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あらすじ

ダメンズウォーカーの親友・長谷川彩花にかわって男選びをすることになってしまった立木桃子。付き合っても大丈夫な相手かどうか見極めてほしいと彩花に頼まれた男は、桃子が秘かに思いを寄せ続けてきた会社の先輩・佐野貴一だった。

なのなのな

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テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 1-1

 いつもと同じ形で彩花とは別れるはずだった。
 いつもと同じ店、「オステリア」の角ばったカウンター席。カウンターには飲みかけのカンパリオレンジとファジーネーブル。
 グラスの縁をもてあそびながら彩花が化粧が崩れるほど泣きながら男の話をする。ファジーネーブルを飲みながら桃子は彩花の話に耳を傾ける。
 彩花はいわゆるダメンズウォーカーだ。どこで探してくるのか、浮気はする、借金は踏み倒す、暴力を振るう、そんな最低男とばかり付き合っている。普通ならそんな男たちは願い下げだというのに、彩花は捨てられた口惜しさを嘆く。
「だから言ったじゃん。あんな男、やめておきなって」
 彩花が男についてのあれやこれやを散々ぶちまけた後、頃合いをみて桃子は言う。一字一句、毎回同じ、おなじみのセリフ。これが出るとエンディングは近い。
 とたんに彩花は泣き崩れ、桃子の説教が始まる。
 それがいつものパターンだった。数か月に一度の頻度で繰り返される、後悔と説教のカップリング。ひとしきり泣いた後、トイレで化粧を直した彩花は決まって言う。
「もう恋なんてしない」。
 もう一つのおなじみのセリフ。カッコシー彩花。何度も聞いてきたセリフを聞き流し、桃子は彩花と別れる。
 そうなるはずだった。
 どこで、後悔と説教のインフィニティの輪に切れ目が入ったのだろう。その夜を境に、桃子は異次元に放り出されてしまった。

「だから言ったじゃん。あんな男、やめておきなって」
 氷が溶けてすっかり味の薄くなったファジーネーブルで唇を潤し、桃子はおなじみのセリフをはいた。ちらりと腕時計に目をやる。十時半。ここからは攻守交替、聞き役から説教役に転じる。
「三十過ぎてアルバイトしか経験したことがないって、ダメ男のフラグが立ってるじゃないの。なんでわかんないのかが、逆にわかんない」
「アルバイトでも仕事したことあるだけ、マシだもん」
 彩花はふっくらとした唇を尖らせた。
「就職難の時代だから、アルバイトしかしてこなかった人だっているでしょ。それに、彼は作家になりたいから敢えていろんなバイトして人生経験積んでいるんだって言ってたもん。そうすることで作品にリアリティーが出るんだって」
「あえて、ねえ。でも、作家志望って言っても何も書いてなかったんでしょ。彩花の部屋に転がり込んで一緒に住むようになってからはバイトも辞めて、一日パチンコしてたらしいじゃない。プロの作家になるにはとにかく本を出版しなくちゃならない。とりあえず自費で出すからそのための金を貸してくれって言われてさ。結局、いくら貸したの?」
「んと……合計で百万くらいかな」
「大金じゃないの! 自費出版の話、結局嘘だったんでしょ。お金は全部パチンコに使っちゃったんだよね」
「パチンコしているといいアイデアが浮かぶんだって言ってた」
 嘘までつかれた挙句に金をむしろとられた当人の彩花は他人事のようにそう言ってニヘラと笑った。
「騙されたの! 作家志望なんて話も嘘。最初から彩花のお金と体が目当てだったんだって」
「そうかなあ」
 モヘアのセーターの袖口から彩花の小さな手が出たり入ったりを繰り返している。オレンジイエローのゆったりしたセーターの上からでも、彩花の豊満な体つきが見てとれる。カウンター席はもとよりテーブル席の男性客の視線は彩花の盛り上がった胸元と白のミニスカートからのぞくむっちりとしたふとももとの間を行ったり来たりしている。
 小動物のような愛くるしさと肉感的なものが同居する自分の女としての魅力に彩花はムトンチャクだ。真冬でも彩花はミニスカートをはく。厚着をしていてもそれとなくわかる体の線は薄着の季節、夏になると露骨になる。彩花の服装に対するTPOはまるでなっていない。一度、ホットパンツを履いてきたことがあって、社内は騒然となった。
 職場は仕事をする場所、男の注目を浴びる場所ではない。そう考える桃子はパンツスーツに身をつつみ、胸元はおろか、足すら出したことがない。何を考えて仕事場に着てくる服を選んでいるのかと彩花に呆れていたが、よく知り合ってみると彩花が何も考えていないということがわかった。
 桃子と彩花は、文房具メーカーに勤めている。同期入社で勤続六年目、ともに二十九歳。デザイナーの彩花はキャラクターグッズのデザインを手がけ、商品企画開発に携わる桃子が彼女と知り合ったのは、入社してまだ日も浅い頃、桃子がキャラクターグッズの担当をしていた時だった。
 彩花は彼女がデザインするキャラクターそのものだった。子どもから女子高生までを対象とするキャラクターたちはみな、フワフワとしてマルマルとして、思わず抱きしめたくなる可愛らしさだ。それが彩花だ。彩花は根っからかわいいものが好きで、フワフワ、フリフリ、ヒラヒラの服を着ているに過ぎない。
 何も考えていない――男の気を引こうなどという意図は彩花にはまったくない。だが、本人の意図とはまったく関係のないところで、ベビーフェイスと大人の肉体の組み合わせは男たちの注目の的となった。
 女性社員からは冷ややかな視線を浴びせられ、男性社員からは軽い女のように見られ、彩花の社内での評価は低かった。彩花が営業に色仕掛けをしたから、彼女のデザインするキャラクターは売れたんだという根も葉もない噂もたったりした。
 それが桃子の気に障った。可愛い女がかわいい格好していて何が悪い。一緒に仕事をし、彩花のデザイナーとしての力量を知る桃子はそれから彩花の味方になった。
 今では仕事の悩みを打ち明けたり、恋の話もする。といっても、恋の話をするのは彩花だけで、桃子は一方的に聞くばかりだ。
 とにかく彩花はもてる。男の途絶えたことがない。男好きのする外見に、ひとなつっこい性格だから、男の方から寄ってくる。しかし、その男たちが問題だった。彩花は絶望的なまでに男を見る目がなかった。群がる男たちの中から、どうしてそんな男を、という男を選んでしまう。そして泣かされる。泣きつく相手は桃子だ。やめておけといったのにと言われ、その場では殊勝なふりで説教を聞いているものの、次の男もまたろくでなしをつかまえて失敗、桃子に泣きつく。そして説教。後悔と反省。延々と続くループだ。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 1-2

「彩花はさ、女として自分がすごく魅力的だってことに気づいていなさすぎ。だいたいさ、よりにもよってダメ男ばかり、どこで知り合うの?」
「んっとね、むこうから声かけてくる」
「それってナンパってこと?」
「うん」
 こくりと頷く彩花の頭をわしづかみにして、栗色の髪をもみくちゃにしたい衝動を、桃子はかろうじて抑えこんだ。
「ナンパしてくるのにろくな奴いないじゃん。見て普通の男じゃないってわかんないかなあ」
「普通じゃないって、どう普通じゃないの?」
 彩花の大きくて黒目勝ちな瞳に見つめられると、男でなくてもドギマギしてしまう。
「だからさ、髪が長いとか、黒くないとか。ピアスしてるとか、いかにも遊んでますって外見。普通の男は髪もちゃんと整えてるし、ピアスなんてしてない」
「桃子の言う『普通の男』は、いい男で、いい人なの?」
 彩花は、腰まである長い髪の縦に巻いたカールの先を指でもてあそんでいた。
「そう。だから、付き合うんだったら、そういう男とね」
「元カレは普通だったよ。髪も長くなかったし、茶髪でもなかった。ピアスもしてなかった。でも、最低男だった」
 彩花の鋭い指摘に桃子は二の句が継げなくなってしまった。前の男と彩花が別れた時、今度付き合うならちゃんとした普通の男とと言ったんだと思い出した。そういう意味では、桃子のいう「普通の」男と彩花は付き合って、またもや失敗したのだ。
「でも、ほら、前の男は茶髪だったじゃない。サーファーだったっけ。彩花に借金させたお金を別の女に貢いでいたっていう男」
「それは前の前の彼。前の彼はサーファーじゃなくて、ライフセーバー」
「『自称』ね。海の家の従業員だったよね。別の女に貢いでいたのって、DJの男?」
「ちがう、ミュージシャン」
「そうだった。デモテープ作ってレコード会社に持ち込みたいから金を貸してくれって言われて貸したんだよね。いくらだっけ?」
「五十万円……」
「そのお金、返してもらってないんだよね」
 返事のかわりに、彩花は唇を尖らせ、ぷいっとそっぽをむいてしまった。子どもじみた仕草がかわいらしい。男なら慌てて機嫌をとるところだろう。
「元カレと似たパターンじゃないの。作家志望とミュージシャン志望。プロになりたいからそのための金を出せって言われたのも同じ」
「ちょっと違う。ミュージシャンの彼は浮気相手に貢いでて、作家の彼はパチンコに使った」
 桃子をやりこめたと言わんばかりに彩花は笑顔を浮かべている。騙されたことに変わりないのだが、そんなことはどうでもいいらしい。前の経験から学ばない彩花が桃子は不思議で仕方ない。
「笑ってする話じゃないってのに。まったく彩花は」
「浮気ぐらい、暴力にくらべたらどうってことないもん」
 酔ってほんのり赤味を帯びている彩花の頬がひきつった。桃子でさえ、思い出すだけで胃の底にムカつきを覚えるその男は、彩花の肋骨を折った。彩花によれば、ちょっとした口ゲンカをしていたら部屋の壁に突き飛ばされたということだが、多分、嘘だろう。男に蹴られたか、殴られたかしたのは明らかだし、第一、ちょっとした口ゲンカぐらいで突き飛ばすような男はろくでなしだ。さすがの彩花もDV男だけは懲りたらしい。後にも先にもDVはその男ひとりだった。
「なんでダメ男ばかりなのかなあ。彩花はそういう男を呼び込んじゃう体質なのかなあ」
 独り言のつもりだったが、彩花にはしっかり聞こえていたらしい。
「呼んではいないもん。私だって、ダメンズはこりごり。だから、前とは違うタイプを選んでいるのに、なんでか次もダメ男なの」
 言われてみれば、彩花の歴代の男たちはみな違うタイプで、職業も外見もバラバラだった。最初に愚痴を聞かされた男は美容師をしていて通っているサロンで知り合ったと言っていた。その次の男の職業は忘れたが、外見だけはまじめそうな男だったのを、紹介された桃子は覚えている。今度は大丈夫だろうと安心していたら、同棲した途端、仕事を辞めて彩花の収入に頼るようになった。忙しい彩花に比べて時間をもて余し気味の男はお決まりのように他に女をつくった。その次の男は、パチンコ店の従業員だと聞いていた。前の男が口数が少なかったのにくらべ、パチンコ店従業員の男はおしゃべりだった。
 一見まじめそうな男と、みるからに遊んでいそうな男。見た目にも性格にも共通点がない彼らに共通しているのは全員がダメ男だということだ。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 1-3

「だとすると、彩花が男をダメ男にしちゃってるのかな」
「どういう意味?」
 聞き捨てならぬと彩花がくいついた。
「彩花、嫌われたくなくて、つい相手の言う通りにしちゃっているんじゃない? そうだとすると男はつけあがって勝手し放題になるの。こいつは俺の言うことは何でもきく。何を言っても何をしても怒らない、別れるなんて言わない女なんだなって思って」
 すらすらと言葉が口をついて出た。彩花の心理が手に取るかのようにはっきりわかる。はっきりすぎて他人の心理とは思えないほどだ。
(もしかして、私、自分のことを言ってる?)
 桃子が大学時代に付き合った男がまさにそういう男だった。プロダクトデザイン科の同級生で、大学二年の夏から付き合いだし、桃子が社会人になって半年後に別れた。
 彼は就職活動をしなかった。正確には、自分が志望する会社一社しか受けなかったのだ。彼は自分はその会社に就職してデザイナーとして活躍するのだという自信を持っていた。確かにクラスでの評価はよかったからその自信にまるで根拠がないわけではなかった。しかし、就職はできなかった。
 すっかり自信を無くした彼を桃子は励まし続けた。次がある、別の会社がある、そういって声をかけ続け、落ち込んでいるからと厳しくはしないでいるうちに甘くなり、男は浮気をした。
 見限るようにさっさと別れることができたのは、桃子がすでに社会に出ていたからだった。桃子の世界は広がっていた。次がある、別の男がいる。何もこの男でなくてもと思ったとたん、それまで彼しかいない、この人に嫌われたらどうしようという恐怖心から解放された。
 以来、仕事が恋人になった。仕事は尽くせば尽くしただけの見返りをくれる。わがままは言わない。最高の恋人だ。
「うーん。嫌われたくないっていうか、めんどくさいなと思っている部分はあると思う」
「めんどくさいってどういうこと?」
「かまってやるのがめんどくさい。仕事で忙しい時なんか、休日にどこに行って何をするのか考えるのもめんどうだから、相手にまかせちゃう。何でもいいよとか、好きにしてって言っちゃうのが癖になってるかも。私がかまわないでいるから浮気するんだろうけど、仕事で疲れていると問い詰めるのもめんどくさいし。ほっといたらつけあがるってわかってはいるんだけど。たまに、別れ話するのもめんどくさいって思うこともある。あれかな、水やりがめんどくさくて観葉植物を枯らしちゃうんだけど、男も面倒みないと枯れてダメになるのかな。私、サボテン枯らしたことある!」
 サボテンを枯らす女は強者だと、桃子と彩花は目じりに涙がたまるまで笑い転げた。
「彩花は仕事モードに入っちゃうと、他のことが何も手につかなくなるもんね」
 見かけはほんわかとして愛くるしい彩花だが、デザインの仕事となるとがらりと人が変わる。普段の会話ではすっとぼけた、的外れのようなことを言って周囲をあきれさせたり笑わせたりするが、仕事となると、あいまいな言葉で伝えられる指示をきちんと形にする。相手が言葉にできなかった部分も汲み取って形にする。
 自分の仕事に対してはプライドも高く、納得がいかない仕事に対しては周囲が何を言おうともガンとして受け付けない。理解できない指示は、理解できるまでとことん相手を質問責めにする。そういう時の彩花の口調はいつものおっとりとした調子とは打って変わって早口で、あいまいな表現を避けるのでストレートできつい言い方になる。
「私だって、枯らさないように努力しているつもりだよ」
 彩花の潤んだ瞳が桃子を見上げた。こんなあざとい仕草が男にはうける。“狙ってる”だの”計算している“だの言われるこうした仕草は、鳥が翼をひるがえして空を飛ぶように、魚が水の中を自由に泳ぎまわるように彩花にとっては自然で無理がない。
 自分にはまるで身につかなかった彩花の女の子らしい仕草を真似て、桃子は一度、鏡にむかって上目づかいとやらをしてみたことがある。あまりのえげつなさに桃子自身、気分が悪くなった。以来、好きな男の前でも決して媚を売るような真似はしまいと心に決めている。
「前の彼の時はこうしたから失敗した、だから今度は逆にいってみようとすると、何でだか同じ失敗しちゃうの。構わなくて浮気されるなら、構ってみようとしたらうざがられて浮気される。どうしたらいいのってわかんなくなって、男を枯らしちゃう」
「その人の性格とかにあわせて行動すればいいんじゃないの?」
「考えるよ。でも考えすぎて、余計訳わかんなくなる。裏の裏の裏をかいて結局前のパターンと同じとか、そんなのばっかり。桃子はそういうことないの?」
「学生時代の彼で学んだから。その後はそういうことないな」
 記憶をさかのぼった後、桃子はそう答えた。失敗しようにも、そもそも学生時代の彼と別れて以来、恋人という存在がいなかった。
「じゃあさ、聞くけど、桃子が私だとして、彼から作家デビューしたいからそのために必要な出版費用としてお金を貸してくれって言われたら、どうした?」
「本当に自費出版のための資金かどうか確かめるために、何にいくらかかるかの明細をださせるかな」
「お金はすぐには渡さない?」
「うん。何に使うにせよ、自分で捻出できないで付き合っている女に出させようという時点で、そんな男とはサヨナラ。っていうか、そんな男とはそもそも付き合おうとすら思わない」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 1-4

「ねえ」
 彩花は突然、ぐいと顔を近づけてきた。
「どうして付き合うとすら思わないの?」
「どうしてって」
 目の前にあってますます大きく見える彩花の瞳に妙にドギマギさせられながら、桃子は言葉をさがした。
「いい年して夢見心地でいるだけの男なんて、みるからにアウトでしょ」
「そんなの、付き合ってみないとわからないじゃん。夢みることは悪いことじゃない」
「そうだけど、行動がともなっていなければね」
「行動って?」
「小説家志望なら、毎日小説を書いているとか、ミュージシャン志望なら作曲しているかとか、そういう努力をしているかどうかってこと。行動しない、できない理由を言い訳するならその時点でコイツはダメだなってわかる」
「でも、何か事情があるだけでとか、そういうことは考えない?」
「考えない」
 桃子はぴしゃりと否定した。たちまち彩花は萎れてしまった。かと思うと、すっと頭を上げ、桃子に迫った。
「桃子!」
「な、なに」
「森の中で道に迷ったとしたらどうする? 来た道を戻る? それとも、どこかに出られるかもしれないとそのまま歩き続ける?」
「来た道を戻るかな」
 ほんの少しの間をおいて、桃子は言った。
「来た道を引き返していけば確実に森から出られるでしょ。入ったところへ戻るんだから」
「じゃあさ、モンスターに追いかけられたとして。目の前にある吊り橋を渡って逃げようとしたら、その先に別のモンスターが現れたらどうする? 別のモンスターを振り切って逃げる? それとも戻る?」
「戻ると思う」
 今度はさっきよりも返事に少し時間がかかった。桃子の答えを聞くなり、彩花は大きな瞳をさらに見開いて、桃子を見つめ、小首を傾げた。
「どうしてそんな簡単に決められるの? 私なんか、すごく悩むのに」
「追いかけてきたモンスターなら、たとえば小回りがきかないとかそういうちょっとしたことが少しは分かっていると思うんだよね。そういう相手なら、かわせないことはないと思う。でも、新しく出てきたモンスターについては何もわからないから、取り敢えず逃げるしかないでしょ」
「追いかけてきたモンスターより弱いヤツかもしれないよ?」
「そんな小さな可能性にかけられまセーン」
 桃子がそう言うと、彩花はバタリとカウンターの上に身を投げ出し、しばらくの間、動かなくなった。
「彩花?」
「うん」
 不安になった桃子が声をかけて、ようやくカウンターの下から声があがった。
「そうだよね。新しく現れたモンスターが弱いかもしれないなんて、根拠がない推測だもんね。そっかあ……桃子の考え方が正しいよ。桃子みたいに物事を判断できたら、失敗少ないよね」
 彩花は上半身をだらりとカウンターの上に預けていた。まるでこぼれたオレンジフロート、カウンターに片方の頬をつけた横顔が桃子を見上げている。
 突然、彩花が体を起こした。瞬間冷却されて立ち上がった霜柱の高速回転映像を見る思いで、桃子は目を見張った。
「いいこと、思いついた!」
「なによ、いきなり」
 嫌な予感がした。仕事に関しては彩花の判断やアイデアを疑ったことはないが、プライベートに関しては、仕事での判断力はどこへやら、彩花はとんちんかんな思い付きを口にする。
「桃子が、私のかわりにいろいろ考えてくれたらいいんだ!」
「なにそれ、意味わかんない」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 1-5

桃子が彩花の憩いにたじろいでいると、彩花がさらに迫って桃子の両手を取った。
「私、男を見る目がないし、優柔不断な上に、下した判断はとちくるってるから男で失敗するの。だから、桃子が私のかわりにいい男かどうか見極めてくれて、どうしたらいいかの指示をしてくれたらいいのよ」
 我ながらいいアイデアだと言わんばかりに彩花は満面に笑みを浮かべている。
「ちょ、ちょっと待って。それってつまり、私があれしろ、これしろって彩花に言うってこと?」
「うん」
「で、彩花は私に言われた通りに行動するってこと?」
「うん」
「それじゃ、ロボットじゃないの」
「うん、私、桃子のロボットになる」
 彩花は無邪気に桃子の両手を持って、上下に振っていた。
「ロボットになるとかって、何言ってんの」
 桃子は彩花の手をそっと払いのけた。
「今までみたいに、相談してもらって、いろいろアドバイスするだけでいいじゃない。何もロボットみたいに何でも言うこと聞くってことにしなくても」
「ううん、それじゃダメなの。だって、桃子のアドバイスを聞いたとしても、その通りにするかしないかでまた悩むわけでしょ。だったら、最初から桃子のロボットとして、桃子の言うことは何でも聞くってことにしちゃったほうがいいの」
 オレンジフロートは蒸発して、今や、パチパチ弾けるポッピングキャンディーだ。
「私の判断がいつも正しいとは限らないよ? それに、彩花にとって都合の悪い判断をわざとするかもしれない」
「桃子、そんなことしないもん」
 祈るように組んだ両手を胸に、上目づかいで彩花が桃子をのぞきこんだ。男なら良からぬことを考えてしまいそうな眼差しだ。
「……しないけど」
「だよね!」
「でもね。どんな決断でも、たとえそれが間違っていて後悔することになったとしても、自分で判断した結果なら納得がいくものよ。人に言われたからってその通りにして失敗すると、モヤっとするでしょ」
「うん。だから、桃子の言うことを聞くって決めた。これは私の判断でしょ?」
 彩花は一度言い出したらきかない、決めるまではフラフラするのに、一旦決断してしまうと気を変えない。その性格が、男で失敗する原因のひとつでもあった。あの男はダメだと言ってもきかないのである。
「しょうがないな。でも、彩花の男の見る目がつくまでだから。自転車の補助輪みたいなもの。一人で乗れるようになるまでだからね」
「やったぁ、桃子大好き」
 席を立ちあがった彩花は胸を桃子の顔に押し付けるようにして抱き付いてきた。男なら至福の時だろう。胸のない桃子にとっては嫉妬にかられると言いたいところだが、三カップ以上も差をつけられたら逆に感嘆してしまう。
「彩花、スキンシップはほどほどに、ね。好きでもない男に抱き付いたりすると誤解されるんだから」
「うん」
 抱き付くのはやめたものの、彩花は桃子の腕に自分の腕をからませて離れようとしない。
「うんとか言って、離れてないじゃない。私の言うことは聞くんじゃなかったの?」
「きくよ。でも、好きでもない男に抱き付いたりするのがダメなんでしょ? なら好きな人にならいいんだよね?」
「まあ、そうだけど。あざといって女からは敵視されるだろうけど、男の人を落とすには効果があるんじゃない」
「じゃあ、いいじゃない」
「私は男じゃないって」
「うん、でも大好きだからいいの」
 彩花は座っている桃子の頭に頬をすりよせた。まるでじゃれつく猫だ。周りの男たちの嫉妬の視線が痛い。
 傍目には、あざとい女としか見えない彩花だが、桃子はどうしても嫌いになれない。動物のような無邪気でストレートな愛情表現をむしろ可愛いと思う。彩花にとっては自然に身についている仕草だが、技術として習得し、駆使している女たちを、桃子は逆に尊敬してしまう。自然なふるまいとしてみせるのは並大抵ではないと、秘かに練習したことのある桃子は知っている。
 生まれながらに盆栽のように美しい形をした木があるんだな――彩花の生まれもったかわいらしさがほんの少し、うらやましかった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 2-1

 トイレから戻ってくると、暗がりのオフィスのどこからともなく女の歌声が聞こえてきた。誰かが残業しながら音楽を聴いているようだ。
 女性にしては低めのスモーキーな声。けだるいメロディ、哀愁を帯びたピアノの旋律。何を歌っているのかまでは聞き取れないが、幸せな恋の歌ではなさそうだ。
 歌声は次第に掻き消えていった。再び訪れる静寂。突然、オフィスの暗がりを切り裂くパワフルな歌声がどこからかあがった。ジャジーなメロディライン。叩きつけるようなビートが忍び寄ってくる。
 一目惚れならぬ一聴き惚れだった。魅入られた桃子は歌声のする方へと足を進めて行った。
「ごめん、うるさかった?」
 桃子が近づいてくるのに気付いて、貴一は慌ててボリュームを下げた。
「もう誰も残っていないだろうと思ったから」
「うるさくなんか。誰の曲かなって気になったので」
「アデルっていうイギリスのアーティスト」
「声がいいですね」
「だろ?」
 そう言うと貴一はボリュームを上げた。パワフルながら乾いてどこかアンニュイな歌声がたちまちオフィスに満ちていく。桃子は貴一のパーテーションに乗せた両手に顎を乗せ、聴き入った。椅子に座っている貴一も、両手を頭の後ろで組み、体でリズムを取っていた。
 金曜の夜、十時過ぎ。オフィスの明かりはすべて落ちている。貴一のデスクランプだけでは心もとない暗闇の海。十二階のオフィスから眺める夜景は夜の海に浮かぶ夜光虫。
 貴一はネクタイをはずし、シャツのボタンを外して、自宅でCDを聴いているようなうちとけた格好だ。まるで貴一の部屋で一緒に音楽を聴いているような雰囲気に、桃子は全身が熱くなった。
 三歳年上の佐野貴一は、企画開発部の先輩だ。よき先輩として仕事の相談にのってもらううち、いつしか男性として魅力を感じるようになっていった。
 一重瞼のきりりとした目元、鼻筋の通った決して高過ぎない鼻、ふっくらとした唇の口元は笑うと口角がキュッとあがる。短めの髪型のせいで、くっきりとした眉の美しさが際立つ。背筋の伸びた姿は折り鶴の優雅さを連想させる。常日頃、身だしなみには清潔感のある貴一だが、夜中近くとあってうっすらと姿を現しかけている髭が今夜は妙に艶めかしい。
「立木、この仕事、何年?」
「えっと……五年、今年で六年目です」
 指折り数えながら答える。
「そうか、立木が六年目か。仕事が楽しくてしょうがないだろ。もう一人前だな。入社したばかりの頃はよく相談してくれたのに、このごろじゃ、さっぱりだもんな。先輩としては成長した後輩を誇らしく思う反面、寂しいような複雑な気持ちだね」
 いつもより口角のあがりが悪かった。いつもなら輝いている瞳にこの夜は翳りがあった。
「先輩は楽しくないんですか、仕事」
「そうだな――」
 次の言葉まで間があった。アデルの歌声をかきわけて貴一の声をとらえようと耳をそばだてる。
「楽しいことは楽しいよ。ただ、何て言うか、俺たちの仕事、商品の企画開発って、常に新しいものを生み出す仕事だろ? 入社したばかりの頃は、アイデアはあってもなかなか形にできなくてさ。ようやく仕事を覚えて自分の中にあるアイデアを形にできるようになったと思ったら、今度はそのアイデアが枯渇。それが今の俺のいる場所なんだなあ」
 貴一は天井めがけて大きなため息を吐いた。天井に届くことなく、床に流れおちていくような重いため息だった。
「昔は、行き詰ると映画みたり、音楽聴いたりして脳をリフレッシュしたものだけど、今はまるでダメだ。何をしてもアイデアは思い浮かばないし、インスピレーションを感じない。リフレッシュじゃなくて、リセットが必要なのかもな」
「それって、仕事辞めるってことですか?」
 返事はなかった。しかし、暗い天井を見上げたままの貴一の物憂げな瞳が雄弁に気持ちを語っていた。
「今はさ、新しい商品を生み出すのに、コストを考えてしまうんだよね」
「それって、ビジネスマンとして正しいのでは?」
「できるだけ金をかけないことを考えて作った商品を買いたいと思うか? 企業努力とかそういうことではなくて、数字をこねくり回すって意味のコストってことだけど」
 顧客の立場になれば、一円でも安い商品を買いたいと思う。だが、物を造り出す側に立てば、コストと正比例の関係にある品質に妥協はしたくない。金をかけていい物を作るのは道楽、金をかけないでいい物を作るのが商売。それが、桃子たちの上司の口癖であり、モットーだ。
 心のどこかで上司や社の考え方に反発を覚えながらも、桃子は逆に創意工夫の余地を探ることを楽しんでいる。だが、貴一の言い分も痛いほど理解できた。物作りの現場を知らない人間というのは桃子の会社にもいて、数字の大きさだけで無駄だと判断し、削れと要求する。創意工夫もあったものではない、無味乾燥だ。数字を考えて作った商品もまた味気がない。だから、売れない。
「感性が硬化しているんだ。何を見ても感動しないし、笑えないし、涙も出ない。このままだとロボットになってしまいそうだ」
「だから、辞めたい?」
 再び返事はなかった。
 仕事を辞めたい気持ちが貴一の心の隅で根を生やしつつあるようだった。桃子も何度か体験している。
 本心では辞めたくないからこそ、貴一はせっせと辞めたい気持ちをむしり取っているが、むしってもむしっても虚しさと辞めたい気持ちとがどこからか芽生えてくる。絶え間ない闘いを繰り返し続けている貴一は疲労し切っている。「辞めたい」と言葉にしてしまえば、形勢が逆転してたちまち辞めたい気持ちにのみこまれるとわかっていて、貴一は無言を貫いているのだろう。
「先輩、辞めないで下さい。先輩、この仕事好きでしょう? いっぱい相談にのってもらったから、私、わかってます。好きだからこそ、コストを考えて品質に妥協していくのが嫌になっただけなんです。ギリギリまでコストを削るのも楽しいって考えればいいんです。先輩に必要なのはリセットじゃなくて、リフレッシュです。わかってるから音楽聴いているんですよね?」
 いつの間にか、貴一は頭の後ろで組んでいた両腕をほどき、胸の前で組んでいた。背筋がピンと伸び、横顔ではなくて正面の顔を桃子にむけている。折り鶴の凛とした佇まいがよみがえろうとしていた。
「来月、アデルが来日するんだ。でも忙しくてライブには行けないだろうな」
「忙しいなんて言い訳しないで下さい。ライブに行かないと仕事にならないくらいの勢いでチケット取って、何ならその日は仕事を休んででも行くべきです」
「何だか立木がアデルのライブに行きたい感じだなあ。そんなに気に入った?」
 貴一の顔にようやく笑顔が戻った。口角がキュッとあがる。小鼻につきそうな勢いの最大角度。桃子が一番好きな貴一の笑顔だ。
(先輩をライブに誘ってみようかな)
 そう思った時だった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 2-2

 桃子のケータイがけたたましく鳴った。着信を見ると彩花からだった。
「誰?」
「彩花です」
「デザイナーの長谷川彩花?」
「はい」
「出た方がいいんじゃない?」
 無視し続けているのに、ケータイは鳴りやまない。
「はい……」
 桃子はケータイを握りしめ、後ろ髪引かれる思いで貴一のワークステーションを後にした。途中、振り返ってみた貴一はPCにむかって背を丸めていた。考え事はやめにして、残業する気になったらしい。
 貴一と二人きり、ライブに誘ってみようかというタイミングで電話かけてくるなよと忌々しい気持ちを指先にこめ、桃子は画面を思いきり押した。
「桃子ーっ! ねえねえ、今さ、合コン中なんだけど、誰を選んだらいいか、桃子の指示、ちょうだい」
 ケータイの向こうから弾んだ彩花の声が聞こえてきた。舌足らずなのは酔っているからだ。
「うん、わかった。えっとね、全員ダメ」
「なぁんでぇ。まだどんな人とか何も言ってないじゃない」
 きっと唇をとがらせているのだろう、彩花の舌足らずな口調に拍車がかかっている。
「合コンに来るような男にろくなヤツはいないの」
「桃子のそれ、偏見。合コンだって立派な出会いの場じゃないのぉ。いい人だっているでしょ。何で桃子は合コンに否定的なの?」
「お酒の入った席での出会いは信用ならないってだけ。酔っぱらって判断力は鈍るし、お酒が入ると話を大きくする人が多いから」
「だからぁ、酔っぱらっていない桃子に判断してもらうんじゃないのぉ。付き合ってもいい人かどうか」
「そうね、その判断だけは賢明と言える。わかったから、男の写真と簡単なプロフィールをメールで送って」
 はぁいと呂律の回らない返事の後、電話は切れた。
 男の見極めはすべて桃子に任せるといったのは彩花の本気だったらしく、その週末から彩花の電話攻勢が始まった。
 始まりは土曜の午後だった。いつものようにたまった洗濯をすませ、掃除機をかけ終え、雑誌を読んでのんびりとしていると、彩花から電話がかかってきた。買い物に出たらナンパされたという。ナンパなど始めから体目的だろうからやめておけと忠告するつもりだったが、ナンパ男に直接ガツンと一言言ってやろうという気になって電話に出させた。相手の最初の一言が「ちぃーす」だったので、ろくに挨拶も出来ないようじゃ先はみえているとすかさず電話を切り、直後に「ダメ」のメールを送った。
 彩花は素直に指示に従って男を振り切ったらしい。しかし、そのすぐ後にまた電話がかかってきた。またナンパされたという。どうしたらいいと聞かれたので、男の写真を送らせた。髪の長い男だった。白のTシャツに黒のジャケットをはおったカジュアルな格好で、ぱっと見の印象は悪くなかった。聞くと学生だと言う。遊びだなと、この男も却下。
 それからも電話はひっきりなしに鳴った。犬も歩けば何とやら。彩花が歩けば男にぶつかるらしい。まともに道を歩けているのか、心配になった。百メートルをいかに遅く歩くかという競技がオリンピックにあったら、彩花は間違いなく金メダリストだ。
 「声かけてくる男にいちいち対応しなくていいから」。呆れ気味にそう言って土曜の午後の電話相談は終息したのだった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 2-3

凄まじいモテぶりには嫉妬する気にすらなれない。それにしても、母体の数が多いのだから、その中にはマトモな男がいてもいいはずなのに、桃子のめがねに適う男は一人もいなかった。
 合コンとナンパ、だもんね――
 そもそも母体そのものの質が悪い。付き合いや出会いに積極的なのは百歩譲っていいとしても、気軽さは気持ちの軽さを反映しているようで、桃子はどうしても合コンが好きになれない。しかし、合コンをいくら否定してみせても、彩花はこれだけは譲れないと言って参加をやめようとはしなかった。それならそれでいいと、桃子はひいた。しょせん自分は補助輪、いつかは自分でバランスを取って恋の自転車を漕いでいかないのは彩花なのだ。
 桃子は彩花からのメールを待った。静かなオフィスにアデルのしっとりした歌声が染み入っていく。さっきよりも音量が上がっている気がする。まるで離れたワークステーションにいる桃子に聴かせようとしているように。
 ライブ、誘い損ねたな――
 桃子の恋路はタイミング悪く鳴った彩花からの電話に邪魔された。馬がいたら、間違いなく彩花を蹴らせていた。
 でも――
 誘うより誘われたいのが乙女心。誘わなくてかえってよかったかもしれない。
 誘われなかったのは、誘うような人が貴一にはいるからかもしれない。桃子はそう考えることにした。自分に魅力がないから誘われなかったと考えるより、他に誰かがいるからと考えるほうが精神衛生にはいい。
 彼女がいるのか、なんて聞いたこともない。あまりに露骨すぎるし、知るための回りくどい方法を考えるのも一苦労だ。それだけでパワポのスライド十枚は軽く越す。
 さりげなく聞けたらとも思うが、そんな器用に立ち回れるくらいならとっくに 動いている。貴一とは二人きりで話すこともあるが、仕事の相談にのってもらうだけで、仕事以上の話にはならない。桃子は貴一のプライベートな部分についてはあまり知らない。貴一が洋楽を聴くと知ったのも今夜が初めてだった。
 片思い歴六年。生まれたばかりの子が小学生になる。小学生なら中学生になる。入学した一年生が卒業しようかという年月を経ても、桃子は貴一を卒業できないでいる。
 先輩と後輩の関係、それでもいいと思い始めていた。始まらなければ終わらない。だが、ふと目にしてしまった弱弱しい貴一の姿に心が揺れた。思い続けて六年。今晩ほど貴一のすべてを手に入れたいと思ったことはなかった。
 でも、きっと誰かいる――
 三十過ぎたいい年の男がひとりなわけはない。甘い系統の整った顔立ちで口角がキュッとあがる笑顔が何よりキュートだ。三十過ぎの男にキュートはないかもしれないが、まるで少女マンガの主人公のようにさわやかな笑顔はキュートとしか形容しようがない。
 性格もいい。「ありがとう」が口癖で、どんな小さな頼み事でも人にしてもらったら「ありがとう」と感謝の言葉が口をついて出る。わざとらしさはない。身についた動作で、そうするのが当たり前という態度な上にさわやかな笑顔付きで「ありがとう」と言われたら、大抵は恋に落ちる。桃子は落ちた。
 貴一のような男は、抜け目ない女にさっさと持っていかれていそうなものだが、今だに独身でいるのは、仕事にかまけてしまっているからだろう。今夜に限らず、貴一は夜遅くまでオフィスに残っていることが多かった。彼女がいたとしても、仕事中毒の貴一とは続かないだろう。
 もしかしたら、ライブに誘うような人はいないのかもしれない。桃子の胸に再び希望の火が灯る。あれだけ忙しくしていたら出会いの場もないだろう。貴一は、間違ってもナンパなどしそうもないタイプだし、合コンには少なくとも率先しては行かなさそうだ。
 彩花も、付き合うなら、貴一のような真面目な男を選べばいいのにと、送られてきたメールの写真を見ながら桃子は思った。つくづく彩花は男を見る目がない。誠実な人間を求めるのなら行く場所が間違っている。写真の男たちは三人とも派手な色とデザインのスーツ姿で、髪は色こそ赤、茶、赤紫と違えど、寝癖と見間違えるような同じヘアスタイルで、似たり寄ったりの外見だった。プロフィールにはキラキラしい漢字が並んでいた。それぞれの名前らしいが、読めない。読めないが、艶めかしさだけは十分に受け取れた。
「全員ダメ」と返信し、桃子はケータイの電源を切った。今夜はアデルの歌声に酔っていたい気分だった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 2-4

「今ちょっといいかな」
 パーテーションの上から貴一が顔を覗かせていた。桃子は慌ててノートパソコンを閉じた。昼時とあってオフィスには貴一と桃子しか残っていなかった。 
「立木って、デザイナーの長谷川さんと仲いいよな」
 聞き飽きたセリフ、彩花とあまり関わりのない部署の男性社員が言うセリフだ。その後には決まって、彩花を紹介してくれないかと続く。嫌な予感がする。
「仲、いいですけど……」
 貴一の目をみて答えられなかった。
「今週末、空いているか、聞いてもらえないかな?」
「今週末って、今日は木曜日ですよ。週末の予定ならもう埋まっているんじゃないですか」
 彩花をデートに誘うつもりなんだろうか。口の中がカラカラに乾いた。唾とともにどろりとした感情をも飲み込んだ。
「そうだよな。ちょっと急だとは思うけど、一応、聞いてもらえる? 今週末がダメなら来週でもいいから」
「空いてるかどうかぐらいなら聞きますけど、何で知りたいんですか」
 心臓に穴でも開いて血が漏れ出しているのじゃないかというくらいに、手足の先が冷たくなっていく。
 つっけんどんな言い方をしたのに貴一は気づかず、頭をかいて照れ笑いを浮かべた。
「実はさ、大学の後輩がデザイン学校の講師をしているんだけど、そいつが、うちのランチバッグをデザインしたデザイナーと話がしたいって言うんだ。授業の参考にしたいんだと。ランチバッグのデザイナーって確か、長谷川さんだったよな。俺、仕事の付き合いはあるけど、何ていうか、誘いにくくてさ。立木なら仲がいいし、立木から声かけてもらって誘ってもらえないかなあ」
「なぁんだ、そういうことだったんですか!」
 一オクターブ高い声が出て、出した本人の桃子も驚いて口を塞いだ。
「何だと思ったんだ」
「別に何でもないです。今週末だったら、何の予定もないはずですけど」
「本人に聞かないで断定していいのか?」
「多分、大丈夫だと思いますけど、一応確認しておきますね」
 男関係に関しては桃子の指示をあおぐことになっている彩花の予定ならすべて把握してある。それまで彩花が彼氏候補としてあげた男たちには全員失格と言ってあるので、デートの予定は入っていない。だが、貴一の手前、桃子は彩花にメールを送った。
「それで、立木の予定は?」
「私ですか?」
「何驚いているんだ。立木が長谷川さんを連れて来てくれないと」
「え? あっ、週末は特にこれといった予定は――」
 貴一に誘われたのだと理解できるまで五秒かかった。驚きの嬉しさとで脳の処理速度が遅くなっている。アドレナリンって脳を活性化させるんじゃなかったのか。
 メールの着信音が鳴った。彩花からだ。ヘアサロンを予約しているとあった。すぐさま、キャンセルして私に付き合えというメールを送る。
 仕事が忙しくてずっと行けなかったから行きたいというメールが返ってきた。
 桃子は早打ちで、彩花に会わせたい男性がいるとメールを送った。
「大丈夫か? ひょっとしてデートの予定でもあったんじゃないのか」
 彩花とのメールのやりとりをそばでみていた貴一が心配そうに顔を寄せた。
「大丈夫です。彩花、今は彼氏いないので」
 彩花から、ヘアサロンはキャンセルしたというメールをもらって、ようやく笑顔がこぼれた。
「それじゃ、土曜日に」
 待ち合わせの時間と場所を決め、貴一は自分のワークステーションへと戻っていった。
 貴一を見送ってしまうなり、桃子はパソコンを開いた。スリープモードを解除すると、たちまち画面に直前までみていたウェブサイトが出現した。チケット販売サイトで、購入ボタンのあるページが表示されている。
(急ぐことはないよね)
 深呼吸とともに、桃子はブラウズを閉じた。
 誘われぬのなら 誘ってみよう 先輩を
 一大決心をしてアデルのライブチケットを買おうとしていたところに、ダブルデートのチャンスがふってわいた。正確にはデートではないし、お邪魔虫が二匹ついてくるが、仕事の悩みを相談する今までからは一歩前進だ。待ち合わせ時間と場所を決めて、週末に会う。夢にまで見たシチュエーション、頭の中では何度もくりかえしたシミュレーション。その先はまだ夢にも描いたことがなかったが。
 関係を深めていくのはゆっくりでもいい。焦りは禁物だ。二人きりで会いたいと誘われるその日を、気長に待ってみよう――

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 2-5

 それがある場所はわかっている。わざわざ目につかない場所に隠したというのに、まるで洞窟の奥でひっそりと輝くヒカリゴケのように、控えめながらしっかりとその存在を主張し続けるので、気にならずにはいられない。
 ベッドから起き上がった桃子は、その足でまっすぐクローゼットへとむかった。暗闇に慣れた目でスライディングドアをさぐりあて、一息に開ける。ダークな色合いのパンツスーツをかき分け、クローゼットの一番奥にまで手を伸ばす。光り輝くその服をクローゼットから取り出し、まるでカゲロウの羽を扱うかのように慎重な動作で、透明なビニールカバーから服を取り出した。
 裾の長い白のワンピース。首元が少し開いた丸襟に、パフスリーブの袖。麻のような質感の生地は意外にずしりと重い。
 ワンピースを胸にあて、桃子は姿見の前に立った。夏の高原で風に吹かれて佇む少女がセルフイメージだったが、目の前にいるのは貞子でしかなかった。姿見から顔を背けるなり、桃子はワンピースをベッドの上に投げ出した。
 少女趣味の服は似合わないとわかっている。わかっていながら買ってしまった。一目ぼれだった。ワンピースは、駅前のセレクトショップのショーウィンドウに飾られていた。一週間は耐えた。
 似合わない、似合わないと心の内で唱え続け、そのショップの前を通る時は目をそらしていたのに、一週間後、桃子はワンピースを試着しないで買ってしまっていた。
 家に帰るなり、ワンピースを胸にあて姿見の前に立った涼子は悲劇的なまでの似合わなさに衝撃を受け、タグも取らずにワンピースをクローゼットの奥にしまいこんだ。以来、ワンピースは眠れる森の美女よろしく、深い眠りについていた。
 衣替えの季節を迎えても、ワンピースはクローゼットのハンガーに下げられたままだった。一生着るつもりはないのに、どうしてだか手放させない。
 好きだからだ。桃子は少女趣味の服が好きだった。普段着や仕事着にはカチっとしたものを選んで着ているが、好きなのは、フリフリでフワフワで、ヒラヒラしたガーリーな服だ。
 だが、すらりと背が高く、小さくて面長な顔、黒くてまっすぐな髪と、鉛筆のような姿の桃子に、フリルやレースは絶望的なまでに似合わなかった。
 今では潔く、女の子らしい服は諦めて、彩花にも似合うと絶賛されたパンツスーツ姿をはじめとするカッチリした服を着ることにしている。
(やっぱり似合わないか)
 桃子はワンピースを元あった位置にしまった。
(彩花には似合うんだろうな)
 暗闇の中、涼子はふっと小さなため息をついた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 2-6

 類は友を呼ぶ。悪い意味でも、良い意味でも。
 貴一の大学の後輩だと紹介された三上慶介は、貴一に雰囲気が似ていた。背の高さは同じぐらい、髪は三上の方が長めだったが、清潔感のあるヘアスタイルで印象は悪くない。口角のきれいにあがる笑顔はまるで兄弟のようにそっくり同じだった。
 三上はよくしゃべった。デザイン学校で講師をしている三上は、生徒たちにビジネスとしてのデザインを教える科目で彩花のデザインしたランチバッグを取り上げたいと考えていると語った。ランチバッグは市販の保冷剤を入れて使うタイプのもので、ランチバッグとしてでだけでなく、ちょっとした小物入れバッグとしても使える可愛さが若い女性に受けてヒット商品となった。
「佐野先輩のいる会社だから、もしかしたらデザイナーと話が出来るかもと思って、ダメもとでお願いしたんです」
 三上は、デザインのコンセプトや、何からインスピレーションを受けたのかといった質問を彩花に浴びせかけた。対する彩花の返事は、「はい」か「いいえ」のどちらかで、たまに二言三言を加えるだけの愛想のないものだった。傍から見ていても、彩花が三上の話に興味が持てないでいるのは明らかで、桃子は焦った。三上に対する失礼はすなわち貴一に対する失礼だ。
 だが、当人の三上は彩花の態度に気づいているのかいないのか、一人で質問を続けていた。彩花の気のない返事だけでは質問の答えにならない場合は、貴一が間に入って説明を加えた。社内だけで通用する言葉だとか、商品開発の細かい過程などについてで、貴一の対応はまるでそつがなかった。
 三上の質問に対して、彩花が答えあぐねている時も、貴一は「―ということかな」と彩花に替わって答えを考えだした。彩花は黙ってうなずくだけでよかった。その光景は、まるで名門小学校の面接試験を受けているようだった。天気がよかったので、四人は通りに面したオープンカフェのテラス席に陣取っていた。貴一と三上が並び、三上の正面に彩花、貴一の正面には桃子が座った。さしずめ、三上と貴一が面接官で、桃子が彩花の母親として面接の行方をハラハラしながら見守っているといった格好だった。
「ちょっと失礼します」
 そう言って席を立った桃子は、化粧室に入るなり、彩花にむけてメールを打った。
「お待たせ」
 五分ほど間をあけてから席を立って化粧室に来いというメールだったにもかかわらず、彩花はすぐにやってきた。
「時間ずらしてって言ったのに、すぐに来ちゃったら呼び出されたってわかっちゃうじゃない!」
「別にいいじゃない。実際、話あるから呼び出したんだよね」
「まあ、そうだけど」
 桃子は気を取り直し、息を整えた。
「彩花、あんたいい年した大人なんだし、社会人だし、三上さんはデザインについて話を聞きたいって言っているんだから、そういった質問にはきちんと丁寧に答えようよ。それが相手に対する礼儀ってものじゃない」
「彼、タイプじゃないから、話しててもつまんないんだもん」
 彩花は唇をツンと尖らせた。
「タイプじゃないって。あのさ、これは合コンじゃないの。本人も説明してたでしょ。デザイン学校の生徒に彩花のデザインしたランチバッグについて講義したいから参考に話を聞きたいんだって」
「そうかなあ。下心ある感じがする。ランチバッグの質問の合間に、『どんな映画が好きですか』
とか、『休みの日は何してますか』とか、関係ない話を聞いてくるけど」
「いいじゃないの、別に。彩花が気に入って個人的な話も聞きたくなったんじゃないの。いい人そうだし、佐野先輩に言って紹介してもらって、付き合ってみるってのはどう?」
 我ながらいいアイデアだと桃子はほくそ笑んだ。彩花と三上が付き合うようなことになれば、二人をだしに貴一を呼び出して、四人で遊ぶ機会も増えるかもしれない。
「やだぁ。彼、タイプじゃないもん」
「タイプじゃないって言うけど、彼みたいな人がいわゆるいい男なんだよ。見た目も悪くないし、っていうか、いい方だし、ちゃんと定職にも就いててさ。彼みたいな人と付き合ったら、騙されたり、泣かされたり、そういうこと絶対ないと思うし」
「ふうん」
 彩花は小首を傾げた。
「そういえば、いつか桃子が言っていた理想の男性像に何となく似てるかな」
 どんな男ならいいのかと聞かれた桃子は、貴一を頭において理想の男性像を熱く語った。三上は貴一に似たところがあったから、三上イコール桃子の理想の男性像となるのは当たり前といえば当たり前だ。
「本当に、三上さんみたいな人がいい男なの?」
 疑り深げに、鏡越しに彩花が桃子を見つめた。
「今時のイケメンタイプじゃないけど、時代を超えて、世代を超えて、誰にでも長く愛される優良物件。彩花のことを大切にしてくれるタイプだよ」
「でもさ、彼、結婚してるよ」
「ほえ?」
 ボリュームを最大にしたまま消したテレビをつけた瞬間のような大きな声で、出した桃子自身が驚いた。化粧室内とあってエコーのおまけ付きだった。
「け、け、結婚してるって? 本人がそう言った?」
「桃子、気がつかなかったの? 彼、結婚指輪してるよ」
「全然……」
 初対面の挨拶を済ませてしまうと、桃子は貴一にばかり気を取られていて、三上のことは眼中になかった。名刺をもらい、デザイン学校での仕事についても簡単に聞かされたが、何ひとつ覚えていない。
「前言撤回、結婚しているならダメ、絶対!」
「そうでしょ。私だって不倫はもう嫌だもん」
 独身だと嘘をつかれて付き合ってた男が彩花にはいた。男の妻にバレてちょっとした修羅場になったと話には聞いていた。
「そういえば、アデルって知ってるって聞いてたね」
 三上の話などまるで聞いていなかったが、ふいに知っている名前を耳にして、その時だけは桃子も三上に注目した。来日公演が目前に迫っていた。ライブに誘う気なのかなと、まだ三上が独身だと思いこんでいたその時は、ワクワクするような気持ちで彩花の返事を待ったのだった。
「彼女、もうすぐ来日するんだ」
「知ってたの? でも、三上さんには洋楽きかないって返事してたよね」
「うん」
「あれ?」
 彩花と三上の会話に違和感を覚え、桃子は少しの間、考え込んだ。
「洋楽聴かないなら、アデルがむこうのアーティストだってわからないよね?」
「洋楽聴くから、アデルがイギリスのアーティストだって知ってるよ。知ってるけど、ライブに行く気はありません、誘いには乗りませんっていう意味で『洋楽聴かない』って言ったんだけど、意味通じたかな?」
 彩花は鏡にむかって肩をすくめてみせた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 3-1

 はぁっはぁっはぁっ……
 荒い息遣いが聞こえてくる。隣の部屋からだ。壁が薄いらしく、上下左右の部屋の生活音は筒抜けだ。とはいえ、寝に帰ってくるだけの部屋だからさほど気にしてはいなかった。三か月前、隣の六〇七号室に新しい隣人が越してくるまでは。
 はぁっはぁっああ…あは…はぁっ……
 腹筋でもしているのだろうか。日曜の朝早くから体力作りとは、ずいぶん熱心な――
 そんなわけはない。
 処女じゃあるまいし、桃子には息遣いの正体がすぐにわかった。
 はぁっはぁっああ…ん…はぁっ……
 桃子はすぐさまテレビのスイッチを入れ、音量を上げた。気が紛れたのはほんのわずかな間で、まるでテレビの音量に対抗するかのように「声」が大きくなった。
(聞かせようとしてんの?)
 そうとしか思えない声の大きさだった。
 桃子はテレビ通販の画面を食い入るように見つめた。映像の力を借りて気を散らすしかない。
 ――散らなかった。
 女の声がオクターブずつ上がっていく。アーアーアーアーアー……まるでアカペラグループの音合わせだ。
 隣人は七色の声の持ち主だ。色っぽい低音の時もあれば、窓ガラスが割れそうな高音を出す時もある。同じ人間が出す声なのかと不思議に思うほど、まるきりトーンの違う時もある。一度、ガマガエルのつぶれたような声がしたことがあった。自分が相手の男なら、その気が失せると思ったものだが、出した本人もそう感じたらしく、ガマガエル声は一度しか聞いたことがない。
 隣に住む女とは二度会ったことがある。最初は、マンションの火災報知器が故障した時で、女はドアの隙間から顔をのぞかせ、周りの様子をうかがっていた。桃子もまた、何ごとかとドアの間から顔を出して他の住人たちの様子をさぐっていて目があった。
 夜中とあって、女はにすっぴんだった。かろうじて眉間に残る眉根は平安貴族を思わせた。実際、平安時代だったら美人だっただろう。細い目、鉤鼻、しもぶくれと平安美人に不可欠な三大要素がそろっていた。
 二度目は、会社帰りに偶然エレベーターで乗り合わせた時だった。真冬だというのに真紫のミニワンピに白のファーのコート、白いニーハイブーツをあわせ、甘ったるい香水をつけていた。
その香水がきつくて、桃子はエレベーター内で窒息しそうになった。先に降りてくれないだろうかと願っていたら、桃子と同じ六階で降り、さっさと六〇七号室に入っていった。その姿は、以前見かけた時とはまるで別人だった。ロングヘアーの金髪は縦にロールが巻いてあった。細い目はアイメイクで大きさが二倍以上になっていた。
 六〇七号室の女はどうやら男がいないと生きていけないタイプらしく、しょっちゅう男を連れ込んでいる。彼女が引っ越してきたその夜から、桃子は「騒音」に悩まされ続けている。
 彼女には、朝も夜も週末も平日も関係ないらしい。いつでもイチャイチャ、ラブラブ、生理の時でも構わずヤっているようで、毎日毎日よく体がもつなあとかえって心配になるくらいだ。
 こうもあっけらかんと声を聞かされ続けていると、悶々ともしない。さながらBGMのようなもので、他の部屋から聞こえてくるテレビの音や音楽と大差ない。大差ないが、うるさいには違いない。
 桃子はげんこつをつくり、六〇七号室側の壁を二、三度叩いた。声のおさまる気配はない。聞こえなかったのかと、今度はやや強めに壁を叩いた。それでも声はやまなかった。
 それなら気づくまで叩いてやろうじゃないかと、桃子は壁を叩き続けた。木魚を叩く要領で壁を叩き続け、そのリズムに恍惚となりかけていくうちに壁の向こう側が静かになっていると気づいた。ようやく桃子のメッセージが届いたらしい。
 これでやっと平和な日曜の朝が戻る。まだ七時過ぎだった。今からでも二度寝するかなと思ったその時、部屋のインターホンが鳴った。
 客がくる予定はない。宅急便でもないだろう。どうせ新聞の勧誘か、国営放送の受信料の取立てだろう。無視しておけば、そのうちいなくなるだろうと桃子はベッドにもぐりこみ、布団をかぶった。
 だが、インターホンは鳴りやまなかった。まるで桃子がいるとわかっているかのように誰かがインターホンを鳴らし続けている。怖くなってますます出る気がしなくなったが、出なければ出ないで、インターホンは鳴りやまない。
 恐る恐る玄関へむかい、桃子はドアスコープから外を確かめた。何かでふさがれているのか、ドアスコープからは白い靄のようなものしか見えなかった。ドアチェーンをしっかりとかけ、桃子はゆっくりとドアを開けた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 3-2

 ドアの隙間から若い男が顔をのぞかせた。まるで爆風にでも煽られたかのように、男の長めの髪は根元から立ち上がり、好き勝手な方向を向いている。
「隣のもんだけど。壁叩くのやめてくんない? うるさいんだけど」
「うるさいってっ! 痛っ!」
 逆に文句を言われたのに腹が立ち、くってかかろうとした勢いで、桃子は自分がかけたチェーンに思いっきり鼻頭をぶつけてしまった。それを見た男は、無遠慮に大声で笑った。
「うるさいのはどっちよ! 日曜の朝から声聞かされて参ってるのはこっちよ!」
「声? 声って何?」
 男はにやついていた。わかっていて桃子に言わせようとしているのだ。まるでセクハラおやじではないか。オヤジというほど年はいっていない、桃子よりも二、三歳は若いだろうか。よく見ると、ひな人形のように整ったきれいな顔立ちをしている。
「ヤってる時の声よ」
 桃子は胸を張って言い返してやった。セクハラをするような連中は、女性が恥ずかしがる反応をみて楽しむ。連中の思うツボにはまらず、ぎゃふんと言わせるには堂々と振る舞った方がいい。
「ムラっとしちゃうから、たまんないんだ」
「しないっての」
 チェーンがなかったら、殴りかかっていっていたかもしれなかった。見知らぬ人間から身を守るためのチェーンだが、今は失礼きわまりない男を桃子から守ってしまっていた。
「近所迷惑なの。ヤるのは別に構わないけど、もう少し、音とか声とか、気をつかってくれない?」
「うるさいなら、そっちが耳栓でも何でもすればいいじゃん」
 男は悪びれた様子もなく言ってのけた。どうやら自分たちが静かにするという考えはまったくないらしい。
「ねえ、ちょっとさ、彼女と直接話させてくれる?」
 壁を叩くような隣人相手だからと用心し、六〇七号室の女は彼氏の男を差し向けたのだろう。だが、間に他人が入ると問題が大きくなるばかりでちっとも解決しない。
 桃子はいったん部屋のドアを閉めた。今日こそは面とむかって隣の女に文句を言うつもりだ。

 チェーンを外して再びドアを開けると、外の廊下に男が立ちはだかっていた。デニムにシャツをはおっただけ、シャツのボタンは申し訳程度に腹のあたりでひとつ留まっているだけだった。
「何で彼女と話したいの」
「何でって。女同士で話した方がいいの。こういう微妙なことは」
「微妙な話って何?」
「だから、その、いろいろとよ」
 桃子は視線を宙に泳がせた。男の裸の胸を見ないようにと意識すればするほど、目が開いたシャツの胸元にいってしまう。
「彼女と付き合っているなら、あんたとも話した方がいいかもね。さっきも言ったけど、あんたたちの喘ぎ声がうるさいのよ。聞きたくなくても聞こえちゃうの。男のあんたは気にしないかもしれないけど、彼女は女の子なんだよ。そういう声をみんなに聞かれているって知ったら恥ずかしいでしょ」
「みんなって誰?」
「上下左右、このフロアーの部屋の人はみんな聞こえていると思う。ここのマンション、壁が薄いから丸聞こえなの。あんたは遊びにくるだけだから知らないでしょうけど、彼女は住んでいるだから、知ってると思うけど」
「知らないと思うな」
 男は自信たっぷりに言い切った。そんなはずはないだろうと言いかけて、桃子は口をつぐんだ。
「……そうね、知らないかもね。知ってたら、マンション中の人に聞こえるってわかってて、声を出したりはしないものね。やっぱり、彼女と二人きりで話させて」
「彼氏いる?」
 唐突な質問に、桃子はめんくらった。いつになったら一メートルもない六〇七号室のドアにたどりつけるのか。
「てか、まさか処女?」
「ちがいますっ!」
 反射的に大声が出てしまった。これで近所中に桃子が処女ではないと知れ渡ってしまった。もっとも、桃子の年で処女とは誰も信じてはいないだろうが。
「彼氏がいようがいまいが、それと近所迷惑な騒音と何の関係があるのよ」
 桃子はくってかかった。
「愛し合っている時の声って、我慢したって出るもんじゃん。おならと声は出した方がいいって、小学校で習わなかった?」
「はあ? 意味わかんないんですけど」
「だからさ、声を出すのもセックスの一部だってこと。静かにヤってたら味気ないっしょ。ドンドン声出して盛り上がっていかないとさ。ねえ、ほんとに処女じゃない?」
「ちがうっての!」
 男の疑るような視線を振り切るようにして桃子は六〇七号室のドアに向かった。ドアを開けようとしたまさにその瞬間、素早い身のこなしで男が立ちはだかった。正面突破するつもりだった桃子は勢い余って、男の胸に顔をうずめるはめになってしまった。汗でほんのり湿った肌に唇が触れ、慌てて身を引いた桃子は、その反動で廊下の壁に後頭部を思い切り強くぶつけて床に倒れこんだ。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 3-3

「どんくさ」
 男はくすりと笑ってドアを開け、部屋の中に入っていってしまった。誰のせいだよと、男の消えたドアの向こうを睨みつけて立ち上がると、再びドアが開き、男が姿を現した。手にはアイスノンを持っていた。
「ぶつけたとこにあてときな」
「あ、ありがとう……」
 目は男を睨みつけながらも、口では感謝を述べていた。日頃、貴一の真似をして「ありがとう」というようにしているせいだ。
 桃子はカチカチのアイスノンをじんと熱くなっている後頭部にあてた。だが、強打したその部分より、男の裸の胸にあたった唇の方がよほど熱を帯びていた。
「あのさ、声を出すなとは言わない。けど、聞こえているんだよってことだけは言っておく。彼女にも伝えておいて。女の子だったら、ああいう時の声を人に聞かれているとわかったら恥ずかしいだろうから。あなた、彼氏でしょ。もうちょっと女心を理解してあげてもいいんじゃないかな。声を思い切り出して盛り上がりたいんだったら、ラブホにいくとか、防音設備のいいマンションに引っ越させるとか、考えたほうがいいと思う」
 後頭部の痛みがアイスノンの冷たさに騙されて感じられなくなったところで、桃子はアイスノンを男にむかって差し出した。唇の熱だけがいまだに落ち着かない。
「てか、住んでいるの、オレなんだけど」
 これが六〇七号室の住人、大和亮平との最初の出会いだった。
「彼女、てか、付き合ってないから彼女じゃないんだけどさ。仕事先の知り合いのコで、昨夜一緒に飲んでて終電逃したっていうから、うちに泊まっただけだし」
「付き合ってないのに、ヤったの?」
「いいじゃん、別に。お互い、ヤりたい気分になったわけだし」
「ヤりたくなったって……動物じゃあるまいし」
「人間も動物だよん」
「サイテー」
 桃子は亮平にむかってアイスノンを叩きつけた。冷たっと叫びながら、亮平は生きのいい魚のようにアイスノンを腕の中で踊らせた。
 七色の声を持つ女の正体は、七人の女だったのだ。思い出せる限りでも七人以上はいるだろう。別人のようだと聞こえていた声は、実際に別人の声だったのだ。それもすべて大和亮平が連れ込んだ女たちの。
(うわぁ、最低だ)
 まるで忌まわしいものにでも出くわしたかのように、桃子は両腕をこすり、冷蔵庫からアイスノンを出して、後頭部に当てた。
「ねえ、ちゃんと言ってきてくれた?」
 女の声が聞こえてきた。隣の六〇七号室からだ。くぐもっているものの、はっきりと言葉が聞き取れる。桃子は聞き耳をたてた。
「もう壁は叩かないと思う」
 亮平の声だ。壁を通すと柔らかみが増す。
「どういうつもりで壁を叩いていたのかな」
「オレらのヤってる声が聞こえてたんだって」
「えーヤだぁ」
 パチンと水を打つような音がした。女が亮平の肌を打ったらしい。
「まりあちゃん、いい声出してたもんね」
「ねえ、隣の人、男の人。女の人?」
「女」
「喘ぎ声がうるさいからって壁叩くなんて、欲求不満のモテないヒステリーばばあじゃない?」
 壁にむかってアイスノンを握りしめたが、かろうじて叩きつけるのはふみとどまった。
「ばばあって年じゃないだろうな。オレよりは年上だろうけど」
「リョーヘイより上ってことはアラサーじゃん。ばばあでしょ。彼氏もいないようじゃ、ブスなんじゃない?」
 壁をぶち抜いて踏み込んでやりたい気も、かろうじて押しとどめた。
「ブス、ではなかったな」
「ヤダぁ。リョーヘイのタイプだったりするの?」
「全然。胸だってないしさ。あれは多分Bカップだな。まりあちゃんのおっぱいは、うーんと」
「やだ、またするのぉ」
 きゃっきゃとじゃれ合った後、二人はまた始めてしまった。聞こえていると知らせてやったのに、まるで気にしていない。壁を叩いて注意する気も失せた。
 気を紛らわせようと、桃子は一番うるさいだろうと思われるCDを探しだした。中学の時によく聞いていたメタル系のバンドのCDで、バンドに対する熱が冷めた後は聴いていなかったが、捨てるに捨てられず、実家からもってきていた。今こそ、このCDが日の目を見る時である。
(近所迷惑でも構うもんか!)
 桃子は音量を最大限まであげた。ボーカルのシャウトが響き渡り、部屋全体が小刻みに揺れていた。打った後頭部がじんと傷んだが、喘ぎ声よりはましだ。シャウトに身をまかせ、二度寝は諦めて、コーヒーを飲むことにした。
 その時になって桃子はようやくTシャツ姿のままだったと気づいた。パジャマがわりに着ている古くなったTシャツで、喘ぎ声に起こされたきり、着替えていなかった。よれよれになった首元からは裸の胸がのぞいてみえた。
 多分Bカップ――
 亮平のセリフを思い出した。頭を打って廊下に座り込んでいた時にでも見られたのだ。
(サイテー男!)
 よれた胸元をつかみ、桃子は六〇七号室側の壁を睨みつけた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 4-1

「付き合いたいって言われたの、佐野さんに」
 彩花からそう聞かされた瞬間、桃子は飲みかけていたファジーネーブルをマーライオンみたいに吹き出しそうになった。必死の思いで口を閉じ、喉に流し込んでしまおうとして気管に入ってしまったのか、ひどくむせこんでしまった。
 げほげほと咳き込む桃子の背中を、「大丈夫」と声をかけながら、彩花が何度もさすってくれた。死ぬかと思った。というか、死んでしまってもよかった。
 貴一が彩花に告白したって? 夢でも見ているのだろうか。『オステリア』で彩花の泣き言を聞かされている夢。きっとそうだ。夢だから、貴一は彩花に告白したなんてことになっているんだ。
 だが、頬をつねるまでもなく、アルコールが傷つけた胸の痛みが、すべて現実なのだと物語っていた。
「いつ?」
「先週だったかな? 食事に誘われたの」
「食事?」
「ほら、お友だちのデザイン講師のインタビューに付き合ってくれたお礼がしたいからって言われて。別に何かしたわけじゃないし、ただ聞かれたことに答えただけだから、お礼なんかいいですって断ったんだけど、どうしてもって言われて」
「行ったんだ、食事に」
「うん、行った。イタリアンのお店」
「夜景のきれいな?」
「よくわかったね。もしかして桃子も知ってるお店? 桃子の好みっぽかったよ。もちもちパスタがすっごくおいしかった! 今度一緒に行こうね」
 彩花は無邪気に笑ってみせたが、ハンカチで口元をおさえた桃子の顔は引きつっていた。
「食事に誘われたって、それってデートってことだよね……」
「まだ付き合ってないもん。デートじゃないよ、ただの食事」
「でも二人きりならデートじゃないの」
「そう? 食事してバイバイかと思ったら、話があるって真剣ムードになっちゃって」
「付き合ってって言われたんだ」
「うん。前から私のこと、気になってたんだって。ちょっと意外だった」
 それは桃子のセリフだった。役職、年齢問わず、男性社員ならほとんど全員が彩花をちやほやした。そんな中でひとり冷静でいたのが貴一だった。彩花に関心を示さない貴一を、さすがそこらへんの男とは違うと、桃子は秘かに誇りに思っていた。
「私って、佐野さんのタイプじゃないでしょ? 佐野さんには何っていうか、クールビューティー系の女の人が似合うと思うんだよね、桃子みたいな、いかにもデキますっていうタイプの女性」
 彩花に言われなくても、桃子自身も、貴一にはキャリアウーマン系の女が似合うと思っていた。だからこそ、仕事に一生懸命にこなし、貴一と対等に話のできる女を目指して日々努力してきた。だが、貴一に告白されたのは桃子ではなくて、彩花だった。
「それで、告白されて、何て返事したの?」
「返事はまだしてないの。男関係は桃子に判断してもらうことになってるから、まず桃子に話をしてからと思って。ねえ、桃子、どうしたらいい?」
「……」
 まだ胸が苦しいふりで桃子は黙っていた。脳みそを鷲掴みにされ、揺さぶられているみたいに世界がグラグラ揺れている。アルコールの流れていった気管が焼け付くように痛い。いっそ心臓にアルコールが流れていったら、死んでしまえたんだろうか。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 4-2

 桃子の判断を辛抱強く待つ彩花は、女の桃子からみてもかわいい。大きくて潤んだ瞳に上目づかいで見つめられた日には、男なら恋に落ちてしまう。貴一も男だったということだ。ザ・女子といったかわいい女の子が好きな……。
「彩花は佐野先輩のこと、どう思っているの?」
 桃子は賭けに出た。もし彩花が貴一に好意を持っているのなら、潔く身を引く。だが、彩花の返事は「嫌いじゃない」という曖昧なものだった。
「彩花はどうしたい?」
 そう言いながら、桃子は自問した。自分はどうしたい? 貴一を好きなことを彩花に打ち明けて付き合いをやめさせたい?
「決めてくれないの?」
 彩花がリスのように頬を膨らませた。ほんのり赤く染まった頬が桃のようだ。
「私が決めるなんてことはちょっと横に置いておいて。自分で決めなくちゃならないとしたら、どうしてる?」
「うーん……」
 長い睫を二、三度しばたかせた後、彩花が言った。
「多分、断ると思う。タイプじゃないから」
 世界が揺れなくなった。胸の痛みは嘘のようにすっかり消えてなくなっていていた。
 言ってしまおうか――桃子は悩んだ。
 実は貴一のことが好きなのだと告げたら、彩花は身を引いてくれるかもしれない。貴一がタイプでないのなら、付き合わないことになっても彩花は傷つかない。
 どちらにしようかな 天の神様の言うとおり――
 胸の内で、桃子は人差し指を左右に振った。貴一を好きだと言う、言わない。指がとまった方を選択するつもりだった。しかし、その必要はなかった。指がとまる前に、彩花が決定を下した。
「でも、どうなんだろう。佐野さんて、前に桃子が言っていた理想の男性像そのものなのよね。佐野さんと付き合ったら泣かされないんだろうなって思うと、こういう人と付き合った方がいいのかなって。私、もうダメンズウォーカーを卒業したいもの。これからは笑っているだけの恋がしたい」
 桃子は指を振るのを止めた。
 貴一を好きなことは彩花には言わない。
 言ったところで何も変わらないと桃子は気づいてしまった。もし貴一を好きだと告げたら、彩花は桃子に遠慮して身を引くかもしれない。だが、貴一の彩花に対する思いは変わらない。彩花と付き合わないからといって桃子を好きになることは決してない。貴一は彩花を好きイコール貴一は桃子を好きではないの等式は崩せない。
「でも、佐野さんをよく知っている桃子がダメっていうなら、断るけど。ほら、私、男を見る目がないから。桃子がダメっていうのなら、それなりの理由があると思うし。全部、桃子の言う通りにする」
 彩花の笑顔には桃子に寄せる信頼が満ち満ちていた。貴一と付き合うなと言えば、彩花は素直に従うだろう。だが、貴一と付き合うなという理由が何ひとつない。貴一はダメ男ではないから、理由があるとすれば、桃子の嫉妬だけ……。
「佐野先輩は――」と言いかけて、桃子は咳払いをした。同時に醜い嫉妬心も払ったつもりだった。
「佐野先輩は、素敵な男性だよ。彼女を大事にするタイプ。付き合ったら彩花のこと、すごく大切にしてくれると思う」
「そっかぁ」
 彩花は顔の前で両手の指の先だけをあわせ、しばらく考えこんでいた。
「桃子がそう言うなら、付き合うって返事することにする。あれ、桃子、どうしたの、泣いたりなんかして」
 彩花に言われて初めて桃子は、生ぬるいものが頬をつたっていると気づいた。
「あれ、何だろ。あ、きっとさっきのカクテルが出てきたんだよ」
 桃子は慌てて顔を背け、ハンカチで目頭を押さえた。涙腺が決壊し、溢れ出した涙はたちまちハンカチに沁みを作った。
「気管に入ったんじゃなかったの」
「鼻にも入ったのかも」
「鼻と目ってつながってるの?」
 小首を傾げながら、彩花がハンカチを差し出した。ガーベラの花模様にレースの縁取りがしてある、華奢なデザインのものだった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 4-3

  メイクを落とそうとして鏡を見、その必要はないと気づいた。ファンデーションは涙ですっかり流れ落ちてしまっていた。瞼が赤いのはアイシャドーのせいではなく、散々泣き続けたせいだ。
 彩花と別れてから、桃子は泣きっぱなしだった。電車でも、駅からマンションまでの道を歩きながらでも、人目も構わずに涙の出るままにしていた。涙を流し続ける桃子を誰もが振り返ったが、声をかけてくれる人間は誰ひとりいなかった。
 腫れてぷっくらと色っぽくさえ見える瞼の上に、桃子はおもむろにアイシャドーを乗せた。パールの入ったピンクのアイシャドーだ。目頭から目尻にむけてブラシをすべらせ、アイホール全体をピンク色に塗りこめていく。
 次にアイライナーで瞼の縁を濃く彩った。目が大きくなったような気がした。彩花の長い睫を思い出しながらマスカラを塗った。ピンクのルージュもひいてみた。鏡の中に現れたのは彩花のようにかわいい女の顔ではなく、センスのない色づかいで失敗した塗り絵のような桃子だった。
 彩花のメイクだけを真似ても、しょせん土台が違うのだから、彩花になれるわけがなかった。鏡から目を逸らし、桃子は、したばかりのメイクを落としてしまった。見た目だけ彩花になれたとしても、貴一に好きになってもらえるわけではない。
 熱いシャワーを浴び、タオルで濡れ髪を乾かしながら、桃子は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。プルトップをあけるなり、一気に半分近くまで飲み干してしまった。
 プレーヤーのスイッチを入れるとすっかり聞き慣れたスモーキーな歌声が流れてきた。隣近所の迷惑を考えず、桃子は音量をあげた。今夜は音に飲み込まれてしまいたい。
 桃子はバッグの中から封筒を取り出した。迷いながら結局買ってしまったアデルのライブチケットが二枚入っている。今日というか、日付が変わったので昨日の昼休みに受け取ったチケットだ。
 封筒から取り出したチケットを、桃子は指でつまんで宙にはためかせてみた。使い道のなくなったチケットは、部屋の空気をほんの少し揺り動かしただけだった。酒くさいため息をつき、桃子はやおらチケットを半分に引裂いた。
 貴一が彩花を好きだったなんて――よりによって、彩花に貴一と付き合うことを勧めるようになるなんて――
 枯れたはずの涙がまた湧き出てきた。頬を伝った涙は、膝を抱えてすわる桃子の膝頭へと流れ落ちていった。
 曲は「サムワン・ライク・ユー」に変わった。「あなたに似た人」、かつて恋人だった男の別の女との未来を祝福する歌だ。お幸せに、なんてうたっているけれど、嫌味のつもりなのかもしれない。少なくとも、今の桃子には、彩花と貴一の付き合いを祝う気にはまったくなれない。
 アデルの歌声の合間に、インターホンの鳴る音が流れ聞こえてきた。音がうるさいと誰かが文句を言いにきたのだろう。居留守を決め込むつもりだったが、インターホンは鳴りやまない。そのうち、ドアが激しく鳴り始めた。どうあっても桃子に面と向かって文句を言いたいらしい。仕方なく、桃子は重い腰をあげ、玄関にむかった。ドアスコープからはドアの外に立っている亮平の姿が確認できた。
「ごめん、今晩だけは勘弁して」
 ドアを開けるなり、桃子は言い放った。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 4-4

「え、なに?」
 先制撃をくらい、亮平は目を白黒させた。寝ているところを起こされたらしいTシャツに短パンというラフな格好だった。
「音楽がうるさいっていうんでしょ。わかってる。でも今夜だけは聴かせて」
 桃子は真剣なまなざしで亮平に頼み込んだ。
「違うって。文句を言いにきたんじゃなくて――」
 亮平は人差し指をたててみせた。
「これ、誰の何て曲?」
 ドアの隙間からアデルの歌声が廊下にこぼれていた。アデルというアーティスト名と「サムワン・ライク・ユー」という曲名を教えてやると、亮平は忘れまいとするかのように何度も繰り返した。
「もしかして、こういう系の音楽、好きなの」
 亮平はアデルと曲名とを交互に繰り返しながら、首を横に振った。
「彼女が気に入ったみたいでさ。何ていう曲か知りたいって言うから、聞きにきただけ。オレの趣味じゃない。オレはどっちかってーと、いつだかかけてた曲の方が好きだな」
「いつの話?」
「まりあちゃんとエッチしてた朝の曲」
「……メタル系ね」
「誰の何て曲だったのさ」
「キッスのベスト盤。気に入ったのなら貸そうか」
「ラッキー! オレんとこの部屋のポストにでも入れておいてくれたらいいからさ」
 今にも桃子に抱き付かんばかりの勢いで亮平は喜んだ。
「リョーヘイ、何してんのぉ」
 六〇七号室のドアが開いて、隙間から若い女が顔を出した。黒くてまっすぐな髪が肩からさらりと流れ落ちた。桃子と目が合うなり、女は愛想のいい笑顔を浮かべた。
「麻子ちゃん、この曲、アデルっていうアーティストの『サムワン』なんちゃらっていうんだってさ」
「『サムワン・ライク・ユー』ね……」
 桃子のつぶやきを無視して、亮平は一メートルもない六〇七号室のドアにむかってダッシュした。かと思うと、同じスピードで桃子の部屋の前まで戻ってきた。
「音楽、かけっぱなしにしといてよ。オレらこれからエッチするからさ。音量大き目でお願いしマース。音消しになってお互い都合いいっしょ」
 サビのメロディを口ずさみながら、亮平は六〇七号室へと戻っていった。
 ドアを閉めると、部屋のなかにたちまち音が満ちていった。行き場を失った音たちは窓にぶつかり、壁にはねかえされ、桃子の体に降り注いできた。降り積もる音に息苦しささえ感じる。
 わんわんと、桃子は声を上げて泣き始めた。泣いていると知られたくなくて音量をあげたのだが、今となっては泣き声を聞かれようと構いはしないはしなかった。腫れぼったい顔を見られた亮平にはどうせ泣いていたと勘付かれただろう。
 今夜だけは、子どものように大声で泣きわめいてしまいたかった。泣いたからといって貴一を忘れられるわけでも、諦められるわけでもないとわかっていながら、それでも、桃子は泣かずにはいられなかった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 4-5

 失恋を癒す薬は、時間と新しい恋だという。新しい恋が簡単にできるくらいなら、同じ男に六年も片思いをしていない。時間は即効性に欠ける。桃子は仕事に打ち込むことにした。
 子どもの頃から文房具が好きだった。シャーペン、クリップ、お菓子のような甘い匂いのする消しゴム、ノート、手帳……数え上げたらきりがない。実用品で消耗品のはずなのに、桃子の場合は、未使用の文房具が溜まっていくばかりだった。
 文房具売り場でなら何時間でも時間がつぶせた。ペンの書き心地に酔いしれる。ノートの枠線の幅の妙に感嘆し、手帳に刻まれていくだろう未来に思いを馳せる。
 気づけば文房具専門店でバイトをし、文房具メーカーに就職していた。文房具にかける情熱を認められたというより、後から上司に聞いた話では、あまりの執着ぶりに呆れられ、そんなに好きならという温情で採用が決まったらしい。面接の時に文房具に対する愛を熱く語った相手が企画開発部の部長で、入社後、桃子はその部長の下で働いている。
 企画開発部の仕事は、文字通り、新しい商品を生み出すことだ。こんな文房具があったらいいのにと考えてばかりの桃子にとってこれほど適した仕事はない。要は自分が欲しいと思うものを商品にすればいいだけなのだから。
 しかし、一口に新しい商品を考えると言っても、実際の仕事となると、自分の好きな商品を作るとはいかなかった。ビジネスである以上、採算を考えなければならない。自分の好きなものが売れるものとは限らない。市場が必要としているものでありながら、社の独自性を出す。ニーズとオリジナリティとのバランスが商品開発には不可欠な要素だ。
 仕事は、新商品の企画・開発が主だが、考えっぱなしというわけではない。産みの親である以上、それこそ子どものように、巣立っていくまで、つまり店頭での販売までを面倒みる。生み出しながら同時進行で先に生み出した商品の面倒も見るので、企画段階、デザイン中、試作品の検討段階などと、異なるステージにあるいくつもの新商品を抱えている。営業部との会議、デザイナーとの打ち合わせ、工場担当者との話し合いなど、体がいくつあっても足りない。疲れた体にムチ打ちながら、桃子は昼も夜もなく働いた。
「今日も残業か?」
 あまりの桃子のがむしゃらぶりに、残業仲間である貴一までもが呆れた。
 金曜の夜、いつもなら夜中近くまでオフィスに残っているはずの貴一とビルの外で偶然出くわした。小腹が空いたからとコンビに買い出しに出た帰りだった。
「忙しいのか?」
「要領が悪いだけです」
「あまり頑張りすぎるな。少しは休まないと、かえって能率が悪くなるぞ」
「……」
「それと、もう少しまともなものを食え」
 貴一の視線がコンビニのレジ袋にそそがれていた。中には菓子パンと飲み物が入っている。反射的に、桃子はレジ袋を背中に隠した。
 そのまま、早々に帰宅していく貴一の後ろ姿を見送った。その背中が弾んでいた。土曜の明日、貴一は彩花と映画に行く約束をしている。昼間、彩花から聞かされて知っていた。
「初デートの印象って大事よね。何を着ていったらいいかな」
 貴一と真剣に付き合うつもりらしく、彩花は神経質なまでに服装から行動、言葉遣い、話す内容にまで慎重になり、桃子のアドバイスを求めてきた。取られたわけではないが、気持ちの上では取られたような貴一とのデートに着ていく服を一緒に考えるほどお人よしではない。ささくれた気持ちで何だっていいと言おうとして、「足と胸は出すな」とだけ言った。勝負がついてしまっているのはわかっているが、彩花の肉体に惹かれる貴一の男の部分はまだ見たくない。 
 暗がりのオフィスで一人わびしくメロンパンをかじりながら、桃子はうなだれた。
 食べ終えても、残業する気にならなかった。そもそも、帰ろうとする貴一とビルの外ですれ違ってからというもの、残業する意欲は失せていた。
 仕事に逃げているうち、仕事が好きなのではないかと思い始めていたが、やっぱり逃げでしかなかった。残業が苦にならなかったのは、貴一も残業していたからだ。残業という形ではあったものの、自分と一緒に費やしていた貴一の時間が彩花だけのためのものになろうとしている。そう考えるだけで憂鬱な気分になった。
(仕事でもするか……)
 パソコンを開けば嫌でも仕事モードに切り替わるかと思ったが、無駄なあがきだった。まるで仕事する気になれない。何もかもどうにでもなれと自暴自棄な気持ちになったのに、桃子は我ながら呆れてしまった。
職場は戦場、男を捕まえる場所なんかじゃない。ずっとそう思ってきたのに、貴一がいないオフィスでは残業する気にならないというのでは、貴一に会いに会社に通ってきたようなものではないか。
(それも六年……)
 気づけば二十九歳、三十路が目前に迫っている。急に何だか焦る気持ちがわいてきた。このまま貴一を忘れられずにいたら、ただただ年を取っていくだけ。
 かといって、新しい恋のチャンスもない。そもそも出会いがない。独身の同僚や社員もいることにはいるが、今さら興味がわかない。社外で接する相手は、工場の担当者が主だが、みな桃子よりずっと年上で、おそらくは既婚者だ。会社の内と外、どちらにしても仕事がらみの場で、その場以外での出会いの機会がない。桃子はぞっとした。
 慌ててブラウズを立ち上げ、検索バーに「出会い」と打ち込む。ずらりと表示された検索結果に、出会いに飢えているのは自分だけではないと妙にほっとする。
(先輩みたいな人には出会えないと思うけどね……)
 胸の内でそうつぶやき、桃子はブラウズをそっと閉じた。

テーマ:物書きのひとりごと
ジャンル:小説・文学

なのなのな 4-6

 目覚まし時計が鳴り続けている。起きなければならないのはわかっているが、体がだるい。このところの残業続きで眠くて仕方ない。アラームをとめようと夢見心地で布団から手を出し、サイドテーブルにあるはずの目覚まし時計のありかをさぐった。
 だが、アラームを止めたはずなのに音は鳴りやまない。それもそのはずで、鳴っているのは部屋のインターホンだった。ベッドの上に跳ね上がった桃子は、とっさに時間を確認した。時刻は二時になろうとしていた。
(こんな夜中に一体何だっていうの?)
 ヘッドフォンを外し、まだ半分寝ている体を引きずるようにして桃子は玄関へとむかった。六〇七号室の「騒音」が毎晩うるさいので、この頃ではヘッドフォンをして寝る。骨の芯まで震わせる大音量が神経を麻痺させるので、かえって寝つきがよくなった。今やメタルロックは桃子の子守歌だ。
 ドアスコープからは若い女の姿が見えた。黒く艶やかな髪の女で、長さは胸のあたりまである。青白い肌に凄みのある顔つきで、生きている人間のようには見えない。まさか幽霊かと一瞬おののいたが、幽霊ならしつこいまでにインターホンを鳴らさなくても、勝手にドアをすり抜けて部屋に入ってくるだろう。相手が人間なら用心するにこしたことはない。チェーンをかけたまま、桃子はドアを開けた。
「あの、何でしょう」 
「リョーヘイ、いるんでしょ?」
 女はドアの隙間に素早く片足を入れ、部屋の中をのぞきこんだ。
「わかってんだから。リョーヘイ、早く出て来なさいよ!」
 隙間からでも部屋に入ろうとする女を押しとどめようとする桃子を押しのけ、女は叫んだ。
「何なんですか、夜中にいきなり人の家に押しかけてきて。リョーヘイって、大和亮平のことですか? 彼の部屋なら、隣の六〇七号室です。うちは六〇六号室。ちゃんと部屋番号確認してください」
 とげとげしい口調でまくしたてるなり、桃子はドアを閉めようとしたが、女の右足がストッパーの役割を果たしてしまっていた。
「足どけてもらえます? ドア閉められないので」
 眠い瞼を必死に押し上げながら、桃子は女を睨みつけた。足を引くどころか、女は桃子をきっと睨み返してきた。
「リョーヘイがこの部屋に逃げ込んだのはわかってるの。ごちゃごちゃ言ってないで、さっさとリョーヘイを出しなさいよ」
 女の目は完全に座っていた。酔っているのとは違う、心が壊れかけているような目つきだ。これはまずいと、桃子は力づくでドアを閉めようとした。
「誰もこの部屋にはいません。私ひとりです」
「ウソつかないでよ。私、見たんだから。リョーヘイがベランダ伝いにこっちの部屋に移っていくの」
 女はチェーンの下にかがみこみ、わずかな隙間から部屋に入ってこようとした。痩せた彼女の体格なら、体を横にすればすり抜けられそうだった。桃子は仁王立ちで応戦した。
「ウソなんかついてません。誰もベランダ伝いに私の部屋になんか来てません」
「リョーヘイをかばってるの? あんたもリョーヘイの女なの?」
 女の目がたちまちつりあがっていく。桃子は喧嘩腰の口調を改め
「私はただの隣人です。あなたとお隣さんとで何があったかしらないけど、彼はこっちの部屋には来てません」
「でも、私見たわ。浮気現場を抑えてやろうとして部屋に入ったら、リョーヘイと女がベッドに寝てて、私と目があったとたん、リョーヘイのヤツ、ベランダに逃げたんだから」
「じゃあ、ベランダの隅っこにでも隠れているんじゃないの? 今ごろ、ベランダから部屋に戻ってるかも」
「それはないわ。ベランダの窓の鍵は閉めてやったから」
 浮気現場を目の当たりにして頭に血がのぼっていそうなものなのに、男の逃げ道を断った女の冷静さに、桃子は怖さを忘れて感嘆せずにはいられなかった。
「わかった。じゃあ、中に入って、彼がいるかどうか確かめてみれば? だから足どけてくれる? ドアを一旦閉めないと開けられないから」
「そう言って、私を閉め出す気なんでしょ」
「チェーンを外さないとドアは開けてあげられない」
 桃子は事実を穏やかに告げた。桃子の言葉を解析するかのように何度も目をしばたかせた後、女はゆっくりと足を抜いた。その間中、女の目は桃子を睨みつけていた。少しでも桃子が怪しい動きをしようものなら、とってかかるつもりだといわんばかりに。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 4-7

 ドアを閉め切ってしまってから、桃子はチェーンを外した。このまま閉めだしてしまってもよかったのに、桃子はドアを再び開けた。部屋には桃子以外に誰もいないとわかれば、女は引き下がるだろう。彼女の標的はあくまでも亮平だ。
 ドアが開け切るのを待ちきれず、女はほんのわずかな隙間から体を入れ、雪崩のように部屋の中に押し入ってきた。
「ちょっと、靴ぐらい脱ぎなさいよ」
 すみませんの一言もなく、女は玄関先にむかって黒のパンプスを投げ出し、部屋の奥へと押し進んでいった。
 とはいえ、ワンルームの部屋だから五歩も歩けば部屋の全体が見渡せる。玄関を入ってすぐ左がユニットバス、右はキッチン、真っ直ぐ進めばベランダに出る窓に突き当たる。ベッドは六〇七号室側の壁側にあり、トイレとベッドの間の壁には作り付けのクローゼットがある。狭い部屋だから、男がいたとしたら、見落とせるはずがない。
「だから言ったでしょ。誰もいないって」
 桃子の言葉を無視し、女は部屋の隅々にまで視線をやっていた。ユニットバスのトイレの蓋も開け、洗面台の収納もキッチンのシンク下もチェックする徹底ぶりで、そんな場所に隠れられるのは小人だけだなと呆れつつ、桃子は女のしたいようにさせていた。
 女が冷蔵庫を開けて中を覗き込んでいたその時だった。ガラスがひび割れるような音がした。音はベランダの方から聞こえてきた。何事かとカーテンの隙間からベランダを見ると、そこには素っ裸の亮平が半笑いを浮かべて立っていた。カーテンを握りしめ、桃子はとっさに女を振り返った。
「ねえ、ベランダも見せて」
 電子レンジの中を見終えた女が桃子に、というか、ベランダにむかって近づいてきた。ベランダに亮平がいると知られたら、かくまっていたとみなされて何をされるかわかったものではない。後ろ手にカーテンを握りしめる両てのひらにじんわりと汗がにじんできた。
「えっと、本当に、こっちの部屋の側のベランダにわたってきたのかな? 見たって言ってたけど、もしかしたら、窓にむかって左側の部屋に行ったかもしれないじゃない? だとすると、六〇八号室なんだけど」
「ちゃんと、見たわよ。確かにこっち側、六〇六号室側のベランダに移ったわ」
「勘違いしてるってことない? ほら、部屋の中からだと、隣の部屋の位置関係ってわかりにくいものだし」
「間違いないわ。そこどいて」
 女に押しのけられ、桃子は窓の前をあけわたしてしまった。まずい。とっさに、桃子は玄関に目を向けた。亮平を見つけた女が激昂している間に、逃げ出せるだろうか。鍵はかけなかったから、猛スピードで走り抜ければ何とか部屋の外には逃げ出せるはずだ。
 女はカーテンレールが壁から引きちぎれそうな勢いでカーテンを開けた。桃子は後ずさりを始めた。
 女は窓の鍵に手をかけた。窓を開け、バルコニーに身を乗り出し、男の姿を探している。そろそろ体をドアに向けたほうがいい。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 4-8

「いない」
 亮平の姿を探していた女がいまいましそうに呟いた。そんなはずはと、玄関にむかって上半身をひねりかけていた桃子は部屋の中に舞い戻ってきた。
 女の言うように、亮平の姿はどこにも見当たらなかった。ベランダには物干し竿とエアコンの室外機があるだけで、隠れるような場所はない。
「こっちじゃなかった」
 舌うちした女は、桃子の部屋を飛び出していった。
 しばらくするとインターホンが鳴る音が聞こえ始めた。六〇八号室の住人はよほど眠りが深いのか、無視し続けるつもりでいるのか、部屋からの応答はないようだった。そのうち女はドアを叩き始めた。
 その音に弾かれるようにして、桃子は部屋のドアを閉め、鍵をかけ、チェーンをおろした。今度は絶対に開けないつもりだ。
 窓の鍵も閉めないとと、慌ててベランダにむかい、窓を閉めようとしたところで、ベランダに侵入しようとしてくる男と目があった。亮平だった。
 亮平は、各部屋のベランダを仕切る壁にしがみつき、片足を室外機の上にかけて、まさに桃子の部屋のベランダに移ってくるところだった。
「冷たっ!」
 無事ベランダに着地成功した亮平は、両手で局部を覆った格好でコンクリートの上を二、三度跳ねた。
「あいつ、もういないべ」
 亮平は爪先で撥ねながら、部屋の中へと入ってきた。
「あ、窓閉めといて」
 亮平の言葉にはっとして、桃子は窓を閉め、カーテンもきつく閉じた。
「何か着るもんない?」
 亮平は勝手にクローゼットを開け、物色を始めた。
「なんか、オレのクローゼットと変わんねえのな。ダーク系のパンツスーツばっかでやんの。おっ?」
 クローゼットの奥をのぞきこもうとする亮平の耳をつかみ、桃子は玄関まで引きずって行った。
「痛ぇよ、何すんだよ」
「さっさと自分の部屋に戻りなさいよ」
「ヤだって。今部屋に戻ったら何されるか、わかんないって。しばらくかくまってよ」
「イヤ」
「冷たいなあ。隣同士、助け合おうよ」
「浮気男なんか助ける義理はありませーん。刺されでも何でもされちゃいなさいよ」
「裸のオレがこの部屋から出てくるところを見られたら、あんたもただじゃすまねえと思うけど」
 玄関に近づくにつれ、六〇八号室のドアを叩く音が強くなった。無視され続けているのは亮平が部屋の中にいるからに違いないと思い込んだらしい女はますますヒートアップしている。亮平の言う通り、こんな状況下で、桃子の部屋から裸の亮平を出そうものなら、桃子と何かあったと勘違いされかねない。
 亮平の耳をつまんだまま、桃子は部屋の中をUターンし、今度は窓にむかった。閉めたカーテンを開け、窓を全開にし、亮平をベランダに放り投げた。
「どうぞ、来た所から部屋に戻ってください」
「窓に鍵かけられて部屋の中には入れないんだって」
 コンクリートの上で、亮平はピョンピョンと撥ねていた。
「窓を割って入ればいんじゃない?」
「修理代払いたくねえし」
「修理代ぐらい出してあげないこともないから、さっさと部屋に戻ってちょうだい」
「お、太っ腹!」
「私が巻き添えくらうのを考えたら、ガラスの修理代なんて安いものよ。はい、早く戻って」
 亮平はベランダの手すりから下をのぞいた。
「ベランダ越えるの、こえーんだぜ。途中で落ちたらどうするよ」
「一回こっちに来て、彼女がベランダ確認している直前に自分とこのベランダに戻って、その後、またうちのベランダに来たんでしょ。もう二回も行ったり来たりしているんだから、慣れたものでしょ」
「部屋に戻ったらマジ殺されるって。あいつ、合鍵持ってるから部屋の中に入って来れるんだって」
「自分で渡した合鍵でしょ。浮気したんだから、殺されても何されても自業自得です」
「ちげーよ。オレ、合鍵なんか絶対誰にも渡さねーもん。あいつが勝手に作ったんだって」
「彼女、浮気を疑ってたのね。一度、殺されてきたらどう?」
「ひでぇ。男に恨みでもあんの? あ、浮気されたとか?」
「違います! 付き合っているコがいるのに浮気する方が悪いでしょうが」
「オレもあいつにとっては浮気相手だけどな」
「はあ?」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 4-9

 桃子が呆れている間に、亮平はそそくさと部屋の中にあがりこみ、ラグの上にあぐらをかいて座った。どうあっても居座るつもりらしい。
「その格好だけはどうにかしてよね」
 一応、気を遣って局部だけは両手で覆って隠しているが、全裸の亮平である。桃子は使っていないタオルがあったはずだとバスルームにむかった。未使用のタオルをもって戻ってくるまでわずか十分の間に、亮平はどこから探し出してきたものか、桃子のマキシワンピをちゃっかり着こんでいた。あぐらをかいているものだから、柄のヒマワリが肥大化していた。
「タオルじゃ、オレのガンを隠しきれ……痛っ」
 桃子が丸めて投げつけたタオルは見事に亮平の顔に命中した。
「ハンカチでも十分でしょ!」
「あれ、見た?」
「み、見てないわよ」
「あれ、あれ、あれ? 赤くなっちゃって。見たんだ、そーだろ、絶対そうだ! 見たよね、ね、ね、見たよね?」
 亮平は、桃子が背けた方向にわざわざ行っては真っ赤になった桃子の顔をのぞきこんでからかった。
「見てなかったら、何でハンカチで十分だってわかんのさ」
「ほー。じゃあ、やっぱりハンカチで隠せる程度てわけね」
 亮平の言葉じりをとらえて反逆したつもりだが、当人はニヤリと笑って
「知らねえの。オレのガンは変形すんだよ」
 としゃあしゃあと言ってのけた。
「トランスフォー……痛っ!」
 とっさに投げつけたウサギのぬいぐるみはまたしても見事に亮平の顔に命中した。その瞬間、まるで祭りの屋台で景品をあてでもしたかのように、桃子の部屋のインターホンが鳴った。部屋の中から漏れてきた亮平の声を聞きつけたのだろう、女が桃子の部屋の前まで戻ってきていた。
 はっと桃子は息をひそめたが、時すでに遅しで、女に亮平が部屋にいると気づかれてしまった。亮平は部屋の電気を消し、インターホンは電源から切ってしまった。静寂はほんの一瞬だった。女は今度はドアを叩き始めた。しきりに亮平の名を呼び続けている。
「……ねえ、彼女とちゃんと話した方がいいと思うよ」
「話すって何をさ」
 暗闇の中だと、話す声も自然と小さく低くなった。
「オレ、あいつの浮気相手なんだぜ。あいつ、彼氏いんの。お互い干渉しないって約束で、大人の付き合いって割り切った関係だったのにさ。オレに彼女がいるってむこうも知ってんだぜ」
「何、その不適切極まりない関係。じゃあ、今夜ふみこまれた時に一緒にいたコが本命の彼女ってこと?」
「そう」
「ちょっと、そのコどうしたの? まさか、部屋におきざりにして自分だけ逃げてきたとか?」
「急襲されたから、よく覚えてねぇ」
「うわっ、そのコ、外の彼女に何かされたかもよ」
 桃子はドアに目をやった。女が叩くたびに、ドアは小刻みに震えた。震動は部屋の空気すらも揺り動かした。そのうち、ドアが打ち破られやしないかと桃子は不安になった。
「大丈夫じゃね? 今頃、タクシー呼んで家に帰ってるぜ。そういう女だし」
「だといいけど。血まみれでベッドに寝ていたなんて、シャレにならないわよ」
「あいつの標的はオレだから、それはないんじゃね?」
 亮平はあっけらかんと笑ったが、桃子は笑えなかった。女心と秋の空。気持ちなんて猫の目のように変わるもの。
「浮気が本気になったのかな……」
 誰に聞かせるでもなく、桃子はぽつりと呟いた。
 さらさらの黒い髪がキレイな女の子だった。いつか、アデルの「サムワン・ライク・ユー」が気になると言ってきたあの女の子だと桃子は思い出した。色が白くて一見真面目そうにみえるタイプの子だ。
「もともと、あんたのことが好きで、二番目でもいいから付き合いたいっていう思いで付き合ってたのかもしれない」
「遊びでいいって言ったのはむこうだぜ」
「言葉と気持ちが一致しているとは限らないじゃない。人間は嘘をつく動物なんだから」
 本音でトークしようぜとブツブツ言いながら、亮平はドアの向こうを見つめていた。
 ドアを叩く音は次第に弱まっていき、しばらくするとすっかり止んでしまった。諦めて立ち去っただろうかと思い、桃子と亮平とは顔を見合わせて玄関にむかった。
 ドアスコープから廊下をのぞくと、ストッキングの足の先がみえた。どうやら、女は桃子の部屋のドアに背をもたれかけ、廊下に座り込んでいるらしい。女が脱ぎ捨てたパンプスは桃子の部屋の玄関にそのままになっていた。
 廊下に投げ出された細い足はしぼみかけた風船のようだった。張りつめていた感情が足先から漏れ出ている。朝までには影も形もなくなっていってしまいそうだった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 5-1

PC画面が真っ白になったので、慌てて操作を取り消すコマンドを打ち込んだ。画面には、間違えて全削除してしまったプレゼン資料が出現した。人生でも、前の行動を取り消せたらどんなにいいだろう。
 彩花に貴一と付き合うよう勧めたこと。
 彩花の男選びをかわってするはめになったこと。
 そもそも貴一を好きになったこと。
 どこまで取り消していったらいいのだろう。きりがない。そもそも、自分の取った行動を取り消せはしても、貴一が彩花を好きになったことは取り消せないのだから、何をどうあがいても現状を変えられはしない。
 貴一は彩花をホテルに誘った――
 貴一の気持ちを変えられないというのなら、世界のすべてをクラッシュさせてやりたい。
 マウスの横に置いたケータイに目をやる。着信音の鳴り出す気配はまるでない。桃子はケータイを手に取り、着信記録を確かめた。最後の着信は22時、彩花からのメールだった。
《ホテルに誘われた。どうしたらいい?》
 メールにはそうあった。
《まだ早いよ》
 とっさにそう返信した。それに対する彩花の返信はないまま、三十分が過ぎようとしている。彩花は桃子の指示に従って貴一を拒否しただろうか。
 メールを受け取ってから、残業どころではなくなってしまった。コピーするつもりが削除していたり、ペーストする場所を間違えたり、妙な記号を打ち込んでいたり、そのたびに取り消しのコマンドを打ち込むので、作業はちっともはかどらなくなった。このままでは、保存するつもりのものをゴミ箱に捨ててしまいかねない。
 メールが届いていないのかもしれない。桃子は再びケータイを手にとって送信履歴を確かめた。メールは確かに彩花宛てに送信されていた。三十分前だった。
 誘いを断るのに三十分もかからない。でも、三十分もあれば……
 貴一と彩花が付き合いはじめてから三か月が経とうとしていた。早いのか遅いのか、相手にもよるだろうから、桃子には判断できない。早いと言ってしまったのは、貴一と彩花が関係を持つという現実にまだ耐えられないという意味だった。
 貴一が彩花と付き合うことになってから、いつかはこういう日がくるとわかっていたはずだった。貴一の優しい眼差しが彩花だけにそそがれていると考えるだけでも狂いそうな気持ちになるのに、その唇が彩花のものと重なる、その手が彩花の肌に触れると想像しただけでも、息がつまりそうになる。貴一の肌に彩花が触れるのかと思うと、まるで自分の体を触られでもしたかのような悪寒がする。
 ケータイをまた手に取った。彩花からのメールは来ていない。深呼吸をして、桃子はPCにむかった。誰もいないオフィスに、キーボードを叩く音だけが空しく響き渡る。
「プレゼンの準備?」
 微かにアルコールを含む息が肩にかかった。振り返ると、貴一がPC画面をのぞき込むようにして背後に立っていた。
「何のプレゼン?」
「新商品のプレゼンです」
 桃子はマウスに手を置き、画面をスクロールアップしていった。画面の明るさに目を細めながら、貴一はプレゼンを真剣に眺めていた。
「手帳? いろんなものが出回っているから、目新しくはないね」
「そうなんですけど、私が考えているのは、スケジュール管理のための手帳ではなくて、イベントまでのカウントダウンをする遊び心のある手帳なんです。外国には、アドベントカレンダーといって、クリスマスまでの毎日をカウントダウンするカレンダーがあるんですが、それをヒントにしたもので、カレンダーではなくて、手帳でやってみたらおもしろいかなって」
「毎日めくっていくだけの手帳? それは手帳とはいえないだろ」
「手帳にはあらかじめ、その日にすべきことを印刷しておきます。たとえば、イベントがクリスマスだとしたら、それまでの毎日のページには、『プレゼントは買った?』とか『パーティーの用意は万端?』だとか。使う時には、プレゼントに買った物だとか、買いに行った場所だとかを書きこむようにして。ただし、書きこむ内容はイベントに関係のあるものだけにして、イベントが終わったら思い出としてとっておけます」
「ターゲット層は?」
「若い女性です。イベントもいろいろ考えていて、今のところ、クリスマスがメインですけど、バレンタインまでのカウントダウンもいいかなって」
「ふうん」
 と言ったきり、貴一は腕組みして桃子の顔をじっと見つめた。先に視線を逸らしたのは桃子の方だった。
「らしくないね」
 桃子ははっと顔をあげ、貴一の顔を見上げた。
「らしくないって、どういう意味ですか」
「どうって……」
 今度は貴一が視線を逸らす番だった。
「立木が提案する商品は実用性第一といったものが多いだろう? 特定のイベントのスケジュールだけを書きこむ手帳なんて、実用性のあまりないものを提案するなんて、何ていうか、凛としてクールなイメージの立木らしくないなって」
「凛としてクールなのが私だって、どうして先輩にわかるんです? 私でもないのに」
「わかるさ。付き合いは長いんだ、立木のことなら何でもわかってるさ」
 貴一は無邪気に笑った。そういう貴一だが、桃子が六年もの長い間寄せてきた気持ちは知らないのだ。



日1回のペースだと月末までに完結しないので、ここから1日2回更新ペースでいきます。
朝8時と夕方5時に更新します。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 5-2

「やっぱり、やめます、この企画」
 きっぱりと言い放ち、桃子はファイルを閉じた。
「何で?」
「だって、私らしくないんですよね、この企画」
 沈黙が二人の間を漂った。
「やりたいんじゃないの、この企画」
「……」
「人にどうこう言われたくらいでやめるだなんて、それこそ立木らしくないな」
 貴一は桃子からマウスを取り上げ、ファイルをダブルクリックで開いた。中腰の姿勢で、椅子にすわる桃子に覆いかぶさるような格好でマウスを操作し、画面をスクロールさせ、何度かページを行ったり来たりした挙句、とあるページを画面に表示させた。
「ここのページに『母子手帳としても』ってコピーがあるけど、どうだろうな。確かに、出産は一大イベントだけど、生まれてくる日はクリスマスのように特定の日と決まっているわけじゃないだろ。予定日はあるだろうけど、それはあくまで予定日であって、ずれる方が多いんだから」
「確かにそうですね」
 桃子は該当箇所のコピーを消した。
「出産は個人的なイベントですものね。まずは、日付が決まっているイベントがらみの手帳から考えてみます」
「イベントが終わったら思い出として保存しておくということは、手帳そのものも取っておきたくなるようなものを用意しないと。デザイナーは決めた?」
「彩花を指名しようかなと」
 彩花の名前を口にしてから、しまったと桃子は唇を噛んだ。彩花をホテルに誘ったはずの貴一がオフィスにいる。彩花と何かがあったことは明らかだった。桃子はそっと貴一の顔をうかがったが、彩花の名前を聞いても貴一に変わった様子はなかった。
 仕事で問題を抱えても顔色ひとつ変えることなく、貴一は淡々と対処する。新商品が当たっても、バカみたいに騒いだりしない。どちらの場合でも、穏やかな微笑みを浮かべているばかりである。ポーカーフェイス。そんな貴一だから、自分を好きな可能性があるのかどうかはさっぱりわからなかったし、彩花を好きでいたこともわからなかった。
「長谷川さんなら適任だろうね」
「彩花、女の子アイテムのデザインは得意ですから」
「よく知ってるね。長谷川との付き合いはどれくらい?」
「同期なので、六年です」
「六年か――」
 貴一は隣のビルの明かりをぼんやり眺めていた。
「俺、長谷川と付き合ってるんだ――もう三か月になるかな」
 桃子が驚かないので貴一は察したようだった。
「長谷川から聞いてた?」
 桃子はこくりと頷いた。
「女同士って何でも話すものなのかな」
「何でもっていうわけじゃないですけど――」
 彩花に話していないことはいくらでもある。たとえば、貴一を好きなことだとか……。
「長谷川が入社してきた時から気になってたんだ。可愛い子が入ってきたなって。男どもがだいぶ騒いでいただろ。たぶん、彼氏がいるだろうからと思ってずっと諦めていたんだけど、思い切って告白したら、付き合ってもいいって言われてさ」
 胸が苦しかった。桃子が貴一だけを見つめてきた同じ時間、貴一は彩花だけを見てきたのだ。桃子は白旗をあげた。隙あらばという気持ちがないでもなかったが、これでは完全撤退するしかない。
「付き合っているんだけど、何ていうか、彼女、俺のこと本当に好きなのかなって」
「何でそう思うんです?」
「彼女、俺といても上の空で、ずっとケータイをいじっているんだ。俺と一緒にいて楽しくないんじゃないかと思うんだ」
 ケータイの相手は桃子だった。彩花は、会話の受け答えすらも桃子の指示をあおぐ。おかげで、知りたくもないのに、桃子は、貴一と彩花のやり取りを知るはめになった。
「今夜もデートしてたんだけど、ケータイいじってたかと思うと、急に気分が悪くなったから帰るって言いだしてさ」
「……」
「男としての魅力に欠けてるってことなのかな」
 自嘲気味に貴一は笑った。液晶画面に照らし出されて頬が青白く光っていた。
「先輩は素敵な人です。先輩に憧れてる女子社員だっているんですから」
「へえ、そんな子がいるの」
「私だって、先輩に憧れてます」
 どさくさまぎれに告白したつもりだった。だが、貴一は真に受けなかった。
「たとえ立木だけだとしても嬉しいよ」
 桃子の頭をぽんと軽く叩き、「プレゼン楽しみにしてる」と言って、オフィスを去っていった。
 後には、あたってくだけた桃子のかけらが残っているばかりだった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 5-3

「彩花、もう相談にはのれない」
 そう言うなり、桃子はカウンターに額をぶつける勢いで頭を下げた。近くの席の男がケータイを手に立ち上がったのをきっかけに顔をあげると、口を半開きにしたまま固まっている彩花の顔が目に入った。その口が「に」の形をしていた。「相談にのって」と言いかけた彩花を桃子は遮ったのだった。
「なんで?」
 彩花のきれいな眉がシンクロのようにそろってあがった。貴一が好きだからという本当の理由を、桃子は苦笑いでごまかした。
「やっぱり、自分で考えて行動した方がいいよ。人に決断してもらうなんてバカげてる」
「私、桃子にいろいろ判断してもらってよかったと思ってるよ」
 桃子のセリフを最後まで聞かず、彩花は首を横に振った。
「この間だって、桃子が早すぎるって言ってくれてよかったって思ってる。男って、体の関係ができると離れていくから」
 何もなかったのだろうとは想像ついていたが、はっきり彩花の口から聞くと胸のつかえがおりた。と同時に自責の念にもかられた。「早すぎる」といったのは、彩花を思ってではなく、貴一との関係を嫉妬してだったからだ。桃子の醜すぎる嫉妬のせいで苦しむことになった貴一を、桃子はその目で見てもいた。
「彩花、佐野先輩のこと、好き?」
「うん」
 満面の笑みで彩花はうなずいた。
「すごく大事にしてくれる。今までの男だったら、体の関係を断ったら逃げていったのに、佐野さんは違うもの。私には男を見る目がないから、桃子に佐野さんを勧めてもらってよかったと思ってる。ね、だから、これからもいろいろ相談にのって」
 無邪気な彩花の笑顔が胸に痛かった。相談にのりたくないのは、これ以上、貴一と彩花に関わっていると苦しいからという自分勝手な都合なのだから。
「ねえ、私がまだ早いって言わなかったら、先輩と寝てた?」
「うん」
 即答だった。
「でも、寝てたら、今頃続いていなかったかもしれない。男って、体の関係ができてしまうと、後はどうでもよくなるところがあるから」
「先輩はそういう男じゃない」
「うん、よくわかったもん。いい人だよね。でも、桃子が付き合いなって言ってくれなかったら、付き合ってない。やっぱり、桃子は男を見る目があるよね」
「先輩が彩花を好きだっていうんじゃなかったら、付き合えなんて言わなかったと思うよ」
 桃子の言葉の意味を知ろうと、彩花は長い睫を何度かしばたかせた。
「どういう意味?」
「そのまんまだよ。先輩が彩花に告白したんでなかったら――その逆で彩花が先輩を好きだっていうんだったら、やめろって言ってた」
「なんで?」
「わかんない? 私が先輩を好きだから」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 5-4

 すっと胸が軽くなった。持ちきれなくなった荷物をかたっぱしからその場に投げ下ろすかのように、桃子はまくしたてた。
「彩花のことを考えてじゃない。先輩が好きだから、早すぎるって言ったの。嫉妬の気持ち。先輩の気持ちが私にないってわかってても、最後の一線だけは越えてほしくなかったから。フラれたけど、今もまだ好きなの。だから、相談にはのってあげられない。ふたりがうまくいくようになんて、してあげられない。そんな気になれない」
 恋を失った。友情も失うかもしれない。そんな覚悟で打ち明けたが、彩花は怒り出すどころかずっと冷静に桃子の話を聞いていた。
「佐野さんを好きだったのに、どうして付き合えなんて言ったの?」
 カンパリオレンジを飲んで一息いれた彩花が尋ねた。
「誤解しないで。責めてるんじゃないの。単純に知りたいだけ。なんで『佐野さんは私の好きな人』って言ってくれなかったの」
「『私の好きな人』って言っていたら、彩花はどうした? 告白されたけど付き合わなかった?」
 ファジーネーブルをすっかり飲み干し、桃子は言った。
「付き合ってなかったと思う」
 五分ほど考え込んでから、彩花はそう答えた。
「私の好きな人だってわかったら身を引いたってこと?」
「うん」
「彩花が先輩と付き合わなかったとしても、先輩は私を好きにはならなかったし、私と付き合うってことにはならなかったよ」
「……」
「彩花が身を引こうがどうしようが、先輩が私を好きじゃないってことに変わりはなかったの。だからどう転んでも今と結果は同じ」
「身を引くってわけじゃなくても、タイプじゃないから付き合ってなかったと思う」
 彩花は同じようなことを三か月前にも言っていた。同じ店の同じカウンター席で。
「ねえ、どうして付き合えって言ったの」
「先輩が好きだから――好きな人には幸せになってもらいたかったから」
「私のことを思ってってわけではなかったのね」
 すねたように、彩花は唇を尖らせた。
「彩花のこともちゃんと考えてたよ。先輩がとんでもない男ならダメって言ってた。彩花、泣く恋はこりごりだって言ったじゃない? 先輩なら絶対彩花を泣かさないっていう自信があったから」
「桃子のことは泣かしたわけだけど」
「まあ、そうなるけど……」
 失恋してさんざん泣いて過ごした日々は、彩花にはお見通しだった。
「佐野さんに気持ちを伝えようとは思わなかったの?」
 貴一にそれとなく気持ちを伝えたが、まともに受け取ってもらえなかったと桃子は伝えた。
「せつないね」
 自分の恋のように、彩花は物悲しい調子で呟いた。
「わかった。桃子に相談にのってもらえないのは痛いけど、そういう事情ならしょうがないよね」
 彩花の無邪気な笑顔に、今度は救われる気分だった。
「ごめんね。他の男のことならまともに判断できるけど、先輩となると嫉妬のバイアスがかかってちゃんとした判断を下せないから」
「桃子なしでちゃんとやっていけるかな」
「大丈夫。間違ったって何だって、自分で考えて出した答えなら、納得がいくでしょ。後悔もあるけど、間違えて学んでいく。だからこそ、今までと違うタイプの人と付き合った方がいいのかなって彩花は考えたんだし」
「それでも不安はあるの。地図をもたないで歩いている感じ」
「人生って、そういうものじゃないの――」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 5-5

セールの文字にひきつけられ、桃子はふらりと店内へと足を踏み入れた。新商品のマチ付きクリアファイルの試作品の打ち合わせに工場に行った帰りで、降り続ける雨をよけてデパート内を通り抜けて駅にむかおうとしていた。そのデパートと駅とは屋根付きのコンコースでつながっていて、店はコンコースのあるフロアの一角にあった。
 本格的な夏の来る前に、昨シーズンの在庫一掃を目的としたセールだろう。そろそろ夏物のスーツを新調していたいと思っていたところだと、桃子はさっそく物色を始めた。流行遅れのスタイルになってしまうが、背に腹はかえられない。
「いらっしゃいませ」
 色白で小柄な女性店員が声をかけてきた。光沢のある素材の薄紫色のシャツに、紫色のストライプの入った紺のパンツを着こなしている。ショップの服だろう。客である桃子も、似たようなスタイルのパンツスーツ姿だった。
 煩わしいのは嫌だというオーラが出ていたのか、店員はセールをやっているという案内だけをして去っていった。
 初めての店だったが、桃子の仕事着であるスーツがダーク系をメインカラーとして各種取り揃えてあった。
 桃子は、シンプルなスーツを好んで着る。会社自体は自由な雰囲気で、人に会うことが多い営業部のような部署でない限り、スーツを着なくてもいい職場だが、桃子は入社以来、スーツを着続けている。おしゃれな女性だと、小物やアクセサリーで女性らしさを演出するだろうが、桃子は指輪もネックレスも一切身につけない。スーツ自体の色味も、紺や黒、グレーといった、サラリーマン色一辺倒だ。
「お似合いですね」
 試着室から出てくるなり、色白の女性店員が鏡の中の桃子をうっとりと眺めて言った。客を褒めるのは仕事だろうが、その賞賛には嫉妬めいたものもうかがえた。
「ありがとうございます」
 桃子は照れたように笑顔を返した。シルバーグレーのパンツスーツは、背の高い桃子にこれ以上ないほど似合っていた。ほっそりした体はシャープさを増して、手足の長さがグレーの色味に強調され、さらに長くなったようにみえる。
 就職活動を始めたばかりの頃、スーツ姿で大学のゼミに顔を出したら、ゼミ仲間から似合うと賞賛された。スーツが似合うと言われて喜ぶ女はいないだろうが、何を着ても似合わないよりはましだと、桃子はポジティブに受け止めた。実際、スーツが似合うことでプラスな部分もあった。かっちりした姿が、真面目で清廉な印象を与えるのか、面接官の受けがよかった。おかげでバカなことを口にしても、洗練された冗談だとして受け流してもらえた。女らしい格好は似合わないマイナスを補ってのプラスだった。
 試着室を出ると、女店員は背の高い男と話しこんでいた。ダークブルーのスーツに白いシャツ、ピンクのネクタイをしめている。スーツの色味とスタイルはショップにある男物と似通っていた。店員なのか、それとも客なのだろうか。今時の若い男性らしく、髪は明るい色で長め、毛先が人工的にあちこちをむいていた。
 男は桃子の方を向いていた。小柄な女店員の後頭部の上に顔がはっきりと見えた。先に桃子に気づいたのは亮平の方だった。



すいません、2月中にどうしても完結させたいので、ここから日3回更新でいきます。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 5-6

「あれ、買い物?」
「それ以外に何が?」
 見ればわかるだろうと、試着したばかりのスーツを腕にかけ、桃子は足早にレジにむかった。その後を亮平が小走りに追った。
「そのスーツ、オレに買わせてよ」
 カバンから財布を出そうとするのを、亮平がさえぎった。
「この間、世話になった礼にさ」
「この間世話になったって何の話なの、リョーヘイ」
 女店員がいぶかしげに亮平の顔をのぞきこんだ。どうやら二人は親しい仲らしい。女同士が鉢合わせしたというのに、自分の部屋でボヤを出したという嘘を亮平がついたところをみると、あの時に関わっていた女たちとは別の新しい女であるらしい。
「そうね。あの時は迷惑したわ。何でボヤ出したんだっけ? 寝タバコ?」
「リョーヘイ、タバコ吸わないじゃん」
「えっと、あれだ、天ぷら作ろうとして火にかけたまま、寝ちったんだな」
「何それ。何で夜中に天ぷら? 第一、リョーヘイ、料理しないじゃん」
 女店員の疑惑が深まっていくのを横目に、桃子は必死に笑いをこらえ、財布からカードを出した。
「それ、セール対象外だけど」
 亮平に言われるなり、桃子は慌てて値札を確認した。考えていた予算をはるかに超える値段だった。
「買ってもらったほうがいいんじゃね」
 亮平はニヤニヤしている。
「てか、あんたにも買えるの」
 負けじと桃子も言い返してやった。
「社割で買えるもん」
 亮平の打ったスマッシュヒットは、桃子のゴール隅にきれいに決まった。
「ここ、オレの店だから」
「自分の店みたいに言わないでよね」
 女店員がすかさずツッコミを入れた。
「オレ、この店のブランドの営業マンなの」
「それで、社割」
「社割だと二割引きになるけど。どう? そそられるっしょ」
 勝ち誇ったかのように亮平は唇の端をあげた。悔しいが、二十パーセントの差は大きい。
「お、お願いします……」
 桃子はレジのデスクの上にあるスーツを亮平の方にむかってすべらせた。
「ハイハイ。そうこなくっちゃ」
 亮平はきびきびした動作で女店員に指示を出し、財布からカードを取り出してみせた。
「言っとくけど、この場では社割で買ってもらうけど、後でその分のお金をちゃんとあんたに渡すから」
「いいって、そんなの。オレ、あんたにはカシがあるんだから」
 翌朝まで桃子の部屋の前に居座り続けた女に、亮平とは別れるよう説得したのは桃子だった。自分に振り向かないような男に若い時の貴重な時間を無駄に費やすことはないと言うと、女は疲れたように何度もうなずいてみせ、桃子の渡したパンプスを両手にマンションを去った。その後、ようやく亮平は自分の部屋に帰れたというわけだった。
 しかし、あの時、しばらくの間亮平をかくまった桃子への貸しを返そうとする亮平が余裕の笑顔でいられたのもこの時までだった。
「リョーヘイ、リョーヘイのカード使えないよ?」
 女店員は、怒ったような口調でカードを差し出した。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 5-7

「そんなはずないっしょ。もう一回試してみてよ」
「もう何度も試したけど、エラーになるの。また限度額超えたんじゃないの」
「じゃ、こっちので」
 亮平は別のカードを取り出した。桃子には笑顔を取り繕っていたが、不安なのか、何度もレジに視線をやった。不安は的中し、カードはまたしても使用できなかった。
「マシンがおかしいんじゃねえの」
 焦る亮平を横目に、桃子は黙って自分のカードを差し出した。女店員も黙ってカードを受け取り、粛々とカード決済の手続きを済ませた。
「ありがとうございました」
 満面の笑みの女店員には笑顔を返し、亮平にむかっては冷たい視線を投げかけ、桃子は店を出た。フロアを足早にコンコースに向かって歩き始めると、後ろから亮平が追いかけてきた。
「待ってよ。悪かったって。今月はきついけど、来月給料入ったらちゃんと全額返すから」
 亮平を無視し、桃子はコンコースを駅にむかって渡り始めた。雨はいつの間にかやんで、雲間から太陽が顔をのぞかせている。梅雨明けもそう遠くないだろう。
「いいよ、別に。もともと、自分で出して買うつもりだったし。社割にしてもらっただけでも助かったから」
「でも、それじゃ、オレの気がすまないっていうか。この間のカシが返せていないっていうか」
「うん、貸しが増えてるよね」
 コンコースが尽き、駅の構内に入るとむっとした湿気に包まれた。
「あれ、なんか、喉、乾かねぇ? オレ、喉乾いたわー。ちょっとそこらでお茶してかね? おごるからさー」
「いつの時代のナンパよ?」
「いいから、いいから」
 スーツの入ったショップの袋を引っ張りながら、亮平は桃子を駅の外へと連れ出した。
 亮平は意気揚々として駅前のコーヒーチェーンの店の中へと入っていき、桃子はその後に続いた。
「おごるお金あるの?」
 ふざけた調子で桃子は尋ねた。二人分のコーヒー代ならたかがしれている。
「あるに決まってんじゃんよ」
 鼻を鳴らしてそう言うなり、亮平はアイスコーヒー以外にもサンドイッチとマフィンを注文した。
 いざ会計となった時だった。亮平は後ろに並んでいた桃子にむかって困ったような顔をしてみせた。嫌な予感がした。
「ごめん、金欠だった……」
 桃子にみせた財布には小銭しか入っていなかった。かき集めてもせいぜい二百円が限度とみて、桃子は亮平を睨みつけながら自分の財布から千円札を取り出し、支払いを済ませた。
「返すから。絶対返すから」
 席にむかうまでの間、コーヒー片手に亮平はそう言い続けた。
 返すから――彩花への借金を踏み倒した男たちが言っていたセリフだった。彼らは少額の借金を重ね続け、もう金が引き出せないとなったところで去っていった。コーヒー代ぐらいいいかと思っていたが、亮平は少しずつ桃子から金を引き出すつもりでいるのかもしれないと考えだすととたんに悔しさがこみ上げてきた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 5-8

一円だって取り返してやる。桃子はケータイを取り出し、コーヒー代を打ち込んだ。
「ねえ、あんたのメルアド教えて」
「何で?」
 サンドイッチにかぶりついていた亮平は不思議そうな顔をしてみせた。
「借金返済の催促したいから」
 コーヒーでサンドイッチを飲み下してしまうと、亮平はテーブルの上に手を出した。
「何?」
「ケータイかして」
「何で?」
「オレのアドレス打ち込むから」
 言われるまま、桃子は亮平にケータイを渡した。アドレスを入力し、自分あてにメールを送信した後、亮平はケータイを桃子に返した。その直後に、亮平のスーツのポケットでケータイが震動し、メールの着信を確認するなり、亮平は食べかけのサンドイッチに再び食らいついた。
「返してくれるまで毎日メールするから」
「うん」
 アイスコーヒーのストローを口にくわえながら、亮平はうなずいてみせた。
「何なら、職場の番号も教えておこうか」
 差し出された名刺には、五洋株式会社 営業部 大和亮平 とあった。大手のアパレルメーカーで、海外ブランドの日本での販売も行っている。
「いつもうちの店で買うの?」
「セールやってたから、今日はたまたま入ったってだけ」
「仕事、何してんの?」
「文房具メーカーで新商品を考えてる」
「スーツ着ないといけない職場?」
「違うけど」
「今日もスーツだし、買ったのもスーツだったし、クローゼットもスーツだらけだったから、硬い職業なのかなって思ってた」
 サンドイッチを平らげた亮平はアイスコーヒーで一息つくなり、マフィンにかぶりついた。
「そういやさ、あのワンピ、着ないの? ほら、クローゼットの奥の方にあった、白のワンピ。値札がまだついてたから、もしかしたら一度も着たことないとか?」
 顔が赤くなっていくのがはっきりとわかった。裸の胸を見られた時よりも恥ずかしかった。あのワンピースは人には見られたくないものだというのに、よりによって亮平に見られていたとは。
「あんなガーリーな服、私みたいな女には似合わないと思ってるでしょ」
 自然と語気が荒くなった。口を動かしながら、亮平は桃子の頭の先から足の先までをじろじろと眺めまわしたので、一層桃子は気分を害した。
「あのさ」
 アイスコーヒーを飲み干してしまうと、亮平がようやく口を開いた。
「女の子が一番セクシーに見える服ってどんな服か知ってる?」
「スケスケとか、肌の露出が多い服じゃないの」
 揶揄したつもりだったが、亮平はいたって真面目な顔つきだった。
「意外かもしれないけど、スーツなの」
「うわ、意外」
 亮平のおべっかを、桃子は軽く受け流した。
「マジでそうなんだって。スーツって基本、男が着るものだろ? だから基本の形が男の体型にあわせてつくられたものなの。それを女が着ると、かえって女性の柔らかさだとか、きゃしゃな部分が強調されて、女らしくセクシーにみえるんだ」
「ふうん」
 半信半疑で聞いていたが、言っていることはわからないでもない。
「その理論でいくと、女装の男の方がより男らしさが際立つってことになるけど」
「そう思わね? 男がフワフワの洋服とか着ようものなら、男のゴツゴツした体格がかえって目立つでしょ」
「それはそうかもしれないけど、セクシーという点では、女装して男らしさのかえって目立つ男に魅力は感じないけど」
「でもさ、美少年キャラはフェミニンな感じの服を着てるじゃん」
「セクシーではないけど、まあ、確かに。でも、男受けがいいのはスーツよりワンピでしょ。デートにスーツをわざわざ着てくる女の子はいないもの」
「着てきてくれてもいいぜ、スーツ。いいねえ、スーツを脱がしていくのも。セックスってさ、服を脱がせるところから始まるからね」
「セッ!」
 桃子は思わずあたりを窺った。亮平は大きな声を出してしゃべっていたが、幸い誰も気にしてないようだった。あるいは聞かなかったふりをしていただけかもしれないが。
「デートの時に、相手の子が着てる服って気になるんだよね。後でどうやって脱がそうかなって。プレゼントの包装紙をむくのと同じ感覚? 破らないようにそっとむくか、はたまた乱暴にびりっといくか」
「こら、女を物扱いするな」
「女もそうじゃね? 脱がしてもらいたいって期待して、デートにはそれなりの服選んで着ていくっしょ」
「そう……かもしれない――」
 耳たぶまで赤くなった。セックスアピールが洋服から始まっているのでなければ、デートの時の洋服選びに悩んだりすることはないはずだ。ジャージでもいいはずなのに、わざわざ機能性や実用性の欠けるような服を選んで着るのは、寒暖をしのぐ意外の目的があるからだ。
「でもさ、本当いうと、どんな服着てもらってきても男にはあんまり関係なかったりするけど」
「どういう意味?」
「男にはさ、特殊能力がそなわってんの。どんな服でも透視してしまえるという」
 亮平は両手の人差し指でこめかみに触れた。
「その能力、空港警備の職でなら役に立ちそうね」
 発情した中学男子のような亮平にむかって、桃子は呆れたようにため息をついてみせた。
「そうはいかないんだなあ。男の体は透視できないから」
「じゃ、ただエロいってだけね」
 桃子はすっと席を立った。
「お金、きっちり耳をそろえて返してね!」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 5-9

シャワーを浴びて出てくると、バッグの底でケータイが震えていた。夜中の12時近くにかけてくるのは彩花ぐらいなものだ。どうせ男について――貴一についての相談だろう。相談にはのらないと宣言した以上、電話には出まいと、桃子は無視をきめこんだ。
 しかしケータイは鳴りやまなかった。出られるはずだと言わんばかりに呼び出し音が鳴り続けた。こうなった我慢くらべだ。だが、負けたのは桃子だった。
「相談には乗らないって――」
「ごめん、起こしたかな」
 飛び込んできたのは貴一の声だった。
「すいません、先輩。彩花からだとばっかり」
 慌てて声を一オクターブあげ、桃子はベッドの上に正座した。
「夜遅くに悪いと思ったんだけど、この間言っていた手帳についてちょっと思いついたことがあって、忘れないうちに話しておこうと思って」
「アドベント手帳についてですか?」
 企画書は途中まで手をつけてほったらかしになったままだった。
「若い女性をターゲットにするという話だったけど、男でも持っていると意外と重宝するんじゃないかな。ビジネスシーンにはいろいろな締切があるだろ? でも実際には様々な事情でまもられなかったりする。立木の企画しているページ数がイベントまでの日数までしかない手帳なら、が何が何でも締切日に間に合わせてやろうとやる気になるんじゃないだろうか」
「ターゲットを男性にも広げて、ビジネスイベントにも使えるってアピールするってことですか? そうすると間口を広げ過ぎてしまって、かえってどちらの層にもうけなくなると思うんですけど」
「言われてみれば、そうだな……」
 少し前までの勢いはどこへやら、貴一はすっかり意気消沈してしまった。桃子は慌てた。
「すいません、あの別に、先輩の意見が悪いってわけじゃなくてですね」
「いや、立木の言う通りだ。ターゲットはある程度しぼらないとだな。それにビジネスがらみはあまり楽しいイベントとは言えないものな」
「二兎追うものはって先輩から教えてもらったんですよ」
「負うた子に、だな。立木はもう立派に一人でやっていけるんだな。最近は以前みたいにあまり相談もしてくれなくなったし」
 貴一に聞かれないようにとケータイを手でふさぎ、桃子はため息をついた。彩花と付き合っている貴一と話をするのが辛くて相談したくてもしないでいるのに。
「俺はもう必要ないんだな」
「そんなこと……」
「むしろ、こっちがいろいろ相談にのってもらいたいくらいだ……」
 それきり、貴一は黙り込んでしまった。相手の顔の見えないケータイでの沈黙は桃子をとてつもなく不安にする。何かをしゃべろうとするが、何を話したらいいのかわからない。今夜の貴一はいつもと様子が違う。夜中に突然電話してきたり、電話に出るまで呼び出し音を鳴らし続けたり、出たら出たで、一方的に話し続け、それも的外れな指摘をしてきたりと、いつもの明晰な頭脳はどこへやら、冷静さも欠いている……。
「先輩?」
 返事はなかった。
「先輩、聞いてますか?」
「……聞いてるよ」
 掠れるような低い声で返事があった。やはり、様子がおかしい。
「先輩、酔ってますか?」
「酔ってない……と思う。うん、少し飲んだけど、酔うほどじゃないよ」
 貴一の声に重なり、救急車のサイレンが聞こえてきた。サイレンはケータイにあてていない耳にも聞こえてきた。音が近い。
「先輩、今どこにいるんです?」
 返事はなく、サイレンの音だけが聞こえてきた。音は桃子のマンションにむかって近づいてきていた。
 貴一はすぐ近くにいるのではないか。そう思うといてもたってもいられなくなり、桃子はケータイを握りしめて、ベッドから飛び降りた。
 玄関を出たところで、危うく人にぶつかりそうになった。
 彩花だった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 6-1

「桃子!」
 桃子を見るなり、彩花は体を投げ出すようにして桃子に抱き付いてきた。酔っているらしく、息が酒くさい。彩花はひとりではなかった。彩花の背後に亮平が立っていた。
「あれ、知り合い?」
 亮平は手にした鍵を、彩花と桃子とにかわるがわるむけた。
「うん、同じ会社の同期。桃子、このマンションに住んでるんだー」
「世の中って狭いのな。そいじゃな」
 部屋の鍵を開け、彩花の背中を押して部屋の中へと入れようとする亮平と彩花との間に、桃子はすかさず立ちはだかった。
「何してんの?」
「何してんのって、それはこっちのセリフ。そっちこそ、何してんの」
「ねえ、部屋にあげてくれないの」
 とろんとした目で彩花が亮平をみつめていた。相当酔いがまわっている。今にも廊下に崩れ落ちそうな彩花の体を抱え、桃子は自分の部屋の玄関へと引きずっていった。痛いと言って抵抗してみせた彩花だったが、酔った体に力は入らず、あっさりと玄関口におしこまれてしまった。
「おい、何すんだよ」
「ナンパしたのか何かしらないけど。酔っぱらった彩花を部屋に連れ込んで何かしようっていうんでしょ。そうはさせないわよ」
「連れ込むって、何言ってんだか。彩花はオレの彼女なんだぜ」
 桃子は息をのんで亮平と見合った。
「い、今、何て」
「だーかーらー、カ・ノ・ジョ。今夜ちょっと飲みすぎちゃってさ。うちに泊めてやろうと思って連れてきたっての」
「彼女って、付き合っているっていう意味の彼女?」
「そーだよ。それ意外に何があんの?」
「合コンのお持ち帰りとか、ナンパしたとか、そういうんじゃなくて?」
「ちげえよ。ちゃんと付き合ってんだよ」
「付き合ってるって……い、いつから?」
「なんでそんなこと言わなきゃなんねえの?」
 亮平はいぶかし気に腕を組んだ。
「いいから、いつから付き合ってんのよ」
「二か月、ぐらいだよ」
 桃子の勢いに気圧され、亮平はそう答えた。
 ニか月――貴一との付き合いは三か月。頭の中で素早く計算をし、桃子は亮平の目と鼻の前でぴしゃりとドアを閉めた。
 ベッドに背をもたれかけて床に両足を投げ出している彩花は、まるで溶けたアイスクリームのようだった。桃子は、コップの水を彩花の目の前に突き出した。
「あいがとー」
 ろれつの回らない舌でそう言うと、彩花は両手でコップを受け取り、ちびちびと舌先で水を舐めていた。
「ねえ、リョーヘイは?」
 彩花はぼんやりした目であまりを見回した。どうやら、亮平の部屋、六〇七号室にいると勘違いしているらしい。
「彩花、彼と付き合っているんだって?」
 こくんと彩花はうなずいてみせた。貴一と付き合っていながら亮平とも付き合っているというのに、彩花には悪びれた様子がまるでなかった。穏やかに話をするつもりだった桃子だったが、つい声をあらげ
「二か月前からってさ、二か月前は彩花は先輩と付き合っていたでしょ? てか、今も付き合っているでしょ。それとも、別れたの?」
 うなずいたり、首を横に振ったりしてみせているが、酔って体全体がふらふらとしているので、イエスともノーとも取れない。桃子は彩花の肩を両手で押さえた。
「彩花! 先輩とはどうなってるの?」
「付き合ってるよー」
「先輩と付き合っていて、どうして別の男と付き合っているの? それって浮気ってことでしょ。浮気されてきて散々泣いてきたっていうのに、どうして同じことを先輩にするの?」
 思わず彩花の肩においた両手に力が入った。桃子の手を払いのけ、彩花はベッドの隅に置いてあったぬいぐるみをひっつかんで胸に抱きしめた。
「これ、かわいいねー」
「ぬいぐるみなんか、いいから!」
 取り上げたものの、彩花は別のぬいぐるみを物色して部屋の中を歩き始めた。
「なんか、桃子のイメージ変わっちゃうなー。ぬいぐるみ、いっぱいあるね。好きなの?」
「そんなことどうでもいいから、ちょっと、座って。ちゃんと話しよう」
 ぬいぐるみを二、三個抱えた彩花をベッドに座らせ、桃子はその横に腰かけた。
「桃子!」
 桃子を見るなり、彩花は体を投げ出すようにして桃子に抱き付いてきた。酔っているらしく、息が酒くさい。彩花はひとりではなかった。彩花の背後に亮平が立っていた。
「あれ、知り合い?」
 亮平は手にした鍵を、彩花と桃子とにかわるがわるむけた。
「うん、同じ会社の同期。桃子、このマンションに住んでるんだー」
「世の中って狭いのな。そいじゃな」
 部屋の鍵を開け、彩花の背中を押して部屋の中へと入れようとする亮平と彩花との間に、桃子はすかさず立ちはだかった。
「何してんの?」
「何してんのって、それはこっちのセリフ。そっちこそ、何してんの」
「ねえ、部屋にあげてくれないの」
 とろんとした目で彩花が亮平をみつめていた。相当酔いがまわっている。今にも廊下に崩れ落ちそうな彩花の体を抱え、桃子は自分の部屋の玄関へと引きずっていった。痛いと言って抵抗してみせた彩花だったが、酔った体に力は入らず、あっさりと玄関口におしこまれてしまった。
「おい、何すんだよ」
「ナンパしたのか何かしらないけど。酔っぱらった彩花を部屋に連れ込んで何かしようっていうんでしょ。そうはさせないわよ」
「連れ込むって、何言ってんだか。彩花はオレの彼女なんだぜ」
 桃子は息をのんで亮平と見合った。
「い、今、何て」
「だーかーらー、カ・ノ・ジョ。今夜ちょっと飲みすぎちゃってさ。うちに泊めてやろうと思って連れてきたっての」
「彼女って、付き合っているっていう意味の彼女?」
「そーだよ。それ意外に何があんの?」
「合コンのお持ち帰りとか、ナンパしたとか、そういうんじゃなくて?」
「ちげえよ。ちゃんと付き合ってんだよ」
「付き合ってるって……い、いつから?」
「なんでそんなこと言わなきゃなんねえの?」
 亮平はいぶかし気に腕を組んだ。
「いいから、いつから付き合ってんのよ」
「二か月、ぐらいだよ」
 桃子の勢いに気圧され、亮平はそう答えた。
 ニか月――貴一との付き合いは三か月。頭の中で素早く計算をし、桃子は亮平の目と鼻の前でぴしゃりとドアを閉めた。
 ベッドに背をもたれかけて床に両足を投げ出している彩花は、まるで溶けたアイスクリームのようだった。桃子は、コップの水を彩花の目の前に突き出した。
「あいがとー」
 ろれつの回らない舌でそう言うと、彩花は両手でコップを受け取り、ちびちびと舌先で水を舐めていた。
「ねえ、リョーヘイは?」
 彩花はぼんやりした目であまりを見回した。どうやら、亮平の部屋、六〇七号室にいると勘違いしているらしい。
「彩花、彼と付き合っているんだって?」
 こくんと彩花はうなずいてみせた。貴一と付き合っていながら亮平とも付き合っているというのに、彩花には悪びれた様子がまるでなかった。穏やかに話をするつもりだった桃子だったが、つい声をあらげ
「二か月前からってさ、二か月前は彩花は先輩と付き合っていたでしょ? てか、今も付き合っているでしょ。それとも、別れたの?」
 うなずいたり、首を横に振ったりしてみせているが、酔って体全体がふらふらとしているので、イエスともノーとも取れない。桃子は彩花の肩を両手で押さえた。
「彩花! 先輩とはどうなってるの?」
「付き合ってるよー」
「先輩と付き合っていて、どうして別の男と付き合っているの? それって浮気ってことでしょ。浮気されてきて散々泣いてきたっていうのに、どうして同じことを先輩にするの?」
 思わず彩花の肩においた両手に力が入った。桃子の手を払いのけ、彩花はベッドの隅に置いてあったぬいぐるみをひっつかんで胸に抱きしめた。
「これ、かわいいねー」
「ぬいぐるみなんか、いいから!」
 取り上げたものの、彩花は別のぬいぐるみを物色して部屋の中を歩き始めた。
「なんか、桃子のイメージ変わっちゃうなー。ぬいぐるみ、いっぱいあるね。好きなの?」
「そんなことどうでもいいから、ちょっと、座って。ちゃんと話しよう」
 ぬいぐるみを二、三個抱えた彩花をベッドに座らせ、桃子はその横に腰かけた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 6-2

「ねえ、何で浮気なんかしたの」
「浮気って……そういうつもりじゃなくて」
「これが浮気でなくて何なの? 彩花は先輩と付き合っているんだよ。彼は彩花が先輩という彼氏がいるって知ってるの?」
「知ってるかもしれないし、知らないかもしれない」
「ねえ、ちょっと!」
「そんなこと、どうでもいいじゃない」
「どうでもよくないでしょ! 彩花には先輩っていうちゃんとした彼氏がいるんだよ!」
「選べなかったの!」
 彩花の大きな目がいつもにも増して潤んでいた。
「佐野さんは素敵な男性。浮気しないし、お金貸してくれなんて言わないし、体だけの関係でもないし、私のことをすごく大事にしてくれる。リョーヘイとは、街で声かけられて、知り合った。彼ね、私のタイプなの。好きで好きでのめりこんでしまうタイプの男。泣かされるだろうなとわかってて、それでも好きになった。私、リョーヘイみたいな男がやっぱり好きなの。佐野さんのこともあって、桃子に相談したかったけど、自分で決めろって言われてたし……。いろいろ考えたけど、どうしたらいいかわかんなくなっちゃって……」
 彩花はぬいぐるみを抱きしめたまま、ベッドの上に寝転んだ。
「ねえ、桃子、私、どうしたらいい?」
「どうって……」
 枕を涙で濡らし続ける彩花を見ているうちに、桃子まで泣きたい気分になった。裏切られた貴一の立場を思うと、彩花に対する怒りはあるのだが、それ以上にフラッシュバックしてきた失恋の思いに胸がしめつけられる。
 貴一のケータイから聞こえてきたサイレンの音と、窓の外から聞こえてきた音とは重なっていた。おそらく、貴一は彩花をマンションまでつけてきたのだろう。亮平と一緒にマンションに入って行く彩花を見て貴一は何を思っただろう。
「先輩とちゃんと話しなよ」
「しないとダメ?」
 枕から顔をあげ、桃子を見上げる彩花の瞳が赤くなっていた。桃子は深くうなずいてみせた。
「どうするかは、彩花が決めるの。今度こそ、ちゃんと考えて」

 *

「悪い、出かけに電話が入ってしまって」
 約束の時間に少し遅れてやってきた貴一は、急いだらしく息が乱れて、顔が赤かった。カウンターの桃子の隣に腰かけるなり、貴一は、顔なじみのマスターにむかって桃子のためのソルティドッグを注文した。
「久しぶりだな、立木とこうして二人で飲むの」
「四か月ぶりぐらいですね」
 「ペルソナ」には貴一と通った。間口が狭く店内にはカウンター席しかなく、十人も客が入ればいいほうだろう。静かに話ができるからと、仕事の相談にのってくれた貴一が連れてきてくれた。それ以来、仕事の相談は「ペルソナ」でするようになった。プレゼンが成功したり、商品が店頭に並んだり、企画した商品がヒットしたりすると、お祝いだといってやはり「ペルソナ」で飲んだ。貴一が彩花と付き合いはじめる前までは当たり前だった日々が遠くに思えた。
「プレゼンお疲れ。企画通ってよかったな」
「はい、先輩のおかげです」
 貴一はジントニック、桃子はソルティドッグの入ったグラスを傾けて乾杯した。この一か月、桃子は貴一と一緒に手帳の企画を練り直した。自分が出したアイデアだというのに、遊び感覚の文房具を打ち出していくことに抵抗を覚え始めた桃子を叱咤激励し続けたのが貴一だった。
「いや、立木の実力だよ。俺は資料とデータ集めを手伝っただけで、プレゼンそのものを仕切ったのは立木だから。立木がプレゼンしている間に、部長の腕組みが段々とほどけていくのを見てるのが面白かった」
「プレゼン中、部長を見てたんですか」
「部長の腕組みがとけていくのにしたがって眉もこう上がっていってさ」
 貴一は両手の人差し指を逆ハチの字にして自分の眉にあて、徐々に指を回転させていき、キレイな八の字をつくってみせた。プレゼンの内容に乗り気でない時、企画部長は両腕を組み、太い眉毛の眉根を寄せる癖がある。プレゼンの話に身が入っていくと、腕組みがとけ、眉があがっていく。その様子を再現してみせた貴一のコミカルな動きに、桃子は声をたてて笑った。
 貴一も笑った。以前は――貴一が彩花と付き合い出す前までは、真剣な仕事の相談の合間にふざけたことをしたり、世間話をしたりしたものだった。仕事に対して真摯な貴一も好きだが、茶目っ気のある貴一の素顔をふと垣間見たりしているうちに、貴一に惹かれていった。
 手帳の企画を手伝いたいといってきた貴一を、桃子は拒めなかった。彩花とのことがあってから出来るだけ貴一を避けてきたが、仕事に関しては貴一ほど頼りになる人間はいない。
 あの夜のことについて貴一は固く口を閉ざしていた。彩花とどうなったのか知りたい気持ちを抑え、桃子も一切触れようとしなかった。
 彩花が貴一と別れようと別れまいと、貴一の気持ちが自分にないことに変わりはない。いつまでも避けていられるわけではないのだから、仕事の先輩として尊敬する気持ちに切り替えていこう。
 今晩も、仕事の話で終わる。その時まで、桃子はそう思っていた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 6-3

「別れたよ」
 部長の真似を笑いあう中で、貴一はさらりと言ってのけた。何の話だろうと桃子ははじめのうち戸惑っていたが、やがて彩花のことだと気づいた。
「彩花から別れようって言いだしたんですか?」
「いや、俺の方から」
「それは、いつですか」
「三週間ぐらい前かな」
 彩花を亮平の部屋の前で見かけた時期と重なる。
「会社から彼女をつけていったんだ。彼女、若い男と待ち合わせして、食事して……その後一緒にマンションに入っていくのを見たんだ。他に男がいたんだな。知ってた?」
 ソルティドッグを飲んで首を横に振った。
「長谷川は、立木から聞いたのかって言ってた」
 桃子は思わず顔を上げた。
「相手がたまたま隣の部屋に住んでいる男だったんです」
 マンションで彩花に偶然出くわしたこと、その日は彩花を部屋に泊めたことなどを桃子はかいつまんで話した。
「浮気なんかするような子じゃないんです。そういうことになってしまったけど、悪気はなかったんだと思います」
「悪気がなかったら浮気していいとでも?」
「すいません……」
 桃子がうなだれると、何で立木が謝るんだと言って貴一は笑った。それから頭の後ろで両腕を組んで何事かを考えこんでいた。
「結局、はじめから俺のことは好きではなかったんだろうな。告白したのも俺からだったし。好きになってもらえなかったというか……」
「好きになったからといって、好きになってもらえるのなら、苦労しません」
 貴一は驚いたように桃子を振り返った。そして桃子の気持ちも知らずに笑った。
「彼女に他に好きな男ができて、結果として俺はフラれたようなものだけど……。ずっと好きだったわけだし、もっとひどく傷つくのかと思っていたんだけど、意外と平気なんだよね。まあ、自分から別れを言い出したっていうのもあるだろうけど。彼女に別に男がいるって分かってから別れの決断を下すのにも迷いはなかったし。何でかなって考えたんだ」
 言葉を切り、貴一は天井を見上げた。まるでそこに答えがあるかというように。
「俺は彼女を好きじゃなかったんだと思う」
 桃子は思わず、貴一がみつめていた天井の一か所を見上げた。
「言い方が悪いかな。好きだったことは確かなんだ。かわいいとも思ったし、社内でみかけるとドキドキもした。仕事以外の話もしたいと思った。でも実際付き合ってみてわかったんだ。俺は彼女のことを何も知らないで外見だけで好きになっていたってこと。彼女を知っていくうちに、魅力的だなとは思ったけど、無理してそういう女性を演じているような感じがあった。彼女自身じゃないというか、俺にあわせようとしていたんじゃないのかな。俺もかっこつけていた部分はあったし。お互いに被っていた猫の皮が剥がれてきたら、何か違うってなって……」
 腕組みをほどいて姿勢を正した貴一は、ジントニックを一気に飲み干し、桃子の正面に向き直った。
「俺、立木が気になる」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 6-4

着信履歴には彩花からの名前がずらりと並んでいる。留守電はすべて彩花からで、メールも彩花からのものが目立つ。だが、留守電もメールも、彩花からのものは無視し続けてきた。冷たいかもしれないが、貴一と別れるにしても付き合うにしても、どちらの決断にも桃子は関わりたくはなかった。
 はじめの一週間は毎日のように電話が鳴り、留守電にメッセージが残されていた。二週間目はメールになった。三週間目はまた電話が鳴り始めたが、毎日ではなくなった。彩花は貴一と別れたことを伝えようとしていたのだろうか。
 部屋に戻り、ケータイを手に桃子は彩花に連絡するべきかどうか迷った。今夜も彩花からの着信が履歴に残されていた。ちょうど貴一と「ペルソナ」にいた時間だ。着信履歴の時間を見てふっと息を漏らしたその時、ケータイが鳴った。
 彩花からだった。驚いたあまり慌てて手にしたケータイを床に落としそうになるのを何とかしのぎ、ためらいながらも桃子は電話に出た。
「桃子?」
 電話をかけてきたくせに、桃子が出たので彩花は驚いていた。
「もぅ。どうしてずっと電話に出てくれなかったのよ。桃子に言わなくちゃいけないことがあって、ずっと連絡してたのに」
「ごめん……」
 甘ったるい口調の彩花は責めているわけではなかったが、桃子は反射的に謝った。
「私ね、佐野さんと別れたの」
「……」
「もしもし、桃子、聞いてる?」
「うん……」
「そういうことになったから。桃子、佐野さんに告白して付き合いなね」
 眉間に皺が寄っていくのが自分でもわかった。
「どうして、そういう話になるの」
「だって、好きなんでしょ、佐野さんのこと」
「……」
「私とのことなら気にしなくていいよ。付き合っていたって言ったって、エッチしてないから」
「そういうことじゃなくてっ……」
 彩花と話していると腹立たしさがつのっていく。その場にいない貴一にも腹がたった。体の関係がうんぬんということではなくて、短くても密接だった関係が終わったというのに、何だってふたりはあっけらかんとしていられるのだろう。
「多分だけど、佐野さん、桃子のことが好きだよ」
「……何でそう思うの」
「だってね、デートしてても話は桃子のことばっかりだったもん。桃子があれした、これしたって。桃子のことは私もよく知ってるから、私、佐野さんと話していて楽しいなと思ったけど、それは話の内容が桃子のことだったからなのね。別に佐野さんとの会話が楽しかったわけじゃないの。桃子のこと以外、話すことなんてなかった。私、佐野さんのことよく知らなかったから、何話せばいいか分からなかったし、向こうも同じだったと思う。共通点もなかったし。初めは桃子の言う通りの女の子を演じて彼に合わせてたけど、それをしなくなったら、何で一緒にいるんだろうって思いはじめちゃった。同じぐらいに、彼の気持ちも冷めてきたなってわかったの。それでピンときた。佐野さんは、私の外見に惹かれただけで、中身は桃子みたいな女の子が好きなんじゃないかって。だから、桃子の言う通りに動いていた間は、仲良くしていられたんだなって」
 頭が真っ白になった。
「佐野さん本人は、桃子に対する気持ちに気づいていないかもしれない。だから桃子の方からアピールして――」
「そんな簡単にいかないって」
 感情を押し殺し、桃子はやっとのことでそう言った。
「どうして?」
 彩花の素朴な質問が桃子の感情を逆なで、桃子はとうとう言葉を失ってしまった。電車を乗り換えるように簡単には気持ちは切り替えられない。
「ねえ、聞いていい?」
「なに?」
「リョーヘイのこと、佐野さんに言った?」
「言うわけないじゃない」
「そうだよね」
 ケータイを切るなり、桃子は大きく息を漏らした。腹立たしさといらだたしさと、その他にもいろいろな気持ちがまじりあって胃の底でグツグツ煮立っている。
 片思いで苦しんだ長い年月、失恋で泣き続けた日々は一体何だったのか。やっとのことで貴一を諦めたと思ったら、今さらのように気になると言われた。まさに今さらだ。何だって今になって貴一の気持ちが手に入るのか。
 今になって――
 桃子は六〇七号室側の壁を見つめた。彩花の声は電話の向こうと壁の向こうとの両方から聞こえてきた。今夜、彩花は亮平の部屋に泊まっていくのだろう。
 引っ越そう――桃子はとっさにそう決心した。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 6-5

「あれ、引っ越すの?」
 業者が最後の荷物を運び出し終わった後、開けっ放しのドアから亮平がひょっこりと顔をのぞかせた。がらんとした部屋を見回し、亮平は
「同じ間取りだけど、なんか広く見えるのな」
 と言った。不思議な光景だった。亮平はまるで自分の部屋にいるかのように寛いでいて、桃子にも亮平が自室にいる姿を容易に想像できるのだが、ここは桃子の部屋なのだ。荷物はなくなっても思い出がしみついている。六年間、貴一だけを思い続けてきた部屋。男など誰ひとりあげたことのなかった部屋。その部屋に乱暴な形であがりこんできたのが亮平だった。
「ベランダ伝いにこっちの部屋に渡ってくるようなことにはもうならないで」
 彩花がいるのに浮気するなという意味だが、亮平に通じただろうか。明日からは、亮平たちの息遣いに耳を塞ぐ必要もなくなる。桃子が部屋にいると気づかれまいと息を殺すような生活からも解放される。
「引っ越しそば、食わね?」
 腹を鳴らした亮平が誘った。桃子は笑った。
「引っ越しそばって、引っ越し先で配るものでしょ」
「あれだ、細く長く生きようっていう」
「それは年越しそば」
「何だっていいや。オレ、腹減ってんだ」
 そのまま、駅前にある小さな蕎麦屋に連れていかれた。たてつけの悪い引き戸を開けると、威勢のいい主人の声が飛んできた。
「カツ丼も捨てがたい……」
 壁に居並ぶメニューの札をみて、亮平は腕組みをして考えこんでいた。
「お蕎麦が食べたかったんじゃないの?」
「そうなんだけどさ、カツ丼ていう字を見ちゃうとさ……」
 たかだか食事について真剣に悩んでいた亮平だったが、意を決したかのように腕組みをほどいた。それから右手の人差し指をたて、左右に振り始めた。人差し指の先は、カツ丼とざるそばの札とをそれぞれ行ったり来たりしている。その間、亮平は節をつけて歌を歌っていた。
「どちらにしようかな 天の神様の言う通り あっぷぷのあぷぷ」
「あっぷぷのあぷぷ?」
 桃子は思わず聞き返した。
「なのなのなじゃなくて?」
「なのなのな? 何だそれ」
「どちらにしようかな 天の神様の言う通り なのなのな 鉄砲撃ってバンバンバン」
「聞いたことねえな」
 そう言うなり、亮平はスマホをいじりだした。
「地方によってバリエーションがあるんだと。天の神様の言う通りまでは全国共通だけど、その後が地方によって違うだとさ。『なのなのな 鉄砲撃って』なんだっけ」
「バンバンバン」
「鉄砲撃ってバンバンバンは……東京、神奈川、埼玉、千葉……関東で使われているんだってさ」
「へえ」
 桃子は亮平のスマホをのぞきこんだ。亮平が口にしたあっぷぷのあぷぷは主に関西方面で用いられているフレーズだった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

なのなのな 6-6

「それで、カツ丼にするかそばにするか決めたの」
「そばにする」
 スマホの画面から目を離さずに亮平は言った。
「彩花とはうまくいってる?」
「普通」
 亮平はそばをすすった。豪快な音がした。食べっぷりのいい男性は嫌いじゃない。
「普通って何、あんたの普通は人とちょっと違うから心配」
「どう違うんだよ」
「彼氏のいる子と付き合って、自分も別の子と付き合っても平気だとか」
「お互い納得している関係なら何だっていいじゃねえの」
「そうはいうけど」
「てかさ、オレらがどう付き合おうと、あんたには関係ないよね? 彩花はただの友だちなんだろ」
「彩花は男に泣かされてきたから。特にあんたのような男に。そのたびに愚痴聞かされて、やっとまともな恋愛してたかと思ったらまたあんたみたいな男に引っかかって」
「あのさ」
 そばを啜るのをやめ、亮平は箸の先を桃子にむけた。
「さっきから聞いてると何だよ、あんたみたいなって。何かオレがクズな男みたいな言い方して」
「浮気男はクズじゃないの」
 桃子の語気が荒くなった。
「一度に何もの相手と付き合って何が悪いんだよ。てか、オレ、相手にも別に付き合っている子がいるって言ってるんだから、そもそもそれって浮気になるのか?」
「何で一人の人と付き合わないの」
「だって、みんなそれぞれに好きなんだぜ。選べないよ。てか、さっきも言ったけどさ、オレが誰とどう付き合おうとあんたにはまーったく関係なくね?」
 亮平の言う通りだが、何だか釈然としない。亮平にも腹が立つし、三角関係でも構わないという亮平の彼女たちの態度にも苛々する。胸にこみあげてくるモヤモヤとした気持ちは一体何なのか。
 すっかり食欲の失せた桃子は箸を置いた。
「食わねえの?」
「食べていいわよ」
 桃子はせいろを亮平に押しやった。半分も手をつけていない。
「やっぱ、カツ丼も食おっと」
 嬉々として亮平は言った。
 ざるそば2枚とカツ丼とで合計はxxx円になった。スーツ代、コーヒー代もろもろの借りを清算する意味でおごるからと言って亮平はきかなかった。スーツ代を出してもらうつもりはなかったし、蕎麦屋のおごりではせいぜいコーヒー代が相殺されるくらいだろうと桃子は承知した。
 いざ会計となり、亮平は財布を出そうとデニムのポケットをさぐった。しかし、どのポケットからも財布の出てくる気配はなかった。あれと言いながら、亮平はデニムを叩いてみせていたが、だからといって財布や金が出てくるはずもない。
「財布、部屋に忘れてきた……」
 亮平は困ったような顔を桃子にむけた。桃子は黙って自分の財布を取り出した。本当に忘れてきたのか、おごらせるつもりで最初から持って出なかったのか、亮平の真意を考えるのは面倒だったし、どうでもよかった。
「悪い。今度、絶対返すからさ」
 店を出たところで、亮平は両手を合わせ、悪びれた様子もなく言った。今度っていつだろう。亮平は、桃子の引っ越し先も連絡先も尋ねなかった。

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なのなのな 7-1


「一か月でも二か月でも待つ」
 あの夜、貴一はそう言った。
 彩花とのことがあって戸惑っているだろうから、気持ちの整理がつくまで待っていると言い、付き合う気になったら金曜日の夜、「ペルソナ」まで会いに来てくれとも。
 店内に入るなり、マスターと目があった。会釈を交わすと、カウンター席に座っていた貴一が入り口の桃子を振り返った。
 桃子が隣の席にやってくるなり、貴一はソルティドッグを注文した。桃子がいつも飲むカクテル。貴一はジントニックと決まっている。
「すいません、ファジーネーブルを」
 貴一は目を大きく丸めてみせた。
「らしくないですか? 本当は甘目の方が好きなんです」
「立木について知らないことはまだあったか」
 貴一は額を軽く叩いて笑った。
 貴一が知らないことはまだ他にもある。ぬいぐるみが好きなこと、フリルのついたガーリーな洋服が好きなこと、貴一に片思いし続けてきたこと……。
「手帳の企画の進行具合は?」
「今、試作品をつくってもらっている所です。たぶん、来週にはあがってくるんじゃないかと「
 手帳のデザインは彩花にまかせた。彩花は桃子がイメージしていた以上のものを造り出してみせ、社内の女性社員の反応はまずまずだった。彩花とは仕事の話に徹し、亮平のことも貴一に告白されたことも一切していない。すべてが昔に戻ったかのようだった。
「先輩……」
 仕事の話にひとしきり区切りがついたところで、桃子は切り出した。だが、後が続かなかった。来る途中、あれだけ頭の中で繰り返し練習しちえた言葉が霧のように消えてなくなっていた。
「いいって、わかってる」
 貴一は微笑んでみせたが、どこか寂し気だった。
「立木が店に入ってきた時にわかったんだ――」
「すいません……」
 両膝の上に手を置き、桃子はうなだれた。あの夜、貴一に気持ちを打ち明けられた時にすぐにこたえられなかったことで、こたえは出ていたはずだった。あの夜以来、金曜日の夜がくるたび、桃子は落ち着かない気分になった。「ペルソナ」で貴一が自分を待っている。そうわかっていながら、二か月の間、どうしても足がむかなかった。
「好きな人がいるんだ――」
 貴一の言葉に、桃子はうなだれたまま頷いてみせた。
「自分でもよくわかりません。そういう対象としてみてきた人ではなかったから。でも、いつの間にか気になるようになっていて――」
「その人の前では、自然な自分でいられる?」
 はっとして桃子は顔をあげた。いつだって貴一は、漠然とした桃子の気持ちや考えをはっきりとした言葉にしてみせる。だからこそ、仕事の悩みを打ち明け、頼ってきたのだった。
「俺たちはよく似ているね」
 貴一は笑った。ふっきれたような軽くさやわかな笑い声だった。
「俺が立木を好きだとわかったのは、立木といると素の自分でいられると気づいたからなんだ」
「私は……誰の前でも自分を出したことがありません。彩花といても、です。他の人が勝手に抱くイメージの私でいました。苦しかったけど、慣れてしまって……。彼といると素の自分でいられるというか、彼は素でいた私の目の前に勝手に現れたというか……」
 氷がカランと音をたててグラスの中で揺らいだ。手持ちぶさた気味に、桃子はグラスを両手で揺らし続けた。
「彼とは付き合うの?」
「それは……。彼には他に付き合っている人がいるから」
 彩花に男がいるとわかった時の状況を思い出したのか、「俺たちは本当によく似ている」と貴一は繰り返した。
「先輩のこと、好きでした」
 別れ際、桃子はそう告げた。
「過去形なんだね」
 そう言ってジントニックを飲み干した貴一は顔をゆがめてみせた。

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なのなのな 7-2


 部屋のインターホンが鳴った。日曜の午後だ、新聞の勧誘か何かだろうと桃子は無視を決め込んだ。そのうち諦めて帰るだろうと思っていたら、ドアの外からフルネームを呼ばれた。慌ててドアを開けると、亮平が立っていた。
「よっ。おっ、なんかよさそうな部屋じゃん」
 ドアの隙間から亮平は部屋の中を覗きこんでいた。すぐに必要なものだけを取り出して、残りは後回しにしてきたので、引っ越して一か月が経とうというのに、部屋にはまだ段ボールが散乱したままだった。
 桃子は後ろ手にドアを閉め、廊下に出た。
「なんで、ここがわかったの?」
「俺んとこのポストにまぎれててさ」
 亮平は通販カタログを差し出した。転送指示として新しい住所が記されていた。
「それと、これ」
 渡された封筒はずしりと重かった。口を開くと、小銭とx円札がx枚入っているのが見えた。
「借金ふみたおすところだった。スーツ代と、コーヒー代、蕎麦屋の勘定で合計xx円であってるよな。ちょっと確かめてよ」
 桃子は封筒から金を取り出し、亮平の目の前で金額を確かめた。金額があっているとわかると亮平は白い歯を見せて笑った。
「スーツ代はいいって」
「受け取っておけよ。もともとそういう話なんだからさ。じゃあな」
 デニムのポケットに両手を入れ、口笛をふきながら亮平はエレベーターホールへとむかった。 
 エレベーターはなかなか来なかった。手持ちぶさた気味に、亮平はあちこちに視線をやっていた。金の入った封筒を手にしたまま、桃子は亮平を見つめて廊下に立ち尽くしていた。
 借金を返してもらった今、ふたりをつなぐものは何もない。もう隣人でもない。エレベーターが来てしまえば、亮平とはこれきりだ。
 手のうちをするりと抜けていきそうになる何かをつかもうと、桃子は一歩前に足を踏み出して、裸足だと気づいた。その時だった。エレベーターが降りてきて、亮平は吸い込まれていった。ドアが閉まる直前、亮平は桃子にむかって手をあげてみせた。
 まだ間に合う。
 弾かれたように桃子は部屋に飛び込み、靴をひっかけた。再び外に飛び出そうとして外出できるような服ではないと気づき、クローゼットにかけこんだ。
 デニムをさがす桃子の目に、白いワンピースがとびこんできた。迷っている暇はない。ワンピースをひっつかむなり、早業で着替え、足元はスニーカーという出で立ちで部屋を飛び出した。

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なのなのな 7-3

 亮平に追いついたのは駅前にさしかかった時だった。
「ちょっと待って」
 息を切らしながら亮平の背中にむかって声をかけると、亮平が振り返った。驚いたみせた表情はみるみるうちに歪んでいった。
「何だ、その格好」
 亮平がそう口走ったのも無理はない。大きな襟ぐりからは肩がはだけ、膝までたくしあげている裾の下から見えている両足にはスニーカーという出で立ちの桃子なのだ。
「それ、あのワンピか?」
 ハンガーにかかっているのを見たことがあるはずだが、人が着ていると別の洋服に見えるらしい。じろじろと、桃子の頭から爪の先まで眺めました後、亮平は
「似合わねー」
 と叫んだ。通りすがりの人間が振り返ったほどの大声だった。
「まさか、その格好でマンションから来たとか?」
「うん……」
「うわ、なんか笑えるんですけど」
「うん……」
「で、何かオレに用?」
「……」
「あれ、金、足んなかった? てか一緒に確かめたじゃんか」
 息を整えようと大きく息を吸い込んだその時だった。改札の影から人が現れ、ふたりのもとへと近づいてきた。
「遅いぃ。待ち合わせの時間、何時だと思ってんの」
 小走りにかけてきた彩花は、近くにきてようやく桃子に気づいた。
「桃子? 何、その格好」
「走ってきたんだってさ」
 亮平がかわりに答えた。
「走ってきたって、その格好で? どこから?」
「マンションからに決まってんじゃん」
 今度も答えたのは亮平だった。
「マンション? 桃子の引っ越し先のマンションてこの近くなの?」
「そうそう」
 亮平はいつの間にか、桃子になったようだ。
「桃子がリョーヘイに何か用なの?」
 借金の話は聞いていなかったとみえて、彩花は怪訝な顔をしてみせた。
「話があって――」
 桃子は彩花をみやった。亮平と二人きりで話をさせてもらえないかと無言で頼んだつもりだったが、彩花はきょとんとするばかりだった。それならそれでいいと桃子は覚悟を決めた。

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なのなのな 7-4

「私、彼が好き」
 一瞬の間の後、彩花と亮平の驚きの声が美しいハーモニーを奏でた。
「桃子は佐野さんが好きなんじゃなかった?」
 彩花は悲鳴に近い声をあげた。
「佐野って誰?」
「同じ会社の人、桃子の先輩」
 彩花が亮平に耳打ちした。
「リョーヘイが好きってどういうこと? 好きになったってこと?」
「うん」
「私の彼だって分かってて言ってるの?」
 彩花の口調が次第に厳しくなりつつあった。
「もしかして、私の付き合っている彼だから好きになったの? 佐野さんにしても、リョーヘイにしても」
「それは違う」
 自分でも驚くほどの大きな声が出た。
「先輩のことはずっと好きだった。彩花が告白されて付き合うようになる前から。リョーヘイ……くんはただの隣人だったけど、気にはなっていたんだと思う」
「思う?」
「好きだって気づいたのは最近なの」
「私がリョーヘイと付き合っているって知った後?」
「はっきりした気持ちを知ったのはその頃」
 頷いてみせた桃子にむかって彩花は大きなため息をついてみせた。
「私の彼だって知ってて何で告白するの」
「言わないと後悔すると思ったから――」
「告白したらリョーヘイが桃子と付き合うとでも思ったの?」
「それは――」
 考えてもみなかった。望んでもいなかった。自分の気持ちを打ち明けることで頭がいっぱいだった。貴一の時には感情を内に秘め続けてきたその反動だったのかもしれない。
「あのさ、コクられたのはオレなんだけど?」
 二人の間に挟まれるようにして亮平が立っていた。深刻な表情の桃子と彩花に対し、ひとりニヤついている。
「それで、どうなの? リョーヘイは、桃子に好きって言われて付き合う気はあるの?」
「うん」
 即答だった。亮平は満面に笑顔を浮かべていた。血の気が引いた彩花の顔は真っ白になっている。
「私とは別れるってこと?」
「なんで? 別れないって。オレ、どっちも好きだもん。二人と付き合えばいいじゃん?」
 とたんに桃子は噴き出してしまった。女ふたりが真剣な事柄に、亮平はいとも簡単に答えを出してしまった。割ってしまえば立たせることのできるコロンブスの卵。
「何言ってるの? 浮気を認めろってこと?」
「浮気じゃないって。二人とも本気で真剣に付き合うんだから」
 蒼白だった彩花の顔色は今は怒りで真っ赤になっていた。
「二股ってこと? 私は絶対嫌だから! 桃子も嫌よね?」
 昨日の敵は今日の味方。彩花の対戦相手は亮平にたちまち変わった。

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なのなのな 最終話

「うん。私も嫌。私たちのどちらと付き合うか、選んで」
 桃子はこれ以上ない魅惑的な笑顔を作ってみせた。
「選ばないとダメ? どうしても?」
 亮平は食い下がったが、共同戦線をはった桃子と彩花はゆずらなかった。
「しょうがねえなあ」
 ぶつくさ文句を言いながら、人差し指をたて、桃子と彩花との間で降り始めた。
「どちらにしようかな 天の……」
「ちょっと待って、そんなことで決めるの?!」
 彩花が亮平の人差し指をつかんだ。
「もっと真剣に考えて。こんな選び方ってないわ。桃子も何か言ってよ」
「何をどうやったって納得しないんだろ? だったらこの方法でもいいじゃん。『天の神様の言う通り』なんだからよ」
 彩花の手を振り切り、亮平は再び人差し指を振り始めた。
「どちらにしようかな 天の神様の言う通り あっぷぷのあぷぷ」
 指は桃子を指し示して止まった。
「あっぷぷのあぷぷって何。なのなのな じゃないの?」
「オレはあっぷぷのあぷぷでしめんの」
「『なのなのなすびの柿の種』だよね、桃子?」
「なのなのなすびの柿の種?」
 桃子と亮平とは声をそろえて聞き返した。亮平はスマホを取り出し、調べ始めた。
「関東に多い『なのなのな』と全国にひろがっている『柿の種』がまじってんのな」
 亮平はスマホの画面を彩花に見せた。額を付き合わせるようにして亮平と全国に広がるバリエーションをおもしろがっていた彩花は
「ねえ、『なのなのなすびの柿の種』でしめてみて」
 と言った。
「いいぜ」
 言われるままに亮平は指を左右に振った。今度は彩花を差して止まった。
「『なのなのな 鉄砲撃ってバンバンバン』でもやってみて」と桃子。
 亮平の指は桃子を指した。
「それで、どっちにするの」
 彩花が迫った。
「ああ、もう、うぜっ! 『なのなのなすびの柿の種』も『なのなのな 鉄砲撃ってバンバンバン』も文字数が違うんだから、違う結果になるだろ」
 亮平は頭を抱えて地面にうずくまり、助けを求めるように桃子と彩花の顔をかわるがわる見上げた。桃子も彩花も引き下がる様子がないとわかると、亮平は額が地面につくほど頭を下げて考えこんでしまった。
 長くは感じられなかった。貴一の時には六年もの時間がかかった。その時間を耐えた今ならどんな長い時間でも我慢できる。
「いいこと思いついた!」
 やおら、亮平は立ち上がった。水中から飛び出してきたイルカのように弾みがついていた。
「『なのなのな』まではふたり共通だから、『なのなのな』の『な』で指が止まった方と付き合う。それで文句ねえだろ」
 互いに顔を見交わし、桃子と彩花はうなずいた。
「どちらにしようかな 天の神様の言う通り なのなのな――」
 亮平の指が止まった。

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あとがき

優柔不断です。

選択肢が2つ以上ある時は、「どちらにー」で決定します。
*バリエーションが地方によっていろいろあると知って驚きました!

「なのなのな」ではそんな自分をちょっぴり投影させてみました。

桃子みたいに、すっぱり決められる人がうらやましい。

結局、亮平が付き合うと決めたのは誰だったのか。そこは謎にしました。ご想像にお任せします。

最後まで読んでくださいまして、ありがとうございました。

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