうんですか」
「……」
「本当のことを言ったらどうだ」
 一部始終を黙ってみていた死神が口を開いた。
「信じるもんか」
 死神の姿がみえない吉田には、スメラギの独り言と聞こえただろう。
 霊が見えると言っても、周りの誰もがスメラギを信じはしなかった。嘘をついているとなじられ、幼心にスメラギは傷ついた。スメラギにしてみれば、見えるものは見えるので、嘘などついてはいない。見えてないという方が嘘をついて自分を騙しているのではないか。
 嘘つきだとののしられる幼いスメラギに、母は、人の前では「見える」ことは言ってはいけないと言い聞かせた。「見える」ものは「見える」のに、嘘などついていないのに、と、唇をかみしめながら、スメラギは母の言いつけに従った。
 「見えない」人間に何をどう言ったところで、しょせん人は、自分の目にうつるもの以外を見はしないし、信じもしないのだ。
 美月の体に小夜子の霊がのりうつっていると言ったところで吉田が信じるものか。小夜子が前世での恋人で、吉田は小夜子の恋人、柏木孝雄の生まれ変わりなのだと言ったところで、そんな話を誰が信じるものか。
 知らず知らずのうち、スメラギは激しく頭を横にふっていた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 7-4

「僕を“柏木さん”と呼びました。僕は、柏木という人を知っています」
 そう言うと、吉田は、机の引き出しから2枚の小さな紙切れを取り出してみせた。
「映画の半券です。ポスターの間に挟んであったものです」
 世界座の閉館が決まったとき、吉田は、それまでの世界座の歴史を振り返る催し物のようなものを開いたらどうだろうかと提案した。その結果が、ロビーで開催されている回顧展となった。ポスターやチラシ、往時の世界座を写した写真の多くは、全国にちらばる世界座のファンに呼びかけて集められたものだった。
「でも、灯台もと暗し、でした。近所にご家族が世界座の常連だった方がいたんです。戦前の世界座の写真はその方からお借りしたものです。他にも、パンフレットやポスターなどをお借りしています」
 映画の半券は、その人物から借りたポスターに挟まっていた。半券はどのポスターにも必ず決まって2枚挟んであった。
「恋人と観にいった思い出にとっておいたんじゃないかと」
 気になった吉田は、その人物のもとをたずねた。それが柏木泰雄だった。
「世界座に通いつめて映画を観ていたのは、ひとまわり年の離れたお兄さんの孝雄さんでした。僕は半券2枚のわけを聞いたんです。恋人でもいたんじゃないですかって。でも、そんな人はいなかったと言われました」
 はじめはそう言っていた柏木泰雄だったが、吉田とともに兄の残したポスターや日記、手紙を整理していくうちに、あることを思い出した。
「手紙を渡すよう、頼まれていた女性がいたそうです。女性からも、お兄さんに渡すよう手紙を渡されて。その女性が、映画を一緒に観にいっていた人ではないかと」
 いったん記憶がほぐれだすと、柏木老人はいきおいよく少年時代の昔を思い出し、吉田に語ってきかせてくれた。
 兄に言われて泰雄少年は、近所の小間物屋まで手紙を渡しにいき、帰りには女性からの手紙を預かって帰ってきたという。
「駄賃が目当てだったそうです。えっと何だったかな。甘いものだったと聞いた気がしますけど。柏木の家は代々続く軍人の家でしつけが厳しかったから、甘いものが食べられるからうれしくてお兄さんが手紙をはやく書かないかと心待ちにしていたそうです」
「こんぺいとう」
 意識を取り戻した小夜子が、ぽつりとつぶやいた。
「泰雄くんにあげていたお駄賃は、こんぺいとうだったわ」
 小夜子に言われ、
「そうです、こんぺいとう。そう言ってました」
 吉田が思い出した。
「でもなぜ、あなたが知っているんです?」
「私があげていたから」
「あなたが?」
 吉田の目がまじまじと小夜子をみつめた。小夜子の霊がのりうつっている体は美月龍之介のもの、吉田の目には、まだ二十代前半の若い、それも男としかうつっていない。
「私たちのお付き合いは、親には隠していました。軍人の家と商売人の家とではつりあいがとれないと反対されるとわかってましたから。それでこっそり手紙のやりとりをして。踊りのお師匠さんのところへ行くと嘘をついて、時々世界座で逢っていました」
 そして戦争がふたりの関係に影を落とした。
 召集令状を受けた柏木孝雄は、必ず生きて戻ってくるから、その時には何といわれても結婚しようと言い、戦地へとおもむいた。そして帰らぬ人となった。
「あなたが書いた手紙です。これを読んでもまだ思い出しませんか」
 小夜子は、最期のときに書かれた柏木の手紙を吉田に差し出した。

 スメラギは無言で死神をうながし、事務所の外へと出た。
「ふたりきりにさせて。どこまでもお前はおっせかいだな」
「5分でいいんだ。5分たったら、宮内小夜子を連れていっていい」
 事務所のとびらを閉めて、スメラギと死神は時が過ぎるのをただ待っていた。
 スメラギはわざと時計をみないようにしていた。ほんとうに5分だけ待つつもりなんかではなかった。小夜子の気がすむまで、柏木との思い出話をさせておけばいい。死神にあの世に連れていかれたら小夜子は……

 ブルルルルルルルルルルルーーーー

 スメラギのケータイが震えた。事務所からの転送電話だ。
「ふたりをみててくれ」
 そう死神に言い残し、スメラギは事務所前を後にした。
 表家業の迷いネコ探しの依頼を受け、数分後に事務所に戻ってくると、事務所のドアは開いたまま、中にいるはずの美月と吉田の姿はなく、死神も消え失せていた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 8-1

 小夜子と吉田が姿を消して3日が過ぎた。
 スメラギに黙って消えたのだから連絡など望むべくもなく、ふたりの行く先など、見当もつかない。柏木孝雄と過ごした思い出の地でもたずねているだろうかと、生前の行いのすべてを記録した鬼籍データベースをあたるが、鳥を求めて海に入るようなもので、手がかりのての字もない。
 小夜子と吉田に逃げられたと知り、夜摩は笑い転げ、死神はこうなるだろうとおもったと言った。
「死んで幽鬼になってまで待ち続けた男にやっと会えたンや。ちょっと話して、『ほな、さいなら』なんて言うて、素直に死神について地獄へくるわけないやン」
 地獄の閻魔王室に、夜摩の野太い笑い声が響き渡り、真っ赤な天井から下がる水晶のシャンデリアが揺れて綺羅綺羅しい光を放った。
「“会うだけ”が、“話すだけ”になり、あと5分がもう5分、もう10分、1年が10年と、人間の望むところにきりはない。最初から、男にあわせるべきじゃなかったな」
 黒いスーツに黒いタイ、葬儀屋のような格好でソファーにくつろぐ死神は、黒革のソファーに溶け込んでしまっていた。布のように白い顔だけが浮き上がって、まるで生首を置いたかのようだ。
 死神の意味するところなら、スメラギにもわかっている。欲望に抑えはきかない。だからこそ、人は死んで幽鬼となってまで、その望みを叶えようとする。
 かつての恋人の生まれ変わりと会ったら何が起きるかをある程度予想しておきながらも、それでもスメラギは、小夜子を吉田に会わせたかった。小夜子のためをおもって、というよりは、スメラギ自身の思いが強く働いていた。吉田に会わせてやらなければ後悔する―小夜子のあの世での行く末を知っているスメラギだけに、どうしても小夜子を吉田に会わせてやりたかった。
「無理心中しとったりしてな。『今度こそ、あの世で結ばれましょう』なんて言うてな。心中なんかしたりしたら即地獄行き、人間にも生まれ変われんのになあ」
「縁起でもないこと言うなよ」
「ええやん。いっそ死んでくれたら、死に場所がわかって死神が迎えに行けるんやから」
 夜摩の笑い声に頭上のシャンデリアが揺れ、光の矢がスメラギの目を刺した。心中して死ぬのは美月の肉体であって、とっくに死んでいる小夜子は無傷のままだ。
「美月が死ぬようなことがあったら、死神、お前を一生恨んでやるからな」
「言ってろ」
「ふたりをみててくれって言っただろ。なんで、あの時、事務所を離れたんだっ」
「岡田伊蔵の幽鬼の回収の召集がかかった。恨むなら岡田伊蔵を恨むんだな」
 その時、スメラギのケータイが鳴った。着信には「美月」とあった。

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ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 8-2

 メールは吉田からだった。
  
   吉田です。今S県S市にいます。明日迎えにきてください。「波濤荘」という旅館に泊まってます。
場所と連絡先は…

 冬には温泉処として、夏には美しいビーチでの海水浴が楽しめるS市の文字を目にし、スメラギは腕時計を確かめた。時刻は午後2時。S県なら東京からおもったほど離れていない、今から車を飛ばせば夕方には着くだろう。
「おい、死神! 小夜子の迎えにいくぞ! 今度はヘマすんなよ!」
「そっちこそ」



「……おい。なんで死神のお前が温泉つかってんだよ」
「人間どもが気持ちいいというから、どんなものか試してみようかとおもってな」
「どうせ、死神のお前にはわかんねーだろーが」
「全然わからん」
 旅館の温泉につかりながら、スメラギは吉田を待った。平日の夕方とはいえ、遅ればせの夏休みを楽しんでいる家族連れや学生たちで浴場はにぎわっていた。
 ゆであがりそうなスメラギに対し、死神は死人のどんよりとした肌色のまま、平然と湯につかっている。
「男湯で待っていてください」――それが吉田の指示だった。
 美月のことがなかったら、楽しい旅行になっただろう。来る途中、車窓を流れた白い砂浜と明るい海がスメラギを誘っていた。
 ビーチにのんびり寝そべって、おしげもなくさらされる女の子たちのゴム鞠のように弾けそうな肉体を気兼ねなく堪能して…ああ、メガネは欠かせない、余計なものまでは見たくないし、紫水晶の濃い紫色が視線の先をごまかしてくれる…。
 ビーチでけだるい午後を過ごした後には、温泉にゆっくりとつかって日頃の疲れをほぐし、湯上りには冷たいビールで汗をひっこめ、その後は、地元で獲れた海の幸やら山の幸やらをいやというほど胃につめこんで……。
「すいませんでした」
 と、男湯に入ってきて、勢いよくスメラギの隣にとびこんできたのは吉田だった。
「小夜子さんがなかなか放してくれなくて…」
 前世での恋人と言葉を交すことのできる肉体を得た小夜子は、かたときも吉田のそばを離れようとせず、スメラギたちに見つかるのを恐れてか、ふたりきりで過ごしていたいためなのか、せっかく景色の美しい場所にやってきたというのに、部屋にとじこもったきりだという。
 唯一、小夜子のそばを離れられるのがトイレと風呂ぐらいなので、吉田はスメラギと話をする場所に男湯を指定した。
「体は男なんだから男湯に入ってきそうなもんだけどな」
「他の男の裸はみたくないとかで…。でも女湯を使うわけにはいかないので、夜中か朝早くかにこっそり入ってます。この時間帯は混んでるので、絶対入ってきません」
 男湯は、小夜子を死神に受け渡す計画を練るには、うってつけの場所ということだった。
「…すいませんでした」
 そのまま頭から湯につかってしまいそうなほど、吉田は深々と頭をさげた。湯にあたった項が真っ赤に染まっていた。
「手紙を読んでいるうちに、思い出したんです。どれだけ小夜子さんを愛していたか……」
 今際の際にあって書かれた手紙には、恋人の安否を心配し、その生を天から与えられたままにまっとうしてほしいと願う言葉がつづられていた。愛おしい人には生き延びてもらいたいという思いが吉田の心を揺り動かし、その心に共鳴したかのように柏木孝雄の記憶が鮮やかによみがえった。
 前世での記憶を取り戻した吉田、言葉を交わすことのできる肉体をもった小夜子――
 ふたりで生きよう―そう持ちかけたのは小夜子だった。気付くとふたりはこっそり事務所を抜け出していた。そして3日間、気のむくままに漂い続けた。
「僕は小夜子さんを愛していたし、今も愛しています。でも、こんな形で、美月さんの体を借りたままで、一緒にいたいとはおもわない。美月さんには美月さんの人生があるわけで、それを奪ってまでだなんて……」
 吉田は躊躇し始めた。愛に夢中な小夜子に現実はみえない。一方、吉田健二という男として20年間を生きてきた吉田の前には現実が立ちはだかる。小夜子を愛していたが、目の前にいるのは、美月龍之介という人間だ。小夜子ではない。宮内小夜子は、60年以上も前に死んでいる。
 小夜子を、彼女がいるべき死の世界へ帰す――吉田は決心した。愛しい人の魂と再び別れなければならない悲しみに身も心も引き裂かれそうになりながら、吉田はスメラギに連絡を取った。
「彼女は…承知しているのか」
「説得します……」
 吉田はそういうと、「小夜子さんにあやしまれるといけないので…」と、そそくさと風呂をあがっていった。
 美月の体をのっとり、まるで生き返ったような感覚でいる小夜子が、たとえ恋人にさとされたからといって、恋人と一緒にいられる幸せを簡単に手放すだろうか――スメラギは吉田ほど楽観的にはなれなかった。
 情熱はときに執念に姿を変える。抑えのきかなくなった執念は……

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ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 8-3

 夜に取り残された星が、青白んできた空にわずかにかかっている。夜明け前の夏の浜辺は、夜の喧騒が滓(おり)となってただよい、どこかけだるい。朝露を含んだ砂は重くからみついて、吉田たちを追って浜辺を歩くスメラギの足取りをさらに遅くさせた。
 ほの暗い浜辺に、ふたりの姿は影としかみえない。頼りなさげな影は、時々ひとつに重なり合いながら、波打ち際をゆらゆらと漂っていた。
 朝もやの中にスメラギと死神の姿を発見した小夜子は、吉田の背にさっと身を隠した。その肩を抱き、そっとスメラギの前に押し出したのは、吉田だった。
「僕が知らせたんだ」
 小夜子は怪訝な顔をした。
「美月さんの体で一緒になっても幸せにはなれないよ。美月さんには美月さんの人生がある。人の人生をふみにじってまで幸せになろうとは、僕は思わない」
「美月さんが男だから? だから一緒にはなれないというの?」
「そうじゃなくて…」
「女の体にのりうつればいいわ。それならこんな風に人目を避けて行動することもないし」
「小夜子さんっ!」
 吉田は思わず声を荒げた。
「誰の体でも同じだよ。その人にはその人の人生がある。その人生を自分のものにしてしまうだなんて、まるで殺人じゃないか。そんなことをしても、幸せにはなれないだろう?……」
 強い口調に変わりはなかったが、吉田は一言一言をゆっくりと、はっきりと小夜子にその意味が伝わるようにと繰り出した。
 小夜子は、目を見開いてじっと吉田の目をみつめていた。瞳が右へ左へ揺れ、吉田の意図を必死に探ろうとしている。
 私を愛していないの? 私と一緒にいたくないというの? また別れ別れになるというのに平気だというの? 死んでもあなたのことが忘れられず、ずっと待っていたのに、やっと出会えたというのに! これからだというのに!!
 小夜子の無言の抵抗にも、吉田は屈しなかった。彼の決心が揺るがないものだと悟り、小夜子の頬を涙が伝ってこぼれ落ちた。
 泣き崩れる小夜子をしっかりとその胸に抱き、吉田は恋人との別れを惜しんだ。
 吉田に背中を押され、小夜子はスメラギの前に立った。
 朝日が水平線を割ろうかというそのとき、朝もやと見間違うかのような煙が美月の体からたちのぼった。その刹那、吉田の目が宮内小夜子の姿をとらえた。かつて愛した人の姿が、生きていた当時と変わらぬまま、そこにあった。小夜子の黒い大きな瞳がじっと吉田だけをみつめている。
 愛おしい人の姿は髪の毛一筋でさえも見逃すものかと、吉田は瞬きを忘れて小夜子に見入っていた。
「待ってますから! あなたが生まれ変わるのを待ってますから!」
 死神に腕をとられ、今にも連れていかれる小夜子は、かすかにうなずいた。
「待つだけ無駄だ。この女は生まれ変われない」
 死神の一言に、空気が凍りついた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 8-4

「それはどういう?」
「おいっ、死神っ!」
 スメラギが止めようとするのを無視し、死神は先を続けた。
「お前、何人も人間を殺しただろ」
 小夜子が柏木孝雄を待ち続けた場所 ― 都心の繁華街を走る幹線道路の交差点では事故が相次いでいた。犠牲者はすべて若い男性。小夜子とわかれわかれになった当時の柏木孝雄と同じぐらいの年齢、顔つきもどことなく似ていたのは、柏木の面影をしのばせていたからだろう。
 小夜子はただ、柏木孝雄を待っていただけだった。柏木孝雄と同じぐらいの年齢、背格好の男をみかけると、その姿を現してみせた。道路中央に立つ女を避けようと、男たちはハンドルを切り、あるものは交差点の角にある店に突っ込み、あるものは対向車線にはみ出し、それぞれに事故を起こして死んでいった。
「あれは、事故で…」
「理由は何でも、人間に危害を加えた霊は生まれ変われない。未来永劫、地獄ですごすことになる」
「未来永劫……」
 小夜子の様子がおかしい。
 ぞっとするような冷気がたったかとおもうと、小夜子の人の姿としての輪郭が、朝もやにとけこむかのようにぼやけていった。たちまち、あたりには吐き気をもよおすほどの異臭がただよいはじめ、空気が今度は熱をもちはじめた。
「わた…し、ワ、タシ…タカ、ダガ…オ……」
 吉田にむかってのばされたその腕の皮膚はただれ、ズルリ…と肉がそげおちた。美しかった髪は、糸を引くように抜け落ち、助けを求めた黒い瞳はたちまち眼窩に沈んだ。
「小夜子さんっ!」
 かけよろうとする吉田を、スメラギはその腕をつかんで引き止めた。
「スメラギさん! 小夜子さんはどうしたんです? 一体、何が起こってるんです?」
「…怨霊になっちまった…」
小夜子はもはや人の形を失っていた。そこには、他をかえりみることのない、愛するものへの執着と情念だけが、凝固した感情だけがあった。それは、おぞましいほどに醜く、そしてひどく美しかった。
「未来永劫、添イ遂ゲラレナイノナラ、モウ一度、コノ男ノ体にニノリウツルマデッ!」
 はげしい炎がたちまち、気を失って浜辺に横たわる美月めがけて走った。
「臨・兵・闘・者・皆、」
 鋭い光が空(くう)を裂いた、
「陣・列・在・前!」
 爪の先までそろえたスメラギの五本の指の鋭い刃先は、怨霊と化した小夜子を斬り裂いた。
 小夜子の断末魔の叫びに、スメラギは母の声を聞いた気がした。 
(ありがとう……)
 最後に見た母の姿は、もはや怨霊ではなく、生きていた頃と変わらぬ優しい微笑みを浮かべていた。スメラギの心が目を偽ってみせた錯覚だったのかもしれない。
 人に仇なす怨霊というが、苦しんでいたのは怨霊となった母自身だった。身の内から立ち上がる業火に焼き尽くされ続けながら、母はスメラギをいじめていた子たちに祟った。そして、呪われ、業火はさらに強まった。自らの尾をのんで空腹を満たす蛇のように、母は祟っては呪われ、苦しんだ。
すでにこの世のものではない母に、安息の死はおとずれない。地獄がその火を放った母を、救えるのはスメラギだけだった。
 スメラギは、怨霊となった母を永劫の苦しみから救うために、寂滅の法を用いて滅ぼした。
 小夜子もまた、消滅した。小夜子を消滅させたスメラギは、彼女を救ったことになるのだろうか……。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

渡せなかった手紙 エピローグ

 世界座最後の上映会に、スメラギと美月は招待された。
世界座最後の上映会はマスコミの取材をはじめとする大勢の人々でにぎわっていた。この半分でも映画館に通ってきてくれていれば、閉館せずに済んだかもしれない。
「美月さん、スメラギさん、来てくれたんですね!」
 会場に足を踏み入れたとたんに飛んできたのは、吉田だった。最後の上映とあって興奮した面持ちの吉田は、準備に追われての疲れはみえるものの、思いのほか、小夜子の件の影響はないようにみえた。
 美月を救うため、小夜子自身を救うためとはいえ、この世から小夜子の存在を消してしまったスメラギとしては、吉田に会うのは気がひけた。吉田にあわせる顔がないと、上映会への参加をためらっていたスメラギをせきたてて世界座へむかわせたのは美月だった。
「小夜子さんの供養だとおもって」
 それでもスメラギの心には一抹のわだかまりがあった。
 人間を傷つけた小夜子が生まれ変われないと知っていて、それなら地獄へ落ちる前に一目吉田に会わせてやろうとしたスメラギの親切心が裏目に出、小夜子はこの世から消滅してしまう破目になった。きっかけをつくったのもスメラギであれば、消滅させたのもスメラギである。
(供養、ねえ……)
 自分を滅ぼした相手に供養などしてはもらいたくないだろうが、美月に言わせれば、生きている人間は死者の平安を祈る義務があるとかで、小夜子を消滅させてしまった事情を言えないスメラギは美月にしぶしぶ上映会への参加を約束させられてしまった。
 上映開始まで、まだ少し時間があった。
 ロビーで開催されている回顧展をめぐりながら、人々は昔話に花を咲かせている。ほんの数週間前には、その人だかりのなかに(美月の体を借りた)小夜子の姿があった。吉田に、かつての恋人、柏木孝雄としての記憶を思い出してもらおうと必死だった小夜子は、今はこの世にない。
 暑さが引き潮のように立ち退き、朝夕にひぐらしが鳴き乱れ、秋が訪れようとしていた。小夜子のいない季節がめぐろうとしている――
会場に展示されている写真を説明する吉田は、とある写真の前で足を止めた。最後の上映作品は「舞踊会の手帖」、写真の世界座には「舞踊会の手帖」の看板が掲げられている。
「小夜子さんと初めて観た映画でした……。今日の上映会、本当は違う作品の予定だったけど、マネージャーに頼みこんで変えてもらったんです」
 小夜子との思い出の作品を最後の上映にかけたのは、吉田なりの過去への決別なのかもしれない。今夜の上映を最後に、彼は二度と「舞踊会の手帖」を観ないだろう。
「たった3日だけだったけど、小夜子さんと過ごせて、幸せでした」
写真に見入る吉田の目には、あの日、朝日がほんの刹那にみせたありし日の小夜子の姿がうつっているのだろう。
「スメラギさん、僕、前を向いて歩いていきます。映画監督になる夢、絶対かなえます。恋だってしようとおもいます」
「小夜子さんを忘れて?」
 美月の言葉に、吉田は首を横にふった。
「小夜子さんを忘れるなんて、できません。でも、小夜子さんとの思い出にしがみついているのも嫌なんです。僕 ― 生きたいんです。小夜子さんの分まで生きて、生きていることを楽しんでみたいんです。柏木孝雄としてじゃなく、吉田健二として」
 吉田の目に光る若さは、残酷なまでに強い生命力を宿していた。吉田のもつ若さの前に、小夜子の思い出はやがて朽ち果て、その生を支えるものとなっていくだろう。



 上映会へ足を運んでくれた礼を言うと吉田青年は映写室に去り、スメラギと美月は席についた。ブザーが鳴り、会場の明かりが落ちると、予告編が始まった。会場は満員御礼、メガネを外したスメラギには通路を埋め尽くさんばかりの霊たちが見えていた。その昔、世界座に親しんだファンたちだろう。
「小夜子さんも来たかったろうねえ」
「……」
 美月は小夜子がこの世から消えてしまったことを知らない。柏木孝雄が吉田健二に生まれ変わったように、小夜子もまた長い時を経て生まれ変わり、二人はやがては結ばれるのだと信じている。
「…なあ、お前、その、吉田とは何もなかっただろうなあ」
「何の話さ?」
「わかるだろ…その…なんだ…」
 世界座につくなり、吉田は美月のもとへ転がるように駆け寄ってきた。美月と顔をあわせると、吉田は顔を赤くした。招待状は美月宛に届き、ふたり連れ立っているというのに、呼びかけるときは「美月さん」と必ず美月が先だった。
「ああ」
 美月はやっとスメラギの言わんとしていることに気付いた。
「さあ?」
「“さあ”ってっ。婿にいけない体にしたら、お前のお袋さんに何て言って詫びたらいいんだか」
「スギさんだって知ってるだろ? 霊媒中の記憶はないってこと」
「そりゃそうだが…」
「あ、ほら、本編が始まる」

 ―了

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

あとがき

この作品は別名義で公開していたものをあらためてアップしたものです。

あとがきもその時に書いたものがあるのですが、こちらへ移動する前に削除してしまいましたので(バカです)あらためまして。

霊は存在するのかどうか。私にはわかりません。ただ、存在してくれていたらとは思います。昔の人もそうおもったのではないでしょうか。だから、お盆でこちらの世界へお迎えするだとか、送り火焚いてあの世へ帰ってもらうだとかいった習慣がうまれたような気がします。

亡くなったとしても、大切に思う人とはいつまでも一緒にいたいものです。たとえ姿形は違うものになったとしても。とはいえ、ちょっとはみてくれのいいものでいてほしい。。血みどろとかはやっぱりいや。。

霊に対する関心が強かったせいでしょう、ある時、霊の心残りを解消する男の出てくる夢をみました。スメラギはその夢がもとになった作品です。

今回読み返してみて、まだまだ至らぬところが多いと思った作品ですが、手を入れずにアップしました。

つたない作品ではありましたが、ここまで読んでいただきまして、ありがとうございました。

テーマ:オリジナル小説
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花嫁の父 あらすじ

致死率90パーセントの伝染病に果敢に立ち向かった槙原医師の心残りは、娘の花嫁姿をみることだった。娘・裕子には婚約者がいたが……。






テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

花嫁の父 プロローグ:槙原慎太郎の日記

5月8日
球里(きゅうり)熱の発生地域、F県N町入り。陸路はすでに封鎖されているため、自衛隊の輸送ヘリで空路現地に入る。
現地の様子は比較的落ち着いていて、予想されていたパニックもあまりないよう。物資も、今日スーパーを見て回った限りでは、日用品に関しては足りている。我々医療チームとともに輸送ヘリが運んだ物資でしばらくはもつか。野菜や肉、魚などの生鮮食料品などは、感染を恐れてか、店頭ではみかけなかった。

5月9日
治療開始。とはいえ、致死率が非常に高く、これといった治療法のない球里熱に治療も何もないのだが……。球里熱に感染すると、高熱を発症、体中の水分がなくなろうかというほどの嘔吐と下痢を繰り返すので、対処療法として、解熱剤投与、栄養剤の点滴のみ。あとは人間の体力にまかせるほかない。医者として、人間として、無力な自分が悔しい。

5月10日
N町での死亡患者数が3桁に。2月におそらく最初の球里熱感染者とおもわれる患者が死亡して以来、感染はおとろえるところをしらない。
戦後すぐに球里博士によって発見された球里熱は、ウイルスが原因とされる。感染力の非常に強い球里熱だが、空気感染はしないことが確認されている。患者の体液、排泄物に触れなければ感染しないのだが、巷ではいろいろな噂がささやかれているようだ。マスコミはきちんとした情報を伝えて欲しいものだ。

5月11日
死亡者数がN町人口の半数となる。死亡者のほとんどが60代以上のお年寄り。しかしなかには小学生の患者もいて、高熱にうなされているのに、何もしてやれないのは辛い。

5月13日
持ってきた医薬品がすべて盗難にあう。すぐに、薬品を送ってくれとの連絡をする。
犯人の見当はついている。激しく怒りを覚えるが、私が彼の立場であったなら、同じような行動に出たかもしれない。かわいい盛りの子どもがいたら、他人はどうでも自分の子どもだけは救いたいと思うだろう。かなしいかな、それが人間のエゴというものだ。

5月20日
医薬品いまだ届かず。死者は増える一方。このままでは、戦後のN県、H県と同じ状況、町ひとつがまるまる消えてなくなるということになりかねない。ここ一週間ばかり天候が悪く、陸路も空路も遮断されているとのことだが。本当に手段はないのか。国は我々を見捨てるつもりか。

5月23日
トラックにて陸路、薬が運ばれる。助かった!
ニュースで我々の状況を知り、トラックを走らせてきたのだそう。ここのところの激しい雨で、地盤がゆるんでいて、悪路だったのではないかと聞くと、それほどでもなかったと言う。金髪で、腕には彫り物(いまどきはタトゥーというのだそうだ)がある、いかにもな今どきの若者だが、人はみかけによらないもので、意外の気のいい青年だ。

5月25日
タッチャンから、私のことが話題になっていると聞く。
N町への医療チーム派遣が決まったとき、では誰が行くかという話になったのだが、致死率の高い球里熱の治療とあって、なかなか手をあげるものがいないなか、私は、若いものを行かせるよりは、と立候補したのだった。子どもたちはみな成人しているので、私に万が一のことがあったとしても困ることはないだろうとおもったのだが、その話がどこからか漏れたもので、マスコミは私を英雄視しているのだとか。こちらでは、テレビも新聞もみないようにしているので知らなかったのだが。
トラックの運転手をしているタッチャンは、その報道に影響されたらしい。自分には嫁も子どももいないから、死んでも困る人間はいないし、どうせ死ぬのなら人様の役にたって死にたいと、誰もが二の足を踏んだN町への物資輸送を敢行したのだとか。
年寄りの私は、あとのお勤めは死ぬだけだが、タッチャンのような若い者は生きて人の役に立つべきだ。薬を運んでくれたのはありがたいが、死んでも困る人間はいないからなどと考えるのはやめろと説教しておいた。

5月26日
朝から体がだるい。起きたときには微熱のようなものが、さきほどはかったら9度近くまではねあがっている。食欲がなく、倦怠感と疲労感、吐き気がひどい。

5月27日
熱40度。おそらく球里熱に感染。タッチャンが、トラックでN町から連れ出すと息巻いているが、おそらく難しいだろう。タッチャンが感染していないことを祈る。若者は生きなければならない。死ぬのは年寄りだけで沢山だ―

テーマ:オリジナル小説
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花嫁の父 1-1

 梅雨入り間近をおもわせる生ぬるい朝を、皇(すめらぎ)拓也と美月龍之介は富士見台総合病院でむかえた。
 ちょうど2時間前の午前6時、スメラギは美月からの電話でたたき起こされた。
「スギさん、大変だ、姉さんが病院に運ばれたっ!」
 感情の乱れなど滅多にみせない美月のいつになく慌てた様子に、スメラギはハリネズミのような白髪頭の寝グセもそのままに、富士見台総合病院にかけつけた。
「スギさんっ」
 手術室の前のひとだかりから、美月がスメラギのもとにかけよってきた。
 美月の姉、岡崎奈美子が病院に運ばれたとあって、美月の父親、奈美子の夫の岡崎と、男ばかりがそろって手術室の前を行ったり来たりしている。
「姉さん、死んだりしないよな?」
 スメラギは素早くあたりを見回した。手術室に来る途中でもさっと目を走らせたが、死神の姿はなかった。
「死にやしないわよ。ちょっとお産の予定が狂っただけ」
 死んだはずの美月の母親がスメラギに話しかけた。
 霊感体質に生まれついたスメラギにだけ、美月の母親の姿がみえ、声が聞こえた。
「あっと、お前のお袋さんが、おたおたすんなって言ってんぜ」
 正確には、美月の母親は、「男なんてこんな時何の役にもたたない」と言ったのだが、スメラギは言葉を濁した。
 妊娠9か月の奈美子は、突然の破水により、急きょ病院へ運ばれた。予定日までまだ日があったが、妊婦の状態から医者は帝王切開に踏み切った。美月の母親が言うように、お産の予定が少し早まっただけなのだが、結婚もしていなければ身近に妊婦のいたことのない美月は、手術と聞いただけで慌てて、幼なじみのスメラギを呼び出してしまっていた。
「母さんが来てるのか! じゃあ、安心だ」
 美月は、糸引く長いため息をついて、やっと笑顔をみせた。
 2時間にわたる手術の後、奈美子は無事、長女を出産した。
「お前もとうとう“おじさん”ってか」
 あくびをかみ殺しながら、スメラギは病院を後にした。
 病院の廊下を歩く人々がスメラギと美月をふりかえる。ふたりとも長身なうえ、人より抜きん出たスメラギの頭は見事な白髪だ。生まれながらの白髪だが、他人からみれば、今時の若者が銀髪に染めているとしかうつらず、そのうえ紫色の丸メガネをかけていて、スメラギはその見た目だけで、どこにいても目だってしまう。
「おじさん、ねえ。実感がわかないけどなあ」
 病院の玄関を出た先の車寄せに、人だかりがあった。ところどころにテレビカメラがみえ、マイクを手にしたリポーターが目立っている。
「なんだー?」
 スメラギが足をとめると、美月もとまってリポーターの群れに目をむけた。
「ああ、今日記者会見をやるとか何とか言ってたから」
「記者会見?」
「ここの病院の医者が亡くなったんだよ。それで―」
「医者だって死ぬだろ? そんなことでいちいち記者会見なんてすんのか?」
「球里(きゅうり)熱と闘ったヒーローだからだよ。何だい、スギさん、何も知らないんだな」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

花嫁の父 1-2

 2月なかば、東北のM県の病院にひとりの患者がかつぎこまれた。40度を超える高熱を発症し、救急車で運び込まれたときにはすでに意識は混濁していた。何より人々を驚愕させたのがその外見だった。患者の体は水風船のように膨れあがり、その表面は体から漏れ出た体液でぬらぬらとしている。目は眼窩に落ちくぼみ、鼻はこそげてもはや二つ穴を残すのみ、手足の指はひとつに溶けあって、もはや人の形をとどめていなかった。
 その患者、男性27歳は病院に搬送された直後に死亡、2日後には同様の患者、こちらは女性55歳が同じ症状で同病院に運びこまれ、やはり死亡した。2人の患者の死亡直後に行われた解剖から、死因は、戦後直後、N県とH県の村々を壊滅させたウイルス性伝染病、球里(きゅうり)熱と判明。2人を収容した病院はもちろん、M県全体はおろか、日本中が感染の恐怖におびえるなか、感染源探しが始まった。
 原因となるウイルスを特定した博士の名をとって球里熱と名づけられたこの病気は、致死率が非常に高く、これといった治療法もまだない。初期症状は風邪に似ているが、やがて40度を超える高熱を発し、下痢と嘔吐を繰り返す。ウイルスが体中のあらゆる細胞を破壊し続けるため、患者の体は体液で膨れ上がり、やがてその機能を破壊され、死亡する。
 感染力が非常に強いため、N県、H県では村そのものが消滅したが、不思議なことに空気感染はしない。感染地域はN県、H県の限られた場所に留まり、いくつかの村では数名の生存者も確認されている。とどまるところを知らないかのようにおもわれた球里熱の猛威だが、ある日を境に次第に収束にむかった。罹患患者の回復が相次ぎ、新たに感染するものはいなくなった。まるで風にさらわれたかのようにある日突然ウイルスが姿を消したのだった。
 日本で初めて球里熱の発症が認められてから半世紀以上経っての再発、初めて確認されたN県、H県から地理的にも遠いM県での発生。最初の患者2人は、N県、H県どちらにも住んだことはおろか旅行で訪れたことすらなく、感染源の特定は困難を極めた。唯一、2人に共通していたのが、M県近隣のF県の温泉地へ同じ時期に旅行したことがあったぐらいだった。
 すぐに該当する温泉地が調査され、新たな死者と患者が発見された。
 治療法もなく、致死率が高く感染力の非常に強い球里熱が相手では、とにかく感染を未然に防ぐほか手はない。他への感染を防ぐという目的で、F県下の一部地域はただちに封鎖された。封鎖された地域での医療支援にむかったのが、富士見台総合病院の医者、槙原慎太郎だった。
 槙原は、自分は成人した子どものある身でもう若くはないから、と医療チームへの参加を志願した。
 マスコミはたちまち槙原の態度を讃え、死をも厭わない立派な医者だと、槙原を英雄にまつりあげた。球里熱は空気感染はしないのだから、患者の体液や排泄物に触れないなどの適切な処置を行っていれば感染しないと言い、槙原は現地へむかった。

「感染の危険を顧みずに患者の治療にあたるヒーロー、マスコミはそう言って騒いでいるんだ。毎日テレビやニュースで話題になってるのに、スギさん、何も知らないんだな」
 美月は事情をかいつまんで語った。
「騒いでいるのって、そのおっさんが死んじまったからだろ」
「あれ、知ってた?」
「そのおっさんなら、いま俺の目の前にいる」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

花嫁の父 1-3

 4階建てのおんぼろビルの最上階が、スメラギが所長兼事務員兼調査員兼…要するにひとりでやっているスメラギ探偵事務所のオフィスだ。
 仕事は、迷い猫探し、浮気調査、その他何でも引き受けるというのがスタンスで、探偵というよりは便利な何でも屋といったところだ。
 というのは表向きの顔で、スメラギの本業は、この世にとどまり続ける霊の心残りを本人(霊)にかわって解消、霊にあの世へ気持ちよく逝ってもらおうというものである。
 依頼人、槙原慎太郎は、事務所のテレビをくいいるように見つめていた。
 時代がかった箱型テレビのうつりは悪く、ときどき画面中央を稲妻のような光が横に走っていく。画面はちょうど、槙原が勤務していた富士見台総合病院の院長と、槙原の家族らしい喪服姿の3人の女性が記者会見を行っているところだった。
「いまどきは薄型テレビだろうに」
 うつりの悪いテレビに槙原は文句を言い、テレビの横っ面を叩いた。だが、槙原の手はテレビ本体を触れるだけで、するはずのパチンと乾いた音はしない。実体のない霊にたたかれてもテレビはびくともせず、スメラギの目にはサイレント映画の一場面のような光景がうつっていた。
「薄いと叩きにくいだろ」
 スメラギが二、三度叩くと、箱型テレビは息を吹き返した。
「これ、うちの奥さんと娘2人。上が29で、下が24。親がいうのも何だが、美人だろう」
「あんたに似なくてよかったな」
 3人並んだ女性はそれぞれの年代での美しさをたたえていた。槙原の妻、好江は皺すらも美しい紋様をおもわせる60代の落ち着きが、長女の裕子は29歳というわりには老けて見えるのはしっかりものの長女らしい。妹の典子は、髪を明るい色に染め、甘ったるい印象で、年より若くみえる。年こそちがうものの、彼女たちの表情は、夫や父親を喪った悲しみに曇っていた。
「私はヒーローなんかではないのだが……」
 テレビの向こうでは、記者の質問にこたえる形で、院長が、槙原が志願したときの様子を語り、その人柄をたたえていた。
「私は医者としての務めをまっとうしただけなのだ。タッチャンのような人物を、本当のヒーローというのだよ」
「タッチャン?」
「トラックの運転手だ。封鎖されたN町へ、悪路、トラックを運転して薬を運んでくれたんだ。彼のおかげで助かった人間が何人いることか。マスコミはきちんとその事実を伝えてほしいものだよ。球里熱は確かに感染率が高く、致死率も高い。だが、高いというだけで、必ず死ぬとは限らないのだ。タッチャンのおかげで死なないですんだ人間がいる。彼こそがヒーローなのだ」
 記者の質問は、槙原の妻、そして2人の娘にむけられた。槙原の妻にかわって長女の裕子が、父親を誇りに思うという優等生な回答をしていた。
「で、あんたの心残りってのは何だい?」
「心残り?」
「あんた、この世に未練があるから成仏できないでいるんだろ?」
「…やっぱり、死んだのか…。医者として死がどういうのものか知りたかったが、実際死んでみると何てことはない、生きているのと変わらないんだが。何より、君とこうやって話をしているんだし」
「俺は霊が見える特異体質だからな」
 霊視防止用にかけている紫水晶のメガネをはずしたスメラギには、灰色の髪を豊かにたたえた槙原の姿が見えている。眉間と額には深い皺が刻まれ、きりっと結ばれたへの字の口元だが、小さな瞳は柔らかく微笑んでいる。その目元が少し長女に似ていた。次女はどうやら少しあぐらをかき気味の鼻を父親から受け渡されたようだ。
「医療チームの参加を決めたときから、もしかしたらと覚悟していたつもりだったんだがねえ。やりたいことは全部やったつもりだったし、やり残したこともない。そうおもっていたんだが……」
 槙原の視線は、画面に映った長女、裕子に向けられていた。
「裕子の花嫁姿を見損なったなあ……」

テーマ:オリジナル小説
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花嫁の父 2-1

 死神との交渉は簡単にはいかなかった。
 人間は死ぬと生前の行いに応じて、天上界行き、地獄落ち、人間界への生まれ変わりのいずれかが決定する。不満があれば、死後49日の間であれば閻魔王に訴えでることができる。
 死んだばかりの人間の心残りはたいていこの49日の間に解消できる。地獄を逃げ出したり、死神の手を49日以上にわたって逃れ続けているものは、どのみち49日の期限は関係ない。
 死んだばかりの槙原は、49日以内に閻魔王に引き渡さなければならない。ということは49日以内に彼の心残りを解消しなければならないのだが、問題は「娘の花嫁姿をみたい」というその心残りそのものだった。49日以内に、槙原の長女、裕子を結婚させることは不可能だ。スメラギは死神に、槙原を引き渡す時間を延長してもらえないかと話をもちかけた。
 だが、死神は一週間と期限を決めた。
「一週間?! 一週間で花嫁姿をみせられるわけねえだろーが」
「一週間でも多すぎるぐらいだ。花嫁姿なんか、1日もあれば十分みせてやれるだろう」
「あのなあ、『花嫁姿が見たい』ってのは、もののたとえで、実際の意味は、娘が結婚するところを見届けたいってことなんだよ」
「意味がわからない。さっさと娘にドレスでも白無垢でも着せてしまえ」
 黒いスーツ姿に黒いネクタイと、見かけは葬儀屋のような死神だが、豊かな情感をもたない彼はしょせん人を模っただけのものでしかない。言葉を額面どおりにしか受け取れない死神に、「花嫁姿をみたい」という言い方で槙原の心残りを伝えたのはまずかった。
「ああ、もうさぁ……」
 スメラギは天井を見上げた。閻魔王庁、閻魔王室の天井は真紅に塗り込められ、豪勢なシャンデリアが垂れ下がっている。水晶のシャンデリアに映りこんでいる金髪の美女こそが、泣く子も黙る閻魔王こと夜摩だった。
人間の皮をなめして生血で染め抜いたボディースーツに豊満な体を包み、黒革のソファーに深く腰掛け、さっきから手元に気を取られている。真っ赤に染まった長い爪に弄ばれているのは、人間界でもなかなか手に入らない人気のスマートフォンだった。
「ほな、1年でどや」
 ゲームにでも夢中になってスメラギと死神のやりとりなど聞いていないだろうとおもわれた夜摩が口を開いた。口は開いたが、視線は手元にむけられたまま、よほど楽しいのか、滴る血の色の唇にぞっとする微笑を浮かべている。
「まあ、時間かけたとこで、結婚させられるゆうもンでもないやろけどな」
「一週間よりはマシだろ」
 一週間では少なすぎる、かといって、今回の依頼解決にどれだけの時間がかかるのかまったく見当がつかないスメラギだが、1年もあればどうにかなるとほっと胸をなでおろした。それにしても一週間が1年になるとは、さすが地獄の閻魔王の夜摩だけに、時間間隔が人間とは異なりすぎている。死神をみると、特に異論はないようだった。もっとも、表情のない死神の顔から、彼の真意を探るのは不可能ではあったが。
「ほな、1年ってことで。篁にも連絡しとかんとな」
 と、夜摩はスマートフォンで篁に電話をかけた。人間の生前の業や死後の行き先など、ありとあらゆる情報はいまやデータ管理されている。その管理責任者が篁という男だった。
 わざわざ電話しなくてもメールで連絡してくれたらいいじゃないですか、とでも篁に言われたのか、夜摩は「ええやん。せっかく買うたンやし、使こうてみたいンや」と、見事なプロポーションの腰をくねらせて甘えた声を出している。ふるいつきたくなるほどの美女だが、豊かな胸はとある女の罪人から切り取ったもので、女装は夜摩の趣味だった。
 槙原慎太郎の魂回収期限を1年に引き延ばすように告げている夜摩を背に、スメラギは閻魔王執務室を後にしようとした。
 すると、野太い声がスメラギを追いかけた。
「49日以上かかったら、金もらうで」
「はあ? お前、さっき1年延長するって言ったじゃねえかよ」
「タダとは言うてないで。49日の間やったら、規則期限内やさかいタダやけど、49日過ぎたら金払ってもらわンと。地獄の沙汰は金次第や」
「鬼ぃ!」
「鬼違います、閻魔王や。ほな、そういうことで、49日過ぎたら1千万な」
「1千万?! そんな大金払えるわけねーだろ?! 俺のどこにそんな金があるってんだよっ!」
 表家業の探偵とは名ばかりの便利屋の稼ぎでは生活していくのでせいいっぱいだった。知り合いの不動産屋からタダ同然で借りているとはいえ、事務所とアパートの家賃を払ってしまえば、1日わずか1食、それもコンビニのもので食いつないでいくほどの金額しか残らない。電気やガス、めったにとめられないという水道までとめられたこともある。そんなスメラギに貯金などあるわけもなく、1千万という大金はどうやっても払えない。
「49日以内に依頼を片付けたらエエだけの話やン」
 長い舌を出して唇を舐めたかとおもうと、夜摩はニヤリと笑ってみせた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

花嫁の父 2-2

 降りしきる細かい雨に、美月が禰宜を務める富士野宮神社の境内の紫陽花は、ほんのりと色づきはじめていた。
「よく降るなあ」とひとりごち、美月は社務所の窓を閉めた。

「あーなんも浮かばねー」
 働かない脳みそを活性化させるかのように、スメラギは白髪頭を両手で掻いたかとおもうと、畳の上に体を投げ出して見せた。
槙原慎太郎の依頼は、娘、裕子の花嫁姿をみること。期限は、槙原の死後から数えて49日以内。槙原はすでに死後1週間以上を霊として過ごしているので、スメラギに与えられた時間は1か月あまり。1か月で、どうやって裕子を結婚させるのか、スメラギは頭を悩ませていた。1か月以内に裕子を結婚させ、槙原のこの世での心残りである「娘の花嫁姿をひとめ見る」を解消、槙原をあの世へ送り届けないと、スメラギは1千万を閻魔王こと夜摩に支払わなければならないはめになる。
 1千万払って1年期限を延長するか……。
 裕子には恋人がいる。1年何もせず、黙ってふたりを見守り、結婚するのを待つか……。
だが、金を払って時間を買ったところで、裕子が必ず1年以内に結婚するとは限らない。時間を買うにしろ買わないにしろ、スメラギが動いて、裕子を結婚させなければならない。
 すっかり頭を抱えてしまったスメラギは美月に相談を持ちかけた。
「要は花嫁姿を見せればいいんだよね?」
 と、美月までが死神と同じようなことを言い出した。
「娘さんと彼氏に頼んで、結婚式の真似事をしてもらったら?」
「何て言って、ふたりに結婚式の真似事をしてもらうんだよ? 死んだあんたの親父がひとめあんたの花嫁姿をみたいと言ってるから、ってか」
「ブライダルフェアとか、模擬結婚式ですとか何とか、ごまかしてさ」
「うーん……」
 スメラギは黙り込んでしまった。
 花嫁衣裳を着せてしまえと言った死神を笑えない。あの手この手で、裕子と恋人に結婚式の真似事をしてもらったとしても、結局は真似事でしかなく、それで果たして槙原の依頼を解決したことになるのか。槙原が本当にみたいと望んでいるのは、幸せな娘の笑顔なのではないのか。
「やっぱり、裕子さんには正直に打ち明けて、協力してもらうしかないんじゃないのかなあ……」
「信じるとおもうか?」
「お父さんに、僕にのってもらって、直接話してもらえば?」
 スメラギの幼なじみ、美月龍之介は霊媒体質に生まれついた。左手首の水晶の数珠をはずせば、たちまち霊たちにその体をのっとられる。肉体をもたない霊たちの現実的な心残り、たとえば人と話をしたいといった願いを叶えるときには、スメラギは美月の霊媒体質を利用させてもらうことがあった。
「俺が直接話すにしろ、親父さんがのっかったお前が話すにしろ、本人が霊の存在を信じていなかったら、『なんだ、こいつ』で終わる話だろ。まあ、お前は女受けがいいから、話に付き合ってくれるだろうけど」
 白髪に目つきの鋭いスメラギよりは、仏の美月と言われるほど微笑みのたえない美月の方が、あやしげな話でも聞いてもらえる確率は高いだろう。
(そうか、そういう手も、あるか……)
 美月の顔をしげしげとみつめるスメラギにはある考えが浮かんだ。
美月は女にもてる。中学以来、スメラギが知る限り、女が絶えていなかったことがない。長身で、優しげなまなざしはどちらかといえば女顔なのだが、ほどよい肉付きのおかげでひ弱な印象がない。神社の跡取り息子ながら、その笑顔から仏の美月と言われるほど、性格は穏やかで、感情を荒げたところをみたことがない。これで女にもてないはずがない。
 美月に裕子を誘惑してもらい、彼女の恋人に危機感をもたせ、一気に結婚に結びつける。スメラギの頭には、安っぽい恋愛ストーリーのシナリオが浮かんでいた。
 スメラギはあらためて幼なじみの顔をみつめた。
 顔立ちのよさはいうまでもなく、人当たりもいい美月なら、その気になれば女のひとりふたりを誘惑するのは簡単そうだ。
 だが、裕子が本気で美月を好きになってしまったら、どうしようか……。スメラギが思いついた妙案を口に出せない理由はそこにあった。
 まさか、依頼人のために、好きでもない人間と結婚してくれとまでは、さすがにスメラギも言い出せない。考えすぎだともおもうが、美月のもてっぷりを知っているだけに、ありえない話でもない。
(ナシだな)
 スメラギは美月をおとりとする作戦をそっと自分の胸のうちにしまった。
「この人に乗りうつれば、生きている人間と話ができるのか?」
 それまでおとなしく2人の話を聞いているだけだった槙原が口をきいた。スメラギは美月の霊媒体質について簡単に説明した。ひとりでしゃべり始めたスメラギに、美月は不思議そうな顔をした。
「おっさんが、お前にのれば人と話ができるのかってきくから説明してやってんだ」
「娘さんと直接話したいって?」
「おい、おっさん」
 と、スメラギが口をひらきかけたのを、槙原がさえぎった。
「娘の恋人と話がしたい」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

花嫁の父 2-3

 娘、裕子には付き合って10年の、水島隆也という恋人がいた。裕子は29歳、水島は35歳と、いつ結婚してもおかしくない年頃だが、水島はいつまでたっても挨拶にこない。
 今時の若い人間はそんなものかと思っていたが、女を待たせるのは男としていかがなものかと思う、まして娘をもつ父親ならなおさらだ。結婚するならする、しないならしないで、別れるなり何なり、男が決めるべきだ。何をぐずぐずしているのだと、槙原は生きていたときから、水島とは一度じっくり話がしたいとおもっていた。
 裕子は、アイドルのような媚びた可愛らしさはないが、春の野に咲くレンゲのように、あふれんばかりの生命力そのものが美しい娘だ。母親がのんびりしている分、しっかりしたところがあって、多少気も言葉も強いところがあるが、それも若さゆえとおもえばいい。我が娘ながらいい女なのだ。結婚をためらわれるようなところはないはずだ―

 水島隆也は、都内の病院に内科医として勤務している。美月の体を借りた槙原は、患者のふりをして水島に近づくことを計画した。
「美月さーん、美月龍之介さーん」
 待たされること数時間、ようやく美月の名前が呼ばれたが、槙原は待合室のソファーに腰掛けたまま、動こうとしない。死んだ身で、体は美月のものを借りているという自覚がないらしく、「槙原」という名前が呼ばれるものだと思い込んでいるようだ。
「おい、おっさん」
付き添いのスメラギに肘をつかれ、「お、そうか」と、槙原の霊の乗りうつった美月の体は診察室へとむかった。

「今日はどうしましたか?」
 回転椅子をくるりと90度回転させ、水島は槙原に向き合う格好になった。消毒薬のにおいが鼻をつく。医者のにおいだ。自分では気付かなかったが、娘たちがお父さんのにおいだという、白衣の下にまでしみついた医者の体臭が、水島からもたちのぼる。
 小柄だが、学生時代にスポーツをやっていたとかで、がっしりとした体格の持ち主の水島は、一目見たら忘れられない立派な眉の持ち主だった。毛虫でも張り付いているのかとおもわれる太い眉で、おせじにもいい男とはいえない顔立ちだが、愛嬌があってどこか憎めない。
「槙原裕子という女性をご存知ですね」
「え? ええ、槙原さんなら知人ですが」
 患者ではないのかと、水島は太い眉をしかめ、腕時計に目をやった。すでに昼近くだというのに、診察室の外ではまだ多くの患者が待っている。
「あの、患者さんでないのでしたら…」
「裕子のことで話がある」
「どなたか存知あげませんが、そういうことはここでは…」
「あんた、水島さん、裕子と付き合っているんだろう。もう10年だ。10年も付き合っていれば、結婚の話があったっていいはずだ。それなのに裕子はいまだに独身、年だって30近い。
 このまま、ずるずると付き合っていくつもりかね。女にとってそれは残酷なのじゃないかな。結婚するつもりがないなら、いっそ別れてやったほうが、男として潔くはないかね?」
 水島は何も言い返せずに、美月の顔を穴のあくほど見つめていた。どこか仏像を彷彿とさせる穏やかで端正な顔立ちだというのに、繰り出される言葉は時々毒を含んで、いちいち水島の勘にさわった。
「あなたこそ、何だっていうんです。裕子とどういう関係なんです? いきなり病院まできて、何を言い出すかとおもったら。結婚、結婚って。見ず知らずのあなたに何でそんなことを言われなくちゃならないんです?」
 診察室であることも忘れ、水島はおもわず声を荒げた。看護師が何ごとかと顔をのぞかせ、水島ははっとして声をおとした。
「裕子さんとは確かにお付き合いさせてもらってます。お付き合いのことは…僕なりにきちんと考えてもいるんです。ただ、結婚とかそういうことは、他人のあなたには関係のないことだ。えっと…」
 水島は問診票をさぐって、珍客の名前を探した。
「美月さん、でしたね。ここは病院です。患者でないのなら出ていってもらえませんか。他の患者さんが待っていますので」
 美月は、いや槙原は黙って診察室を出た。
 診察室を出てきた美月のしてやったりの笑顔に、スメラギは、花嫁の父となる予感に興奮隠しきれないでいる槙原の笑顔をみた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

花嫁の父 2-4

 「プロポーズの言葉って何だろな、やっぱ、『味噌汁作ってくれ』とかか?」
「いつの時代の話だよ、それ。そんなこと言おうものなら、『私は家政婦じゃない』って言われて断られるよ」
 スメラギと美月は事務所の近所の焼き鳥屋で一足早い祝杯をあげていた。
美月の体を借りた槙原の霊が、娘、裕子をどうするつもりかと怒鳴り込んでから一週間後の今夜、裕子の恋人である水島は、裕子を食事に誘った。誕生日でも何でもない日に夜景の美しい展望レストランを予約したとあって、水島はいよいよプロポーズをするのだとスメラギたちは浮き足だち、自分たちは焼酎で一杯やることにした。
「じゃあ、お前なら何てプロポーズすんだよ」
「何も。結婚しないつもりだから」
「あー? んだとぉー? ま、オメーはモテるから結婚しねーほうがいいかもな。浮気ばっかで、女も気が楽じゃねえだろーし」
 スメラギは早くも酔いがまわってきたようで、目の周りがほんのり赤らんでいる。酒の強い美月は白い顔で淡々と焼酎を飲み続けている。
「で、おっさんは何て言ったんだ?」
 スメラギはカウンター席の隣に座っている槙原に尋ねた。誰もいないはずの場所にむかって話しかけるスメラギを客が不思議そうな目で見たが、すかさず美月が「酔ってるんで」と言ってごまかした。
「私? 私らは見合いだったから、プロポーズも何も、結婚するのが前提の付き合いでね。お互い気に入ってそれなりに時間が経てば、結婚するのが当然だったからねえ」
「でもさ、なんか言っただろ?」
「何を?」
「だからさ、プロポーズ。結婚してくれとか、しましょうとか」
「言った、かなあ……覚えてないねえ」
 照れ隠しに、槙原は灰色の頭を掻いてみせた。
 娘は今頃どんな顔で、水島のプロポーズを受けているのか。槙原は、結婚の意志を伝えた時の妻、好江を思い出していた。好江は「はい」と語尾が聞き取れないようなか細い声で答え、小さくうなずいたのだった。もう30年も前のことだ。
「何だよ、スギさん。やけにプロポーズにこだわるんだな。結婚したい相手でもいるのかい?」
「“いた”が正しいな。あれだよ、家に帰ったら飯が出てきて、風呂が沸いてて、服は洗濯してあるは、布団は干してあるは、ってサイコーじゃね?」
「だからさ、それじゃ奥さんじゃなくて、家政婦扱いじゃないか」
 スメラギが寝起きするアパートの六畳一間は菌類の天国となっていそうな万年床が占領、冷蔵庫には飲み物ぐらいしかなく、食事はコンビニかインスタント、よくて近くの食堂といった具合で、美月の母親が生きていたころは何かと手料理を持っていかされたものだった。
 スメラギの母親は、スメラギが11歳の時に亡くなった。以来、離婚した父に引き取られての男だけの生活で、二十歳のときに父親はスメラギを置いて家を出て行ってしまった。
今のアパートをみつけるまで、スメラギは一時美月の家に居候していた。その頃には美月の母もまだ生きており、朝昼晩、あたたかいものはあたたかいままで、冷たいものは冷やされた手料理が食卓にのぼったものだった。おもえば、スメラギが家庭らしい場にいたのはあの一時だけだったのかもしれない。
 それにしても、結婚したいと思った相手が“いた”とは何だ。
 美月は、すっかり酔っ払って横にいるのであろう槙原相手にくだを巻いているスメラギの真っ赤な横顔をみつめた。
 中学時代、スメラギが2つ年上の先輩と付き合っていたことは美月も知っている。実は彼女は美月が好きで、美月と仲のいいスメラギを利用していたというお粗末な結末が待っていて、少しの間、スメラギと美月は気まずかったのだが、あれ以来、美月はスメラギが誰かと付き合っているだとかそういう浮いた話を聞かない。
 もともと、その手の話は2人の間であまり交わされず、スメラギは絶対に自分の女性関係については語らないのに、美月の派手な女性関係については、どこからか情報を仕入れては、美月をからかった。
「味噌汁ぐらい、僕が作ってやる。その調子じゃ、スギさん、明日は味噌汁がいるだろうから! 知ってるか、味噌汁は二日酔いに効くんだ。えっと、たしか、シジミの味噌汁だったっけか?」
 自分も酔ってきたと、美月は回らなくなってきた頭で考えていた。

 ― 酔っ払ったスメラギを脇にかかえ、美月がアパート近くのコンビニでシジミのインスタント味噌汁をさがしていたその頃、水島と裕子の間には一波乱がわき起こっていた―

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

花嫁の父 3-1

 突然、診察室におしかけてきた見知らぬ青年に言われるまでもなく、水島隆也は槙原裕子との結婚を真剣に考えていた。
 裕子が女子大に通う学生の時に、知人を通して知り合ってから10年、裕子は29歳、水島は35歳になった。初対面の印象は、可憐な人だなあというものだった。薄化粧の下の肌は頬紅をささなくても赤味を帯び、はつらつとして生命力にあふれていた。それから10年、風に静かにそよぐだけだった花は、今が盛りと咲き誇る。
 4年前、結婚をほのめかすような裕子の態度に、当時身を固める覚悟ができていなかった水島は、別れを決意した。だが、はっきりと別れたわけでもなく、2か月ほど疎遠になっただけで、結局また元の鞘に戻り、以来、だらだらとした付き合いが続いていた。
 病院の勤めが決まり、自分の行く道が見えてきたところで、ようやく結婚しようかという気になった。その気になってみて、はじめて水島は自分の気持ちに気付いた。初めて会った日から、心のどこかで人生を共にする女性は裕子のような女性がいいとおもっていた。華やかな人に心奪われたことは否定しない。だが、地味な1日を重ねていく生活をともにするのは、平凡な裕子のような女性がいい。
にも関わらず、結婚が遅れたのは順番にこだわったからだった。生活基盤を築いてからでないと結婚してはいけないような思いにとらわれ、そんな男としてのプライドを裕子に打ち明けられるはずもなく、気持ちがすれ違った時期もある。
結婚しようと決めたその日のうちに、水島は指輪を買った。クリスマスに渡そうとしたが、水島の都合で当日のデートはキャンセルになり、指輪は渡しそびれ、当然プロポーズもし損ねてしまった。
 7月の裕子の誕生日にでもと思っていた矢先、父親の槙原のF県行き、そして死去という不幸が重なってしまった。次のクリスマスを待つか、と思っていたところに、あの青年が現れた。
 年は23、4ぐらいだろうか。水島より年下なのは間違いなく、裕子よりも若いだろう。目鼻立ちの整った好青年で、モデルでもできそうな背の高い男だった。裕子の知り合いらしい口のきき方をして、水島は裕子と青年の関係を疑問に思った。
 青年は、裕子をどうするつもりだと迫った。自問してきたことを他人の口から聞かされ、正直腹がたった。と同時に、まるで裕子の父親にでも説教されたかのような気分にもなった。
 もし槙原が生きていたら、同じことを言っただろうと水島は思った。槙原は行動力の人だった。10年も付き合っておきながら結婚するのかしないのか、はっきりしない娘の恋人―自分が槙原の立場だったら、職場でもどこへでも怒鳴り込んでいくかもしれない。青年は裕子の身内か、ひょっとしたら裕子に頼まれたのかもしれない。だが、そんなことは水島にはどうでもよかった。気持ちは半年以上前に固まっている。水島はプロポーズを決心した。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

花嫁の父 3-2

 金曜日の夜とあって、夜景が美しいと評判の展望レストランはカップルで混みあっていた。約束の時間は7時。待ち合わせにはいつも時間通りに来る裕子より先にレストランに到着した水島は、席に案内されるなり、水を注文した。
 やがて運ばれてきたグラスの水をあおると、やっと人心地ついた気がした。裕子に会う前からこんなに緊張していてどうすると、水島は自分を叱りつけた。
プロポーズはデザートの後にする予定だ。何かしゃれたセリフでも言ったほうがいいのだろうかとも思ったが、結局、ストレートに“結婚したい”という意志を伝えることに決めた。
水島はジャケットの内ポケットをさぐって、指輪の存在を確かめた。腕時計をみると7時を少しまわったところだった。顔をあげると、案内されてくる裕子と目があった。萌黄色のワンピースに白いカーディガンを羽織っていた。派手さはないが、楚々とした美しい裕子の姿に、水島は照れてしまって思わず顔を背けてしまった。
前菜もメインも、何を食べても水島は味わってなどいなかった。意識はデザート後のプロポーズに集中していて、やたらとワインを飲み、裕子に飲みすぎるなと注意される始末だった。
 誕生日でもないのにレストランで食事をしようと誘ったのだから、何か勘付いていやしないだろうかと、水島は裕子の顔色を伺うが、裕子はいつものデートと変わらず、食事や窓からの美しい夜景を楽しんでいた。食事の間、裕子はしゃべり続け、水島は上の空で裕子のおしゃべりを聞き、ワイン片手に相槌を打つばかりだった。
 デザートのコーヒーが運ばれ、水島の緊張は頂点に達した。手をつけないままに冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干してしまうと、一瞬、裕子のおしゃべりが止まって不思議な間が空いた。すかさず、水島はポケットから指輪を取り出した。
「結婚しよう」
 言葉は息をするようにすんなりと吐き出せた。店内の薄暗い照明のせいで裕子の表情はよくみてとれない。その美しい瞳がキャンドルの明かりに照らされて煌いていた。
「ごめんなさい、私、隆也さんとは結婚できません」
 と言ったなり、裕子は席を立ち、水島を残してその場を走り去った。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

花嫁の父 3-3

 裕子はレストランのトイレに駆け込み、個室のドアを勢いよく閉めた。とたんに吐き気がたまらずこみ上げてきて、食べたものをすべて吐き出してしまっていた。
 せっかくのディナーだったが、はじめから味わってなどいなかったし、食べた気もしていなかった。
 誕生日でも何でもないのに、いきなりレストランで食事をしようと誘われた時から、裕子はプロポーズされるのだと勘付いていた。
 行ってみれば、水島はそわそわと落ち着きがなく、いつもはあまり飲まないようにしているワインにやたらと口をつける。相槌を打って裕子の話を聞いているようで、聞いてはいなかった。裕子は、水島はプロポーズをする気なのだと確信した。
 水島とは付き合って10年、学生時代にサークル仲間を通して、当時医大生だった水島と知り合い、はじめのうちは紹介してくれた知人をまじえての友人としての付き合いが、いつの間にか恋人同士になっていた。
 水島は派手な人間ではなかった。見た目も、裕子が作り物みたいねとからかう太い眉のせいもあって、今時のイイ男というわけではない。勉強が忙しいということもあってか、あまり遊び歩かず、裕子としては物足りなく感じることもなくはなかったが、何より一緒にいて安心するし、物事に対する価値観が一致した。好きなものはそれぞれ別にあるが、嫌いなものや事柄が共通していた。
 疎遠になった時期もあったにしろ、付き合って10年。結婚の話が出るには、遅すぎたくらいだ。付き合いが長くなりすぎて、お互い真剣に将来について話をするきっかけをつかめないでいた。
 だからこそ、何でもない機会にレストランでの食事を誘われた時はやっとその気になったのかと、裕子は小躍りしそうなくらいに喜んだのだった。
 だが……
(隆也さんとは結婚できないの……)
 女子トイレの個室に閉じこもり、裕子は泣いた。声をあげ、子どものように泣いて泣きつくした。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

花嫁の父 4-1

 水島から食事の誘いを受ける少し前、裕子は水島の母親に呼び出された。
 裕子は、水島の母親が苦手だった。医者の夫をもち、自分の両親、親戚も医者の家に育ち、物腰は上品だが、世間知らずなのか、受け取る相手の気持ちなど考えずに物事をはっきりと言いすぎてしまうきらいがあった。水島と正反対な性格で、裕子と水島が最も嫌う、物事をあまり深刻に考えないという性質が彼女にはあり、女はあまり頭を使わないほうがかわいらしくていいと考える、よく言えば無邪気な人であった。
「このたびは」
 水色の絽の着物に目をひく花火の帯を締めた夫人は、先だって亡くなった裕子の父のお悔やみを述べた。
 平日の午後の喫茶店に、客の姿はまばらだった。そうでなくても、高級店として知られるその店で、時間を食いつぶすことができる人種は限られている。
 父親の知り合いの会社で役員秘書を務める裕子は、30分だけという時間をもらって仕事を抜け出し、マダム御用達という高い敷居を重い足で乗り越えた。 
 一杯2000円の紅茶とケーキが運ばれ、夫人はようやく話の本題に入った。
「裕子さん、あなた、隆也と結婚するつもり?」
「え?」
 本人とさえ結婚の話などしてもいないのに、母親からその意思を聞かれるのは筋違いな気がし、裕子は返事をしなかった。
「お付き合いも、もう10年よね。あなたももう30近いのだし、そろそろ結婚を焦るころだわね。あの子もいい年だし、結婚について考えていないこともないと思うの」
 考えていて欲しいと思うと言いたかったが、裕子は言葉をぐっと飲み込んだ。
「でもね、あの子が結婚しようなんていいだしてもね、裕子さん、結婚はしないでね」
 夫人はさらりと言ってのけた。
 その後の夫人の話を聞きながら、裕子は手足が冷たくなっていくのを感じていた。
「あなたに問題があるとかそういうことではないの。あなたのことは好きだわ。でもねえ、今度のことがあってね……」
 今度のこととは、暗に球里(きゅうり)熱の発生と、裕子の父が球里熱で死亡したことを意味していた。
「あなたのお母様、N県のご出身なんですってね。N県といえば、球里熱が最初に発生したところよね」
 球里熱が戦後の長い時を経て再び姿を現したのは、N県出身の人間がF県にいたからだという巷の噂があった。球里熱の原因となるウイルスはN県の人間の体内に潜み、再び猛威をふるう日を静かに待っていたのではないか。根拠のないバカげた噂だったが、球里熱の恐怖に怯える人々にとっては真実となり、N県およびH県出身者を忌み嫌う風潮が蔓延しつつあった。
 差別がバカバカしいのは言うまでもないが、差別の原因となった噂は医学的根拠のないもので、よく考えればバカげたことだとわかるはずだ。医者の家に生まれ、医者に嫁いだというのに、何という無知ぶりなのかと、裕子は腹がたった。
「あの子には立派な将来があるのよ。それをあなたとの結婚で…」
「失礼します」
 煮えくり返る胸にこみあげる別の言葉を押さえ、挨拶だけはして、裕子は喫茶店を後にした。
 小雨が降りしきるなか、傘もささずに裕子は街を歩いた。顔を濡らしているのは雨のしずくだけではなかった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

花嫁の父 4-2

 誕生日でも何でもない日に、レストランであらたまって食事―待ち望んでいたプロポーズを受けるのかと軽く心が弾む一方で、夫人の言葉が重くのしかかっていた。
 そして、裕子が出した結論は、水島とは結婚できない、だった。
 水島に伝えなければならない。裕子はそう覚悟し、別れとなるなら一番きれいな自分の姿を覚えていて欲しいと、お気に入りのワンピースを選んで着飾った。化粧もいつもより念入りにし、しかし派手になりすぎないようにした。
 水島と過ごす時が最後になるなら、楽しい思い出にしたいし、水島にも楽しい時であって欲しい。裕子はつとめて明るく、話し続けた。黙ってしまうと、水島がプロポーズの言葉を言ってしまいそうで、そうなると断るしかない裕子の楽しい時間は終わってしまう。
 最後通告を先延ばしにしようと、裕子はひたすらしゃべり続けた。そしてとうとう、デザートの一瞬の隙をついて、水島がプロポーズした。
(嬉しかったの―)
 涙でせっかくの化粧は落ちてしまっていた。
(でも、ダメなの……)
 あの夫人が姑になると考えただけでも結婚生活への自信がなくなった。
 というのは裕子が心についたウソだと、裕子自身にもよくわかっていた。
(違う、本当は―)
 裕子もまた、夫人と同じことを考えてしまっていた。
 N県出身の人間を親族にむかえることで水島の将来にどれほどの打撃を与えてしまうのか、ひょっとして母から自分に球里熱のウイルスが伝えられているのではないか。絶対にそんなことはないのだと頭でわかっていながら、心がくだらない噂を受け入れようとしている。
(医者の娘のくせにっ!……)
 夫人は、医者の娘で妻だというのに、まったく医学的根拠のない噂を信じていた。裕子はそんな夫人を軽蔑しながら、自分もまた彼女と同じレベルの人間だった。
 そんな自分に、気分が悪くなって、食べたものを吐き出してしまった。だが、気分はすっきりしない。体のどこかにまだどす黒いものが凝り固まって残っていた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

花嫁の父 5-1

 あれだけ泣けば翌日は腫れるかと覚悟していたが、目が覚めた瞬間のまぶたのあまりの重さに裕子はさすがに落ち込んだ。幸い、土曜日で出勤しなくていいのが唯一の救いだった。
「おはよう。朝ごはんできてるわよ」
 母はすでに起きていて、朝食の後片付けをしていた。妹の典子は外出してしまった後らしい。
 昨晩は泣きつかれて遅くに帰宅し、今朝は腫れぼったい目をした裕子の顔をみても、母は何も聞かなかった。だが、そこは母親、何かあったのだと察しはついているのだろうが、何も聞かないでいる母の優しさが今の裕子にはありがたかった。
「あら、やだ」
 台所で母が素っ頓狂な声をあげた。
「どうしたの?」
「トースターの場所がまた変わってる」
「トースターがどうかしたの?」
「ここにあると邪魔なのよ。だからこっちに移したのに、また元に戻ってるの」
 対面型キッチンのシンク横のスペースには、壁のコンセントを利用するように炊飯器やジューサーが置かれている。トースターは、ダイニングへの通り道側にひとり置かれてあった。
「自分で戻し忘れたんじゃないの? ぼけてきた?」
「ぼけてきたって、失礼ね。お母さんはここには絶対置かないもの。だって、ここにトースターがあると邪魔でしょ」
 トースターのせいで、シンク脇の洗い物を置いておくスペースは狭まってしまっていた。
「焼いたらすぐにテーブルに持っていけるからって、延長コードを使ってでも、お父さんはこっちに置きたがったけどね。男の人は家事の動きってものがわからないから、自分の使いたいものをその時都合のいい場所に置いて、それきりなのよ」
「ふうん」
 父と母がトースターの置き場所でもめていたとは、裕子の知らない夫婦の事柄だった。
「お父さんに朝の挨拶はしたの?」
「あ、まだ」
「食べる前にしてらっしゃい」
「はーい」

 庭に面した六畳の和室は、母親が趣味の書道をたしなむ場所として使用していたが、今はすっかり片付けられ、亡くなった父の四十九日の間の仮住まいとなっている。父の遺影の飾られた中陰壇には、庭の紫陽花と父の好きだったリンゴが供えられていた。
 線香のすがすがしい香りに目の覚める思いで、鐘を鳴らすと、裕子は父にむかって手を合わせた。
 遺影の父は何か言いたげだった。遺影は、去年母と旅行に行ったときの写真で、背景に紅葉の美しい山が写っている。医者を引退したらお母さんと旅行三昧だと話していた父の老後の計画を、裕子は思い出していた。
「花嫁姿、お父さんにみてもらいたかったなあ……」
 ふと口に出してしまうと、枯れたとばかり思っていた涙がじわりとにじみで、頬を伝って畳の上に染みをつくった。
「ごめんね、お父さん。私、隆也さんのプロポーズ、断っちゃった。本当は結婚したかった。『はい』って返事したかったけど、隆也さんのお母様が反対してて…。理由がバカバカしいの。お母さんが球里熱の発生したN県出身だからって、まるでお母さんが球里熱の原因みたいな言い方で、めちゃくちゃなの。医者の家の人間なのに、非科学的でまいっちゃった……。あんな人のいる家にはお嫁にいけないよね……」
 遺影の父は、口をへの字に曲げて何も言わない。これでも本人は笑っているつもりで、まぶしげに細めた目の端は下がっていた。物言わぬ父に、裕子はすべてをぶちまけてしまいたくなった。
「でもね、本当は私もあの人と同じことを思ってるの。お母さんの出身地のことで隆也さんの将来に傷がつくんじゃないかって。球里熱のウイルスがお母さんから私に移されているんじゃないかって。バカバカしいってわかっていても、そう思ってしまうの。そんな自分がイヤでしょうがないの」
 その時だった。
 閉めたはずの障子が静かに開いたかとおもうと、見知らぬ若い男が立っていた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

花嫁の父 5-2

 上下ジャージ姿の若者は、川上達矢と名乗った。生前父に世話になったとかで、線香のひとつでもあげさせてもらおうと立ち寄ったもので、まさか裕子がいるとはおもわず、突然障子を開けてしまってすいませんでしたと謝った。
川上は、線香をあげにきたついでに、ちゃっかり裕子と遅い朝食をともにしていた。線香をあげている最中に川上の腹が鳴ったので、母が何か食べていきますかと誘ったら、川上は満面の笑みでいたのだった。
 ひとり言を聞かれたかしら、そう思い、自分もトーストをかじりながら裕子は川上をそれとなくさぐったが、川上の裕子に対する態度に特に変わったところはなかった。
「うわっ苦っ」
「あら、マーマレードはちょっと苦味があるくらいがおいしいのよ」
「俺はこっちがいいです」
 川上はイチゴジャムをたっぷりとトーストに乗せ、大きな一口でかぶりついた。
「ん、うまいっす」
「そう? お父さんもマーマレードは苦手で、イチゴジャム一辺倒だったわ」
 イチゴジャムもマーマレードも、母の手作りだ。父はマーマレードには決して手をつけず、消費するのはもっぱら母と裕子、妹の典子だけだった。
「N町にいたとき、お父さん、何を食べていたのかしら」
 母は川上に、父のF県滞在時の様子を聞いていた。
 天候不順のため、救援物資などが空輸できず、かわりに陸路で薬を運んだドラックの運転手がいるとは、裕子も知っていた。テレビや新聞でも報道され、一部ワイドショーでは顔も紹介されていた。それが川上達矢だった。金髪で、腕には花をあしらったかのようなカラフルなタトゥーがほどこされている。見た目はとっつきにくそうな川上だったが、母の用意した朝食にかぶりつく姿は、小学生の男の子が母親に甘やかされているようにもみえた。
 父の日記に登場する“タッチャン”こと川上達矢に、母は自分が知らない父の最後の様子をたずねていた。
「コンビニのパンとか、インスタントとかかな。センセー、毎日患者さんに付きっ切りで、ろくに食事なんかしてなかったです」
「いやね、だから男の人はひとりにできないのよ。ついていけばよかったかしら」
「お母さんが一緒にいったって、何の役にもたたなかったわよ」
 と裕子は吐き捨てた。看護師でもない母がついていったって病人の面倒がみれるわけでもないし、父の足手まといになっただけだとおもったが、さすがにそうは言わずにおいた。
「そんなことないっスよ。奥さんには奥さんにできたことがあったとおもうっス」
 それまで無邪気な顔でトーストをほおばっていた川上が、神妙な顔つきで言った。
「槙原のセンセーみたいに直接病人の世話ができたわけじゃねえ。けど、俺、あそこにいって、すっげえ感謝された。俺はただのトラック運転手で、トラックの運転しかできねえけど、トラック運転して、薬運んだってだけで、人の役にたてたっス」
 球里熱の発生地域であるF県へ足を踏み入れるのを、誰もが二の足を踏んだ。父は自らそこへ赴き、川上も飛び込んでいった。
 父や川上を英雄視する一方で世間は非情だ。父は英雄のまま死んでいったが、感染しなかった川上だというのに、感染地域にいたというだけで彼は今、ウイルスをF県外に撒き散らしている人間のように扱われている。その証拠に、テレビのインタビューはすべて電話で行われていた。直接彼と対面しようという人間はいないのである。

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花嫁の父 5-3

「何でN町なんかに行ったの?」
「なんでって、トラックの運転ができるからッス。荷物を運ぶ場所があったらどこへでもいくッス」
 川上は、むしろ自分が裕子に、何でトラック運転手として当たり前の行動をとった理由を知りたいのかと聞きたそうな表情を浮かべていた。
 普段なら、裕子も、トラックの運転手をしている人間に「何で物を運ぶのだ?」というバカげた質問はしない。だが、川上がむかった先は、怖ろしい伝染病の発生している地域で、いくら仕事があるとはいえ、普通は行きたがらない場所である。
 医者の父が感染地域へ赴いたのは職業柄そうせざるを得なかったのだが、行かなくてもいい場所に、なぜ川上はわざわざむかったというのか。
「怖いとか思わなかったの?」
「思ったッスよ。でも、テレビで、『若いモンに行かせられない』、『自分は子どもが成人しているくらいの年だから死んでも誰が困るわけじゃない』、ってセンセーが言って医療チームに志願したって聞いてさ。それじゃ、俺も行くかって。俺、ヨメさんもガキもいねーし、センセーとおんなじで、別に俺が死んで困る人間はいねえから。どうせ死ぬなら、人さまの役にたって死にたいって思ったんスよね」
 川上は肩をすくめて笑った。笑うと右頬にえくぼが出来る。二十歳は超えているのだろうが、笑顔は子どものように幼かった。
 川上が不足していた薬などを運びこんだおかげで死なないですんだ人たちがいるとは、裕子も知っている。自分の命を顧みない立派な行動だとおもう一方で、あまりにも軽はずみすぎやしないかと、裕子は腹がたった。と同時に、川上に軽はずみな行動をさせたという父の言動にも腹がたった。
「死んで誰も困らないって、どうして言えるのよ。親とか、友だちとか、悲しむ人がいるって考えなかったの? お父さんもお父さんよ。確かに私も典子も、自分の力で生きていけるけど、お母さんはどうなの? お母さんが悲しむって思わなかったのかしら! お母さんと旅行三昧の老後をおくるんだって言ってたくせに、かっこつけて医療チームに志願したりして、あげくに死んじゃって。ひとり残されるお母さんのことは何も考えないで、ほんと、お父さん、バカっ! お父さんの言うことを間に受けるなんて、どうかしてるわよ!」
 母にたしなめられなかったら、裕子は拭いきれない不満を、いつまででも川上にぶつけ続けていただろう。だが、当の川上はトースト片手に「俺、友だち、いないっスから」と、裕子の“口撃”を相手にしていなかった。
「今日は、お仕事は?」
 その場のまずい空気をとりつくろうと、母がすかさず話題を変えた。
「休みッス。もうずーっと休み」
 川上はケタケタと笑った。
「会社に黙って行ったんで、クビになったッス」
 というのは建前で、本当は感染地帯にいた川上が職場に戻ってくるのが怖くてクビにしたんだろう ― そう推測するだけで、裕子の気分は悪くなった。
「これからどうなさるの?」
「仕事さがします」
「運転手のお仕事?」
「それしかできないッス」
「そんな簡単に仕事なんかみつかんないわよっ!」
 それまで黙って、母と川上のやりとりを聞いていた裕子が突然叫んだ。クビになったのと同じ理由で川上を迎えようという会社などありはしない。楽観的な川上にも、そして世間知らずで能天気な母にも腹がたった。
「そうッスかね」
 裕子の失礼な物の言い方にも、川上は笑顔でいた。
 なんでそんなに明るい未来を信じられるのか ― バカじゃないの。
 腹立たしいのと同時に、裕子は自分もバカになれたらいいのにと、今度は自分に腹がたった。
 球里熱のことも、球里熱をとりまくすべての事柄も何もかも外において、水島と一緒になろうと行動できたなら……
「そうよ!」
 こみ上げてくる涙を見られまいと、裕子は席をたち、自分の部屋へとかけこんだ。

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花嫁の父 6-1

 ―「娘と直接話しがしたい」
 槙原はスメラギに頭を下げた。灰色の頭頂部をみつめながら、スメラギは黙ったままだった。
 梅雨の時期だというのに、じんわりと湿っているはずのスメラギ探偵事務所にはひんやりと乾いた空気が漂っている。槙原のせいだ。霊が存在していると空気が凍りつく。スメラギは慣れたものだが、袴姿の美月は両手に息を吹きかけて暖をとるほど震えている。
「花嫁姿はもういい。それより、娘の笑顔をみて成仏したい」
 槙原は自分が見てきたことの一部始終をスメラギに語った。
 裕子が水島のプロポーズを断ったこと、その理由、水島の母親とのこと…。
「このままでは、娘は死んだも同然だ。あの子は昔からそうなんだ。自分の気持ちは抑えて、人にあわせてばかりだ。
水島くんの母親に言い返したいこともあったろうに、水島くんに言ってしまいたいこともあっただろうに、言えずにいて……。そんな娘をおいて、とてもじゃないが、あの世には逝けないよ……」
 自分がまだこの世にとどまり、家族のそばにいるのだと気づいてもらおうと、トースターを動かしたりしたことを、槙原はスメラギに打ち明けた。妻の好江は何かを感じているようだが、槙原の霊の存在を確信するまでには至っていない。
「俺が、あんたはまだ家族のそばにいるって言っても、美月にのって娘と話をしたとしても、娘さんたちは信じてくれないぜ」
 ようやく開いたスメラギの口から、白い息がたなびいた。
「人は目にみえないものを信じない。見たいものだけを見、聞きたいことだけに耳を傾ける。霊の存在を信じない人間には、何を言おうと、その心には何も届かない。それでも、おっさん、話をするかい、話をしたいかい?」
 スメラギの鋭い目が槙原に選択を迫った。槙原もまた、この世で唯一言葉を交わすことのできる人間、スメラギを射るように見据えた。
 槙原よりずっと若いスメラギだが、まるで人生の荒波を潜り抜けてきた老人のようにみえるときがある。人外のものを見てしまうというのは並大抵の精神力では耐えられようもなく、生まれついてから霊をみてきたという彼は、本人の意思に関わらず、強い精神の持ち主にならざるを得なかったのかもしれない。霊と人との間(はざま)で生きるスメラギという男は、人間の目には見えないものを見てしまうせいか、人の本質そのものを見抜いてしまっているようなところがある。
 死んで自分自身が霊となったからこそ、槙原も霊の存在を信じ、スメラギの霊視能力を信じることができるが、生きていたときにスメラギに出会っていたとして、はたして彼の言う能力を信じただろうか。
 裕子は、父の霊がそばにいるのだと信じてくれるだろうか……。
「…今のままでは…」
 槙原は不安ながらも、裕子と直接話してみようと決心した。

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花嫁の父 6-2

 「また……」
 好江は小さく呟いて、玄関先で脱ぎ捨てられている夫の靴を靴箱に閉まった。
 夫が亡くなって以来、1か月が経とうとしているが、好江には夫が亡くなったという実感がわかない。夫が生きていた頃のように、便座があがったままのときがあり、今朝も夫がそうしていたように靴が玄関先で脱ぎ捨てられていた。帰宅した夫はいつも靴は脱ぎっぱなしで、好江が揃えていたのだ。そんなはずはないのだが、夫の気配をすぐそばに感じるため、つい夫の箸や茶碗をそろえてしまって、裕子にたしなめられてしまう。
 夫が生きているかのような不思議な出来事があまりに頻繁に起きるため、はじめは訝しくおもっていた好江だが、今では夫が生きていた頃のように、便座をさげ、靴をそろえるのを楽しみにしていた。
 今日はトイレの便座をさげたかしらとおもってトイレへむかうと、玄関先で人の声がした。
「ただいまー」
 高い声の主は、待ちわびていた次女の典子だった。
 会わせたい人がいるから、ママもお姉ちゃんも今週の土曜日には家にいてといわれ、裕子とふたりで、朝はやく出かけた典子の戻りを待っていたのだった。
「いらっしゃ…い」
 玄関先で好江が目にしたのは、典子を中央に、銀髪の目つきの鋭い若者と、和服姿の青年だった。
「こんにちは」
 和服姿の青年は人懐っこい笑顔で会釈したが、銀髪の若者は黙って頭を軽く下げただけだった。
 てっきり恋人でも連れてくるのかとおもったら、どうやら典子の友人らしい。一人は感じのいい青年だが、もうひとりは愛想のない若者だ。
「ああ、うん、いるね」
 和服姿の青年はそう言って、典子に何か耳打ちした。
「やっぱりねー」
 靴を脱ぐのもそこそこに、典子は和服姿の青年を好江に紹介した。
「ママ、この人、美月さんていうの。霊が見えるっていうから、パパがいるかどうかみてもらおうとおもって連れてきたー。そしたら、今ね、パパがママの横で挨拶してるって」
「美月と付き合っているんじゃねえだろうなって心配してるぜ」
 銀髪の男、スメラギという若者は無愛想に言った。

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