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あじろ けい

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あらすじ

鏡に映った像の動きがずれて見えた祥子。疲れ目のせいだとばかり思っていたが、周辺では奇妙な出来事が次々と起き……。
R18
【注意】ホラー作品につき、血なまぐさい描写および表現があります。

zureru2.jpg

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テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

ずれる 1-1

 真夜中過ぎに鏡をみると死に顔がみえると誰かから聞いたことがある。
 子どもの頃の話で、夜中まで起きていると怖いものをみるぞと脅かし、夜更かしを諫める子ども騙しの作り話なのだが、以来、八田祥子は夜に鏡をみるのを避けてきた。
 実家の祥子の部屋の前には大きな姿見が壁にかかっていた。夜更けてから部屋に出入りするときには、鏡に背を向けて足早に通り過ぎた。夜中にトイレに起きてしまっても、手を洗うときは顔を伏せて洗面所の鏡にうつるものを見まいとする徹底ぶりだった。
 就職してからは、そうもしていられなくなった。出版社に入り、インテリア雑誌の編集部に配属になってから、忙しい時は帰宅が真夜中過ぎになる。化粧を落とし、コンタクトを外してと、嫌でも鏡を見ないではいられなくなった。
 だとするとこれが死に顔というわけかと、祥子は洗面所の鏡にうつる自分の顔をしげしげとみつめた。
充血した目に、乾いてひび割れた唇。くすんだ肌には生気がない。皮膚は骨身にぴたりとはりつき、その下に頬骨の形がはっきりとわかるほどだ。
死に顔だと聞かされていたから、白髪頭の老婆がみえるのだと子どもの頃は思いこんでいたが、大人になって、若くして死ぬこともあると知った。死に顔がみえるとはもう信じていなかったが、死に顔にみえる時がある。
 正確な時間はわからないが、タクシーをひろって帰宅したから12時はとっくに過ぎているだろう。校了間際には帰宅が真夜中過ぎになるのも珍しくない。内容や文字に間違いはないか、ライターやデザイナーとのやりとりなど細かな作業の山積みで、肉体も神経も擦り切れそうになる。このまま死んでしまうかもしれないと不安になることはしばしばで、疲れきった顔は死に顔も同然だった。どうやら自分は24の若さで死ぬらしい。死因は過労だろう。
 すっかり乾燥しきった目からコンタクトを外す。薄皮を剥がすような微かな痛みに鏡の向こうの祥子が顔をしかめた。
 崩れた化粧を落としてしまうと我知らずのうちにため息を漏らしていた。
 口の中がねばついて気持ちが悪い。祥子は歯ブラシを取り、歯磨き粉のチューブをひねりだした。鏡の向こうの祥子も同時に歯を磨き始めた。
 歯ブラシを持つ手が小刻みに揺れる。鏡像の祥子は左手に歯ブラシを持っているだけの違いで、まったく同じ動きをする。
 子どもの頃に教わった正しい歯磨きの仕方を実践する祥子は、一本一本の歯を時間をかけて丁寧に磨く。虫歯の日だかに学校へ来たその歯医者は、一本の歯を磨くのに10秒は時間をかけなさいと言った。歯は全部で親不知を入れて全部で32本、そんなに時間をかけていられないと文句を言う子どもたちに、彼女は夜寝る前の歯磨きだけでもいいからと言い、それ以来、どんなに夜遅くなっても眠気と闘いながら歯磨きの時間だけは欠かさない。歯ブラシは鉛筆を持つような要領で指にはさみ、ブラシの先を歯にあて上下左右に動かす。鉛筆を持つようにという持ち方は、手の疲れを軽減するための持ち方だが、それでも疲れているときには体にこたえる。
 祥子の腕は次第に肩の下にさがり、歯ブラシを動かすスピードも遅くなっていった。
 それにつられて鏡の祥子もスピードを落としていく……はずだった。
 祥子の歯を磨くスピードが落ちても、鏡の中の祥子のスピードは変わらなかった。そのため、かえって鏡の像のほうが祥子の動きに遅れているように見えた。
 ずれている。
 ぼんやりした頭でそう考えた次の瞬間、背中を冷たいものが走って眠気が飛んだ。
 鏡の像の動きがずれる、そんなことのあるはずがない。
 祥子は歯ブラシを動かす手を止めた。鏡の祥子も手を止める。鏡の祥子は動かなかった。祥子が息をのんでじっと動かずにいるからだ。祥子が動いていないのだから、鏡の像の動くはずがない。
 祥子は歯ブラシをもつ手を、ついてこれるかと挑発する勢いで、右斜め45度の角度にあげてみせた。その動きに遅れることなく、鏡の祥子の歯ブラシをもつ手も同じ角度にあがった。
 手をあげたまま、マーチングバンドの指揮者よろしく何度も上げたり下げたりを繰り返す。鏡の像はきっちりとついてくる。腕を上げ下げするスピードを突然速めたり遅くしても、ぴたりと合わせてくる。意表をついてやろうと動きを止めれば、鏡の像もまた止まった。
 誰かが鏡の向こうにいて祥子の真似をしているわけではない。鏡にうつっているのは祥子自身なのだから、祥子の動きのままであるのは当たり前だ。
 動きがずれてみえたのは目の錯覚だ。
 祥子は両目を堅く閉じ、こめかみを強くつまんだ。疲れた目には一時的に効果のある簡単なマッサージだ。そうして目の周りの緊張した筋肉をほぐす。
 そうしてからゆっくりと目を開けた。目を閉じていたせいで視界がぼんやりしていたが、目を瞬かせているうちにもやが晴れて、目の前にやつれた女が姿を現した。
 それは祥子自身だった。
 鏡の向こうに誰かがいて、自分の動きを真似ているのではなどというバカげた考えを振り払うかのように首を振り、祥子は洗面所を離れた

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

ずれる 1-2

 狭いワンルームのキッチンにはゴミ袋がいくつも散乱して足の踏み場もない。そのどれもがはちきれんばかりに膨れている。ゴミ袋の中身は燃えないゴミで、1か月分はゆうにある。
 一人暮らしで、帰宅は夜遅くなってからとなると、疲れ切ってしまって自炊する気にもなれない。自然とコンビニの弁当などで済ますことが多くなり、燃えないゴミばかりが増えていく。2週間に一度のゴミの日を逃すとすぐに部屋の中がゴミ袋で埋まってしまう。祥子はすでに二度も収集日を逃してしまっていた。
 それというのも、ゴミは収集日の当日、朝8時までに出しておかなければならないというマンションの決まりのせいだった。真夜中過ぎに帰宅、出社は朝10時すぎてからという生活の祥子にとって朝の8時は夢みている時間帯だ。ゴミを出すためにわざわざ起き出したくはないというので夜中のうちにこっそりとゴミを出していたが、同じマンションの住民に注意されてしまった。
猫があらすので夜のうちには出さないでくれと言うのである。
 夜のうちにゴミを出さないというのはマンションの自治会の決まりでもあり、祥子も知ってはいたが面倒で守ってはいなかった。祥子の他にも夜のうちにゴミ出しをしている住人はいる。祥子が集積所に行けばすでに先客があるというのはしばしばだった。それなのに祥子だけが自治会長からじきじきに注意された。なぜ夜中にゴミ出しをしているのがわかったのかと不思議に思っていたのだが、どうやら目撃者がいて自治会長に告げ口をしたらしい。
 その目撃者とは、隣りに住む中年の女性だった。表札には風間とあるその女性とは特に親しいわけでもないが、顔を会わせれば会釈をする。若い女性と住んでいて、どうやら娘らしく、薄い目と鉤鼻がそっくりだった。
 毎日のように夜遅くに帰宅し、朝は出の遅い祥子を、水商売の女か何かだと思っているらしい風間婦人は、祥子に並々ならぬ関心を抱き、その行動を逐一見張っていたらしい。らしいというのはあくまでも祥子の推測だが、確信はあった。
 4階にある祥子の部屋は集積所の真上にあった。夜にゴミ出しをする際には、ベランダから体を乗り出し、集積所に先客の存在を確かめてから階下に降りていくのが習慣だった。先にゴミがあれば、自分の出したゴミとの見分けがつかないだろうとカモフラージュのつもりだった。にもかかわらず、名指しで注意されたのは祥子だけだった。
 祥子のベランダから集積所が見えるということは、隣の風間婦人の部屋からも集積所が見えるということだ。彼女は祥子がゴミを出している場面を目撃したのだろう。
 注意されてからというもの、祥子は集積所にゴミが出ているかどうかを確かめる前に隣のベランダをうかがうようになった。明かりが漏れていれば風間婦人が起きているだろうから、ゴミ出しにいけない。玄関のドアを開けようものなら、風間婦人は耳ざとく聞きつけてベランダから祥子を監視するのに違いないのだ。他の日はさっさと寝ているようなのに、ゴミの日の前日に限って夜中すぎまで明かりがついている。
 前回の収集日も前々回の収集日も逃してしまって、たまったゴミは1か月分にもなった。明日の収集日にこそは出さなければならないのだが早起きはつらい。
 祥子は隣のベランダの様子をうかがった。カーテン越しに淡い光が漏れていた。
 早く寝ればいいものをと苦々しく思いながら、祥子はしぶしぶ朝早く起きてゴミ出しをすることにした。さすがにこれ以上ゴミ袋をためておくわけにはいかない。
 起きてすぐに出せるよう、ゴミ袋を玄関先に積み上げておき、目覚ましをセットして眠りについた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

ずれる 1-3

 人身事故の影響で電車のダイヤが乱れていたため、大幅に遅れて出社すると、社内の様子がおかしい。
 いつもならコーヒー片手にたわいもない朝のおしゃべりに興じているはずの編集部員たちが、今朝はコーヒーと立ち話の風景は同じでも、声をひそめてまるで通夜の席のようである。
 顔をみせるなり、祥子のもとへと駆け寄ってきたのは同じ編集部の斎藤リカだった。
「さやかちゃん、亡くなったんだって」
 あたりを憚って声を落としているが、どことなく弾んだ声音だった。
 リカは社内のゴシップに通じていた。学生時代から編集部でアルバイトをしていたので社内での付き合いが広く、誰と誰が付き合っているだの他部署の内情や人間関係にやたら詳しい。
 だが、この朝リカが口にした「さやか」という名前を祥子は知らなかった。誰だっただろうかと不思議な顔でいると、リカはぱっと口を開いた。
「そうか、祥子さん、知らないよね、さやかちゃんのこと。藤重さやか、祥子さんが入社してすぐに辞めちゃった人で、すごい美人だったの。受付の彼女目当てに、電話で済む用件をわざわざ来社して伝えにきた人もいたくらい」
 藤重さやかなる人物を知らない祥子とでは話に花が咲かないと思ったのか、祥子に遅れて出社してきた別の雑誌の編集部員を見るなり、リカは身をひるがえして去っていった。
「さやかちゃん、亡くなったんだって」
 まったく同じ台詞、少しだけ弾んだリカの声が聞こえてきた。音量は小さいが、通る声なので聞こえてしまう。ラジオでも聞くかのように、祥子は何とはなしに耳を傾けていた。
「藤重さんが? え、何で? 病気とか? 彼女、まだ若かったよね?」
 祥子からは得られなかった反応に満足するかのように、リカは矢継ぎ早に話し始めた。
「まだ26。電車にはねられた事故らしいよ」
「電車にはねられたって、まさか……」
「うん、私もちょっと気になった。例のことで思いつめて飛び込み自殺しちゃったのかなって」
 飛び込み自殺という言葉を聞いて、祥子は今朝の人身事故を思い出していた。
 祥子の使う路線では人身事故が多発していた。自殺の強い意思をもった人間が集まって来てしまうという噂だから、彼女が死に場所に選んだとしてもおかしくはない。
 素晴らしい美人だったという彼女の肉片の飛び散った線路の上を走ってきたのかもしれないと考えると、祥子は胸にむかつきを覚えた。そして、そんな偶然のあるはずがないと自分の馬鹿げた考えを否定した。別の路線でも“事故”は起こりうるではないか。
 リカたちは音量をさらに下げてしまったため、会話はもう聞き取れなかった。知り合いでもない人間の話だ、祥子は気分を切り替えた。
「あれ、編集長は?」
 すでに出社しているはずの五十嵐悦子の姿がデスクになかった。
「さやかちゃんの葬儀の段取りとかいろいろあるから今日は休みとるって」
 リカの首だけが祥子の方を向いて答えた。
「お葬式って、普通、家族が動くものじゃないの?」
「編集長とさやかちゃん、親しかったみたい。さやかちゃん、一人暮らしだったから、とりあえず簡単な通夜と告別式をこっちでしてしまうんだって。実家のお母さんからも頼まれたみたいで、さやかちゃんが亡くなったっていう電話もらってすぐに社を出ちゃった」
 祥子とはすれ違いだったらしい。悦子のデスクの上のタンブラーからはコーヒーの香りが湯気とともに立ち上っていた。
 洋風な華やかな外見とは裏腹に、悦子は時代劇に出てきそうな姉御肌の女性だった。彼女が率いるインテリア雑誌「ハーモニー」編集部のチームワークがいいのは、その統率力の賜物だ。
 アルバイトを経て社員になったリカと、はじめから正社員として入社した祥子、他に2人の派遣社員とを含めて女ばかり5人もいると、さざ波程度の波はたつ。リカは誰とでも親しく口をきくが、無邪気なつもりのひと言が相手の気分を害してしまうことがある。大抵は自分より年上の派遣社員たちに対しても横柄ともとられがちな口をきいてしまって揉めそうになるのを丸く収めているのが悦子だった。
 波がしらがたとうものなら悦子がさっとやってきて、不平不満のガス抜きをする。自ら先頭だって悦子が受け止める不満は仕事上のこととは限らず、プライベートな事柄、たとえば恋愛などの相談にものっているらしく、他の部署からの人望も厚い。祥子も、今のマンションに引っ越す際には悦子に身元保証人になってもらっていた。藤重さやかという女性も悦子を慕っていて、退職した後も関係が続いていたのだろう。
 部署を超え、退職後も親しくしていた友人を亡くしたとあっては仕事どころではないだろう。覚悟していた死ではなく事故死だったのだから、悦子は気持ちの整理がついていないかもしれない。
 仕事のことは心配ないからしばらく休みを取ってはどうかという主旨のメールを打ち、祥子は悦子のタンブラーをもって給湯室にむかった。しばらくは出社できそうにもない悦子のためにコーヒーを処分しておこうと思ったからで、丁寧に洗われたタンブラーは悦子のデスクに戻された。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

ずれる 1-4

 編集長がいなくては仕事もはかどらない。その日は結局、夜の11時ごろまで残業し、祥子は久々に電車で帰宅した。
 金曜の夜とあって酔った客が多かった。酒くさい息の電車を降り、駅のホームに立つとひんやりとした空気に包まれた。とはいえ、夜気の寒さに険がなくなりつつある。この分では桜の開花宣言もじきだろう。早くシャワーを浴びてゆっくり寛ぎたいと、祥子は帰り道を急いだ。
 コンビニに寄って弁当を買ってくると、マンションの入り口で風間婦人に出くわした。小腹が空いて夜食でもと思ったのか、スウェット姿のラフな格好で、手には祥子と同じコンビニのレジ袋があった。目があうなり、祥子は軽く頭を下げた。
 ゴミだしを注意されて以来、どうやら自治会長に告げ口したらしい風間婦人を忌々しく思わないわけではなかったが、態度に出すほど子どもではない。顔を見れば会釈はしてきたし、相手も愛想よく挨拶し返してきたのだが、この夜はいつもと様子が違った。
 祥子を見るなり、風間婦人は魔物にでも出くわしたかのような勢いでマンションに入っていった。ちょうどエレベーターが一階に降りていたらしく、乗り込むなりさっさとドアを閉めて上がっていってしまった。同じ階の隣人だから待っていてくれてもよさそうなものをと、祥子は正直、不愉快に思った。
 風間婦人の気に障るようなことを言ったかしたりしただろうかと思い巡らせるも、思いあたる節は何もない。トラブルらしいものといえばゴミ出しの問題ぐらいだが、この1か月は夜のうちのゴミ出しが出来ないでいる。と考えて、祥子は今朝のゴミ出しを忘れていたと思い出し、憂鬱になった。
 ゴミの山にさらなる塵をつもらせるコンビニ弁当を手に祥子は玄関の戸を開けた。しかし、そこに築かれてあったはずのゴミの山はきれいさっぱり片付けられていた。出し忘れたとばかり思っていたが、どうやら早起きして出しておいたらしい。寝ぼけていて出したことも忘れてしまったようだ。
 しっかりしろとばかり、祥子はげんこつで頭を二度、三度こづいた。テレビでもパソコンでも、調子の悪い時には叩くと不思議と調子を取り戻す。頭も叩いておけばゆるんだねじがしまるだろうと、祥子は根拠のない期待を抱いた。
 遅い夕食の弁当を食べながらテレビでもみるかと、祥子はスイッチを入れた。夜遅い時間なので音量は控えめにし、それとなくベッドの接する壁をうかがう。バルコニーから明かりは漏れていないところをみるとどうやら風間婦人は寝てしまったらしい。しんとした空気が壁越しに伝わってきた。寝ているというよりは息を殺して祥子の様子をうかがっているようにも感じられる。そう思うなり、隣人が気になっているのは自分の方ではないかと祥子は我ながらあきれた。
 弁当を温めようとレンジに入れ、スイッチを押す。ピッピッピと電子音が鳴ったとたん、タイミングを見計らっていたかのように重低音が聞こえてきた。ズッズッ、ドッドッと、まるで巨大生物の心音のような規則正しいリズムで、風通しのために開けたバルコニーの窓ガラスが震えている。
 また隣の女が音楽をかけはじめたのだ。女はこの冬に越してきたばかりで、火曜日と金曜日の夜になると決まって大音量で音楽を聞き始める。しかも夜といっても8時9時といった浅い時間ではなく、11時、12時と夜更けてからである。横になって休もうかという時間帯だがとてもではないが寝ていられない。
 一度音楽がかかると1時間ほどは鳴りやまない。祥子は開け放していた窓を腹立たしい思いで閉めた。
 テレビでは古い洋画が放送されていた。日本語の吹き替えはしかし、隣の音楽にかき消されて何を言っているのかまるで聞き取れない。かといって音量を上げれば、風間婦人からうるさいと文句を言われるのは祥子の方だろう。理不尽だと思いつつ、祥子はテレビを見るのを諦め、スイッチを消した。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

ずれる 1-5

 その朝、編集部には客があった。
 祥子が編集部に入っていくと、悦子のデスクの前に見慣れぬスーツの背中がたちはだかっていた。客の男は悦子と親し気に話をしていた。右手をパンツのポケットに入れ、話にあわせて宙を舞う左手の薬指には指輪が光っていた。
 顔は見えなかったが、見なくとも祥子には話し声だけで男の正体がすぐにわかった。
 聞き慣れた声の主は二階堂隆だった。
 祥子の会社では、編集部のある本社のほかに営業所という拠点を全国各地にもっていた。各地の書店を訪問して自社の出版物の売り場を確保するのが主な仕事で、二階堂はある地方都市の営業所に勤務していて、祥子は彼とは何度か電話でやりとりをしたことがある。 
「あ、祥子。こちら、本日付でご昇進の二階堂営業部長」
 二階堂の広い背中から悦子が顔をのぞかせた。紹介された二階堂は腰をひねって祥子にむきあった。
「八田祥子です。よろしくお願いします」
 祥子は頭を深々と下げた。電話でのやりとりを通して親しくなっていたとはいえ、顔を見るのは初めてなのできちんと挨拶をした。
「何だか変な気分だなあ。電話では話してきたから八田さんをまったく知らないわけじゃないんだが、顔をみて話すのは初めてだから、初対面の人に会うような緊張感もあるよ」
 電話線にのらない二階堂の声にはノイズがなく、生身の声がもつしめっぽさがより増していた。
「今日から本社勤務になりました、二階堂隆です。よろしくお願いします」
 祥子に倣うかのように、二階堂も丁寧にお辞儀をしてみせた。そうやってふざけてみせるところも、電話でのやりとりとまるで変わらない。背を真っ直ぐに戻した二階堂と祥子とは顔を見合わせて笑った。
「せっかく同じ本社勤務になったことだし、今度、飲みにでも行こうか」
 社交辞令だとわかっていても、祥子はふつりと血の沸き立つのを禁じ得なかった。それは二階堂の声のせいだった。湿り気を帯びた二階堂の低い声に、祥子は男を感じずにはいられない。
 人の声が全身の血を震い立たせるほどの性的魅力をもつものなのだと祥子は二階堂の声を聞いて初めて知った。
 顔をみないうちに祥子は二階堂に惹かれた。
 二階堂の声を聞きたいと、メールで済む用事でも営業所に電話をかけた。書店をまわっている二階堂だからなかなかつかまらない。営業所の女子社員が気をきかせて二階堂の携帯電話の番号を教えてくれた。逡巡した挙句、祥子は自分の携帯から二階堂にかけた。結局、携帯でのやりとりでもすれ違い、その時のメッセージは祥子の留守電に残っている。祥子はそのメッセージを保存し、何度も聞き返していた。
「こら、既婚者がナンパしてんじゃないよ!」
 悦子がすかさず手元の書類で二階堂の手をはたいてみせた。二階堂は大げさに痛がってみせた。
「ナンパじゃないって、飲みニケーション。悦子も、ハーモニーの編集部の子たちとうちの営業の子たちとでさあ」
「あんたさあ、それを世間で何ていうか知ってる?」
「教えてもらおうか」
「合コンっていうんだよ! 悪い虫はさっさと巣に帰りな」
「はいはい。退散しますよ」
 悦子に追い払われるようにして、二階堂は他の編集部への挨拶にむかっていった。
「編集長、二階堂部長と随分親しいんですね」
 祥子は名残惜しそうに二階堂の背中を見送った。
「私ら同期なのよ。あいつも本社の営業部勤務だったけど、2年前に営業所に異動になってさ。出世して帰ってきたっていうんで、真っ先に私のところに挨拶にきたんだと」
「編集長に挨拶しないと怖いからじゃないですかぁー」
 すかさず、リカが茶々を入れた。
「取って食いやしないっていうの。それにしても、あいつが営業部長か」
 悦子は目を細めて二階堂のたくましい背中をみつめていた。
 同期ともなると、新人の頃の苦楽をともにしてきた仲間という意識が強いのだろう。二階堂をみつめる悦子の目はまるで母のようでもあった。もともと本社勤めだったのが営業所に異動になったというからには左遷の憂き目にあったのだろうが、本社に返り咲いたということで悦子としても感慨深いものがあるのだろう。
 悦子と同期入社ということは、少なくとも40を超えているだろうが、二階堂は年よりは若くみえる。声の艶と張りから想像していた通り、引き締まった体をしていた。人懐っこい笑顔は電話での軽口そのままで、嫌味がない。これからは毎日のように二階堂と顔をあわせるかもしれないのだと思うと、祥子の体が熱くなった。



 帰宅するなり、祥子の携帯が鳴った。二階堂からだった。メールには、今度飲みに行きましょうとだけあった。ふたりきりでとは書かれていなかったが、編集部のみんなでとも書かれていなかった。
 体中の血がざわついた。だが、祥子は思いとどまった。二階堂の左手薬指の結婚指輪の煌めきが警告を発していた。苦しむとわかっている関係なのだから、どんな小さな始まりでも摘み取っておかなければならない。祥子はしばらく携帯の画面と睨み合いを続けた後、思い切って電源を切り、バッグの中に放り入れた。
 その時だった。
 誰かがバッグの中の携帯を拾い上げたようなような気がして祥子はバッグを覗き込んだ。携帯はきちんとそこにあった。
 携帯との睨み合いからバッグに放り込むまでの一連の動作を、祥子は姿見の前で行っていたのだが、鏡の前を離れた時に鏡に映り込んだ自分の影がバッグを覗いているように見えたらしい。鏡に映った姿が自分と違う動きをするはずがない。また疲れ目かと、祥子は例のこめかみをもむマッサージを何度か繰り返した。
 ここのところ、祥子は部屋でゆっくりと休めないでいた。それというのも、せっかく早く帰宅しても隣の女が夜中近くになって音楽を大音量で流すからであって、一度苦情を申し立てようと思いつつ、言いそびれてしまっていた。今夜こそはゆっくりと眠らせてもらいたいものだと、祥子は姿見の向こうの壁を睨みつけた。
 また音楽を鳴らされたらかなわないと、祥子はイヤホンを耳にあて、音楽を聞きながら寝ることにした。だが、そんな用意は今夜に限っては不要に終わった。その夜、隣の女は気味悪いほど静かで、以降、夜中の音楽はぴたりと止んだのだった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

ずれる 2-1

 ランチの後、化粧室の個室に入ったものの、祥子は出るに出られなくなってしまった。祥子が個室に入るなり化粧室に押し寄せてきた3人が祥子の噂話を始めたからだった。
 声の違いから話しているのは3人と判別でき、そのうちの1人は同じ編集部のリカだった。主に話をしているのはリカで他の2人は二言三言付け加えるか、時々相槌を打つだけだった。
「祥子さんってさ、最近変わったと思わない?」
 リカは個室に祥子がいるとは思ってもいないらしい。編集部のフロアの化粧室には人がいたので、祥子は別のフロアの化粧室にかけこんだ。リカたちも同じ口だろう。別フロアの化粧室だから祥子はいないだろうと踏んでリカは祥子についての噂話をし始めたようだった。
 自分の名前を聞いて祥子は息を殺した。
「変わったってどう?」
「カラーリングで髪を明るくしたり、パーマかけたりさ。着るものも何か女の子っぽいワンピとかスカートとか。何っていうか、女らしくなったっていうの?」
「何それ。前は女らしくなかったって言ってるようなものじゃない」
 3人は声をたてて笑った。
「だって、そうじゃん? パンツスーツとかかちっとした格好が多くてさ。色も黒っぽい服が多かったし」
 そういうリカのスーツ姿をそういえば祥子はみたことがなかった。季節を問わず、いつでも寒そうな薄い生地のワンピースかブラウスにスカートをはいている。
「最近の祥子さんてさ、誰かに似てきたとおもわない?」
 リカが他のふたりを促したが、思い当たる人物がいないようでふたりは沈黙し続けた。しびれを切らしたリカはとうとう口を割った。
「さやかちゃん! 元受付の!」
「藤重さん?」
 同意しかねるといわんばかりに、ひとりが声を裏返した。
「似てないよ。藤重さんは女優っていってもいいくらいの美人だったけど、祥子さんは地味な人じゃない。何ていうか、いかにも文学少女っていう」
「そうだけど。だからさっき言ったように、最近雰囲気変わったの。その雰囲気がさやかちゃんに似てるんだって」
「そうかなあ」
 祥子を地味だと言った方はリカの意見に否定的だった。祥子を知っているような口ぶりだが、祥子の方では相手の声に聞き覚えがなかった。リカは部署を超えた付き合いが多いから、別の編集部か、人事や経理といった他部署の女子社員だろう。
「ひょっとしてさ、二階堂さんと不倫してたりして」
 リカはわざと声を落とした。
「うちの部長と? それはないと思うなあ。部長のタイプじゃないじゃん、祥子さんて」
 すかさず否定したその声の主はどうやら営業部の人間らしい。こちらの声には祥子は聞き覚えがあった。顔と名前は思い出せないが、何度か電話でのやりとりをしたことがある。低めの落ち着いた声の持ち主で、国営放送局のアナウンサーのように滑舌がよかった。
「二階堂部長のタイプって藤重さんみたいな、華やかで女の子らしいひとだもの」
 ただでさえ低い声がさらに低くなった。祥子は思わず個室の壁に身を乗り出していた。
「二階堂さんとさやかちゃんが不倫してたって話、本当だったんだ」
 うんという返事がかろうじて聞き取れた。
「二年前、二階堂さんが営業所に異動になったのって、さやかちゃんとの不倫が原因の左遷だったっていう噂、やっぱり本当だったんだ」
「藤重さんとの不倫は公然の秘密っていうか、みんな疑ってはいたけど何も言わなかった。でも、誰かが社長に密告したみたいなんだよね。ある時、社長が営業部に急に来てさ、当時の部長と二階堂さんとで話して、その後、二階堂部長の営業所への異動が決まったの。藤重さん、社長のお気に入りだったからね。社長としてはふたりを別れさせたかったってところなのかな。その藤重さんも急に会社辞めちゃったし」
「確か、田舎に帰ってお母さんの面倒をみるっていう理由だったんだよね。お母さん、体が不自由だとか言ってたような」
「田舎に帰るっていってたのに、こっちにいたんだってね。お葬式もこっちで簡単に済ませたっていうし。悦子さんが全部取り仕切ったらしいよ。亡くなってもう半年にもなるんだね。さやかちゃんの事故ってさ、本当に事故だったのかなあ……」
「自殺だったんじゃないかっていう噂だけど……」
 祥子の知らない声がリカの疑問を受けて答えた。
「田舎に帰るって嘘ついてこっちに残って、二階堂さんとの関係続けてたっぽいじゃない。不倫に苦しんで自殺したって考えられないかなあ」
 藤重さやかが亡くなったという知らせが飛び込んできた日、すでにリカは、自殺の疑いをほのめかしていた。「例の件で」とは、二階堂との不倫を指していたのだろう。
「私さ……実は見ちゃったんだよね」
 営業部が重々しく口を開いた。
「その時は藤重さんだってわからなかったんだけど、あの日、事故を目撃しちゃったんだ」
 個室に隠れて聞き耳たてている祥子の心臓が一瞬にしてひやりと固まった。
「乗る電車がホームに入ってきて、危ないってわかってたけど、前の方の車両に乗りたかったからホームのはじを走って電車を追いかけたのね。遅刻ぎりぎりだったから。ずっと電車の先頭を見てたんだけど、そしたら突然ホームから人がこぼれて線路に落ちたんだ。それが藤重さんだったんだよね……。私、気分悪くなってその日は会社を休んだんだけど、後で藤重さんが亡くなった話を聞いて、あれは彼女だったんだって気づいて、気持ち悪くてもうあの路線の電車に乗れないから、引っ越ししたんだ」
 営業部がぽろりとこぼした路線名は祥子の通うものと同じだった。とたんに胃の底がただれたように熱くなった。祥子はこみ上げる吐き気を抑えようと口元に手をあてた。多発する事故の犠牲者についてはなるべく考えないようにしてきたが、見知らぬ他人とはいえ、そこで命を落とした人間の名前を聞いてしまった以上、平静ではいられなかった。
 毎朝毎晩、自分は藤重さやかの肉体の散った場所を踏みつけてきたのかと思うと、胃そのものを取り出してしまいたいほどの嫌悪感に襲われた。心なしか、電車が踏んだであろうブレーキの鋭い音まで聞こえるような気がする。その音にかき消されたのは藤重さやかの断末魔の叫びであっただろう。
 線路に散った肉片の腐臭すら嗅ぎ取ったような気がし、祥子は食べたばかりのものをすべて吐き出してしまった。すえた臭いが化粧室にたちまち充満し、リカたちはそそくさと化粧室を出ていってしまった。
 リカたちが化粧室を出るのを待ち、祥子は個室を飛び出した。洗面台へかけよると、蛇口をひねって口元をゆすいだ。肩で荒い息をしながらふと鏡をみると、そこには笑う女の姿があった。
 藤重さやか――とっさにそう思い、祥子は洗面台から素早く身を引いた。笑う女も祥子に合わせて鏡の奥へと身を引いた。
 祥子はおそるおそる鏡に近づいた。
 死んだ藤重さやかが鏡に映っているはずがない。映っているのは祥子自身だった。
 祥子が鏡に顔を近づけるにつれ、鏡の向こうの像も祥子にむかって顔を寄せてきた。口角のあがったその口元に水滴がついている。祥子の口元にも濡れた感覚があった。だが、口角があがっている感覚はない。
 自分は笑っているのか?
 笑っているつもりはないのだが、確かめようがない。確かめる手段であるはずの鏡には、笑っている自分が映っている。
 祥子は頬に口に両手をあてて表情をさぐった。笑っている筋肉の動きではなかった。しかし、鏡の中で両手を頬にあてている女は笑っている。
 映っているのは本当に自分なのだろか。
 祥子は背後を振り返った。だが誰かがいるはずはなかった。化粧室には祥子きりしかいない。
 蝶番のきしむ音がしたかとおもうと、化粧室に華やかな声がなだれこんできた。祥子の顔をみるなり、2人の女性たちは会釈をした。アルバイトの女の子たちである。祥子はすばやく口元のしぶきをぬぐい、会釈を返した。
 そっと鏡を覗きみると、笑う女は姿を消し、そこには祥子が映っているだけだった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

ずれる 2-2

 シャワーを浴び終え、祥子はドライヤーで髪を乾かし始めた。熱風にあおられ、セミロングの髪の毛先が舞い踊る。祥子は、チョコレートのコマーシャルを思い出していた。清楚なイメージの美少女が、彼女に憧れているのであろう少年とチョコレートを分け合うそのコマーシャルで、少女の黒く長い髪はそよ風にもてあそばれていた。
 ドライヤーをもつ手を遠ざけ、祥子は心持ち小首を傾げてみた。熱風の勢いが少しは弱まり、春風のような優しさで毛先を揺らした。モデルみたいだと、祥子は鏡にうつった時分の姿にみとれていた。
 黒髪の艶は残しつつ、重くならないようにと軽めにカラーリングした髪は、蛍光灯のもとで艶めいている。肌はしっとりとしてはりがあり、いつまでも触っていたい感触だ。瞳にも唇にも潤いがあり、はちきれんばかりの若さとほのかな色香を発している。
 おもわず見惚れる自分の姿に、とある人物の姿を見出し、祥子はおもわず顔をしかめた。
 藤重さやか――美人と評判だった彼女に自分は似ているのだろうか。
 昼間、化粧室でリカは祥子が藤重さやかに似ていると言っていた。そう言われても、藤重さやかの顔を知らない祥子にはピンとこない。
「鏡ばっかりみてないで、何か作ってくれ。“運動”したから、腹減った」
 祥子の背後に立った二階堂は、かじる真似事で祥子の首筋を甘く噛んだ。ふつりと血が沸き立つのを抑えながら
「ねえ……私、藤重さんに似てる?」
 祥子は、鏡の中の二階堂にたずねた。
 営業部長の二階堂との関係は半年ほどになる。男と女の関係になったのは二階堂が営業所から本社の営業部に異動になったすぐ後で、二階堂の強引な誘いを祥子は拒み切れなかった。
 藤重という名前に、舌先で祥子の耳たぶを弄んでいた二階堂の動きが止まった。
「誰?」
「藤重さやか。元受付の人。私が入社してすぐに辞めた人らしいけど」
 二階堂は知り尽くしたはずの祥子の体を新たな気持ちで探るように眺めつくし
「似てない。祥子は祥子。それより、なあ……食事はやめにして“運動”しようや……」
 四十を少し過ぎたばかり、男盛りの二階堂の体は活力を取り戻していた。贅肉のない引き締まった体はしなやかだが、祥子を求めるときには獲物を狙う獣のように猛々しい。それでいて愛撫は繊細で、気配りが行き届いている。ときに技巧的だと感じるのは、二階堂の女性経験が豊富なせいだろう。
 おくての祥子は、二階堂が初めての男だった。二十四にもなって何も知らないというわけではなかったが、具体的な事柄はすべて二階堂から教え込まれた。祥子は、二階堂の愛撫にはただ身を任せ、二階堂の望みは黙って受け入れた。他の男を知らないから、二階堂との情事が「普通」であるのかどうか、祥子にはわからない。他の男を知りたいとは思わないほど、祥子は二階堂の体に慣らされてしまっていた。
 藤重さやかもまた、二階堂に同じように抱かれたのだろうか。二階堂の愛撫に身を委ねながら、祥子は砂を噛んだような不愉快な気持ちになった。
 さやかを知らないふりをしてみせた二階堂だが、「似てない」という返事はひるがえってよく知っているという意味だった。本当に知らない人間なら「わからない」という返事があるはずで、祥子はひそかにその返事を期待していた。
 二階堂は自分のうえにさやかの姿を重ねているのではないか。祥子が処女だったのをいいことに、さやかと同じ反応を示すように教えこんだのではないのか。
 髪型も髪の色も、メイクも、祥子は二階堂がそうしろと言うものに従った。洋服も、二階堂が好きだと言うものを着た。二階堂の好みだとばかり思っていたが、それらは藤重さやかの好みではなかったのか。
 二階堂との関係が始まった半年前は、丁度さやかが死んだ頃と重なる。死んだ恋人の面影を新しい愛人のうえに求めたというのか……。
 二階堂の激しくなっていく愛撫に身をよじらせながら、祥子は鏡にうつった自分の姿をみつめた。そこにうつっているものが、はたして自分の顔なのか、祥子にはもはやそうであると言い切る自信がもてなかった。
 二階堂に触れられている感覚がなければ、祥子は鏡の外に自分の肉体が存在していると確かめられなかったかもしれない。
 二階堂の猛る血の流れを受けとめながら、祥子は、鏡にうつった藤重さやかに似ているという女にむかって勝ち誇った笑みを浮かべてみせた。鏡の像など、しょせんは虚像、祥子という人間なくしては存在しえないものだ。二階堂に愛されているのは祥子という肉体だ、違う熱をもった肉体がひとつに溶け合う恍惚感を、虚像が感じえるものか。
 祥子の優越感を悔しくおもったかのように、鏡のなかの女は顔を歪めた。顔の筋肉の動きとは異なる表情を浮かべた鏡の像を気味悪くおもいながら、祥子はのぼりつめていく快感に押し流され、ゆっくりと目を閉じていった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

ずれる 2-3

「物がずれて見えるんです」
 悩んだ挙句、祥子はそう医者に告げた。
 鏡にうつった像が実際の自分の動きに遅れる現象は「ずれる」としか言いようがない。だが、自分が抱えている問題をうまく言い表せないでいる不満が残った。「ずれる」とは別の言葉がふさわしい気がするが、他の言葉が思い浮かばない。
 初めのうち疲れ目のせいだと思っていた「ずれる」現象は、最近になって頻発するようになった。電車の窓、ショーウィンドウ……鏡でなくても祥子の像が現れる場所で、ふとした動作がずれてみえる。時間にするとわずか1、2秒の出来事だ。疲れ目という単純な問題ではなく、もしかしたら目に重大な異常があるのかもしれない。一度、医者に診てもらったほうがいいだろうと祥子は眼科の門を叩いた。
「物がずれてみえると」
 中年の男の医者は祥子の言葉を復唱し、カルテに書き付けていた。
「八田さん、普段はメガネですか?」
 医者の視線が祥子の黒縁のメガネをとらえていた。医者もメガネをかけている。
「いいえ、普段はコンタクトです」
 眼科だから目の検査をするだろうとコンタクトは外してきていた。
「物がずれて見えるのは、裸眼の時ですか、それともコンタクトをしている時?」
「裸眼でも、コンタクトをしていても、ずれて見える時があります」
「なるほど」
 医者はカルテを書き込む手を止め、
「乱視と言われたことは?」
 と尋ねた。
「乱視だと物の輪郭がぼやけて、その物がずれて二重にも三重にもあるように見えるんです。乱視のほかにも、複視といって、やはり物がずれて二重に見える症状もあります」
「複視というのは? 乱視とはどう違うんですか?」
 乱視は知っていたが、複視という言葉は祥子は初耳だった。
「複視の複は、複数の複です。文字通り、物が複数、つまり二重にも三重にも見える状態を言います。乱視も複視もどちらも物がずれて見える状態なのですが、乱視は片方の目だけでもずれて見えますが、複視の場合は片方の目だけで見ると物が1つに見えるのです。片目だけでもずれて見えますか?」
「はい」
 片目をつぶってみたことはないが、いつでも見える時にはずれて見えるのだから片目だろうと両目だろうと関係ないだろう。そもそも、「物がずれて見える」とは言ったが、乱視や複視のずれて見える見え方とは違う。医者の言葉によれば、乱視などでは物が二重にみえるようだが、祥子が見ているずれとは、物そのものではなく動きのずれを指している。ほかに言葉が思いつかずに「ずれる」という表現を用いたが、医者にはうまく伝わっていないようだった。
「あの、うまく言えないんですけど……」
 祥子は口ごもった。
「物が二重に見えるのではなくて、鏡にうつった像と、実際の自分の動きとがずれて見えるんです。たとえば、私が鏡の前で右手をあげてみせると、鏡の像の動きが1秒か2秒ぐらい遅れて見えるんです。まるで鏡の中に誰か別人がいて、私の真似をしているけど動きについてこれないでいるといった風に――」
 と言ってしまって、祥子が背筋が寒くなった。鏡の中に誰かがいるとは何だ? そんなことのあるはずがない。だが、そう考えるとしっくりくる動きのずれ方なのだ……。
 医者は、祥子の言い分をどう理解したらいいものやらと首を傾げていた。
「すいません。ほかに言い様がなくて。でも、本当に、誰かが真似しきれないで動きがずれる、そんな感じなんです」
 汗が祥子のセーターの下のブラウスの背中を滑り落ちていった。
 鏡の像が実際の自分の動きとずれるのを見てもらえば一番わかってもらいやすいのだが、鏡と実在の自分とを同時に見てもらうことは不可能だ。像を見ることに集中すれば実体の動きを見逃してしまうし、逆もまた同じ結果だ。祥子は苛ついた。
「いいえ、おっしゃってる意味はよくわかります」
 医者にそう言われ、祥子はほっと胸をなでおろした。乱視、複視以外に、ずれてみえる目の異常を訴える患者が祥子以外にもいるのだろう。目に異常があるらしいにせよ、どうにかなりそうだと先の見通しが明るくなる気がした。
「とにかく、まずは視力検査をしてみましょう」
 メガネをかけた状態と裸眼の状態とで視力検査表の文字を読み取り、視力を測定する。メガネで1.5、裸眼では0.1と、知っている数字に変化はなかった。念のためと言われて行った乱視の検査では、放射状に伸びた線の濃淡や太さの違いが見えるかどうかを問われたが、すべての線が均一に同質のものに見えたため、乱視の疑いは否定された。
 検査を終えると、医者はカルテに結果を書き込んでいた。その間の時間がやけに長く感じられた。祥子は一刻も早く結果を知り、異常があるというのなら治療を開始してしまいたかった。
 医者はペンを走らせていた手をとめ、祥子に向き直った。ようやく判決が下されるのかと祥子は緊張から膝の上にそろえた両手で拳を握った。
「結論からいうと、八田さんは乱視でも複視でもありません」
「何か別の異常でも?」
 膝の上の拳がますます固くなった。
「それは別に検査をしないとわからないでしょうが」
 とっさに祥子は脳の異常を疑った。目と脳とは位置が近い。素人判断ではあるが、目に問題なければ脳の方に問題があるような気がした。
「体の異常ではないと思います。鏡の像の動きが実体とずれて見える症状というのは聞いたことありませんから。おそらく、心の問題でしょう。最近、仕事やプライベートで強いストレスを感じるような出来事がありましたか? どなたか親しい方を亡くされたとか」
「いいえ、そういったことは……。仕事は忙しくしていますが」
 体に異常はないと聞いてほっとしたのもつかの間、心の問題だとなるとやっかいだと祥子は困惑していた。ウィルスとは違い、ストレスは取り除きようがない。医者には言わなかったが、二階堂との後ろめたい関係は祥子にとってはストレスに違いなかった。
 黙りこんでしまった祥子に、医者は自分の判断は正しかったと自信をもったようだった。
「鏡の像の動きがずれてみえるのは一種の幻覚でしょう。幽霊の正体みたり枯れ尾花。心はいろいろなものを私たちに見せるのです。枯れた花でも、心がそう思えば幽霊にだって見える。自分の見ているものがその場に存在しているものとは限らないのです。ちょっと怖い話ですね。とにかく、心に異常があると、普通の人には見えないものが見えてしまうものなのです」
 確かに怖い話だと、祥子は聞きながら思った。医者は、祥子の見ているものを幻覚だと一蹴したが、彼は祥子の見たものを見てはいないのだ。見てもいないのに、なぜ祥子の方を異常だと判断できるのか。ずれて見える方が正常で、見えない医者側が異常だということはないのか。鏡の像が虚像だとみな知っている。だが、あれらは本当に虚像なのだろうか。別人であったり、または自分とは別の存在だということはないのか。
「一度、心療内科で診てもらってください」
 医者はそう言ってカルテの挟まったフォルダを閉じた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

ずれる 3-1

 店名の染め抜かれた暖簾をくぐり、悦子は引き戸を開けて店内へと踏み入っていった。その後を祥子が追う。カウンターの席には男女の客があった。親子ほど年の差があったが、親子ではないだろう。
 祥子たちは悦子が予約しておいた個室の座敷へと通された。掘り炬燵の堀に足を入れるなり、悦子はふうと息を漏らした。その顔は職場での上司という仮面を脱ぎ捨て、40すぎのひとりの女に戻っていた。
「ここの主人はね、もともとはフランス料理のシェフだったんだって。でも何だかしらないけど急に和食に目覚めたらしいのよ。フランス料理を和風にアレンジしてあって、ちょっと面白いんだ」
 悦子の言った意味は料理を口にして初めて理解できた。食材の味をそのままにという姿勢は和食のスタイルに違いない。しかし、味付けにどこに重みを感じるのはフランス料理の手法によるものなのかもしれない。それを箸で食べ、悦子はワインではなく日本酒をグラスで飲んでいた。
 おいしいから飲んでみてはどうかと日本酒を勧められた祥子だったが、悦子と飲んだ後に二階堂に会う約束になっていたので、遠慮していた。
 帰り際、祥子は悦子に飲みに行こうと誘われた。次号の発行準備にとりかかるまでまだ少し余裕のある時期だ。そんな時期でないと二階堂とゆっくり過ごせないのだが、上司の悦子の誘いを断るわけにはいかない。二階堂には合鍵を使って部屋にあがって待っていて欲しいと連絡し、祥子は気もそぞろに悦子の晩酌に付き合っていた。
「先週の水曜日にさ、銀座で祥子を見かけたよ」
「銀座ですか?」
 祥子はこの一週間の記憶をさかのぼってみた。しかし、一週間どころか、1か月ほど銀座には足を向けていない。
「夜遅い時間で、二階堂と一緒だった――」
 悦子はグラスに残っていた日本酒を一気に飲み干した。江戸切子の美しい細工のグラスだった。
「付き合ってるの?」
 祥子を見据える悦子の目が血走っていた。祥子は黙ったまま首を横に振った。悦子は嘘だろうと言わんばかりに祥子を見据え続けていたが、祥子はその強い視線に屈しなかった。先週の水曜日の夜、銀座で祥子と二階堂を見かけたというのは悦子の嘘だ。二階堂との関係を白状させようとして、悦子はかまをかけているのだ。
「二階堂部長は結婚しているんですよ」
 淹れてもらったばかりの日本茶の湯呑に添えていて温まっているはずの指先が冷たい。
「大人同士の割り切った関係なら、不倫だろうと何だろうといいんだけど――いや、よくないね」
 空のグラスを力強く握る悦子の手が白くなっていた。
「あいつの、二階堂の今の奥さんね、2人目なんだよ。今の奥さんと関係があった時、あいつは結婚してた。前の奥さんとは社内恋愛で同じ営業部の子だった。私と同期。浮気相手も同じ社内で、あいつ、経理の女の子に手をつけたんだよ。浮気がばれたのか何か知らないけど、あいつは離婚して再婚した。こういうのは当人同士の問題だから他人がとやかく言う問題じゃない。不倫も浮気も嫌だけどね。子どももいなかったし、誰かを傷つけるわけでもなし――そう思っていたんだけどね。傷ついて死んだ人間がいるんだよ……」
「藤重さやかさん……」
 祥子がその名を口にしたので、悦子は驚いていた。
「知ってた?」
「はい。噂で」
「その噂は本当だよ。さやかは二階堂と不倫の関係にあった……」
 悦子のもらしたため息は酒臭かった。
「みんな気づいていたんだ。知らぬは当人同士だけ。いくら気をつけているつもりでも、周りには分かるんだ。みんな知ってて何も言わなかった。二階堂の病気がまた始まったぐらいに思っていたんだ。でも、誰かが社長に密告した」
「誰だったんです?」
「わからない。たぶん、社内の女の子の誰かだろうと思うけど」
 女の嫉妬だろうと祥子は勘ぐった。二階堂と藤重さやかの関係を暴露し、ふたりが破局すれば二階堂が自分に振り向くとでも思った女がいたのだろう。あまりに浅はかな考えだが、その女に同情しないでもない祥子だった。
「社長は不倫なんてとんでもないっていって、二階堂を首にするって言いだした」
「不倫で解雇ですか」
「さやかが社長のお気に入りだったんで、社長の気持ちの半分は嫉妬もあったんだと思うよ。とにかく、首にだけはしないでくれって、私から社長に頼んだんだ」
「悦子さんが、ですか?」
「同期のよしみでね。あいつ、女にはだらしないけど、いいやつには違いなかったから。それに仕事も出来たしね。社長も冷静になって考えたら首にはできないって思ったんだろう」
「それで、営業所に異動に」
「向こうでも営業成績はトップクラスだったらしいから、部長に出世して帰ってきやがったけどね」
 祥子は初め、悦子は二階堂に気があるのではないかと疑っていた。しかし、悦子の口ぶりからは男女の感情などみじんもうかがえず、あるのは強い仲間意識だけだった。
「さやかは会社を辞めた。二階堂とは別れる、新しい人生を歩むっていうんで、私が保証人になって引っ越ししたけど、関係は続いていたんだね。あいつの、妻とは別れるという言葉を信じてしまったんだろうね……」
 二階堂の再婚は不倫のあげくだった。藤重さやかが二階堂の言葉を信じたことを祥子は責められなかった。祥子との関係で結婚の二文字は出てきたことがないが、もし二階堂が妻とは別れると言ったら、自分もその言葉を信じてその時を待つだろうと容易に想像できた。
「さやかに、二階堂とは別れろと何度も言ったけど、ダメだった。結局、さやかは自殺したんだよ……」
 かみしめて口紅のはげた下唇に、悦子の口惜しさが滲んでいた。
「事故だったと聞いていますけど」
「事故には違いないよ。電車にはねられたんだから。でも自分から線路に落ちていったのなら、それは自殺だろう?」
 悦子は美しい眉を人差し指でなぞった。まるで涙の出るのを止めるまじないのような所作だったが、そのまじないは効かなかった。
「二階堂とだけは関わるんじゃないよ。あいつが魅力的な男だっていうのはよくわかる。いい奴には違いないんだ。でも、こと女に関してはだらしない奴なんだ。私はね、もう誰にも傷ついたり、死んでもらいたくはないんだよ――」
 真珠のような悦子の瞳から大粒の涙がいくつも零れ落ち、テーブルを濡らした。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

ずれる 3-2

 二階堂がシャワーを浴びている隙に、祥子は彼の携帯電話を盗み見た。
 悦子は、先週の水曜日の深夜に二階堂と祥子を銀座で見かけたと言った。しかし、祥子はここしばらく銀座には行っていない。それどころか、先週の水曜日は長野に出張していた。悦子はすっかり忘れていたが、祥子は話の途中で思い出していた。悦子が見かけた祥子というのは、祥子に似た別の女性に違いない。夜遅い時間だったというから悦子は見間違えたのだろう。
 二階堂に新しい女が出来たかどうかを確かめるべく、祥子は彼の携帯電話を握りしめた。
 ロックはかかっていなかった。受信メールをチェックする。祥子からのメールはすべて消去されていた。祥子に送ったメールもすべて削除しているだろう。浮気の証拠はきれいに消されていた。ロックをかけないでいるのも、やましいことは何もないと主張してみせる二階堂のテクニックなのかもしれない。その用心深さに関係を続けていくことができる安心感を得つつ、祥子は少し寂しいような気がしないでもなかった。存在しないとされる関係、それが祥子と二階堂の関係なのだ。
 この分ではたとえ新しい女からのメールがあったとしても消されているだろう。そうは思いながら、祥子は何とはなしにそのまま受信箱に入ったメールを読んでいった。仕事がらみの内容や男の友人からのものばかりである。その中に、唯一、女の名前で送られているメールがあった。さては新しい女からのものかと、祥子はそのメールに絞って読んでいった。
 メールの内容は、何時に帰ってくるのか、帰りにスーパーで牛乳を買ってきてくれだのという所帯じみたものだった。残してあるところをみると、妻からのメールなのだろう。
 二階堂は家庭の話を一切しなかった。浮気相手に妻の話をする男は少ないだろうが、不満や愚痴を漏らしてもいいはずなのに、まるで独身であるかのように一切、その手の話は出なかった。祥子の方でも、気にはなりつつも二階堂の家庭については何も聞かなかった。
 だが、妻とのメールのやり取りを見ているうち、それまで興味のなかった家庭人としての二階堂の姿が気になり始めた。妻に言われるままに牛乳を買って帰る良き夫の二階堂。それは祥子の知らない二階堂だった。その妻とはどんな人間だろう。
 祥子はメールをさかのぼって読んでいった。どうやら妻は体が弱いらしく、その体調を気遣ったメールが多い。二階堂からのメールには、買い物をかわりにするだとか、夕食は外で食べてくるといったものが多い。外食の連絡のうちのいくつかは、祥子と会っている日だった。
 だが、妻は体が弱いのではなかった。
 とあるメールの一文に、祥子は目を奪われた。そこには「できたかも」とだけあった。何がという主語は略されている。言った当人にはわかっているものが「できた」らしい。そのメールに対する二階堂の返事は笑顔の顔文字だった。
 その後のメールには、病院がどうの、予定日がどうのと続くのだと、先に目を通してしまっていた祥子には分かっていた。
 妻は妊娠していた。
 とたんに吐き気を催し、祥子はトイレにかけこんだ。吐いて吐き続け、胃の底を裏返したほどに吐いても、胸のむかつきが収まらない。
 祥子と関係を持ちながら、二階堂は妻とも寝て妊娠させていた。そして自分の子どもを宿している妻をほったらかしにしておいて、こうして祥子の部屋を訪れて関係を持ち続けている。
 二階堂に触れられた肌がそこから爛れていくような気がする。祥子は目に涙をためながら、洗面所で口をゆすいだ。
 ようやく吐き気の収まったところで顔をあげると、恐ろしい形相の女と目があった。おもわずぎょっとしたのもつかの間、それは鏡に映った祥子自身だった。
 こんなに目がつりあがっていただろうかというほど両目が険しく、白目は血走っている。
 一体この女は何者なのかと、祥子は他人をみるような心地で鏡を見つめた。とても自分の姿が映っているとは思えない。女も不思議そうな顔で祥子を見返していた。
 蛇口をきつくしめる音がして、シャワーが止まった。祥子は慌てて洗面所を出、ベッドへと戻ろうとした。
 その時だった。
 部屋の中を横切ってベッドへと向かおうとする人影が見えた。とたんに祥子はその場を動けなくなった。床に釘で打ち付けられたように足が前へと踏み出せない。人の気配が背中にあった。
 恐る恐る祥子は腰だけひねって背後を振り返った。
 壁に女の顔がある。と思ったのは、姿見にうつった自分の姿だった。
「どうした、こんなところで」
 腰にバスタオルをまいただけの二階堂がバスルームから出てきて、祥子の首筋に唇をあてた。
「コンタクト、外そうとおもって」
 素早く身をひるがえし、祥子は洗面所へとかけこんだ。顔を伏せてコンタクトを外す。そのまま鏡を見ないようにして洗面所を出た。何か別のものが映っているような気がして祥子は鏡を見ることができなかった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

ずれる 3-3

 約束の時間より早く、祥子は待ち合わせ場所のファミレスに到着した。30分もあれば心の準備ができるだろう。
 祥子を呼び出したのは二階堂の妻、二階堂彩だった。仕事の最中、会社の電話に連絡があり、話がしたいと言われた。何の話かは容易に想像できる。
 携帯電話の送受信メールを削除するなど二階堂は用心してくれていたはずなのにどうして関係が妻に明らかになってしまったのかといぶかしく思ったが、何かほかに女の存在を示すような証拠を握られてしまったのかもしれない。何をしくじったのかと今更考えても仕方のないことだ。別れてくれと言われるのはわかっていたが、祥子は別れるつもりはない。二階堂の妻とはいずれは対決しなければならなかっただろうと、祥子は覚悟をきめた。
 平日の昼間とあって客は主婦が多かった。指定されたファミレスは住宅街の駅近くにあったから近所の主婦だろう。子ども連れが目立っていた。きゃっきゃと声をあげて店内をかけめぐる子どもたちの姿をみると祥子の胸が痛んだ。彩は妊娠している。祥子の存在は生まれてくる子から父親を奪う憎きものでしかないのだ。
 約束の時間きっかりに彩は姿を現した。祥子は彩の顔を知らなかったが、向こうは承知しているようで、店に入ってくるなり、まっすぐに祥子のもとへと向かってきた。
 ふっくらと目立ち始めた腹に手をそえ、彩は祥子のむかいの席に腰をおろした。再婚だとは聞いて知っていたが、それにしても若い妻だった。三十はいっていないだろう。化粧をしていないのでより幼くみえた。
「二階堂が世話になっています」
 嫌味のこもった彩の挨拶に、祥子はとりあえず頭を軽く下げておいた。
 彩はアイスコーヒーを注文した。アイスコーヒーが届けられるまで5分となかったはずだが、沈黙が続く時間は長く感じられ、手持ち無沙汰な祥子はオレンジジュースを何度となく口にしていた。
 注文したアイスコーヒーが届けられるなり、彩はグラスを脇によけた。
「妊娠しているから、カフェインは避けないと」
 アイスコーヒー代は場所代ぐらいのつもりらしい。もともと、お茶の時間を楽しむつもりではないだろうし、祥子も茶飲み友だちでもない。
 空いたテーブルの上に彩は茶封筒を投げ出した。
「二階堂とのことはすべて調べがついています。関係がないだなんてしらばっくれないでくださいね。証拠は全部ここにそろっていますから」
 彩は封筒を開け、中身を取り出してみせた。封筒に入っていたのは引き伸ばされた写真たちだった。すべてに祥子と二階堂が映っている。祥子のマンションに出入りする二階堂の写真も数枚含まれていた。
「あなたに慰謝料を請求することもできるけど、しません。請求しない条件として、二階堂と別れてほしいの」
 来たなと祥子は身構えた。
「もし別れないといったら?」
「慰謝料を請求します。それからあなたの上司に、あなたと二階堂の関係を言います。会社にわかったら、あなた、会社に居づらくなるでしょ?」
「二階堂さんだって――」
 祥子が二階堂の名を口にしたとたん、彩の顔が険しくなった。名前を呼ぶなど汚らわしいと言わんばかりの剣幕に気圧されて祥子は口をつぐんでしまった。
「二階堂は男ですから。女とは違います。彼は会社にとって手放したくない有用な人材だけど、あなたはどうかしら? 彼は今の会社を辞めても引く手あまたでしょうけど、あなたは? この就職難のご時世に再就職は大変なのじゃない?」
 薄い眉のせいで黒目がちの瞳がかえって顔の中で目立ってしまっていた。愛らしいはずのその瞳が蛇の目のように禍々しい。
 彩は、藤重さやかにもこの調子で二階堂との別れを迫ったのだろうか。さやかは自殺したらしいが、彼女を精神的に追いつめていったのはひょっとして彩ではなかったのか。そう思うと、祥子は落ち着かなくなった。いつ彩に取って食われるかわかったものではない。その場を逃げ出してしまいたかったが、金縛りにあったように体が動かない。瞬きを忘れたような彩の執拗な視線が祥子をその場に縛り付けていた。
「もう十分楽しんだのじゃない? 二階堂にとってあなたとのことは遊びだったの。あなたもそうでしょ? でももう遊びの時間は終わり。私たちには子どもが生まれるんですから、あの人にも父親の自覚をもってもらわないと」
 彩はこれ見よがしに膨らんだ腹をさすった。お腹の子どもは、二階堂が彩と関係をもったゆるぎない証だった。彩は妻なのだから関係があって当然なのだが、妻とは寝ていないと思い込んでいた祥子にしてみれば、彩の妊娠は二階堂の自分に対する裏切り行為でしかなかった。
 二階堂との関係は遊びなどでは決してないと祥子は叫びたいが、のどが熱くなるばかりで言葉が出ない。祥子は真剣だったが、二階堂の口から結婚といった未来についての約束がなされたことは一度もなかった。
「あなた、まだ若いんだから、妻子持ちなんかとはさっさと別れて、結婚してくれそうな男と恋愛しなさいよ。遊んでばかりいるとあっという間に年とっちゃうわよ」
 友人から言われたのなら親身な忠告と受け止められただろうが、二階堂の前妻から妻の座を奪った彩に言われると癪にさわった。
「私、二階堂さんとは別れません」
 やっとのことで祥子は声を絞り出した。あまり長いこと黙っていたので、発声が少しおかしいことになっていた。彩が聞き逃したかもしれないと祥子は咳払いをし、
「別れませんから」と繰り返した。
「二階堂は別れると言ってるけど」
 彩は勝ち誇ったような表情を浮かべていた。黒目がいよいよ顔の中心で目立っていた。
「私には、あなたとは別れると彼は言ったの。自分であなたに別れを言えたらいいんだけど、面倒くさがって。そういうわけだから、二階堂とはもう終わり。彼の携帯からあなたの番号は消しました。あなたも消してね。かけてきても着信拒否にしてあるから無駄よ。彼にはもう二度と連絡してこないで。それと私に変なメールを送ってくるのも、やめてちょうだいね」
 言いたいだけいうと、彩は釣りはいらないといってアイスコーヒー代を置き、腹をいたわるようにして店を出ていった。
 どれくらい正気を失っていたのだろう。グラスをさげようと店員がやってきた時、オレンジジュースはとけた氷のせいでオレンジ色の水にと変わっていた。祥子はオレンジ味の水を飲みほすなり、新たにアイスコーヒーを注文した。暖房が効きすぎているのか、喉が渇いて仕方なかった。
 アイスコーヒーが届けられるなり、祥子はストローを吸い、一気に半分ほど飲み干してしまった。勢いよく冷たいものを飲んだものだから、胃がきゅっとしまったところで祥子はストローから口を放した。
 見たばかりの夢を思い出すように、祥子は記憶をさかのぼっていった。
 妊婦、アイスコーヒー、黒目、別れ話……。
 そうだった、二階堂の妊娠した妻が別れ話をもってきたのだった。
 夢ではない証拠に、テーブルの上には彼女が投げ捨てた硬貨と茶封筒があった。祥子は封筒からなかばはみ出していた写真を取り出した。彩が探偵だかに依頼して撮らせた二階堂と祥子の密会の様子の写真だ。二階堂が祥子のマンションを出入りする写真や、ふたりでレストランで食事をしている写真などがある。
 祥子は二階堂の写真をもっていなかった。こんなものでも思い出の写真となるかと祥子は二階堂の顔を愛おしそうに指でなぞった。それはレストランで食事中のふたりを外から撮った写真だった。窓際の席に向い合せに座る二階堂と祥子とは笑顔で食事を楽しんでいる。いつどこで撮られたものか祥子には覚えがない。写真の日付をみると、その日はちょうど長野に出張していた日だった。二階堂の声だけでも聞きたいとホテルから何度も携帯を鳴らしたが電源が切れているといって連絡が取れなかったその日、悦子が銀座で祥子を見かけたといったその日だった。
 祥子は写真を食い入るようにみつめた。写真の女は左手にフォークを持っている。どうやら左利きらしい。祥子は右利きだ。
 血が頭に逆流していった。この写真に写っているのは自分ではない。自分によく似た誰か別の女だ。やはり二階堂には新しい女がいたのだ。二階堂が突然別れようという気になったのは新しい女のせいだ。
 逆上して写真を破り捨てようとした祥子だったが、はたと女のしているアクセサリーに目がとまった。ニットのワンピースの開いた胸元にペンダントが光っている。それはガラス細工を趣味とする母が作ってくれたものだった。青鉄色を巻き込んた短冊のようなデザインのペンダントは祥子しか持っていない。写真の女は祥子に間違いなかった。祥子はほっと胸をなでおろした。裏切りは彩の妊娠だけで十分だった。
 祥子の左手にフォークが握られているのは、写真を現像する段階で反転してしまったせいか何かだろう。写真を封筒にしまいこむと、祥子はファミレスを後にした。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

ずれる 3-4

帰宅するなり、固定電話がけたたましく鳴った。時刻は夜の10時を過ぎていた。間違い電話だろうと、祥子は取り合わなかった。友人や母なら携帯電話にかけてくる。間違いではなく用のある人間なら留守電にでもメッセージを残すだろうと、祥子は風呂に水を張り始めた。まるで祥子が部屋にいるのを知っているかのように電話は鳴りやまず、留守電に切り替わってようやく部屋は静かになった。
 発信音の後、沈黙があってメッセージを残す人の声が聞こえてきた。
「八田さぁん、おトイレかしら? 聞こえていたら電話を取ってちょうだい。大事な話があるのよ――」
 自治会長の秋山信子だった。祥子は慌てて風呂の水を止め、受話器を取った。
「すいません、今、お風呂に入ろうとしていて」
「あらそうなの。ごめんなさいね、そんな時に電話して。でも、あなたいつも帰りが遅いから、こんな時間でも早く帰った時につかまえないとお話できないから」
 秋山夫人は祥子に風呂を使わせる気はないようだ。祥子はあきらめて椅子に腰かけた。話は長くなりそうだった。
「お話って何でしょうか」
 秋山夫人とは顔見知りだが、とりたてて親しくしているというわけではない。小柄な秋山夫人は白髪交じりの長い髪をいつも団子に結っている。俳句が趣味で、自費出版したという句集を祥子は付き合い程度に1冊購入したが読んでもいない。秋山夫人が親しくしているのは、祥子の隣人で同じ自治会仲間の風間婦人だ。自治会長じきじきに電話してくるとなると、話は簡単には済まず、話題はおそらくゴミ出しについてだろう。秋山夫人の裏には風間婦人がいる。祥子が帰るなり電話が鳴り、居留守を使っても電話が鳴り続けたのは祥子が部屋にいると知っている風間婦人が秋山夫人に連絡したからだろう。
「あのね、お宅の生活音がうるさいっていう苦情が来てるのよ」
 だが、話はゴミ出しではなく、騒音についてだった。
「うちの音がですか?」
 祥子のたてる音がうるさいと文句を言うのは風間婦人以外にいないが、そう言ってしまって、祥子は思い当たることがあった。
「それはうちじゃなくて、うちのお隣の人だとおもいます。夜中に音楽をかけるのでこっちも迷惑しているんです」
「ええ、まあ、405室の音楽については他の方からも苦情がきてましたけど。あなた、直接文句を言ったらしいじゃないの。何だかすごい剣幕だったとかで、あなたのことが怖いと言って405室の人、引っ越していかれましたよ」
 隣人同士の付き合いがないので、隣の女が引っ越していった事実を祥子は初めて知った。どうりで最近は静かだったはずだ。
 だが、隣の女を相手に文句を言った覚えはない。言いたいと思ったことは認めるが、言ってはいないはずだった。文句を言いにいったのなら覚えているはずだ。しかし、秋山夫人のいうその出来事を祥子はまったく覚えていない。
「そうね、何と言ったらいいかしらね」
 秋山夫人は言い澱んだ。よほど言いにくいことを言わなくてはならないらしい。
「八田さん、お付き合いされている方がいるでしょう」
 二階堂のことだった。昼間、彩から別れたいという二階堂の意思を知らされた今、「お付き合いされていた」方という過去形がふさわしい表現だったが。それでピンときた。“生活音”とは、二階堂と事に及んでいる時の物音を指していた。ベッドのある壁の向こうは風間婦人の部屋だ。壁に耳をあてれば喘ぎ声のひとつでも聞こえていたかもしれない。
「その件でしたら、もうご迷惑かけないとおもいます」
 祥子は茶封筒を引き寄せて、写真を引き出した。二階堂の妻が撮らせた浮気の証拠写真。二階堂は写真をつきつけられ、彩に祥子とは別れると宣言してしまったのかもしれない。
「それとね、ゴミ出しの件」
 やはりその話になるかと祥子は身構えた。
「ゴミ出しなら、きちんと朝起きてやってます」
 と言いながら、祥子は不思議に思った。ここのところのゴミ出しの記憶がないのだ。朝起きてすぐに出しにいけるよう、夜のうちにゴミ袋を玄関先に出しているのだが、集積所まで持っていった記憶がまるでない。朝は半分寝ぼけているし、ゴミ出しのような習慣をいちいち覚えていはいないが、それにしては奇妙だった。しかし、部屋にゴミ袋のないところをみると、きちんと出してはいるようである。
「そう、そのゴミ出しの件なんだけれども……」
 言いにくそうに秋山夫人は言葉を濁した。
「朝出しているっていうけれど、あなた、燃えるゴミも燃えないゴミも、ベランダから集積所にむかって放り投げているっていうじゃないの。それは出したとは言わないわね。一度、たまたま下を歩いていた人にゴミが当たりそうになったことがあるそうじゃないの」
 受話器を手にしたまま、祥子は開いた口がふさがらなかった。4階のベランダから集積所にむかってゴミを放り投げてなどいない。そんなことを考えたこともないし、していればいくらなんでも覚えているはずだ。
「そんな非常識なこと、するわけありません!」
 怒りで祥子の声が震えていた。
「どうして、ベランダからゴミを放り投げているのが私だって決め付けるんですか? 私の上の階か下の階、隣の人ってことも考えられますけど」
「それはね、見た人がいらっしゃるんです」
「誰ですか?」
「誰だっていいじゃありませんか。それより、大事なのはベランダからゴミを投げるのはやめていただきたいってことなの」
 祥子は何も言い返せなくなってしまった。ゴミをベランダから投げるなどするはずがない。だが、ゴミを集積所まで運んでいった記憶はまるでない。もしかしたら寝ぼけてゴミをベランダから下の集積所めがけて投げ落としたかもしれない。それを風間婦人に見られていたり、もしやゴミが当たりそうになったが風間婦人だったとしたら……。最近のよそよそしい風間婦人の様子からも考えられなくもない。だが、いくら寝ぼけていてもゴミを投げるなど、自分はするだろうか。
 自分に似た誰かが、ゴミを放りなげたとは考えられないだろうか。風間婦人は見間違えたのに違いない。夜目に若い女は同じように見えるだろう。きっとそうに違いない……。
 ふと部屋の中に人の気配を感じた祥子は、反射的に背後をふりかえった。人がいるとおもったのは姿見にうつった自分の姿だった。椅子に座り、右手に受話器をもち、左手はテーブルの茶封筒の上に添えらえている。祥子は手元を見下ろした。茶封筒の上に置かれている手は右手だった。
 自分に似た人間がそこには存在していた。左右が逆転していることを除けば、それは祥子自身に違いない。
 祥子は受話器を投げ出し、茶封筒から写真を引き出した。手で引き出すのももどかしく、祥子は封筒を逆さまにしてふるい、中身を床の上にぶちまけた。その中に祥子は目当ての写真を探した。
 銀座のレストランで食事をしている祥子と二階堂の写真だ。窓際の席にいるふたりを浮気調査員が写真に撮り、悦子にも目撃されている。だが、その日、祥子は東京を遠く離れた場所にいた。二階堂と食事をしている女が祥子であるはずがない。
 祥子は写真にぐいと顔を近づけた。写真の祥子は左手にフォークを持っている。祥子は右利きだから写真が反転しているのだろうとばかり思っていた。だが、向い合せに座る二階堂の指輪は左手に光っていた。写真が反転しているのではない。
 反転しているのは祥子のほうだった。
 写真から顔をあげた時、祥子は鏡に映る自分の姿と目があった。もう一人の自分がそこにいた。写真を手に立ち上がった祥子に少し遅れて、鏡像の祥子も立ち上がった。

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ずれる 3-5

「そうか、全部お前の仕業なのか」
 祥子は鏡に向かって行った。鏡の向こうの女も祥子へと向かって来る。
「ゴミを窓から投げ落としたのはお前なんだろ」
 鏡の前で足を止め、祥子は鏡の中の女を睨みつけた。女も祥子を睨み返す。直視しがたいほどいやらしい目つきの女だったが、ひるんではならない。負けじと祥子は、鼻がぶつかりそうな距離に顔を突き出してみせた。鏡の女も、祥子の真似をして顔を突き出してみせた。目玉が零れ落ちそうなほどに目を見開いている。
「隣の女に騒音の件で怒鳴り込みにいったのもお前だな」
 祥子が責めたてると、まったく同じ調子で鏡の女は祥子の言い草を真似る。その人を小ばかにした態度が祥子の勘に障った。
「お前なんだろ?」
「お前なんだろ?」
 責めたてているのは祥子の方なのに、鏡の女が祥子を責めたてていた。どこまでも祥子の真似でしらをきるつもりらしい。
「二階堂さんからの誘いのメールに私は返事しなかったのに、勝手に返信して彼を誘ったのもお前だろ」
 祥子の真似をするだけで、女は祥子の問いにはこたえない。だが、祥子にはすべてが明らかになりつつあった。二階堂の誘いは強引だった。だが、強引と感じたのは祥子だけで、二階堂にしてみればすでに祥子から誘われていたから駆け引きも何も必要なかったのだ。誘惑したのは祥子ではなく鏡の女だが、二階堂にしてみれば彼女は祥子でしかない。
 ゴミを投げたのも、隣の女に怒鳴り込んでいったのも、鏡の女の仕業だが、風間婦人や隣の女には祥子の行動でしかない。
 違う、すべては鏡の中の女の悪行なのだ。鏡の向こうでニヤニヤといやらしい笑を口元に浮かべているこの女のしでかしたことなのだ。この女のせいで濡れ衣を着させられているのだ。
「すべてわかっているんだ。いい加減、白状したらどうだ」
「すべてわかっているんだ。いい加減、白状したらどうだ」
 祥子を真似て首をかしげてみせた女の仕草が、ほんの少しばかり祥子の動きからずれた。
 祥子はとっさに鏡の女にむかってつかみかかっていった。女も祥子につかみかかってきた。
 女の首を絞めようと両手をのばしたものの、硬い鏡面に遮られて女には触れられない。鏡面はしかし、祥子を女の鋭い爪から守ってもくれた。鏡の女も祥子には手が出せない。女は苛立ちの表情をあらわにしていた。釣り上った目がいよいよ釣り上る。
 女の目を潰してやろうと、祥子は顔めがけて爪を立てた。しかし、キィィィーと音をたてて爪は鏡の表を滑り落ちるだけで、女には傷ひとつない。無傷な女の顔を目にしたとたん、鏡にむかって手当り次第に物を投げつけ、祥子は鏡を割ってしまった。
 ひび割れた鏡の中の女の姿は悲惨だった。性懲りもなく祥子の真似をしようとするが、手足がばらばらでまるで動きについてこれない。醜くゆがんだ顔はもはや顔とも言えない代物だ。
 人の真似で悪さをするからだ。これで明日からは鏡の女に煩わされずにすむ。
 そういえば風呂に入るところだったと思いだし、祥子は割れた鏡の前を離れた。
 風呂場に向かおうとして、ふとまた人の気配を感じた祥子は足を止めて振り返った。
 カーテンの隙間からのぞく窓ガラスに、女が再び姿を現していた。

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ずれる 3-6

 かちりと小気味よい音をたててドアの鍵が開いた。視覚を用いないようにすると他の感覚が補完するかのように発達するらしい。今なら蟻の足音でも聞き取れてしまいそうだ。
 誰かが部屋に入ってきた。頬で感じた熱源の方へ祥子は顔を向けた。祥子の部屋に入ってくることができるのは合鍵を持っている人間に限られる。
 二階堂だ――
 心弾ませてアイマスクを外すより先に、発達した嗅覚がなじみ深い香りをとらえていた。
「悦子さん……」
 アイマスクを外したばかりの目に開いたドアからさしこむ日の光が痛かった。
「どうしたんですか、悦子さん」
「どうしたんですかって、それはこっちの台詞だよ! 祥子、あんた、無断欠勤して一体どうしちゃったっていうのさ?! 何度も携帯鳴らしたのに出ないし、やっとメールが来たかとおもったら、『助けてください』って言うんだから、すっ飛んできたんだよ! それにしても、ひどいことになってるじゃないか」
 部屋中に散るガラスの破片をよけながら、悦子は祥子のもとへとかけよってきた。姿見から姿を消したはずの女は、窓ガラスや食器棚のガラス戸の中に姿を現した。女の姿を見かけるたび、祥子は物を投げてガラスを割った。窓は割れなかったが、食器棚のガラス戸は粉々に砕け散ってしまった。どこにいくにも女がついてくる。それならばと、祥子はアイマスクで自分の目を覆い、女の姿を視界から消すことにした。
「この部屋の鍵はどうしたんです?」
「鍵? 二階堂のやつからひったくって来たんだよ。あんたたち、やっぱり関係があったんだね」
 祥子は目を何度も瞬かせた。昨夜からアイマスクをし通しだったうえ、カーテンを閉め切った薄暗い部屋では悦子の輪郭をとらえるのがやっとだった。
「悦子さん。私、『助けて』なんていうメール、送ってません」
 祥子はぽつりと呟いた。
「何言ってるのさ。祥子からメールをもらったから現にこうして私がここに来たんじゃないか」
 悦子は携帯を取り出して見せた。メールは確かに祥子から送信されていた。
「それは私が送ったんじゃないんです」
 携帯の青白い画面をまぶしそうに見つめながら、祥子は口元に薄笑いを浮かべてみせた。
「私の携帯を使って、誰かがメールを送ったんです」
「誰かが、って誰よ? 祥子しかいないじゃないの」
「私といえば私かもしれない。でもそれは私じゃないんです」
 そういうと祥子は姿見を指さした。
「あいつです。全部、あいつの仕業なんだ――」
 ひび割れた姿見には、戸惑う悦子と祥子が映っていた。鏡に映った祥子もまた、追及するように祥子にむかって指を突き出していた。
「あいつって……」
「こいつです」
 困惑する悦子にむかって、祥子は何度も鏡を指さした。鏡の中の祥子を責めているつもりだが、鏡のむこうの祥子もまた、鏡の外の祥子にむかって何度も指をさしてきた。
「こいつが勝手にメールを送ったんだ。たぶん、私が鏡の前から離れていたちょっとした隙にだろうけど。こいつはそうやって二階堂さんともこっそり会っていたんだ。銀座で悦子さんが見た私は私じゃなくて、鏡の中のこいつなんです。私が鏡の前にいないのをいいことに抜けだしていたんだ。こいつはそうやって、ゴミをベランダから投げ捨てたり、隣の女のところに音楽がうるさいって怒鳴り込んでいったり、二階堂さんの奥さんに変なメールを送り付けたりしていたんだ」
「変なメール?」
「そうです。こいつは、私の携帯を使っていやらしいメールを送っていたんだ」
 祥子は床に散らばった写真や文書の中から、写真の印刷された紙を拾って悦子に渡した。印刷されたその写真を目にした悦子は言葉を失っていた。初めてその写真を目にした時の祥子と同じ反応だった。
 写真には裸の乳房や尻、女性器などが写っていた。
 それは二階堂の妻、彩あてに送られてきたメールのコピーで、内容は卑猥かつ下劣なもので、二階堂との関係を示唆しつつ、彩に別れを迫るものばかりだった。
 茶封筒の中からメールのコピーを発見した時、祥子は初め、彩の嫌がらせだと思った。自分の裸の写真を取って彩に送り付けた覚えなど全くない。しかし、もしやと携帯の送信履歴を確認して祥子は驚愕した。祥子の携帯から彩あてに確かにメールや写真が送付されていたのである。
「祥子じゃなかったら、誰がこんな写真を撮ってメールで送れるっていうのさ」
 悦子は疑いの眼差しを投げかけた。
「だからさっきから言っているように、こいつなんです」
 祥子は鏡を指さした。鏡の中の祥子も指さしかえした。互いに互いを責め合っている図に、悦子は首を振った。
「しっかりしな、祥子。それは鏡にうつった自分だよ。あんた、さっきから鏡の像が抜け出して悪さしているみたいなこと言ってるけど、そんなことあり得ないんだよ。あんた、本当は自分が悪いことしたってわかっているんだ。でも認めたくなくて、鏡の中の自分がやったことにしている。でも、そうやって鏡にむかって責めている相手は自分自身に他ならないんだから、心の底では悪いことをしたと反省しているんじゃないの」
 悦子の話の途中から、祥子は首を横に振り回し始めた。違うのだ、悦子は誤解している。無意識に自白しているのではない。祥子の妄想でも何でもなく、現実に鏡の像が祥子とは無関係に外の世界で動きまわっているのだ。
 やつらは普段は鏡の中で対象物の動きを詳細に真似ている。何が目的でそんなことをしているのかはわからない。わからないが、とにかく、対象物が鏡の前に立つと、彼らは姿を現し、対象物の動きをそっくりそのまま真似てみせるのだ。その物まねがあまりにも完璧なものだから、鏡を見ている人間は自分が映っていると思いこんでいる。だが、祥子は彼らの存在に気づいてしまった。鏡の像の動きが自分の動きからずれて見えたからだった。
 やつらは対象物が鏡の前にいない間は鏡の中から抜け出して好き勝手にしているのだろう。祥子の像は、祥子が鏡の前にいない間に、ゴミを窓から投げ捨てたり、隣人に怒鳴り込んでいったりしていたのだ。
 だが、祥子には、鏡の像が祥子とは別の存在なのだと証明のしようがない。
 何か証拠はないのか、悦子が納得せざるを得ないような確たる証拠は――

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ずれる 3-7

 ふと、床に散乱する写真が祥子の目にとまった。
 そうだ、写真がある。
 床に散らばった写真からレストランで二階堂と食事をしている時のものを拾い上げ、祥子は悦子に渡した。
「みてください。私は右利きなのに、この写真では左手にフォークをもっているでしょう? 私じゃなくて、鏡の像が二階堂さんに会っているところを撮られた写真だからなんですよ。これで私の話、信じてもらえますか」
 悦子はしばらくの間、目を細めて写真に見入っていた。
「裏焼きじゃないですよ。二階堂さんはちゃんと写ってます。私だけが左右反転しているんです。それは私じゃなくて、鏡の像だからなんです」
 祥子は二階堂を示し、結婚指輪が左手にあると説明してみせた。鏡の像が抜け出すなどというありえない話だが、ありえるのだと悦子にも信じてもらえるだろう。祥子は悦子の反応を待った。だが、悦子は写真を祥子に返すなり、冷静に言い放った。
「左右逆転なんかしてないよ」
 その瞬間、祥子は写真を悦子の顔に突き返して叫んだ。
「よく見てください! 私は右利きなのに――」
「左手にフォークを持っている、だろう? みればわかるよ。だけどね、右利きだとしても左手にフォークをもつ瞬間ぐらい、誰にだってあるだろう? この写真はたまたまそんな時を撮ったんじゃないの」
 鏡の像が抜け出しているという事実の客観的な根拠を失って、祥子は揺らいだ。鏡の像でなければ、すべての悪行を祥子自身が行ってきたことになる。だが、絶対にそれはないと言い切れた。
 どうすれば悦子に証明できる?
 祥子は考えた。鏡の像も考えこんだ。鏡には悦子も映っていた。悲し気に祥子を見据えている。
 像がずれて動くところを見れば、あるいは悦子も、鏡の像が抜け出す話が真実だとわかってもらえるかもしれない。
 祥子は突如、鏡にむかって激しく身動きし始めた。
「祥子?」
「悦子さん、鏡の像と現実の私の動きとを見比べてください。こいつは鏡に映った像のふりで私の動きを真似てみせているけど、時々、動きについてこれない時があるんです。それをみれば悦子さんだって――」
 祥子はわざと真似するのが難しいと思われる動きをしてみせた。まるで軟体動物のように体をくねらせたかとおもうと、俊敏な動きで鏡の前を行ったり来たりした。そのたびに鏡の像も鏡に現れたり、鏡の端に消え去ったりした。その動きは一秒たりとも祥子の動きに遅れをとらないのだった。
「祥子……鏡の像がずれて動いたり、鏡を抜け出すなんてことはないんだ……」
「でも、本当にずれるんです」
「祥子、もういいから」
 悦子は鏡の前を跳ね回る祥子の体を抱きとめた。
「悦子さん、信じてください。悪いのは鏡の像なんです。私じゃない。ゴミをベランダから投げたのだって、隣に騒音のことで文句を言いにいったのだって、メールのことだって、みんなこいつがやったって白状したんです」
「うん、うん」
 悦子は小さな子どもをいたわるように祥子の頭をなでた。
「藤重さんをホームから突き落としたのだって、きっとこいつなんだ。二階堂さんとの不倫を社長に密告したのもこいつに決まってる。二階堂さんが好きだったからそんなことをしたんだ。こいつはすごく悪いやつなんだ」
 祥子は鏡にむかってしゃべり続けた。鏡の像もまた、祥子にむかってまくしたてる。
「さやかは自殺だったんだ。さやかと二階堂のことに関しては祥子は無関係だよ。ふたりのことは祥子が入社してくる前のことなんだから」
「でも、こいつが」
「そいつは祥子自身だ。だから、祥子が言ったことをそのまま真似るだけなんだ。それが白状しているように見えただけのことなんだよ。祥子は二階堂とのことで罪悪感がどこかにあったんだね。それで自分がさやかを殺したように思いこんでしまったんだろうね。でも、これだけははっきり言っておく。さやかは自殺だった」
 鏡の中の悦子も同じことを言った。
「ゴミ捨てやメールは……」
「それは祥子自身がやったこと。そうは思いたくなくて鏡のせいにしてるだけ。でも、祥子が悪いんじゃない。これはね、心の病気。いろんなことがあって祥子は少し心が弱ってしまって、そのせいでいろいろなことをしでかしたんだ……」
 悦子の指が祥子の体にきつくくいこみ、頬を伝って流れおちた涙が祥子の髪を濡らした。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

ずれる 4-1

 校了のせわしさが、祥子は好きだった。作業内容は細かく多岐にわたるため神経を使うが、それだけにすべての作業が無事に済み、印刷所へとバトンを渡してしまうと、達成感に満たされる。自分の仕事が「形」になるまでには、その後、色校などの工程を経るのだが、実際の印刷物を手にするより、校了を済ませた直後のほうが仕事をしたという満足感を味わえる。そしてこの校了直後の高揚感を得ようと、ふたたび、次の校了めがけて走り出すのだ。
 悦子は、中毒のようなものだと表現した。いったん校了直後の達成感と高揚感を味わってしまったなら、二度と忘れられず、徹夜だろうと何だろうとなりふり構わずに仕事をし続けてしまう。編集人になったからには、一生、編集人なのだと。
 心も体も休めろという悦子の勧めに従って祥子は実家へと帰った。親には体調を崩したため半年ほど休職するだけだと言ってあったが、半年後、初夏の風も清々しい頃に祥子は辞職した。
 会社を辞めるというと悦子はそれがいいと言って退職届を受け取った。辞めてからも悦子との付き合いは続いていて、時たまにメールがくる。元気にしているかというたわいもないメールで、祥子を気にかけているようだった。
 仕事を辞めてしばらくの間は何もする気がしなかったが、体力が徐々に戻ってくると祥子はまた編集の仕事がしたいと思うようになった。また、編集の仕事しかできないとも思っていた。一生編集人。悦子がそういった言葉が身にしみた。不規則な生活のせいで体を壊したのだと思っている両親は祥子の再就職活動をあまりよくは思っていなかったが、何の仕事をさせないわけにもいかない。結局は祥子の決断を支持するほかはなかった。
 季節が秋めいてくるなか、祥子は、地元の地域情報を掲載しているフリーペーパーの編集部にとびこんだ。身分は契約社員で、給料もかつてのものにははるかに及ばなかった。小さな出版社なので、祥子は編集だけでなく、取材にむかい、記事を書き、校正もしてと、一人で何役をこなさなければならない。忙しい身だったが、忙しくすればするほど時間がスピードをあげて過ぎ去っていくようで、祥子にはかえって心地よかった。
 二階堂との関係は体が離れてようやく解消できた。とはいえ、祥子の携帯には二階堂からの留守電メッセージがまだ残っている。関係をもつ前に仕事のことで残されたメッセージだが、祥子は削除できないでいた。さびしくなると二階堂の柔らかな声に包みこまれたくなる。心がまだ二階堂に残っていると知る祥子は、仕事に没頭した。



「仕事ばっかだと、つまんないでしょーが」
 金曜の夜だというのにひとり残って黙々と仕事を続ける祥子を、伊藤健一は飲みに誘った。
健一は、祥子より少し前に編集部に中途採用で入った正社員だった。学生のような若々しい見た目だが、年は祥子と変わらないという。本人は童顔を気にかけてうっすらと髭を生やしているのだが、年配の特に女性からは無精ひげにしか見えないと不評をかっていた。それでも剃るつもりはないらしい。それどころか意外に手入れが大変なのだとぼやいていた。
祥子同様、編集経験があるらしいのだが、注意力が足りないのか、健一の書く記事には細かいミスが頻発した。互いに書いた記事を校正しあう編集部で、祥子は健一の文字に対するいい加減さが気になっていた。間違いを指摘してやっても、悪びれる様子もない。少人数で家族的な雰囲気の編集部で、健一は出来の悪いやんちゃ坊という位置づけで、他の編集部員からはかわいがられていた。
「行こうよ、行きましょう、行くのです、飲みに行くのだ!」
 その日の健一は執拗に祥子を誘い続けた。他の編集部員は早々に退社し、残っているのは祥子と健一だけだった。
「そんなに飲みたいんだったら、ひとりででも行けばいいじゃないですか」
「ひとりじゃ面白くない。誰かと飲むから酒は楽しいんだ!」
 健一は祥子の机の上に腰かけて引き下がろうとしない。
「じゃ、誰か別の人を誘ってください」
 他に誰もいないと知っていて、祥子はつっけんどんにそう言った。
「誰もいないし」
 そう呟きながら両足をぶらつかせていた健一だが、つと机を降りたかと思うと、どこかへと消えていった。
 やっと退社する気になったかと、祥子は健一が腰を下ろしていた場所にすかさず資料の束を重ね置いた。そして、社内にはもう誰も残っていないのを確認すると、そっと携帯を取り出し、耳にあてた。
 二階堂の低い声が祥子の耳を震わせた。かつて二階堂が残した留守電のメッセージだ。事務的な口調で色気はないが、二階堂の声には違いない。体は離れたが気持ちはまだ残っていて、祥子は今だにメッセージの再生ボタンを押して二階堂の声に聞き入ってしまう。メッセージの内容の一言一言を、今では祥子は暗記してしまっていた。
「お待たせ」
 背後から聞こえてきた健一の声とともに目の前にコンビニの袋が降りてきて、祥子は慌てて携帯を切った。
「はい?」
 袋の中身は缶ビールとつまみのスナックだった。
「飲みに行かないのなら、ここでふたりで飲もう」
 コンビニの袋から缶ビールを取り出すなり、健一はプルトップを開けた。椅子をどこからか持ち出してきて腰かけ、長居するつもりでいる。
「ハチも飲めば?」
 健一は祥子を八(はち)と呼ぶ。八田の八だ。まるで犬の名前だからやめてくれといっても健一はその呼び名で呼び続けた。最近では他の編集部員も祥子を八と呼ぶようになってしまった。
「結構です」
 次号の原稿のチェックをする祥子のかたわらでは健一がつまみを口に放り込んでいた。
「ハチ、仕事楽しい?」
「楽しいですよ」
「そうは見えないけど」
「どう見えるんです?」
 祥子が気色ばんでも、健一はまるで意に介していない。
「苦行のように見えるけど」
 健一の一言に、祥子は返す言葉もなかった。
「編集の仕事、好きなんだよな? 好きでなかったら、薄給なのに続けていられないもんな? でもさ、好きな仕事をしているんだったら、もっと楽しんでもいいはずなのに、ハチは全然楽しそうじゃない」
 健一の言い分を祥子は否定できなかった。仕事に打ち込むのは好きだからではなく、何かから逃れるためだと祥子自身も薄々気づいていた。今夜も特に急ぐ仕事があって残っていたわけではない。
「仕事だけじゃなくて、なんか、いつも楽しそうじゃないんだよ、ハチは。笑えばかわいいのに滅多に笑わないし。人生そのものが苦行という感じがするよ、ハチをみていると」
 いつもは幼く感じられる健一が今夜に限って人生を達観している仙人のようだ。
 健一の見立ては正しかった。二階堂とのことがあってから、祥子は自分は人生を楽しんではならないのだと戒め続けていた。二階堂の妻を傷つけた贖罪のつもりであったのかもしれない。悦子はすべてを忘れて新しい人間に生まれ変わったつもりで再出発をと激励してくれたが、祥子は過去を振り切ることができずにいる。
 今夜の健一には、二階堂との過去を含めた自分のすべてを見透かされるような気がして、祥子は顔をそむけた。
 そのとたんに、目があったのは窓ガラスにうつった自分の姿だった。
 編集部の入ったビルは側面がすべてガラスで覆われていた。3階のその場所からは周辺のビルの放つ明かりの夜景が楽しめた。その窓ガラスに、祥子と健一の姿が反射して映りこんでいた。とっさに祥子は顔をそむけた。
 あれは弱った心が見せた幻だと今では納得していても、鏡などで自分の姿をみると、また、ずれて見えるのではないかという不安に駆られる。
 祥子は親にいって、部屋の前の壁に取り付けられていた姿見を外してもらっていた。夜中にあの鏡の前を出入りする勇気はない。身支度などで鏡を見なければならない場合でも必要最低限の時間にとどめ、家にいる時には母親が鏡の前に立っている時をねらって自分も立ち、素早く身支度を整えた。
「伊藤さん。ここで飲んでも味気ないから、外へ飲みにいきましょう」
 祥子は椅子から立ち上がり、窓ガラスに背をむけて健一を誘った。一刻も早く像の前から逃げ出してしまいたかった。

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ずれる 4-2

 健一とは、祥子から誘って男と女の関係になった。
 初めて体を重ねた夜、祥子は二階堂とのことを健一に打ち明けた。
「私、汚い女なの」
 健一は怪訝な顔をしてみせた。
「奥さんのいる人と付き合ってた――軽蔑するでしょ」
 東京をひきあげて地元へ戻ってきた理由を、体を壊したからだと親についていたのと同じ嘘を祥子は健一に聞かせていた。
「壊したのは体じゃなくて心なの。それで――」
「帰ってきたんだ」
 健一はベッドの上に裸の上半身を起こし、膝を抱えている祥子に居並んだ。
「不倫相手の奥さんに変なメール送ったり、近所の人に嫌がらせしたり……。全部自分がしたことなのに、鏡の中の自分が勝手にしたことだと思いこんでいたの」
 祥子は、鏡の像がずれて見えたことを告白した。頭のおかしな女だと思われるだろうと恐れはするものの、そう思いたければ思えばいいと祥子は捨て鉢な気持ちにさえなっていた。失うのなら早いほうがいい。身をさらした相手に、祥子は心もさらしてしまいたい気がしていた。
 知っているだけの事実を的確に伝えようと言葉を選んで時折黙り込む祥子の話に、健一はうなずくだけで口を挟まずに聞き入っていた。
「人のせいにしたかったんだな。そうすれば楽だから」
 健一は、鏡の像が別に存在するという考えをそれとなく否定してみせた。悦子と同じ反応だった。今は祥子も、鏡の像が自分の真似をしているだけなどという考えはバカげたものだとわかっている。
「ごめんね……」
 祥子は顔を両膝の間にうずめ、小さく頷いた。
「なんで謝るんだよ」
「こんな女だって知ってたら、寝なかったでしょ……」
 鏡はなくとも、祥子にはもうひとりの自分の声が聞こえた。他人のものを盗ろうとした薄汚い女。そんな女は幸せになろうとしてはいけないのだ。だが、祥子はそんな声を無視して、健一に抱かれた。一時でも構わないから、罪のない悦びを感じたかったのだ。だが、悦楽の後に祥子を襲ったのは激しい罪悪感だった。健一を騙した、そんな声が聞こえた気がして二階堂との過去を告白してしまっていた。
「そいつとはもう終わったんだろ?」
 顔を伏せたまま、祥子はうんと小さく呟いた。
「じゃあ、もういいじゃないか。俺は祥子が好きだから、寝た。ずっと抱きたいと思っていたんだぞ――」
 健一のたわしのようなあごひげが祥子の背中をくすぐった。
「祥子は汚くなんかない」
 そういって健一は祥子を背中から抱きかかえた。いつの間にか、呼び名がハチから名前に変わっていた。
「祥子は悪くない。悪いのはその男のほうだ。結婚していたのなら、男が踏ん張って誘惑を振り切らないといけなかったんだ。祥子、自分を責めるな」
 健一の両腕がきつく絡んでほどけなかった。窒息しそうになりながら、祥子は健一の思いを懸命に受け止めた。生まれ変わるとはこういうことなのかもしれないと、健一に抱かれながら祥子は涙した。



 健一が寝入ったのを確かめ、祥子はそっとベッドを抜け出した。バッグをさぐって携帯を手にすると、しなれた動作で留守電の画面へとむかう。メッセージを本当に削除するかという確認画面が出たのもつかの間、祥子はメッセージを削除した。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

ずれる 最終話

 その週末、新しく出来た巨大ショッピングモール内のカフェで昼食を兼ねた遅い朝食を済ませ、祥子は健一と買い物を楽しんでいた。田舎の郊外の広大な敷地を贅沢に利用したモールでは、日用品から贈り物までありとあゆるものがそろっていて、すべての買い物が一か所で済んでしまう。カフェやレストラン、映画館も併設されているので、丸一日過ごしていても飽きない。それまで駅ビルで買い物するか、パチンコでもして時間を潰すしかなかった地元の人々にとって、モールは新しく出来たエンターテインメント施設でもあった。地元の人々だけではない。県境にあるモールは、隣県からの人々も呼び込んでにぎわっていた。
「ねえ、ちょっとここに寄ってもいいかな」
 夏のバーゲンでの戦利品を手に足取りも軽やかな祥子は、とある店の前で足を止めた。店頭にはさまざまなタイプの鍋が並べられていた。台所用品を扱う店だった。
「何買うんだ?」
「包丁を買おうとおもって」
 一人暮らしをしている健一の部屋に、祥子はたびたびあがりこむようになった。週末ともなると泊まって手料理をふるまう。食器などは健一のものはそろっていて、祥子は自分の使うものは実家からかつて一人暮らしで使っていたものを運びいれた。調理器具は男の一人暮らしだというのにフライパンから鍋まで一通りのものがそろっていた。健一は料理をしない。不思議に思って誰が買ったのかと聞くと、以前同棲していた恋人が買い込んだと白状した。
 別れてからは使っていないとみえ、ほとんどのものが新品同様だった。どうやら使い込む間もなく別れてしまったようだった。気にならないといえば嘘になるが、物に嫉妬しても仕方ない。祥子はそろっている調理器具を利用して料理をした。ただ、野菜や肉を切るのには手こずった。健一の部屋にあったのは果物ナイフだけで、半年もの長い間、小さなそのナイフで我慢してきたが、使い勝手がよくない。
 買いそびれていた包丁を買うなら今だと、祥子は店内へと勇んでいった。
 包丁を買うつもりが、さまざまな台所用品の数々に祥子は目を奪われてしまった。パスタを茹る鍋や中華鍋などといったものはなくても他のもので代用がきく。買うつもりはないが、見ているだけでも楽しいと祥子はふらふらとしていた。一向に包丁を買う様子のない祥子をほったらかし、健一はふらりとどこかに姿を消してしまった。
 ようやく包丁の陳列棚にたどりつき、ああでもないこうでもないと吟味した上、ようやく目当ての包丁を手にレジにむかった祥子の後を、健一が小走りに追いかけた。レジのカウンターの上に置かれた包丁の横に並べられたのは、瓢箪の形をした箸置きだった。
「箸置き?」
 会計を待つ間、祥子は健一に耳打ちした。箸置きなどあってもなくても困らないもので、わざわざ買う必要がない。
「一緒に住むなら、祥子と同じものがあるといいなと思ってさ」
 店員に会計を促され、健一は支払を済ませ、包丁と箸置きの入った袋を受け取った。
「一緒に住むって……」
 店を出るなり、祥子はたずねた。
「どう?」
「どうって……」
「構わないだろ?」
 同棲を拒む理由が見つからない。祥子は嬉しいような恥ずかしいような笑顔を口元に浮かべた。


 
 買い物を終えた祥子と健一は、車に戻ろうとして言葉を失った。
モールは、モールと同じぐらいかあるいは広いくらいの巨大な駐車場を併設していた。その駐車場のどこに車を停めたのか、運転してきた健一も祥子もまるでわからなくなってしまったのだ。
 駐車場には区域別に動物の絵が描かれた案内板が掲げられているのだが、祥子も健一もその案内版を見逃してしまっていた。
「しょうがない。探してもってくるから、ここで待っててよ」
 そう言うなり、祥子に荷物を預け、健一は車の海に飛び込んでいった。
 夏の終わりが近づいているというのに、暑い日だった。モールの中はエアコンが効いているが、いったん外にでるとアスファルトの地面から熱がたちのぼってくる。立っているだけでも汗がじわりとにじんできた。
 健一が車を探し出すのには時間がかかるだろう。昼過ぎの熱い日差しを避け、祥子はモールの中で涼を取ることにした。
 くるりと身をひるがえした祥子の目に、ショーウィンドウにうつりこんだ自分の姿が飛び込んできた。
 まともに自分と目を合わせる格好になり、祥子は体をこわばらせた。
少しずつ鏡に慣れてきたとはいえ、それは今から鏡を見るぞと意識している時の場合に限られていた。電車の窓や今のようにショーウィンドウなどに反射した自分の姿をふと見かけてしまうと、心臓がとまりそうになる。今だに動きがずれて見えるのではないかと不安になる。
 一刻も早くその場を立ち去ろうとする祥子だったが、自分自身の分身を目の前に祥子は動けなくなった。ショーウィンドウを覗き込む祥子の目は、自分の分身ではなく、別のものをとらえていた。
ウィンドウにうつった祥子の肩越しに、見覚えのある男が見えていた。細身のスーツ姿のその男は、二階堂隆だった。二階堂は車から降りようとするところだった。
 東京にいるはずの二階堂がなぜ祥子の実家のある町にいるのか。その答えはすぐにわかった。二階堂が乗ってきた車は社用の軽自動車だった。営業所で使っている車だろう。二階堂がかつて勤務していた営業所は隣県にあった。仕事でかつて働いていた営業所に来たと思われる。
 二階堂が降りてきたのは助手席側で、運転席からは若い女が降りてきた。陽炎ゆらめく駐車場を、ふたりは手をつないでモールへとむかって歩いてきた。
 ショーウィンドウ越しにふたりを眺めている祥子に、二階堂が気づくはずもない。祥子はそのままやり過ごすつもりで、身じろぎせずショーウィンドウの自分と向き合っていた。たとえ健一が車をもってきても、動かないつもりだった。
 二階堂は甘たるい顔をときおり女にむけていた。かつて祥子にも見せていた同じ笑顔だった。女とは営業所務めの頃からの関係なのだろうか。もしそうならば、祥子と関係のあった時期と重なる。
 祥子の息が荒く、不規則になった。焼けそうなほどに暑いというのに、指の先が凍えるように冷たい。箸置きと包丁の入った袋を持っているはずだったが、次第に手に荷物の重みを感じなくなっていた。
 額から噴き出した汗が目の上へと流れ落ちていった。汗をぬぐおうと、祥子は荷物を地面に置いた。その瞬間、目の前を黒い影が走り去った。顔をあげた祥子の目の前に、映っているはずの祥子の像がなかった。
 祥子の像は、袋から取り出した包丁を手に、ウィンドウの奥に映っている二階堂たちにむかって走っていた。
 背後で凄まじい悲鳴があがった。女の声だ。祥子は振り返れずにいた。
 振り返ってみるまでもなく、何が起こったのか祥子にはわかっていた。
 二階堂が連れていた女が刺されたのだ。包丁を手にした祥子の像は女にむかって袈裟懸けに切りつけた。叫び声をあげて倒れたところを馬乗りになり、祥子の像は女にむかって何度も包丁を突き立てていた。
ショーウィンドウに映った惨劇の様子は、祥子の背後で起きた出来事を寸分違わず再現しているはずだ。だが、女をめった刺しにしているはずの祥子はショーウィンドウの前に立ち、その様子をまるで映画でもみているかのように眺めている。
 叫び声はやがて消え、女は息絶えた。女が襲われている間、二階堂は傍らで立ち尽すばかりだった。
何ごとかとモールを出て二階堂たちのもとにかけつける人々の動きとは反対に、血の滴る包丁を手にした祥子の像はモールにむかって走ってきた。
 祥子の像はショーウィンドウの前に佇んでいる祥子の目の前に立つと、祥子と同じ姿勢をとって動かなくなった。
 背後に刺さるような視線を強く感じる。
 ショーウィンドウの向こう側では、包丁を手に立ち尽くす祥子の背中を人々が見据えていた。
汗がじわりとしみだして目の上に流れ落ちてきた。汗をぬぐった手に異様な感触があった。汗より重く粘り気がある。それは汗ではなく、血だった。
 どこからか鉄さびの臭いが強く漂ってきていた。臭いのもとを探して辺りを見回した祥子の鼻は、胸元を嗅ぎ当てた。鉄さびの臭いは祥子の胸元から強く臭ってきていた。
 顎を引いて胸元を見る祥子の目に映ったのは、女の返り血を浴びて真っ赤に染まったTシャツだった。見下ろす視線の先に、光るものが見えた。血のりのべったりとついた包丁がいつの間にか右手に握られていた。
 

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あとがき

鏡にうつっているものが自分だとわかっているからこそ、そこにうつっているものを見ても怖いとも何とも思いませんが、動物などでは、敵だとおもって威嚇する場合もあるのだとか。もしくは無視。

子どもはいつから鏡にうつっているものが自分だと認識するようになるのかな?

自分をふりかえっても思い出せませんが、まあ、親から鏡というものを教えられて徐々に慣れていくんでしょう。

それでも、子どものころは鏡をみるのが怖かったものです。どこかで不気味なものという意識がぬぐえなかったのかも。

今作は、そんな恐怖を大人むけに味付けしてみました。

日常にひそむほんの少しの恐怖を感じとっていただけましたでしょうか。

読んでくださいましてありがとうございました。

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