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あじろ けい

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あらすじ

周囲がようやく結婚しはじめる三十代になって離婚、子供を連れて実家へと戻ってきた涼子。独身という意味では幼なじみたちと同じ立ち位置にいるものの、その実態は周回遅れ。再婚するにも就職するにしても、何倍ものスピードで駆け抜けていかないとならない涼子――はたして周回遅れは取り戻せるのか?

R-18
エロシーンはありません。が、そういうことについて語るシーンがあるので指定しました。

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テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 1

 視線は感じるものらしい。
 それも痛く、熱く。
 頬から顎、首筋から胸元へと男の視線は滑り落ちていく。男に見られている間中、涼子はまるで絵のモデルをしているかのように、窓の外を見つめるというポーズをとり続ける。
 信号が青に変わり、バスは再び走り始めた。車窓を、見慣れた景色が流れ去っていく。
 見られていると気づいたのは、つい一か月前だ。いつものようにバスに揺られながら膝の上に広げた教科書を読みふけっていると、額を何かが這っているような感触があった。虫かと思い、顔をあげると、男の視線とかち合った。
 視線の主はバスの運転手だった。バックミラー越しに涼子と目が合うと運転手の男は慌てて視線を逸らした。はじめはただの偶然だと思っていた。火曜日、夕方五時のバスに乗る時に限ってと、偶然が重なるにつれ、見られていると気づいた。
 女を求める時の男の目。強い眼差しだけれど、どこかに甘ったるさのある視線。見られる者をがんじがらめにし、蕩かしてしまう。
 三十過ぎでもまだ女として意識してもらえるものなのだなと、みぞおちのあたりがくすぐったくなった。まばらな乗客には年寄りの姿が目立つ。この町では涼子はまだ若いうちに入る。
 涼子の生まれ育った町は小京都と称えられる。古くは江戸時代からの町並みが続き、近隣には歴史ある神社・仏閣が点在する。訪れるには趣のある町だが、住む者には重苦しさがある。
 時の止まったような黴臭いこの町が、涼子は嫌いだった。いつまで経っても変わらない町並み、そこに住む変わり映えのしない人々。時間の澱みに堪えられず、短大進学を機に涼子は町を飛び出した。
 東京では、人も時間も速足で駆け抜けていく。わずらわしさを感じたならば、ヤドカリのように貝を変えればいい。住む場所だったり、付き合う人間だったり、時には自分というものでさえも、風に吹かれるままに変えた。卒業後も地元には帰らず、東京で就職し、東京の人間と結婚した。
 実家まで電車でわずか数時間だというのに、涼子は上京以来、足を向けようとはしなかった。盆暮れであっても何かと理由をつけて帰郷を拒否し、結婚の挨拶をしにはさすがに戻ったが、滞在はわずか数時間だった。郷愁の思いなど沸くはずもなく、感じたのは息苦しさだけだった。心まで黴てしまいそうな田舎特有の風通しの悪さに身震いするほどの嫌悪感を覚え、涼子はそそくさと故郷を後にした。出産の時も、頑として実家には戻ろうとしなかった。
 ちょうど一年前の今頃、季節が秋めいてくる時期だった。離婚した涼子は誠を連れて実家に戻ってきた。上京以来、十年余りの歳月が経っていた。
 離婚の原因は雅弘の浮気だった。離婚はしたくないという雅弘と何度も話し合いを重ね、ようやく去年の春に離婚が成立した。二歳になったばかりだった誠は涼子が引き取った。
 誠とふたりで生きていく、女ひとりでも立派に育ててみせると意気込んでいた涼子はすぐに現実の分厚い壁にぶつかった。仕事をしようと思えば誠の面倒を誰かにみていてもらわなければならない。だが、仕事をしているなどの理由がない限り、保育園は子どもを優先的に預かってはくれなかった。幼い子どもを抱えていては就職活動すらままならなかった。結婚後半年で仕事を辞めてしまい、その後は専業主婦に甘んじていたから、ろくなキャリアも積んでいなかった。たちまち涼子は行き詰った。
 誠が幼いうちは、レジ打ちのパートなどで何とかやりくりできるだろうが、大学へ進学させようとなると目もくらむような金が必要になる。結婚していた時には当たり前のように考えていた誠の進路が、現実の壁の向こうへと消えてしまった。
 自分が甘かった。夫の浮気に腹を立て、感情的に離婚を選択してしまった。もっと真剣に現実をとらえ、計画的に離婚を押し進めるのだったと後悔しても後の祭りだった。
 涼子は実家の両親に頭を下げ、就職に役立つ資格を取るからそれまでの間、親子ともども面倒をみてくれと頼み込んだ。父は快諾したが、母は渋い顔をした。それでも孫の誠かわいさに結局は涼子たちを受け入れてくれた。
 この春からは、栄養士専門学校に通っている。食べることも料理も好きだからと栄養士の資格を取ることにしたのだ。
 栄養士専門学校は、実家からバスで一時間の市内中心部にある。往復にかかる二時間は貴重な勉強時間だ。家に帰れば、誠の世話で勉強どころではない。バスに乗るなり、膝の上に教科書をひろげ、脇目もふらずに読み耽る。そんな生活を続けて半年近くになろうとしている。
 信号待ちのたびに、運転手の男はバックミラー越しに涼子を見つめていた。見るだけである。声をかけてくるわけでもない。もう少し若かったら気味悪く思っただろうが、酸いも甘いも噛み分ける今は、男に見られるという甘さだけを啜り、心地よく酔うことにしている。
 それにしてもどんな男なのだろう。
 ふと気になった。見られるばかりで、涼子は視線の主を知らない。運転手だということはわかっているが、バスを乗る時も降りる時も、運転手の顔をいちいち確かめたりなどしない。
 涼子は窓に向けていた顔を正面に戻した。視線の先にバックミラーがあった。運転席からこちらが見えるのなら、こちらから運転席にいる人間が見えるはずだ。運転中なら前を向いているから気づかれまい。涼子は大胆にも席から身を乗り出して運転手の顔をうかがった。 
 黒々とした眉に大きな瞳、鼻筋の通った大き目の鼻が顔の中心に居座っている。ふっくらと厚みのある唇は富士山を彷彿とさせる優雅な佇まいで、口を閉じていても微笑みを浮かべているように見えた。髪は、坊主頭とまでは言わないにしろ、短く刈り込んであった。
 見とれるほど良いわけでもなく、かといって目を背けたくなるほど悪い顔というわけでもない。特に特徴らしい特徴もない、次に会っても初対面だと思って挨拶してしまいそうな平凡な三十男の顔に、涼子は見覚えがあった。
 だが、記憶の引き出しから出てきた男の顔には名前というラベルがついていなかった。はがれてしまったのか、はじめからついていなかったのか。
 誰ともわからない運転手の顔をぶしつけに眺めまわしていると、バックミラー越しに運転手と目があった。静電気の弾けるような軽い刺激がこめかみを走る。
 涼子は慌てて首を折り、膝の上の教科書を読むふりをした。
 いつの間にやらバスは交差点でエンジンをかけたまま停まっていた。信号が青に変わると、バスは再び走りだした。
 涼子は教科書を読むふりで、その端から目だけを突き出して運転席をみやった。運転手は正面を向いて、運転に集中している。
 見られていたと気づかれただろうか――
 怒りのようなマイナスの感情は感じられなかった。それどころかプラスの、慈しむような、懐かしむような感情を、涼子は目のあった一瞬のうちに感じとっていた。
 知り合いだろうか。三十過ぎと年頃も近い。小学校か中学校か、ひょっとしたら高校の同級生といったところか。親の仕事を継いだり、地元で就職したりと町に残っている同級生たちは少なくない。
 それにしても、見覚えのある顔なのに何故誰であるかが思い出せないのだろう。
 目は教科書の字を追いながら、脳は記憶の整理にせいを出していた。
 バスは走り続ける。
 そもそも知り合いなどではないのかもしれない。芸能人かスポーツ選手に似ている、案外そんな簡単なことだったりするのかもしれない。 
 バスが停まった。信号が赤なのだろう。視線を額に感じる。
 車体は小刻みに揺れていた。ずいぶんと長い信号だ。
 信号待ちにしては停車している時間が長すぎる。
 どうしたのだろうかと窓の外を見たのと、声をかけられたのとが同時だった。
「小原さん、ここ、降りるとこだよ」
 バスは、家の近くのバス停の前で停まっていた。隣の席においたリュックをひっつかむなり、教科書を胸に抱え、涼子はバスを飛び下りた。
 背後でドアが閉まり、バスは走り去っていった。
 声をかけてもらわなければ終点まで乗り過ごしてしまうところだった。
 それにしても声をかけてくれたのは誰だったのだろう。乗客の誰かだったのだろうか。しかし、終点近くとあって、客はそうは残っていなかったはずだ。下手したら涼子が最後の客だったかもしれない。
“小原さん”
 男の声だった。そして呼びかけられた名前は、涼子の旧姓だった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 2

 玄関の戸を開けるなり、転がり出てきたのは誠だった。短い両腕を車輪のようにグルグルまわしながら駆けてきて、涼子の膝に突進した。
「ママ! ママ!」
 舌足らずな口ぶりでくりかえし、涼子に靴を脱ぐ暇も与えずに誠は涼子の足元にまとわりついた。
「ただいま。誠、いい子にしてた?」
「うん、いい子にしてた」
 誠を抱き上げ、居間に入っていくと、玄関でかすかに嗅いだ栗の香りが強くなった。
「おかえり。今日は栗ごはんよ」
 エプロンで両手をぬぐいながら、母が台所から顔をのぞかせた。
「だと思った。玄関まで栗のにおいがしたもの」
「あなた、昔から鼻がいいわね。着替えてらっしゃい。その間におかずの鮭焼いちゃうから」
「はあい」
 誠をソファーに座らせ、二階の部屋にあがろうとすると、ちょうど風呂からあがったばかりの父に出くわした。
「お、帰ったのか」
「うん」
 パジャマ姿の父は冷蔵庫を開け、ビール缶を取り出した。風呂上りに一杯飲んでそのまま寝てしまうのが父の習慣だ。持病の糖尿病にはよくないのだが、注意しても聞かない父なので、この頃では母も諦めてしまって、涼子にむかって無言で首を振って見せるだけだった。
 離婚するという話をした時、母は我慢が足りないと涼子を叱った。浮気ぐらい、男なら誰でも一度はあることだからぐっと堪えなさいと言われたのは同じ女として心外だった。逆に、結婚する時、男にはいろいろとあるのだから片目をつぶっておけと言った父が、雅弘の浮気に激怒し、そんな男とはさっさと別れろと言った。自分の娘が泣かされるとなると話が違ってくるものらしい。実家でしばらく面倒をみてもらえないかという話をした時、母はいい顔をしなかったのに、娘が戻ってくると手放しで喜んだのは父だった。昔から一人娘の涼子には甘い父だった。
 父はこの町で生まれ育ち、就職も地元で、結婚相手にも地元の人間を選んだ。母とは高校時代の知り合いだった。三年前に公務員を退職し、今は誠の相手をするか、庭いじりをして一日を過ごしている。糖尿病と医者から言われたのは退職する直前、涼子が結婚したばかりの頃だった。食事制限がきつくて献立を考えるのが一苦労よと母はよく愚痴をこぼしていた。そうは言いながら、母ははりきって父のために食事を用意していた。もともと料理は好きな方で、手をかけるのを厭わない。白飯は涼子が中学に入学するまでは釜で炊いていて、「はじめちょろちょろ、なかはっぱ、赤子が泣いても蓋とるな」と、火加減を教えてくれたのは母だった。味噌汁も出汁から取る。母は、煮干しと鰹節を使った。苦味があるので頭とはらわたを取り、水から煮出す。沸騰したところで鰹節を投入して出汁を取る。そうやって作った味噌汁は海の味がした。味噌汁はそうやって作るものだとばかり思って雅弘にも母直伝の味噌汁を作って出したら、魚臭いと不評を買った。何も言わずに細粒の出汁を使って作った味噌汁はうまいと絶賛された。料理に手間をかけなくなるとともに、愛情も薄れていったのかもしれない。

「青味が足りないね」
 食卓には、栗ごはんにキノコの味噌汁、鮭の塩焼き、ちくわとぜんまいの煮物が並んでいた。食欲をそそられはするが、茶色の服に茶色の靴をあわせているようなものだから、センスがないと一刀両断されるような彩の悪さである。
「この季節、葉物はなかなかないわねえ。あ、キュウリの糠漬けならあるわよ。食べる?」
「うん」
 母は用意するからと言って台所に引っ込んだ。
 涼子はいただきますと言って両手を合わせ、味噌汁に口をつけた。海の味がする。体だけでなく、気持ちまであたたまっていく。
「おいしいでしょ、その栗。お向かいの野山さんからいただいたの。週末に栗拾いに行ったんですって」
 糠漬けを手に、母がむかいの席に座った。ちゃっかり自分の分も用意していて、お茶うけに糠漬けをかじっていた。父はすでに二階の寝室にあがっていた。年寄りの夜は早い。夕食はとうに済ませてあり、涼子の顔を見て二階にあがるのがもうひとつの父の習慣だ。母の習慣は、夕食をとる涼子とおしゃべりに耽ることだ。
 誠はソファーでうたた寝をしていた。母がかけてくれたブランケットが規則正しく上下に波打っていた。
「たくさんあるから、明日は渋皮煮を作ってみようかしら。キュウリ、どう? ちゃんとつかってる?」
「ちょっと浅いけど、これはこれでおいしいと思う」
「塩分控えたからね」
「塩控えると雑菌が増えるよ」
「そうはいっても、ほら、お母さん、高血圧だから」
 父も母も年を取った。つくづく涼子はそう思う。父は白髪頭になり、母も染めてはいるが生え際に白いものが目立ち、髪そのものにもはりがすっかりなくなってしまった。
 食卓の話題も健康に関するものが多くなった。涼子は専門学校で得てきた知識を母に披露する。塩分や糖分の話は、父や母の健康状態にも関係あることで、母はおもしろがって涼子の話を聞く。調理実習で教えてもらった料理を、家で一緒に作ることもある。
 母と並んで台所にたつと、まるで娘時代にかえったような錯覚に陥る。それは母も同じなようで、はじめは家事を半分は手伝えと言っていたのに、この頃では勉強が忙しいでしょうと言ってせっせと涼子の面倒をみている。いくつになっても、結婚して離婚して、子どもがいようとも、父と母にとって涼子は娘でしかなかった。
「そうそう、角の魚屋さんとこの辰雄ちゃん、今度結婚するんだって」
「へえ、タッちゃんが」
 タッちゃんこと藤山辰雄は、近くの商店街にある魚屋の息子で、涼子とは隣に一軒家を隔てたご近所だ。小学校、中学校までは同じ学校に通ったが、市内の高校に進学した涼子に対し、タッちゃんは地元の高校に進学し、卒業後は魚屋を手伝っている。
「お相手は、お店の手伝いをしている女の子なんですって。商売のこともわかってくれてる人だからいいんじゃないのかしらねえ」
 母はまるで自分の息子が結婚するかのように目を細めて喜んでいた。
 結婚します、結婚しました、そんな知らせが最近多くなってきた。三十一歳、昔なら遅いくらいだが、今は、適齢期といってもいいかもしれない。むしろ早いくらいで、昔の職場の同期はまだ誰も結婚していない。
 結婚は早い方だった。短大を卒業し、家電メーカーの事務職に就いた。仕事にも慣れてきた三年目、同じ営業部に勤めていた雅弘と付き合い始め、一年後に結婚した。誠が生まれたのは結婚して三年後だった。
 涼子が結婚、出産、育児、離婚と目まぐるしく動きまわっている間、他の人間は人生のトラックをゆっくりした速度で走っていた。彼らを周回遅れにしたつもりでいた涼子だったが、独身という意味では今や彼らと並んで走っている。しかしそれは見た目だけで実際には涼子はいつの間にか周回遅れにされていた。人生を軽やかに駆け抜けていく彼らに追いつくには、涼子は倍以上のスピードを上げなければならない。その上、就職、再婚といったハードルも飛び越えていかなければならない。追いつくどころか、脱落するのではないかと不安に陥ることすらある。就職というハードルをはたして乗り越えられるのかどうか。
「ベッドでねんねしようね」
 ぐずる誠を抱えて、涼子は二階の寝室にあがった。結婚していた時から、誠を寝かしつけるのは涼子の役目だった。離婚しても誠との生活に変化はない。雅弘は物理的に存在はしていたが、涼子にも誠にも積極的に関わってこようとしない雅弘はいないも同然だった。
 涼子は誠の丸く盛り上がった腹を規則正しく叩きながら、その寝顔を見つめた。心臓の動きにあわせたリズムを体に感じていると安心して眠くなるらしく、腹を叩いていると誠はすぐに寝入ってしまう。叩いている涼子もまた、気持ちが穏やかになる。何がなんでもこの腹を満たし続けよう。そんな強い気持ちが体の奥底からふつふつと湧いてくるのだった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 3

 栄養士の資格を得るには、大学や短大、専門学校といった施設で必要となる勉強をしなければならない。卒業と同時に資格は取得できる。一日も早く就職したい涼子は、専門学校の二年制を選んだ。最初の一年は、体と栄養の関係、公衆衛生などの基礎分野を学ぶ。二年目には栄養について専門的な知識を勉強する。
 授業は朝早くから始まって夕方に終わる。忙しいスケジュールをぬってアルバイトをしているクラスメートもいて、涼子もパートでもしようかと考えたが、いざ学校に通い始めてみれば勉強だけで手一杯だった。往復二時間の通学時間を勉強にあてても授業についていくのがやっとである。秋が深まるにつれ次第に夜遅い時間まで学校の図書館に残って勉強することが多くなっていった。
 二週間後に試験を控えたある日、涼子はいつものように図書館に引きこもっていた。
「遠藤さん」
 声をかけてきたのは大木克弥だった。学生には高校をでたばかりの若者が多い。二十代、三十代だろうと思われる年代の学生もいるが、少数派だ。学生のほとんどは女性で、涼子のクラスには男性の学生は三人しかいない。そのうち二人は少年の面影を色濃く残しているが、残る一人、二十代の青年が克弥だった。
 人懐っこい性格なのか、克弥は年の差を気にすることなく誰にでも声をかけては親しくしていた。他の生徒たちとは距離を置いていた涼子だが、年が近いせいもあって、大木克弥とは気軽に口をきけた。涼子は克弥を二十七、八ぐらいに思っていて、克弥の方は涼子を自分と同じ年、二十五だと思っていたと後で知った。
「試験勉強? 俺もそろそろ勉強はじめないとまずいかな」
「まだ二週間もあるじゃん。余裕、余裕」
 克弥と涼子の間に割り込むようにして顔を見せたのはクラスメートの長友由紀だった。
「試験勉強なんて一週間あれば十分でしょ」
 そう言って由紀と笑顔を交わしたのは、山谷恵美だった。
 夏以降、克弥には由紀と恵美がまとわりついていた。華奢な体つきで大きな目をした人形のような恵美に、ショートカットで健康美あふれる由紀。タイプのまるで違う二人だが、ともに美女である。
 三人はそのまま、立ち話を始めた。勉強したい涼子には、彼らの世間話が耳障りで仕方なかった。これなら、家に帰って誠の相手をしながら勉強する方がましだ。バスのある時間かどうか時計を確かめたとたん、美恵が叫んだ。
「やだ、バイトの時間!」
 美恵は慌てて腕に抱えていた教科書をカバンに投げ入れ始めた。
「大木さん、バイト先まで送ってもらえる?」
 美恵が上目づかいで克弥をうかがっていた。
「私も送ってもらってもいい? うち、美恵のバイト先と同じ方向だから」
 由紀も手にしていたプリントをそそくさとカバンにしまい始めた。
「いいよ」
 克弥の返事は気前よかった。克弥は車で通ってきていた。
「遠藤さんは? よかったら送っていくけど」
 克弥はその場で涼子を待っていた。机の上に広げられたままの教科書とノートを書片づける様子もなく涼子は言った。
「私はもう少し勉強していくから」
「そう。じゃ、また明日」
 リュックを背に、克弥はすでに先を行く恵美と由紀のもとへとかけていった。これでやっと勉強できると、涼子は大きく息を吸いこみ、教科書の海へと潜っていった。
 克弥たちが去ってからどれくらいの時間が経ったのだろう、肩をもみながら首をまわしていて見えた外の景色はすっかり暗闇に包まれていた。走れば七時のバスに間に合うと時計を見て確認し、誠は起きて待っていてくれるだろうかと思いながら荷物をまとめ始めた時だった。机の横に誰かが立った。
「やっぱり、まだ残ってた」
 克弥は、机の上にあった涼子のペンケースを手に取って渡した。
「帰るとこ?」
「そう。急がないとバスに乗り遅れちゃう」
 涼子は克弥から受け取ったペンケースをリュックにしまった。
「美恵ちゃんたちは?」
「ちゃんと送ってきましたよ」
「そのまま家に帰らなかったの?」
「帰ってもよかったんだけど――」
「私、バスの時間があるから、もう行くわね」
 リュックをつかんで立ち去ろうとする涼子の腕に克弥が触れた。
「バスだと一時間かかるって言ってたよね。車ならすぐだから、送るよ」
 そのまま、連行されるかのような格好で涼子は駐車場まで連れていかれ、克弥の車に押し込められてしまった。助手席にはほんのりと甘い空気が居座っていた。美恵のつけている香水の香りだ。
「道、わかります?」
 運転席に乗り込んできた克弥が顔をぐいと近づけるようにして尋ねた。
 涼子は首を横にふった。
「ごめんなさい、車運転しないから分からないの」
「いいや、ナビに頼るから。住所、教えて」
 涼子は住所を告げ、克弥はナビに言われたままの番地を入力した。
 エンジンがかかり、車はすべるように走り出していった。
 駐車場を出、市内の中心地へと車がむかうと、見慣れた景色が車窓を流れていった。どうやらバスと同じ道を走っているらしい。通い慣れたバス停の並ぶ道路をしばらく走った後、バスなら左折する場所を、涼子を乗せた車は直進し続けた。
「最近、図書館で夜遅くまで勉強してるよね」
「試験も近いし。もう若くないから、若い人の三倍は勉強しないと頭に入らないの」
「わかるなあ。若い時は一夜漬けでも何とかなったけど、今はそうはいかないんだよね」
 克弥は声をたてて笑った。自虐的な言い草とは裏腹に、明るい笑い声だった。涼子は男性の笑い声を聞くのが好きで、特に屈託のない無邪気な笑い声が好きだった。克弥の笑い声は、涼子の耳を喜ばせた。
「何で栄養士の勉強してんの?」
 密室の距離感がそうさせるのか、いつの間にか、克弥は軽い口をきくようになっていた。
「食べるのが好きだから」
 シングルマザーとして子どもを育てていくには専門職の資格があったほうがいいからという理由の九割は伏せた。年齢からして一目瞭然だろうと社会人であったことはクラスメートにも克弥にも話してあったが、離婚歴と子どもについては誰にも言っていなかったし、言うつもりもなかった。
「大木君は?」
「俺?」
「男性の学生って珍しいから」
「そうなんだよね。周りはみんな女の子ばっかりで、今、人生で一番もててる」
 克弥は照れ臭そうな微笑みを浮かべた。男が少ない環境だからもてるのだろうと克弥は言うが、それは謙遜だった。閉ざされた環境でなくても克弥は十分魅力的だ。
 優に190センチはあるだろうというほど背が高く、スポーツをしているらしくがっしりとした体格をしていた。異国情緒を漂わせる彫りの深い顔立ちで、大人の男性としての固さが見えつつも、時折みせる笑顔は小動物のような愛くるしさがあった。
「俺、ジムでインストラクターをしてたんだ」
「ああ、それで……」
 いい体をしているんだと続けそうになり、涼子は慌てて両手で口を覆った。
「なに?」
「なんでもない」
 “いい体”という言い方にはエロティックな響きがあって、口にするのはためらわれた。
「マシーンを使って体を鍛えているうちに、そもそも体を作っている食べ物に興味がわいてきてさ、栄養の勉強でもしてみるかって」
「卒業したら栄養士として働く気はないの?」
「ないなあ。体を鍛えることだけじゃなくて、栄養の面からもアドバイスできるような、そんなインストラクターを目指してる」
「ふうん」
 涼子は目を細めた。対向車のライトがまぶしかったせいではない。まぶしいのは、克弥そのものだった。彼の若さと、将来への揺るぎない確信とは真昼の太陽のように光輝いていた。
 窓の外の景色にバス停が目立ち始めた。どうやら再びバスの路線を走っているらしい。バス停がひとつまたひとつと過ぎて家に近づいていくにつれ、現実が涼子の胸に迫ってきた。バツイチ、子持ち、シングルマザー、就職、子育て……克弥の車に乗せられた瞬間から忘れていたそれらが涼子の体をピンクッションにして次々と突き刺さってきた。バス停たちを見送りながら、涼子は克弥がこのまま走り続けていってくれたらと秘かに祈った。車窓を過ぎ去るバス停たちのように、現実も前から後ろへと流れていってくれたらいいのに。
 だが、克弥の車のナビは非情にも涼子の家の前まで涼子たちを導いた。車を停めるなり、克弥は運転席を降り、助手席のドアを開けた。美恵たちにもそうしているのだろう、慣れた身のこなしだった。
「送ってくれてどうもありがとう」
 助手席の窓にむかってかがみこみ、涼子は運転席の克弥にむかって礼を言った。
「それじゃ、今度こそ、また明日」
 克弥の車が去っていくのを名残惜しげに見送りながら、涼子はふと、克弥は涼子を送るつもりで図書館に引き返してきたのではないかという考えを抱いた。その考えは、涼子を甘ったるい気持ちにさせた。克弥の車のテールランプと、近くでみた克弥の瞳とが重なった。大きな潤んだ瞳だった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 4

「ママ!」
 克弥の車が完全に視界から消えてなくなるのを確認してから玄関のドアを開けると、パジャマ姿の誠が転がり出てきた。
「ごめんね、遅くなっちゃったね。さびしかったね」
 涼子は誠を抱き上げ、玄関を上がった。誠は涼子の胸にすがるように抱きついて離れなかった。シャンプーのかおりにまじって、ミルク風味のやわらかい誠の体臭が鼻先をくすぐった。
「マコちゃん、いいにおいがする」
 涼子は誠の首筋に顔をうずめた。鼻を鳴らして誠のにおいを嗅ぐと、誠はくすぐったいと身をよじらせ、声をたてて笑った。
「おかえり。今日は遅かったね」
 居間に入っていくと、エプロンで両手をふきながら母が台所から顔を出した。あたためられた味噌汁のにおいが漂ってきた。
「車の音がしたけど、送ってもらったの?」
「うん、学校の友達」
「男の人?」
 母はさぐるような目をしていた。涼子は何気ないそぶりで「そう」と簡単に言い、誠をソファーにおろした。
「気をつけなさいね。男の人に車で送ってもらうなんて、いい年の出戻り娘が子どもをほったらかして男と遊んでいるっていう風に近所の人に噂されるわよ」
 母は涼子の遅い夕食の支度を済ませると、誠の手を引いて二階の寝室へと上がっていった。
 レンジであたためた鯵フライをつついていると、誠を寝かしつけた母が食卓へと戻ってきた。とたんに体が硬くなった。ただ送ってもらっただけだというのに、まるで親に顔向けできないようなことをしてきたような罪悪感が胸をかすめた。
 涼子の向いの椅子に座った母は、食卓の上に一枚の葉書を差し出した。それは中学の同窓会の案内だった。ちらっと見ただけで、涼子は手にも取ろうとせず、黙々と食事を続けた。
「今朝届いていたの。行くでしょ、同窓会」
 涼子は母にむかって黙って首を横に振った。
「どうして? 行ってらっしゃいよ。誠の面倒ならみておくわよ」
 涼子は再び、案内の葉書に目を落とした。書面には2か月後の土曜日の日付、夕方の時間が印刷されていた。
「誠の面倒みてくれるのはありがたいけど、勉強しないといけないし」
 試験も終わってひと段落ついているだろう時期だから、机にかじりついていないといけないわけではない。むしろ一息入れたいくらいだが、同窓会への出席にはなぜか気のりがしなかった。
「勉強も大事だろうけど、同窓会に出てコネを作っておくのも大事なのじゃない? こっちで就職しようと思ったら、地元にコネをもっていないとね。小さな町なんだから、仕事なんてそうはないし、あっても、口利きで知り合いに回っていくものなのよ。あなたは東京で就職しちゃって、こっちの人間関係は薄くなっているんだから、仕事を探すのには不利なのよ。同窓会にでも出て、こっちにいる人たちに声かけて、『何かあったら連絡ちょうだい』とでも粉をかけておいたほうがいいわよ」
 淡々とした母の口調がかえって耳に痛かった。母の言い分はまったくもって正しい。口に食べ物が入っていなかったとしても涼子は黙って聞くしかなかった。
 まずは資格を取ることに専念しよう、就職は卒業してからのことだと安穏としていたが、二年の学生生活のうち、一年目が終わろうとしている。ただでさえ、就職困難と言われているこの頃だというのに、涼子の場合、バツイチ、子持ち、三十過ぎとハンディキャップを二重にも三重にも抱えている。資格さえ取ってしまえば就職は何とかなるだろうと軽い気持ちでいたが、母の言葉に気が重くなった。単位さえ取ってしまえば栄養士の資格は与えられる。だが、資格があるからといって、確実に就職できるとは限らない。地元で就職しようと思ったら、就職先をリストアップしておくといった準備ぐらいは今からでもしておかないといけないだろう。だが、そもそも地元で就職するのか、仕事は東京へ戻って探すのか、それすらも涼子は考えていなかった。教科書に顔をうずめて現実から目をそらす涼子にむかって、現実の方がスピードをあげてむかってきていた。
「就職、こっちでするのよね?」
 母が涼子の顔をのぞきこんだ。噛めば噛むほど甘くなるはずの米は味も形も失って、胃の底へと流れ落ちていった。
「わからない」
「わからないって……。また東京へ戻るの?」
「東京の方が仕事はあると思う」
「それはそうだろうけど……」
 さびしげな母の口ぶりだった。夫婦二人で静かに暮らしていたところに涼子と誠が戻ってきて賑やかになった生活を手放したくはないのだろう。戻ってきたばかりの頃、年老いた母の姿に少なからず衝撃を受けたが、涼子や誠の世話を焼いているうちに母はかつての生気を取り戻しつつあった。
「働きながら誠の世話をするのは、一人だと大変なのじゃない?」
「保育園もあるし。それは何とかなると思う」
「でも空きがないってニュースや新聞でよく言ってるわよ」
 これには反論できなかった。もともと、誠を預けられないことがきっかけで実家に出戻ってきたのだ。
「お父さんもお母さんも、今のところまだ元気だし、誠の面倒ぐらいなら見てあげられるわよ」
「東京に戻るか、こっちに残るかはまだ何も考えていないから」
 涼子は苛々とした口調で言い捨てた。焦りと苛立ちとがこみ上げて食欲がなくなったので、食器を手に台所へとむかった。
「就職のことを考えるのはまだ早いかもしれないけど、誠のこともあるんだし、考えないといけないことはたくさんあるのよ」
 食器を洗う涼子の背中にむかって母が言った。責めるような口調ではなく、むしろ諭すような優しい言い方だというのに、一言一言が重くのしかかってくる。涼子は母の声をかき消すようにわざと音をたてて食器を洗った。
「お父さんもお母さんも、いつまでも若いわけじゃないし、自分の将来について、きちんと考えなさいね」
 若いのかもう若くないのか、矛盾する母の言葉を右から左に聞き流し、涼子は洗い物を拭き、食器棚へと戻した。
「同窓会、いってらっしゃい。いいわね」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 5

同窓会に行くと言って出かけた先で涼子が会っていたのは、広田真紀だった。真紀とは中学からの幼なじみで、同じ高校に進学した仲だった。とある事情で真紀が高校一年で中退して以来、疎遠になってしまっていたが、実家に戻るとなった時、思い切って連絡を取って、それからは何かと会って話すようになった。何か資格の勉強をしたらどうかと言って涼子の背中を押したのは真紀だった。真紀もまた、シングルマザーだ。
「デートか何かのつもり?」
 涼子を一目見るなり、真紀は目をむいた。涼子が、カジュアルなレストランには似つかわしくない、ブルーのアンサンブルを着ていたからだった。真紀は、スキニージーンズにざっくりとしたセーターをあわせただけのラフな格好だった。すっぴんの真紀に対し、涼子はフルメイクだった。
「同窓会に行くって出てきた手前、それなりの格好しないといけなかったのよ」
 席につくなり、涼子はテーブルにあったナプキンで口紅をぬぐった。
「何で同窓会に行くなんて嘘ついたの。そうでもしないと外に出してもらえなかったの?」
 注文を取った店員がテーブルを去るのを待って真紀が口を開いた。
「母が、同窓会には行けってうるさくて」
 就職のコネ作りのためにうんぬんと、涼子は真紀に説明して聞かせた。腕組みした両手をテーブルの上に起き、真紀は時折うなずきながら話に聞き入っていた。
「お母さんの言う通りね」
 腕組みをほどき、真紀はグラスに手をのばした。
「真紀もそう思う?」
「涼子だって、わかってはいるんでしょ?」
 注文した料理をもって店員がテーブルにやってきたので、会話は中断された。
「それで、就職、こっちでするの?」
 店員が去るのを待ちかねたように真紀が身を乗り出して尋ねた。
「わからない。まだ考えてなくて」
「今から考えておいた方がいいよ。二年なんてあっという間だから」
「わかってる」
 同じことを言われるのでも、真紀からだと身の引き締まる思いがする。
「真紀は、どうしてこっちで就職したの?」
 高校を中退したため、真紀は高校卒業認定資格(真紀が受けた当時は大卒検定資格)を得て看護学校に進学、今は隣県の県庁所在地にある総合病院で看護師として働いている。
「浩介のことがあったからかなあ」
 考えるように首を傾げていてあらぬ方向を見ていた真紀はそう言って涼子の方に向き直った。
 真紀は十六歳で浩介を産んだ。父親は涼子たちの高校に教育実習生としてきていた男だった。真紀は退学を余儀なくされ、地元に居づらくなった真紀たち一家は隣県へと引っ越していった。
「子どもってね、ちょっとしたことで体調崩したりするのよ。そのたびに親が呼び出されるんだけど、仕事してたら、簡単には抜けられないでしょ。学校でさえ、なかなか抜けられなかったのに、仕事ならもっとシビアだなと思ったら、浩介の面倒は親に見てもらうしかない、親の近くにいた方がいいなあって」
「親は何て? 子どもの面倒を見るのは嫌だって言われなかった?」
「妊娠した時は散々怒られたり泣かれたりしたけど、生まれてみれば孫は可愛いのよね。東京あたりで仕事探して親子ふたりで暮らしていくって言ったら、涼子のお母さんみたいに反対したかも」
「反対されているわけじゃないわよ。こっちで就職したら、っていうプレッシャーをかけてきている程度」
「涼子がひとりで苦労するのが見えているからじゃない」
「真紀にも、私が苦労する将来が見えるわけね」
「まあ、そうだね」
 涼子はグラスを両手で握りしめた。未来を映し出す水晶の玉でなくても、親元を離れては誠を抱えて苦労する将来がくっきりと浮かんで見える。
「同窓会、出るべきだったのかな……」
 聞き取れるか取れないかほどの細い声で涼子は呟いた。
「でも、出たくなかったんだよね」
 真紀の言葉に涼子はうなずいた。
「気持ちはわかるよ。こっちに戻ってきたこと、いろいろ聞かれるだろうから」
「真紀もいろいろ聞かれた?」
「私? 私は同窓会なんか一度も出たことないから。案内だけはくるんだけどね。出たら、根掘り葉掘り聞かれただろうな。相手の男のこととか、どうしてそうなったとか、なんで結婚しなかったんだとか。まあ、私が出席したらしたで、みんなの方が扱いに困っただろうけど。何を話していいか分からないだろうしね。未婚の母の話をしないとしたら、する話ないもの。高校は中退してるわけだし、子育てもさっさと終わってるし。こっちは十五歳の子どもがいるっていうのに、周りは結婚もしてないんだから、共通の話題なんかないわよ」
「真紀は物凄いスピードで人生のトラックの何周も先を行ってるのよ」
 人生をトラック競争に喩ると、面白いわねと真紀は笑った。
「結婚といえば、タッちゃん、今度結婚するんだって」
「恐るべし、田舎の情報網!」
 真紀はそう言って耳ざとい涼子をからかった。
「母から聞いたの」
「田舎のおばちゃんたちの情報網ってすごいよね。何でも知ってるもの。私が妊娠した時もいろいろ、あることないこと言いふらしてくれたっけ」
 真紀はからりと笑ったが、当時は笑えなかったはずだ。他人だった涼子ですら、真紀に対する勝手な噂を耳にして不愉快に感じたのから、本人なら腸が煮えくり返るような思いがしただろう。無責任な噂に追い立てられるようにして、真紀たちは隣県へと引っ越していかざるを得なくなってしまった。
「私がこっちに戻っていること、いろいろ言われているのかな……」
「少なくとも、離婚については知られていると思う」
「そうだよね、たぶん、タッちゃんのおばさんからタッちゃん本人に伝わって、こっちに残ってる人には知られてるよね」
「別に知られてもいいじゃない。それならそれで、開き直って、『シングルマザーです、仕事紹介してください』って言いやすくなるんだから」
 真紀は店員を手招き、グラスワインを注文した。
「涼子が同窓会に出たくなかったのはさ、他にも理由があるんじゃない」
「他にって何?」
「山下大輔」
 ワイングラスを手にしたまま、真紀は涼子にむかって人差し指を突き出してみせた。
「彼に会って幻滅したくないとか、そんなとこじゃない?」
「そんなことないわよ」
 そんなことはあった。同窓会に出る気がしなかったのは、もしかしたら山下大輔も来るかもしれないと思ったからだった。彼にどんな顔をして会えばいいのだろう。離婚し、子どもをつれて故郷に戻ってきた自分を彼はどう思うだろう。
 山下大輔は、涼子が初めて付き合った相手だった。中学三年の春から夏休みまで、付き合うといっても、登下校を一緒にするといった程度で終わった関係だった。それだけに、かえって清らかな思い出だけが残っている。大輔との初恋の思い出を壊したくはなかった。彼の思い出の中の、幼い少女だった自分の姿を上書きしてしまうのも嫌だった。せめて、誰かの思い出の中にだけでも美しく存在していたかった。
「大丈夫、彼なら今海外だから」
「海外?」
「えっと、どこの国って言ってたかな? 聞いたけど忘れた。青年海外協力隊に参加しているんだって」
「真紀の情報網も捨てたものじゃないわね!」
「彼のお祖母ちゃんが、私の働いている病院に入院したことがあって、その時、聞かされたのよ。同部屋の患者さんたちにも話していたから、私が孫の同級生ってわかってて話していたわけではないみたいだったけど」
 思い出は無事に守られた。山下大輔の知る涼子も中学三年の初々しい少女のままでいられる。遠い日に思いを寄せ、涼子は目を細めてワイングラスの底をみつめていた。
「都筑くんは涼子が来なくてがっかりしているかもしれないけどね」
「誰?」
 顔をしかめてみせた涼子に、真紀はぐっと顔を近づけてきた。
「都筑修一。覚えてないの?」
 ツヅキシュウイチ、ツヅキ……涼子は口の中で名前を何度も繰り返したが、そうすることでたぐりよせられるはずの記憶そのものが存在していない。
「同じクラスだった?」
「呆れた、ホントに覚えてないのね!」
 どうやら涼子がとぼけているとうたぐっていたらしい真紀は、勢いよく身を引いた。
「金魚のフンみたいに、山下くんにひっついてたじゃないの。いつも三人一緒で、涼子と山下くんがデートする時もくっついてきたって言ってたのに、なあに、全然覚えていないの?」
「三人一緒で……」
 塗りこめていた記憶の漆喰がぽろりと剥がれ落ちた。その下に、若い男の顔の一部がのぞいてみえた。短く刈り込んだ髪、鼻筋の通ったやや大きめの鼻、美しい形の唇。
 ツヅキ、ツヅキ……念仏のように名前を唱えながら、涼子は記憶の漆喰を剥がし始めた。くっきりとした眉の下の大きな瞳……見覚えのある眼差しだ。大きな瞳から発せられる力強い視線を浴びた経験がある。だとすれば中学時代だが、そんな昔ではない気もする。
「なんか、思い出してきたかも。いつも山下くんと一緒で、私のこと嫌いなのか何なのか、すごい目で睨んでいたっけ」
 記憶は完全によみがえった。と同時に、都筑修一に睨みつけられて嫌な思いをしていた当時の感情もこみあげてきた。何も言わず、大輔の隣から涼子をただただ睨みつけるだけの都筑修一は不気味で、大輔と二人きりになろうとするのを邪魔する憎たらしい存在だった。
「私や山下くんの気づいていないところで、私のこと、じっと見てたの。初めは気づかないふりで無視してたんだけど、段々気持ち悪くなったの、覚えてる。というか、今思い出した。真紀のせいで、嫌なこと思い出しちゃったじゃない」
 顔をしかめてみせる涼子にむかって、真紀が口を大きく開けて笑ってみせた。
「知らぬは本人ばかりなり、ね」
「何よ、いきなり」
「都筑くんはね、涼子のことが好きだったんだよ」



 誠を起こさないよう、涼子はそっと押入れから段ボールに入っていた中学校の卒業アルバムを取り出した。ページをめくって「都筑修一」の名前のある顔写真を探す。体育祭や修学旅行などの写真につい見入ってしまいながらも、ようやくクラス写真の中に都筑修一の写真を発見した。
 アルバムの見開き中央付近に、都筑修一の写真はあった。紺のブレザーの制服姿の上半身で、正面を向いている。青いネクタイがやや右に曲がっていた。くっきりとした眉のすぐ下の大きな目がカメラにむかって強い視線を投げかけている。意思の強さを見て取れるその顔つきは大人びていて、とても十五歳には見えない。三十歳だと言われても違和感のない貫禄のせいで、都筑修一は「おやじ」というあだ名をつけられていたと、涼子は思い出した。三十を過ぎた今も顔は変わっていなかった。都筑修一は、バックミラー越しに涼子を見つめていたあのバスの運転手だった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 6

 白いシーツの上に投げ出された克弥の脚を眺めていると唾がこみあげてきた。ぷっくらとした脹脛はさぞかし食べごたえがあるだろう。窓から漏れ入る夕日はまるでオレンジソースのようだ。
 口の中にわいてきた唾を飲み込み、涼子は克弥の引き締まった足首をつかんで脹脛にかじりついた。甘噛みした歯に、肉が反発した。肌に触れた舌先が塩気を感じとり、肌の奥から香草のような青臭いにおいがたちのぼってきた。
「何してんだよ」
 目を覚ました克弥がすばやく脚を引いた。
「食べてるの」
「うまいか?」
「おいしいわ」
 何度か車で送ってもらううち、克弥とは体を重ねる関係になった。授業が終わった後の数時間を、涼子たちは克弥の部屋で過ごす。母には図書館で勉強していると言ってあった。
「セックスって、食べることに似ていると思わない?」
 脹脛から腿に移動し、涼子は甘噛みを続けた。克弥は呆れたように笑っていた。
「噛む、齧る、舐める、吸う……どちらの場合も口や舌を使うわ」 
 涼子は食べることが好きだ。ということはセックスが好きだということになる。セックスが好きだと言うのは憚られるが、嫌いではない。 
 嫌いではなかったが、克弥以前の男との交渉は儀礼的に済ませるだけで、味わうなど二の次だったように思う。
 初体験は十七の時で、相手は同級生だった。キスをして、胸に手が伸びてきて……と、マニュアルでも読んできたのかというような律儀な動きだった。そのくせ、いざとなると動物的でグロテスクでさえあったので、もう二度とセックスなんかするかと思ったほど、後味の悪い体験だった。
 セックスの味がどんなものか分かってきても、はしたない女に思われたくなくて、行儀のいいセックスばかりをしていた。味わうよりもテーブルマナーが気になる、そんなセックスだった。
 雅弘と結婚した後は、セックスは子どもを作るためだけの行為になった。手のこんだ食事をする必要はない、サプリメントでも摂っておけと言われたようなもので、味も何もあったものではなかった。
「何を食べたらこんな体が出来上がるの?」
 涼子は克弥の全身を眺めまわした。ジムのインストラクターをしていただけあって、肩も胸も腹も腕も、弾力のある筋肉で覆われている。
「そりゃ、やっぱり肉だよ」
「肉って一口に言ってもいろいろあるわよ。牛に豚に鶏肉でしょ、魚だって肉には違いないでしょ、魚肉っていうんだから」
「ヘリクツ。肉といったら、四足の肉だろ」
「鳥は足が二つしかないわ」
 口ではかなわないとみたのか、克弥は涼子の体をベッドに押し倒し、その口を手でふさいだ。
「牛肉、豚肉、鶏肉!」
 やっきになった克弥の言い方がおかしくて、涼子は克弥におさえられた手の下で笑った。
「タンパク質たっぷりってことね」
「野菜も食べたって。バランスが大事なんだよ」
「牛乳は? たくさん飲んだ?」
 涼子は克弥の厚い胸に頭を乗せ、足を摺り寄せた。爪先を思い切りのばしても克弥の膝頭までしか届かない。
「飲んだ、飲んだ。一日一リットルは軽く飲んだっけ」
「やっぱり牛乳を飲むと背が伸びるのかしら」
「カルシウムが豊富だからなあ。言ったら、骨の原材料を飲んでいるようなもんだし。でもさ、肉にしても何にしても、体の原材料を取り込むだけじゃだめなんだよ。運動も大事なんだ」
「今もジムに通ってるの?」
「学校に通うのでインストラクターの仕事は辞めたけど、ジムの連中とは今でも付き合いがあるから、たまにマシーンを使わせてもらってる。あとは、走ったり、家で腹筋したり、腕立てやったりってとこかな」
「前より、食べる物に気を遣うようになった?」
「なった。前はそれこそ肉ばっかだったけど」
「野菜も食べてたって言ったじゃない」
 涼子はすかさずちゃちゃを入れた。悔し紛れに、克弥は涼子の髪をくしゃくしゃともんだ。
「食べてたけど、何も考えないで食べてただけっていうか。今は、この野菜のこの栄養素が欲しいからとか、この野菜とこの野菜を組み合わせるとより一層必要な栄養素が取れるとか、調理の仕方によっては、栄養を倍摂取できるなとか、いろいろ考えるようになった」
「完璧じゃないの。食べるものも選んで、きちんと運動もするのなら、これ以上ない理想的な体が作れそうね」
 涼子は顔をあげ、キスをねだった。煙草は吸わない、酒もほとんど飲まないという克弥とのキスは、ウィスキーボンボンのように甘みと苦みがないまぜになった味がする。
「どうして男の人はおっぱいが好きなの?」
 胸に伸びてきた克弥の手を涼子は撥ね退けた。
「さあ。男の本能じゃない?」
「こんなもの、ただの脂肪なのにね」
 涼子は両手で乳房をすくいあげた。湿り気があって、手のひらにずしりとした重さを感じる。
「大きくしたいとは思わない?」
「中学、高校の時が一番大きかった。成長期だったのね」
「その頃会いたかった」
 胸に顔をうずめてきた克弥を、涼子はくすぐったいといっておしやった。
「子どもを産んだ直後も巨乳だった」
 笑いながらそう言ってから、しまったと涼子は唇を噛んだ。隠すつもりはなかったが、誠の存在については何となく言いそびれていた。
「子ども、いるんだ」
 克弥は笑顔を浮かべていた。
「子持ちだって知って引いた?」
「なんで引くの? 結婚してるわけじゃないだろ?」
 涼子は離婚していること、三歳になる誠は自分が引き取って育てていることなどを話して聞かせた。バツイチでシングルマザーだと知った克弥が涼子のもとを去っていってもいいという覚悟の上だった。
「そうか、それで学校通ってるのか」
「クラスの子たちには言わないで。別に知られても構わないことだけど、わざわざ言うことでもないと思うから」
「そりゃ、まあ、そうだ」
 誠がいると知っても、克弥の態度にあまり変化は見られなかった。子持ちでも付き合っていきたいという真剣な気持ちでいるのか、子持ちなら簡単には結婚とは言いださないだろうから遊び相手には好都合だと考えたのか、どちらとも涼子には判断がつかなかった。
「さっきのさ、食べることとセックスが同じっていうの、わかる気がする」
 そう言うと、克弥は首を折り曲げ、胸にもたれている涼子の顎をあげてその唇を激しく吸った。互いの舌が味わうかのようにもつれあう。
 涼子の唇を離れた克弥の口は、次に首筋に吸い付いた。涼子の腰を抱いていた手を引き、正面にむきなおったかと思うと、克弥は鎖骨のくぼみに唇を押し当て、そこから鎖骨に沿って甘噛みを続けていった。
「やめてったら。くすぐったい」
 笑い声をたてて身をよじる涼子の胸に、克弥が顔を埋めてきた。突き出された舌先が乳房を縦横無尽に這い、硬く尖った乳首が克弥の唇にそっと包み込まれると、涼子は喉の奥から息を漏らした。
 噛んで、舐めて、吸って……克弥の舌が涼子の体を味わい尽くす。涼子もまた、克弥の体を堪能する。味覚をつかさどる舌が、唇が、悦楽を生み出していく。
 克弥との関係に未来を求めてなどいない。ましてや克弥との間に子どもを作ろうなどと思ってもいない。それでも、涼子は克弥とセックスをする。繁殖のためではないセックス。だからこそ、味わい深く、心地いい。
 就職、子育て……尽きぬ不安は快楽の波にさらわれてどこかへと消え去っていった――。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 7

 間に合うかな――
 バス停にむかって小走りにかけながら涼子は腕時計を確かめた。長針の先が12の間にかかっている。五時ちょうどのバスの時刻まで一分もない。このバスを逃すと、次は一時間後だ。つるべ落としの秋の日が落ちるとたちまち肌寒くなる。そんな中で一時間もバスを待ちたくはない。
 涼子はスピードをあげた。走りながら腕時計に目をやる。針はさほど移動していない。時計に顔をむけるたびに足のスピードが落ちるので、時計を見ずに一目散にバス停へかけていった方がバスに間に合うのではないかと思うが、時計をにらみつければ時間が止まりそうな気がしてつい見てしまう。教科書のつまったリュックのせいもあって、思ったようにスピードがあがらない。
 いつもなら、五時のバスに間に合うよう、授業が終わったらすぐに教室を出る。時間割では四時半に終わる予定だが、何だかんだで授業が終わるのは四時半を少し過ぎる。専門学校からバス停まではゆっくり歩いても十分とかからないから、ちょっとした買い物を済ませても余裕で間に合う。
 しかし、今日は授業がいつも以上に長引いてしまった。栄養学のクラスで生徒が質問をした。涼子も気になっていた内容だったから耳を傾けているうちに、バスの時間が刻々と迫ってきてしまった。質問に対する講師の答えが長引くようなら諦めもついた。学校に残って次のバスの時間まで勉強でもするかと涼子はなかば覚悟を決めていた。誠の面倒は、母がみていてくれているから、今日は帰りが遅くなるとメールでもしておけばいい。
 だが授業は、急げばバスに間に合うかもしれないという中途半端な時間に終わった。間に合うかどうか、走っていってみようと涼子は教室を勢いよく飛び出したのだった。
 全力で走るのは何年ぶりだろう。日頃の運動不足がたたってすぐに息が切れ、足がもつれた。それでも気だけが急いた。
 早足と小走りを繰り返しながらバス停近くまで来ると、停車しているバスの後部が視界に飛び込んできた。バスを待つ人の列がない。どうやら客の全員を乗せて今にも発車しようとするところらしい。
 尽きかけていた体力をしぼりだし、涼子はバスにむかって駆け出した。背負ったリュックが背中を激しく叩いた。たちまち喉が渇いて、何度もつばを飲み込んだ。脇腹が刺されたように痛い。だが、バスを目の前にして乗り遅れるわけにはいかない。今日に限ってあの老婦人の姿が見あたらない。
 その老婦人は五時のバスに乗り合わせる客のひとりで、バスに乗る直前までベンチに腰掛けていて、ショッピングカートを引きながら、列の最後尾につく。顎が膝頭に付きそうなほど腰が折れ曲がっており、右足をひきずって歩く。ただでさえ体が不自由で動作が鈍いというのに、買い物でいっぱいのショッピングカートを引き上げようとするので、老婦人がバスに乗り込むまでにはちょっとした時間がかかる。バスに乗ってからも、無料パスをカバンから取り出して運転手に見せ、席に着くまで、ひとしきりかかる。その間、バスは決して発車しようとはしない。その老婦人が乗っている時のバスは五時の定刻通りに発車しないので、涼子は老婦人の緩慢な動作に苛立たせられた。
 しかし、今日に限っては、その老婦人が乗っていますようにと、バスにむかって走りながら祈っていた。老婦人が席に着くまでの二分、いや一分でもいい、わずかでも時間を稼いでくれたらひょっとしたら間に合うかもしれない。
 息せき切って乗車口にたどりつくと、ドアはまだ閉まっていなかった。きっとあの老婦人が席に着くのを待っていたのだろう。涼子は乗降ステップを駆けあがり、近くの空いている席に着いた。その途端、まるで涼子の到着を待ちかねていたかのようにバスが発車した。
 この時間のバスに乗る客はそうは多くない。まばらな客たちの間に涼子は老婦人を探したが、目立つはずの彼女の姿は今日は見当たらなかった。
 乗客は数えるほどしかいなかった。日が長くなってきたので、人々は帰宅を急がなくなりつつある。ただでさえ少ない乗客は、櫛の歯が抜けるように一人また一人とバスを降りていき、涼子が降りるバス低のはるか手前で、涼子はただひとりきりの乗客になってしまった。
 克弥の車内よりよほどスペースがあるというのに、圧迫感がひどい。はるかに離れた場所に座っている運転手の男の存在を、まるで隣の席に座っているかのように感じる。心臓が激しい動悸を打ち始めた。耳の底でどくんどくんと血の流れる音が鳴り響いている。
 都筑修一だろうか。
 修一と顔を合わせたのは、中学の卒業式が最後だった。やっぱり涼子を睨みつけて、何も言わなかった。別々の高校に進んだ修一とは、それきりになった。これで修一に睨まれないで済むと、正直言ってほっとしたものだった。
 嫌いなら嫌いで無視してくれて構わないのに、修一は涼子たちに付きまとっては涼子だけをじっとねめつけていた。涼子にしてみれば不愉快極まりない思い出だったので、修一の名前と顔を記憶から消し去ってしまった。真紀が何も言わなければ、修一は永遠に記憶の底深くに沈んでいたはずだった。真紀は、修一は実は涼子が好きだったのだと言ったのだった。
 もし、運転しているのが修一なら、まるきり知らない仲でもないし、話しかけたほうがいいだろうか。でも何って言って話しかけたものだろうか。やっぱり話しかけないほうがいいだろうか。
 そんなことを考えているうち、バスは涼子の降りるバス停で停まった。降車ボタンを押しただろうかなどと考える暇もなく荷物をつかみ、バスを降りようとした。その時だった。
 開いたバスのドアから何かが車内に転がり込んできた。誠だった。
「ママ!」
 誠は涼子にむかって一目散に駆けてきた。
「どうしたの?」
 膝にまとわりつく誠の手を取り、涼子は降車口に向かった。ドアの外には母が立っていた。
「ママを迎えに行くって言ってきかないからバス停まで来たんだけど、バスのドアが開いたらあっという間に乗っちゃって」
 母は運転席にむかって何度も頭を下げていた。
「マコちゃん、降りようか」
 そう言って誠の手を引いてステップを降りようとするが、誠は床に座り込んでダダをこねはじめた。
「ヤダ、バス好き。バス、乗る」
「そんなこと言ったって。また今度乗せてあげるから、今日は降りようか」
「ヤダー」
 涼子の手をふりきり、誠はあっという間に車内を駆けていき、一番後ろの席によじ登って窓の外を眺めていた。母に荷物を手渡し、涼子は慌てて誠の後を追いかけた。
「ごめんなさい、この子、バスが好きで」
 ぐずる誠を胸に抱きかかえ、涼子は運転席にむかって頭を下げた。
「そうか、バス、好きか」
 バスの運転手は修一だった。頭をなでながら誠に投げかけている修一の眼差しはとても柔らかかった。
「よし、それじゃ、乗っていくか!」
「うん!」
 誠は嬉しそうに何度も首を縦に振ってみせた。
「いいの、ここで降りるから。ね、マコちゃん、降りよう。ママ、おうちに帰りたい」
「ヤダ、バス、乗る」
 すっかりその気になった誠は、涼子の腕の中で手足を振り回して暴れた。
「他にお客さんいないし、どうせ終点まで行ってまたここに戻ってこないとならないから、乗ってていいよ」
 修一の申し出だが、涼子は気が引けた。何故だかわからないが、甘えてはいけないような気がした。それでいて、甘えたい気持ちもあるのが不思議だった。躊躇したのはほんの一瞬だったというのに、力の抜けた隙をついて、誠は涼子の腕をすり抜け、ちゃっかりと席に座って、両足をぶらぶらとさせていた。
「それじゃあ……」
 終点までは三駅しかない。母に事情を話し、すぐに戻るからと伝え終えると、二人を乗せたバスは発車した。

 誠は運転席のすぐそばの席に膝をつき、窓わくに両手をかけて車窓を流れる景色に見入っていた。普段散歩で見慣れているはずの景色だが、バスの中からだと違って見えるらしい。涼子も幼い頃、電車やバスに乗ると窓際の席に座ってじっと景色を眺めていたものだった。まるで万華鏡でも覗いているかのような景色の移り変わりが楽しかった。誠も同じであるらしく、時折、脚をばたつかせては、興奮した声をあげた。
「都筑くん、よね」 
 修一がうなずいてみせた。
「バスの運転手をしているのね」
「高校卒業してからだから……もう十五年か」
「十五年はベテランなの?」
「俺は若いほう。三十年とかざらだから」
 涼子と修一とはバックミラー越しに顔を見合わせて笑った。行き交う人もバスの乗客にも年寄りが目立つ町だ。
「そういえば、辰雄が今度結婚するの、知ってる?」
「ええ、母から聞いたわ。ここでは誰も知らない事なんて何もないもの」
 きっと自分の離婚のことも修一の耳に入っているに違いない。出戻ってきた負けた女、そんな風に思われているかもしれないと思うと、気が沈んで、口が重くなった。察したかのように修一もそれきり口をきかなくなった。車内には、誠のはしゃぐ声だけが響き渡っていた。
 終点につくと修一はエンジンを切って、運転席から出てきた。
「誠くん、運転席に座ってみるか?」
 とたんに誠の顔が電気でもつけたみたいに明るくなる。誠の笑顔につられて修一も笑った。修一の笑顔を見たのはこれが初めてだった。思い出の中の修一の顔はいつでも仏頂面だった。
「いいの?」
「エンジン切ってあるから大丈夫。俺の膝の上に乗せるだけだから」
 そう言うなり、修一は誠の体を軽々と抱き上げ、運転席に戻った。
 修一の膝の上に座らせてもらった誠は、運転手になった気で大きなハンドルに手をかけ、ブーブーとエンジン音を真似ていた。
「同窓会、来てなかったね」
「小さな子どもがいるとなかなか夜出歩けなくて」
「来るかなって期待してたんだけど。小原がこっちに戻ってるってみんな知ってっから、どうしてんのかなって話しててさ」
 修一と、バックミラー越しに視線があった。先に目をそらしたのは涼子の方だった。
「辰雄の奴、ちゃっかり嫁さん連れてきててさ。あ、まだ結婚してないから嫁さんじゃないのか。あいつにはもったいないくらい、いい子でさ。俺らにってクッキーやいて持ってきてくれたんだよ。それをあいつ、味がわかんない野郎には食わせないって全部、自分で食いやがってさ」
 かつての放課後の光景と変わらない騒ぎっぷりが目に浮かぶ。あの場所から自分だけは遠くへきてしまった。懐かしさよりも寂しさで胸が切なくなった。
 修一は延々と同窓会の様子を涼子に語って聞かせた。修一はこんなにしゃべる人だっただろうか。大輔と三人で連れだっていても、しゃべるのは涼子と大輔だけで、修一は口が重かったように覚えている。そして涼子を睨みつけてばかりだった。三人で並んで歩いている時も、修一ひとり、うつむき加減で、たまに涼子が話しかけてもぶっきらぼうな返事しか戻ってこなかった。頬を紅潮させながら、しゃべりたてる修一があの当時の修一と同じ人物とはとても思えない。見知らぬ人を見る思いで、涼子は修一の赤い頬を見つめていた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 8

 「今度、ブーブーをあげるからな」
 別れ際、修一はバスを降りたがらない誠をそう言ってなだめた。その約束は一週間後に果された。
 涼子は五時のバスに乗った。ステップを上がっていきながら、運転席の修一と目があった。言葉は交わさず、会釈だけをして席に着いた。降りる時、修一から紙袋を渡された。紙袋はずしりと重かった。
「これ、この間、誠くんに約束した車のおもちゃ。俺が子どもの頃に使っていたものなんだけどさ。気に入ってくれるといいけど」
 紙袋の中身は、ラジコンやミニカー、電車のおもちゃなどだった。誠が特に気に入ったのはラジコンのダンプカーだった。コントローラを扱うことはまだできないので、ダンプカーだけを手にして走らせたり、荷台に庭の土を入れては落とす、落としてはシャベルですくった土を入れるを飽きずに繰り返していた。
 庭いじりの好きな父は、誠のために庭の一角をほりかえし、小さな工事現場をあつらえた。本物の工事現場のように何か所かに盛り土があり、その間をダンプカーを走らせることができる。掘り返した時に出てきた小石だけの小山もある。誠は服も手足も土だらけにして一日中、“工事現場”に入り浸っているらしい。らしいというのは、昼間は学校にいるので、母から聞いた話だった。
「飽きないのかしら」
「好きみたいよ。お父さんがトンネル作って、電車のおもちゃを通らせたりしてみせたけど、まるっきり興味みせなかったんですって」
 父の奮闘ぶりを想像し、涼子は思わず微笑んだ。
「車に興味があるのかしら?」
「そうみたいね。それも大きなもの、ダンプカーとかショベルカーとか、働く車が好きみたいよ。魚屋さんとこ、今リフォームしているでしょ。いろんな大きな車が出たり入ったりしているのを、ずっと見てるわよ」
 一軒隔てた藤山家では、辰雄の結婚にともない、二世帯住宅に改築中だった。
「バスも好きよ」
「バス?」
「散歩していても、バスが通りかかると立ち止ってじっと見てるわよ。あなたが降りてくるって思っているんじゃないのかしらね。夕方の散歩だとバス停まで行くってきかないの。ママは遅くなるって言っても、子どもだからわからないのね。十分ぐらい付き合って、あなたが帰ってこないとわかるとやっと諦めるのよ」
「そうなの、知らなかった」
「そうでしょう。あなた、この頃、夜遅いから、話す機会もなくて」
 母はそう言って、お茶うけのキャベツの浅漬けをかじった。
「勉強が忙しいのはわかるけど、少しは誠にも目を向けてちょうだい。子供って一日、一日、成長していくのよ。それを見てあげられないのは、母親としてどうかと思うわよ」
 うん、と涼子は力なく頷いた。
 母は克弥との関係に気づいている。送ってもらう時は、車のエンジン音が聞こえない場所で降ろしてもらっているが、母親の勘か、女の勘か、母は男の存在を嗅ぎ取っていた。

「子どもとの時間を大事にしたい」
 そう言うと克弥はあからさまに不満げな顔をしてみせた。勉強も忙しくなるし、就職活動も考えないといけない。
「まったく会えないわけじゃないんだから」
 そう言うとようやく克弥は現実を受け入れた。こちらの子どもの機嫌を取るのも一苦労だった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 9

 それまで夜中近くまで帰ってこなかった母親が、夕方、自分が起きている間に帰ってくるようになったとあって、誠は大はしゃぎだった。帰ってくるなり、膝にまとわりついて離れない。土日も部屋にこもって勉強しようものなら、ドアの付近を行ったり来たりして、集中力がそがれた。それでも愛おしさが勝った。
 誠は一分、一秒の速さで成長を遂げていく。昨日できなかったことが、今日には出来ている。不安定だった足取りも、この頃ではしっかりとしてきて、全力で駆け寄ってきて膝にぶつかられるものなら、青あざができる。好奇心の塊で、目に入るもの何にでも興味を示す。毎日、何かが誠のなかで弾けては形を成し、再び弾けては別の形のものになる。誠の成長ぶりは毎日みていても飽きなかった。
 そのうち、誠の方が母親の存在に慣れてきてしまい、帰宅しても家にいてもあまりまとわりつかなくなった。
「希少価値がなくなったみたい」
 母に愚痴をこぼすと、お母さんベッタリでマザコンになるよりマシじゃないのと返された。
 誠のバスへの興味だけは薄れなかった。
 週に三日、火曜から木曜まで、涼子は五時のバスに乗る。運転手は修一だ。母は誠を連れてバス停まで来る。他に乗客がいなければ、誠を乗せ、バスは終点まで行って折り返してくる。
 バスに揺られている間、涼子は修一とたわいもない会話をして過ごす。話題は誠のことが一番多く、次は涼子自身についてだ。修一は黙って涼子の話に耳を傾ける。中学時代の無口な修一に戻ってしまったわけだが、嫌な感じはしない。
 涼子のことを根掘り葉掘りたずねない修一といるのは心地いい。どうして離婚したのか、今はひとりでいるのか、これからどうしていこうというのか――何も聞かない修一が唯一尋ねたのは、涼子の重そうなリュックについてだった。栄養士になる勉強をしているといって、涼子は教科書を取り出してみせた。教科書の厚みと字の多さに、修一は目をぱちくりさせ、勉強は得意ではなかったし、今から何かを勉強しても頭に入らないと苦笑いを浮かべた。そう言いつつ、涼子が学校で習ってきたことを話すと面白がって聞いている。涼子も、修一に語って聞かせるのが楽しくて、修一の運転するバスに敢えて乗る。

「今度の週末、お焚きあげだけど、よかったら一緒にいかない?」
 バスを降りようとした時だった。修一の声が背中から追いかけてきた。エンジン音にかきけされまいと張り上げた声は震えていた。
「誠くんも一緒に。どうかな」
 付け足すように修一は言った。振り向きざまに頷いてみせ、涼子はバスを降りた。母に連れられて迎えに来ていた誠が足にしがみついてきた。
 老婦人の客を乗せたバスはその先のバス停へとむかって走りだした。心なしか、バスの後部が左右に揺れて見えた。浮かれてスキップでもしているようだった。
 お焚きあげとは、地元の人間がそう呼んでいるだけで、本来は神社のある山の名を冠したS…の火祭りと言う。毎年七月の下旬になると催される祭りで、S山の山頂で焚いた火で無病息災を祈願する。麓の公民館のあたりには屋台や夜店が出るので、子どもの頃、よく行ったものだった。地元に戻ってきて二年、祭りが行われているのは知っていたが、足を向けなかった。
 涼子は脛にしがみついている誠の頭をなでた。幼稚園や散歩で行く近所以外の外の世界を誠は知らない。お祭りに行くとなったら、きっと誠は大喜びするだろう。涼子自身の胸もまた、期待で高まった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 10

 けばけばしい佇まいの夜店が軒先をぶつけるようにして居並び、どこからともなく漂ってくる醤油の焦げるにおいに食欲は誘惑される。行き交う人々の笑い声と、客引きの声とが星のまたたく夜空に響き渡る。
 生まれて初めての祭りに、誠は興奮していた。人混みの中を走り抜けていこうとして危なっかしいので涼子と修一とで誠の手を握っているのだが、誠はお構いなしに二人を引きずるようにして前へ前へと進んでいく。
 何も知らない人間がみたら、祭りを楽しんでいる親子に見えるだろう。誠も一緒にと誘われた時、正直言うと涼子はがっかりしたのだった。考えてみれば、修一と二人きりでどこかへ出かけるといったことは今まで一度もなかった。
 中学時代、修一とはいろいろな場所へ出かけた。映画館や遊園地、公園などに行ったが、いつも大輔と三人でだった。涼子が大輔を誘ったにしろ、大輔から誘われたにしろ、どこに行くのにも、修一がついてきた。
「昔さ、三人で祭りに来たことがあったよな」
「山下くんとでね」
 祭りのデートでも修一が一緒だった。どうしてついてくるのと苛立ったのを思い出して涼子は苦笑いを浮かべた。興奮しすぎて疲れたのか、修一の背中におぶられた誠はスヤスヤと寝息をたてている。
「大輔のやつ、小原と二人きりだと緊張するからついてきてくれって言ってさ」
「そうだったの」 
「あの日、祭りの日、浴衣着てきただろ。白地に薄紫の朝顔の模様が入った大人っぽい浴衣でさ。髪を上げてて、うなじが見えて、すごくドキドキした」
「そうだったかな」
 涼子が覚えていない柄を、修一は鮮明に記憶していた。
「山から下りる途中で、二人でどこかへ消えただろ」
 その出来事ならよく覚えていた。
 山頂のS神社で焚かれた火で無病息災を祈った後、参詣者は火を移した松明を掲げて山を下る。まだ幼い誠が歩くにはきつい傾斜があるため、今回は麓で夜店めぐりをして楽しむだけだが、山に顔を向ければ、参詣者が織りなす松明の列が闇を切り裂いて山腹を駆けおりていくさまが目に入る。
 あの夜、修一は涼子たちの少し後ろを歩いていた。足元を気遣っているうち、涼子たちは修一とはぐれてしまった。
「つまらなさそうにしてから先に帰ったんだと思ってた。山下くんも、多分そうだろうって言ってたし」
「そうか、大輔のやつ」
 鼻頭に皺を寄せ、修一は足元のアスファルトを蹴りつけた。
 山を下りた涼子と大輔は二人きりで夜店をめぐり、その帰り道、涼子はファーストキスを体験した。
「今だから言うけどさ、俺、小原が好きだった」
 思わず足を止め、修一の横顔を見上げた。後ろを歩いていた若い男が急に止まるなよと文句を言い、通り過ぎていった。
「大輔と付き合いだす前から好きだった。だから、大輔から小原と付き合うことになったって聞いてすごく嫉妬した。デートなんかしたことないからついてきてくれって頼まれてさ、行ってやるもんかって思ってたけど、小原に会えると思うと嬉しくて、くっついて回ってた」
「私、てっきり都筑くんには嫌われてると思ってた。だって、私のこと睨んでばっかりだったじゃない。いつも不機嫌で、きっと三人でいるのが楽しくないんだなって」
「そりゃ、楽しくはなかったよ。目の前で好きな女が他の男と一緒にいるのを見せつけられるんだから。それでも一緒にいればいつか奪うチャンスはあるかもって思ってた」
「怖いわね」
「バカだったな。色目でも使えばよかったのにさ。きっとすごい顔で小原を見てたんだろうな。だから嫌われたんだな」
 修一は乾いた笑いを漏らした。どうやら、涼子への思いは過去のものとして区切りをつけてしまったらしい。「好きだった」と、修一は過去形を用いた。だが、それならあの視線の意味は何なのか。
 涼子と修一とは再び並んで歩き出した。夜店を抜けると人の数が次第に少なくなっていく。駐車場へと向かう道のりを、涼子はゆっくりと歩き、修一は涼子の歩みに合わせていた。
 「好きだった」――修一の言葉を、胸の内で反芻してみる。真紀から伝え聞いて修一の気持ちは知っていた。だが、過去の気持ちの告白とはいえ、本人の口から聞いたとあって、胸に漣が立った。
「どうした?」
 ふいに足を止めた涼子にあわせて修一が立ち止った。涼子は顔を上げた。
「今は――」
 どう思ってくれているのかと続けようとした言葉は、思いがけない人物の登場によってさえぎられた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 11

「そういうことかよ」
 開口一番、克弥は吐き捨てた。
「そういう事って何」
「ごまかすなよ。他の男と遊んでたんだろ」
 克弥の語気が一層荒くなった。涼子はケータイを耳から遠ざけた。祭りから戻って誠を寝かしつけるなり、克弥に電話をかけた。すぐには繋がらず、夜中近くになってやっと電話に出たかと思ったら、克弥は真っ先に自分の怒りをぶつけてきた。
 会って話そうかと思っていたが、考え直してケータイを手にしてよかったと胸をなでおろした。同じ部屋で寝ている誠を起こさないようにと静かに話そうとする分、冷静でいられる気がする。疲れが出たのか、誠は少し熱を出していた。
「中学の時の同級生だって言ったじゃないの」
 祭りの会場のはずれで出くわした克弥に修一を紹介した時と同じ台詞を繰り返した。言い訳でも何でもなく、修一は元同級生でしかない。
「どうだかな」
「そっちこそ、どうなの? 恵美ちゃんと付き合ってるの?」
 克弥は山谷恵美を連れていた。涼子たちに気づいたのは恵美が先で、声をかけてきたのも恵美だった。涼子は、修一に、学校のクラスメートだと言って二人を紹介した。
「祭りに誘われただけだって。何もないよ」
 どこかで聞いたことのある台詞た。顔色はうかがい知れないが、面と向かって話していたのなら克弥は涼子とは目を合わせようとしなかっただろう。
 浮気を問いただした時、雅弘は誘われて食事に行っただけと言い、あらぬ方向に目をむけていた。はじめのうちこそ関係を否定してみせた雅弘だったが、そのうちに開き直った。
 雅弘の浮気相手は、部下の女だった。雅弘が結婚していると知っていながら雅弘に近づいた。雅弘の主張するように女から誘ってきたのだとしても、断るべきだった。それなのに雅弘は女の誘いを受けた。断ることができなかったのではなく、断らなかった。女を拒否する意思がなかったのだ。その時、涼子は誠を妊娠中だった。
「俺、涼子とのこと、真面目に考えてた――」
 うってかわったように克弥はしんみりとした口調になった。
「真面目にって何」
「涼子の子どものこととかもちゃんと考えてたんだ」
 思わず吹き出しそうになり、涼子は口を押えた。芝居をするならもっとうまくやってもらいたいものだ。
「いつか涼子の子どもにも会いたいって思ってたし。将来のことも俺なりに考えてたんだ」
 克弥は言外に結婚をにおわせた。逃げていきそうな女を引き止めようとして思いついた策だろうが、子持ちの女なら結婚を軽々しくは口にしないだろうと踏んで涼子と付き合っていた克弥にその意思はないだろう。
 バカにしている。今度は怒鳴りつけたい気持ちを抑えようと口を覆った。寝返りをうった拍子にずれた誠の毛布をかけなおす。熱が下がらないようで、誠は苦しそうな寝顔だった。
「将来って結婚するってこと?」
 克弥は返事をごまかした。
「私と結婚するということがどういうことかわかってる? 私の子どもの父親になるってことでもあるのよ。父親になるってどういうことかわかってるの?」
 低く押し殺した声で、涼子は矢継ぎ早にまくしたてた。
「あいつは、わかってるっていうのかよ」
 ふてくされたように克弥がつぶやいた。
「肩車なんかしちゃってさ。仲のいい親子みたいだった。子どもも懐いているみたいだったし」
「彼はただの幼なじみだって何回――」
「父親、父親っていうけどさ、そっちは母親としてどうなの。ちゃんと母親らしいことしてやってんのかよ。朝から晩まで学校通いで、空いた時間は男と遊んでてさ」
 克弥が目の前にいたら頬を張るぐらいはしていただろう。電話を切ってからも胸のむかつきがおさまらなかった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 12

誠の熱は翌朝になってもひかなかった。発疹があったので、医者へ連れて行ってくれと母に頼み、朝一番に診察券だけを置いて自分は学校へとむかった。その日から前期の試験が始まる予定になっていた。
「誠くん、どう?」
 帰りは修一の運転するバスだった。
「発疹が出たから、今朝、母に頼んで近くのお医者さまに診てもらってる」
「発疹か。もしかしたらはしかかな」
「初めてのお祭りで、疲れたんだと思う。子どもってちょっとしたことで熱を出すから」
「お大事に」
 修一と別れ、家路を急いだ。いつもなら転がり出てくる誠の出迎えがないのをさびしく思いながら玄関をあがった。
「ただいま。誠は?」
 靴をそろえるのももどかしく、涼子はバタバタと居間にむかった。
「お薬飲んで、今寝てるわよ」
 涼子の夕食の準備をしている母が台所から顔をのぞかせた。生姜の匂いが強く鼻をつく。
「ちょっと顔みてくる」
「すぐ夕飯だからね」
 誠の寝ている布団のすぐ脇に座り、起こさないようそっと誠の額に手を当てた。薬が効いているのか、昨日よりは熱が下がっているようだ。布団のはじからはみ出している手を布団の下にそっと戻してやる。熱のせいでむくんだ手の甲にはポツポツと赤い斑点が浮いていた。
「お医者さまは何て?」
 生姜焼きを口に運びながら、涼子は母に報告を求めた。
「はしかだろうって言うんだけどね……」
 母は奥歯に物の挟まったような言い方をした。
「他に何があるの?」
「なんだかねえ、今度の熱はいつもと違う気がするのよ」
 誠はよく熱を出した。はしゃぎすぎた疲れが出たり、走り回っていたと思ったら突然電池が切れたように動かなくなったりするが、大抵は翌日にはケロリとしている。誠が熱を出すたびにオロオロする涼子に対し、母は子どもはよく熱を出すものだと言ってゆったり構えていた。その母が、そわそわと落ち着きがない。
 母の微かな不安が伝染し、食欲のなくなった涼子は箸を置いた。
「お医者さまがはしかって言うんだから間違いないでしょ」
「そうよねえ……」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 13

 母の不安は的中し、夜中近くになって誠は高熱を出した。全身にひろがった発疹をかきむしりながら転げまわり、布団のシーツは血だらけになった。涼子は両親を叩き起こし、父の運転する車で市内の総合病院の救急に駆け込んだ。
 当直医は若い男性だった。誠を見るなり、川崎病の疑いがあると言った。聞き慣れない病名だった。医者は簡単に病気と治療法について説明した。ぼんやりした頭で、血管が炎症を起こす病気であること、心臓の血管に異常が発生した場合には命の危険があること、後遺症の残る可能性があることなどを聞いていた。
 その後は、いろいろな書類にサインさせられた。入院手続きの書類、治療に血液製剤を使うので同意書など。そのたびに説明を聞かされたが、細かい点は何ひとつ理解できずに言われるままにペンを走らせた。
 誠と付き添いの涼子の着替えや必要なものを母に持ってきてもらい、ようやく一息ついた頃には午前三時を過ぎていた。
 身も心も疲れきっているはずなのに、涼子は寝付けなかった。
 医者への不信感はぬぐえない。はしかだと思っていたのが川崎病と言われたのだ。川崎病と言われたのがはしかかもしれない。医者も人間である以上、間違いを犯す。ならば、二度目の診断こそが間違いであってほしい。
 涼子は当直医にむかって「はしかじゃないんですか」とくってかかった。簡単に聞いた説明だけでも、川崎病がはしかより重い病気だとはわかったからで、はしかであってくれと祈るような気持ちもあった。
 点滴をされながら眠る誠を横目に、涼子はケータイのスイッチを入れた。暗闇の中で光を放つスクリーンの向こうに希望を求める。
 インターネットの世界に氾濫している情報は、医者から聞いたものとほぼ同じだった。高熱、発疹、手足のむくみ、イチゴ舌と言われる真っ赤になった舌……誠の症状も川崎病に特有のもので、誤診の可能性はなくなった。
 夜明けまでには、川崎病について一通りのことは知り尽くしてしまった。川崎病とは、地名の川崎とは何の関係もなく、発見者の川崎博士の名をとってつけられたこと。発見されたのは比較的最近で、幼い子どもに多くみられる病気であること。当直医の言った通り、何らかの原因で(原因についてはいまだ解明されていない)全身の血管が炎症を起こしてしまうこと、そのため動脈硬化などを起こしやすく、心筋梗塞を起こせば死に至る場合もあること。
 「死」という字を見た瞬間、全身から血の気が引いていった。誠を失うかもしれないと思うといてもたってもいられなくなり、誠の枕もとに顔をよせ、においを嗅いだ。皮脂のにおいがいつもより強い。二日も風呂を使えなかったからだ。
 祭りではしゃいでいた二日前がずい分と昔のように感じられる。あんなに元気だったのに、死んでしまうなんてことがあるのだろうか。
 熱を出したその日のうちに医者に診てもらっていれば、その分治療も早く開始できたはずだった。
 克弥の声がよみがえる。
 最低な母親だな――
 克弥と遊んでばかりいたから、誠が目に入っていなかった。面倒を見ていた母は、誠の発熱がいつもとは違うと気づいたではないか。
 自分は母親失格だ――
 涼子は声を殺して泣いた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 14

 涼子が知らなかった川崎病を、真紀は知っていた。
「看護師だもん、知ってて当たり前か」
「看護師でも知らないことはいっぱいあります。たまたま幼稚園の知り合いに川崎病の子がいたから知ってるだけ」
 誠の入院からすぐに涼子は真紀に連絡を取った。看護師をしているからということは二の次で、頼りになる人間は真紀しかいなかった。
「来てくれてありがとね」
 夜勤明けだというのに、留守電のメッセージを聞いた真紀はその足で誠の病室に駆けつけてくれた。大部屋の窓際のベッドで、誠は薬が効いて、おとなしく寝ている。午前中だというのにすでに刺すような威力の陽ざしがカーテン越しにさしこんでいる。今日も暑くなりそうだ。
「心臓の血管に瘤が出来たりしたら、命にかかわるかもしれないって……」
 それまで淡々と入院までの経緯や医者から聞かされたことを語っていた涼子の唇がわなないた。全身の震えをとめようと、潰しかねない勢いで両手でペットボトルを握りしめた。真紀が差し入れてくれたペットボトルのジュースだ。他にも、菓子や本、水を使わないでも髪の洗えるシャンプーなど、24時間付き添いの涼子を気遣って細々したものを真紀は持ってきてくれた。
「まだ瘤が出来たわけじゃないでしょ」
 真紀は震える涼子の手にしっかりと自分の手を重ねた。そのぬくもりに涼子は泣き出しそうになった。
「でも、もしそうなったら」
「そうならないよう、治療しているの。最悪の事態を考えるのは医者の仕事。そうなったらそうなったで解決を試みるのも医者の仕事。しっかりしなさい、涼子。あなたは母親なのよ。母親が弱気になっていたら誠くんだって不安になるでしょ」
 口ではそう叱咤激励しながらも、真紀は、泣き出した涼子に肩を貸してくれた。人目をはばからず、涼子は声をあげて泣いた。誠が起きてしまうかもしれない、他の患者に迷惑かもしれないと思いながらも、嗚咽はとめられなかった。泣き続ける涼子の頭を、真紀は母親のように撫で続けていた。
「私、母親失格だわ」
 涼子は真紀の肩に頬を埋めたまま、つぶやいた。真紀の体からはほんのりアルコールの匂いがした。病院のにおい、医者たちの体臭。清潔な死の香り。
「熱が出た時、私はいつものちょっとした発熱だと思ったの。でも、母は異常を感じていた。いつも誠をみているから、何か違うってわかったのね」
「涼子は学生で忙しいんだから、誠くんにべったりというわけにはいかないでしょ」
 真紀の肩から顔をあげ、涼子は姿勢を正した。
「私、誠をほったらかして男と会ってたの。彼も同じ学校の生徒。最低よね。勉強しに行ってたんだか、男に会いに行っていたんだか。私、母親であることよりも女をとったのよ」
「それのどこが最低なの」
 はっとして見た真紀の顔は笑ってさえいた。
「母親だって恋愛したっていいじゃない。涼子は独身なんだから」
 庇ってもらったはずの涼子は咎めるように真紀を見据えた。
 悪い母親だから罰として誠が入院するはめになった。反省しているという態度でいれば赦されて誠は元気になるのではないか。そんな風に考えている涼子は、真紀の言葉に救われてはならなかった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 15

 責めてくれたほうがいっそ気が楽と言わんばかりの涼子にむかって、真紀は大きなため息をついた。
「わかってる。世間は、まだまだ、母親が女として恋愛することにいい顔はしないのよね。滅私奉公じゃないけれど、100パーセント子どものために生きることを強いるもの」
「子どもには母親が必要よ」
「いい母親がね。四六時中一緒にいるからっていい母親とは限らないし、仕事や何かで家を空けがちだからといって悪い母親とは限らない。要は、子どもとどんな関係を築いているかということでしょ。愛されているという自信を与えることが一番大切なのよ。涼子は誠くんを愛しているでしょう」
 涼子は大きく頷いた。何を失っても誠だけは失えない。苦しむ誠と出来るなら変わってやりたいとさえ思う。それができないもどかしさが胸をしめつける。
「男にかまけているのは、たとえ子どもを愛していてもいい母親とは言えないと思うけど」
「そうね。世間はそう言うわね。それじゃ、夫にかまけているのはどうなのかしら。私たちは独身の母親だから男となるけど、結婚している母親は? 夫にかまけていても何も言われないでしょう。それはどうして」
 涼子は言葉に詰まってしまった。雅弘にかまけていなかったから、離婚という結果になったのだ。
「確かに、女の一生では母親として子どもと密着する時期があるのは認めるわ。でもだからといって、女を捨てろと言われるのはひどいと思わない? 子どもはいつか離れていくもの。そうなった時、私たちに残っているものは何? 結婚していない私たちには何もないの。いきなりひとりきりで、子育てしていた時間よりずっと長い時間を過ごすことになるのよ。そうなってから人生のパートナーをさがそうたって、女としてはもう盛りを過ぎている。悲しいけど、これが現実よ。年老いてひとりきりにならないよう、今のうちに恋をして、人生のパートナーをつかまえておかないといけないの。子育てして、恋をして、仕事をして。女はね、忙しいのよ」
「真紀、付き合っている人がいるのね?」
 二歳年下の、病院の出入り業者だと真紀は言った。
「浩介くんは何と言ってるの? 真紀の彼のこと」
「嫌がってる。女である前に母親だろって。まるで女であることが汚らしいみたいな言い方をするわ」
「確か十五歳よね。多感な年ごろだわ」
「母親に性を感じるのが嫌なのね」
「男の子だからじゃない? 真紀が恋人のようなものだから、人に取られたような嫉妬のような気持ちがあるのじゃないかしら」
「自分は男ですらまだないのに、一人前の男と張り合おうなんて十年早いわ」
 憎まれ口を叩きながらも真紀の頬は緩んでいた。子どもの成長が嬉しくて仕方ないのだろう。同時にさびしそうな口ぶりでもあった。親離れはすぐそこまで近づいている。誠の成長に目を細める日がいつかは来るのだろうか。そうであってほしいと、涼子はむくみと発疹のひどい誠の小さな手を握った。
「真紀の言いたいことはわかる。子ども中心の生活は、子どもにとっても重荷でしかないから、子どもだけの人生を送るなってことだろうけど、私の場合、彼とのことは恋愛ですらなかった。体を重ねるだけの関係。本当に遊びだったの」
 克弥とは喧嘩別れのような形で終わったが、涼子は何の痛みも感じていなかった。恋愛はミックスドロップを舐めているようなものだ。甘いドロップばかりではない。涼子は薄荷味が苦手で甘いドロップを舐めつくした最後には薄荷味のドロップばかりが残った。恋愛の終わりは、仕方なく最後に舐める薄荷の味がする。冷たくて苦い、出来たら口にはしたくないもの。だが、克弥との恋愛の終わりに薄荷の味はしなかった。全部が甘いだけのドロップ。甘味だけの単調さに飽きただけだった。
「それも恋愛のひとつじゃないの? パートナーの探し方はいろいろよ。涼子は必要としているパートナーがどんな人なのか、わかっていないのじゃない? だから今回は間違えた。彼とは?」
「もう終わったわ」
 克弥は、涼子が修一と付き合っているものだと勝手に誤解していた。勝手に腹をたて、勝手に涼子を悪い母親だと決めつけた。何もかも、自分勝手だった。ふたりとも別れるとは口にしなかったが、少なくとも涼子は今後一切付き合うつもりはなかった。
「涼子。恋愛しなね」
 真紀の言葉に涼子は微笑み返すのが精いっぱいだった。
「誠くんのこと、遠藤さんに連絡しないとね」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 16

 一回り年上の雅弘とは社内恋愛を経て結婚した。交際にしろ結婚にしろ、積極的だったのは雅弘の方だった。営業部で三十過ぎて独身だった男性社員は雅弘だけだった。
 見た目だけなら雅弘は若く見えた。若作りというのではなく、童顔な造りのせいで、年を聞いた涼子は驚いたものだった。黙っていれば十は若くみえる雅弘は、しかし口を開けばしっかりした話し方に年が垣間見えた。
 付き合っていた間、年齢差は笑い話だった。夢中になっていたテレビ番組が違う、好きなアイドルも聴いていた音楽もお互い知らないものが多かった。涼子が小学生の時には雅弘は大学生になっていたわけで、そう考えると、年齢差が重くのしかかってくる。子どもの頃と大人になった今では年の感じ方が違うと言って、雅弘は数字の年齢差をとやかく言われるのを嫌った。
 雅弘の話題についていけなかったことも多かったが、自分の知らない世界を教えてもらっているという気分で当時の涼子は世代間のギャップを楽しんでいた。年上の男性ならではの包容力があると思っていたのもこの頃だ。実際は涼子を子ども扱いしていただけだと分かるのはもっとずっと後になってからだった。
 今なら、と、独身の友人たちを横目に涼子は考える。分別のついた今なら、雅弘を伴侶になど選びはしない。
 雅弘は考える力の欠けた人間だった。思いやりと言い換えてもいいかもしれない。常に自分の考えが一番だと思い込んでいた。涼子がまだ働いていた結婚当初、共働きだというのに雅弘は一切家事を手伝わなかった。疲れた体にムチうち、夕食の仕度をする涼子にむかって、簡単なものでいいと言う。簡単なものとはいえ、料理の作業そのものはしなくてはならない。涼子の負担はあまり変わらない。それでも、雅弘としては涼子を思いやったつもりなのである。料理しなくてすむよう、外食にしようだとかそういうことには考えがまわらない。
 掃除にしても洗濯にしても同じだった。疲れているだろうからやらなくていいと言うが、だからといって自分が掃除するなり洗濯するなりするわけでもない。結局、涼子がするはめになる。
 そうした小さなことを積み重ねて耐えかねた涼子が腹を立てると、雅弘が逆に腹を立てた。家事を無理強いしているわけでもないのに何の文句があるのかというのだ。自分の立ち位置からしか物を考えられず、決して涼子の立場に立って考えようとはしなかった。
 二人三脚で歩んでいくという考えもなく一人勝手なペースで走る雅弘を追いかけるようにしていた結婚生活だったから、雅弘の浮気がなくてもいずれ離婚という結末をむかえただろう。
 離婚後も、雅弘とは連絡を取っていた。月に一度は誠に会わせて欲しいと言われていたからだが、誠に会いたいという連絡が雅弘から来たことは一度もない。涼子の方から気を利かせてメールで連絡するが、あればいい方の返事は大抵は仕事が忙しいといった内容だった。
 女との付き合いが忙しいのだろう。風の便りに、再婚するような話を聞いていた。女は涼子の一歳下、雅弘にしてももう若くはない。縁を切った人間のことだから何をしようと当人の勝手だが、誠の父親には違いない。
 涼子は誠について簡単に事情を説明したメールを送った。返事は三日後だった。すぐに見舞いに行くとあった。雅弘が誠の病室にやってきたのはそれから三日後だった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 17

 久しぶりに雅弘に会った印象は老けたというものだった。垂れ目がちの目はますます目じりが下がり、その目じりには皺が刻まれている。小ぶりで形の美しい唇の脇にはかすかに法令線がみてとれた。十歳は年をとったようだった。若く見られがちな雅弘だから、十歳も老けこんで見えたのなら四十過ぎの年相応なのだが、涼子は違和感を覚えた。
 雅弘を思い出す時に浮かんでくるのは出会ったばかりの頃、三十過ぎても少年の面影を残した顔であるせいもあるかもしれない。短い結婚生活の間、雅弘の顔を見ていなかったということなのか。雅弘は、付き合い始めた当時、好んでよく着ていたサーモンピンクのポロシャツに麻のジャケットを合わせていた。
「来てくれてありがとう」
 誠は父親に会えて喜んでいた。入院という非常事態でもなければ会いに来なかった雅弘でも、誠にとっては父親ではあるのだ。複雑な思いで無邪気に喜ぶ誠を横目に、涼子は雅弘が見舞いにもってきたクマのぬいぐるみを枕元に置いた。
「転院させられないの? 病院が東京ならもっと簡単に見舞いに来れるのに。今日はこっちに来るのにわざわざ休暇を取ったんだ」
「やたらと動かしたりしたらいけないのじゃない」
 両親や、いろいろと世話してくれる真紀のそばを離れての東京での付き添いは涼子にとってかえって負担になるとは雅弘には考えもおよばないことらしい。東京の病院に転院できたところで雅弘が毎日見舞いに来るとは到底思えない。
 涼子は、誠について、川崎病について一通り説明した。間に差し挟まれる雅弘の質問にも淡々とまるで医者のような態度で答えた。雅弘が引っかかったのは、後遺症の動脈瘤と心筋梗塞を起こす可能性についてを話した時で、涼子も同じ話を医者から初めて聞いた時、背筋が寒くなったのを覚えている。
「心筋梗塞って、大人の病気じゃないのか。子どもがなるものじゃないだろう」
「そういう病気なのよ」
 苛立たしさを隠さずに涼子は言った。
「それで、その心臓にできる瘤ってのはどうなんだ」
「まだ瘤が出来ているかどうかはわからない。検査しないと」
「検査してないのか?」
「今はとにかく熱を下げないといけないのじゃない」
 誠の熱はしつこく、涼子を不安にさせた。
「瘤が出来たらどうするんだ」
「瘤の中に血栓ができやすくなるし、血流も悪くなるから、手術で何とかするのじゃないかしら」
「それじゃ、瘤が出来てから、出来てるかどうかの検査なんて後手もいいところじゃないか」
「そうならないよう、治療しているのよ」
 涼子は、血流を促進するために血液製剤を用いた治療を行っていると説明した。血液製剤と聞いた途端、雅弘の顔が歪んだ。
「血液製剤って、エイズや肝炎なんかで問題になったあれだろ」
「ええ。肝炎やエイズに感染したっていう報告例はないけれど、そういう問題があるから使用同意書にサインしてくれって言われたわ」
「サインしたのか?」
「したわよ。他にどうすればよかったっていうの」
 涼子の苛立ちを読み取ったかのように、誠が不安げに涼子の顔を見上げた。夜中に起き出し、夫婦で離婚について話し合っていたところに出くわしてしまった時と同じ表情をしていた。当時と同じように、涼子は即座に笑顔を作ってみせた。
「信用できないな。所詮、田舎の病院、医者だ。万が一、手術ってことになって対応できるのか? 転院、できないものなの?」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 18

 雅弘の見舞いから一週間後、心臓エコー検査結果が出た。最悪な結果を、涼子は身じろぎひとつせずに医者から聞いていた。男にかまけていた罰として誠が病気になったのなら、最悪のシナリオが涼子のために用意されている。どこかでそうなるような予感があった。
 誠の心臓の血管壁には瘤が出来ていた。
 涼子は雅弘に連絡を取った。検査結果が出たら知らせてほしいと頼まれていたからだった。結果を聞いて、雅弘は黙りこんでしまった。今後の治療などについて、涼子は医者から聞いたままを繰り返したが、雅弘が聞いて理解したのかはわからなかった。
「ねえ、聞いてる?」
 電話の向こう側にむかって涼子は呼びかけた。顔の見えない相手の沈黙は底知れない不安をかりたてる。相手を襲った怪物が電話回線を通して自分のところに現れるのではないかという不安。
「涼子……」
 やっとのことで聞き取れるほど、かすかな雅弘の声がした。
「俺たち、やり直さないか」
 酔ってるのと言いかけて、涼子は口をつぐんだ。時計を確認するまでもない。病院の中庭のベンチに座っている涼子の頭上では夏の太陽が照り輝いている。仕事の邪魔にならないよう、昼休みの間にと思って連絡したのだ。
 雅弘は離婚したがらなかった。涼子に未練があるようで、雅弘の頑なな態度はかえって涼子の感情を逆なでた。女との関係は涼子の妊娠中から始まったとかで、涼子が知ったのはずっと後になってからだった。雅弘がしぶしぶ離婚に応じたのは女が妊娠したからだった。女とは再婚話が進んでいたはずだがどうなったのだろう。
「涼子、聞いているか?」
 沈黙にのみこまれそうになった雅弘が今度は口を開く番だった。
「彼女とは?」
「別れたよ」
「赤ちゃんは?」
「ダメだったんだ」
 同情する気にはなれなかった。他人の幸せを踏みにじって手に入れられる幸せなどない。涼子は家族を失った。女は子どもを失った。これでお相子だ。
「お袋が、誠に会えないんでさびしがってさ。お前が浮気なんかするから離婚なんてことになったんだ。お前はバカだ。今からでも頭下げて涼子に戻ってきてもらえって言うんだ」
「……」
「お袋に言われたからよりを戻そうって言うんじゃないんだ。俺はもともと別れたくはなかったんだし」
 離婚の話し合いをしていた間中、雅弘はずっと気持ちは涼子にあると言い続けた。女が妊娠しなければあるいは離婚していなかったかもしれない。
「誠のことがあって――」
「誠のことが何だって言うの」
 涼子は雅弘の言葉にかぶせるように言った。
「お前、今学生だろ。収入もないのにどうやって誠の面倒をみていくつもりだ。仮に就職できたとして、女手ひとつで子どもを育てていくのは大変だろう。その上、誠は医者に見せ続けないといけない体になった。今の局面は乗り切ったとしても将来、倒れたり、手術ということになったら金が要るだろう。そんな金あるのか?」
 涼子は返事につまった。金銭的な面倒は両親がみてくれると申し出てくれた。真紀も何かと気にかえてくれて、どうにか誠の世話ができている。しかし、それも誠が入院しているという非常事態だからで、退院して普通の生活に戻った時、どうしていくのか、涼子は何も考えていなかった。
「誠は俺の子でもあるんだ。何とかしたいと思うのは当然だし、復縁はお前にとっても悪い話じゃないだろう」

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ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 19

「それで、遠藤さん、何だって」
 病室に戻ると、真紀が心配そうに声をかけてきた。雅弘に検査結果を伝える間、誠のそばについててもらっていたのだ。一緒に見舞いにきていた修一も、誠の相手をしながら涼子の様子をうかがっていた。
「ねえ、転院って簡単にできるものなの?」
 できるだけ修一の方を見ないようにしながら涼子は真紀に尋ねた。
「東京の病院で診てもらいたいって言ったの?」
 雅弘は転院させろとは言わなかったが、復縁となれば東京での生活が基盤になる。
「ここは総合病院だから誠くんの治療に関しては東京の病院とそん色ないから転院の必要性はないと思うけど」
「誠の見舞いに東京からこちらへ通うのは大変なのじゃない」
「そうね。家族が通うのが大変だからという理由での転院もあるけど。そういう理由なら担当医と話をすれば割とスムースに転院できるとは思うけど。でも、こっちで入院していた方がいいのじゃない? 涼子のご両親も近くにいるし、私も何かあったら助けてあげられるし。東京の病院じゃ、涼子ひとりだよ」
 そうねと言って、涼子は話を打ち切った。

「急に転院がどうとか言い出すから何かあるなと思ったけど、そういうことなの」
 三日後、ひとりで見舞いにきた真紀に、涼子は復縁をもちかけられたと打ち明けた。
「それで、どうするの?」
「まだ返事はしてない。よく考えておいてほしいって言われて」
「それにしても急な話よね」
「もともと離婚したくはなかったらしいし、誠のこともあって――」
「こういう言い方は何だけど、お金で涼子を釣って誠くんを取り戻そうとしているように感じるけど」
「実際そうなのよ」
 真紀に向かって涼子は苦笑いを浮かべてみせた。
「彼、子どもは好きなの。結婚してすぐにでも子どもが欲しいと言っていたくらいだから。私のことは、多分、子どもの面倒をみてくれる人間だぐらいにしか考えていないと思う。彼女の子がダメにならなかったら、誠のことがあったにしても、私とヨリを戻すそうなんて考えなかったと思うわ」
 涼子はベッドの誠を見やった。熱の下がった誠は見た目だけならすっかり元気になってベッドの上にじっとしていられなくなった。枕を山に見立て、家から持ってきたラジコンのダンプカーをその上に走らせて遊んでいる。
「でも私にとっては悪い話じゃない」
 涼子は雅弘の言葉を真似て繰り返した。
「遠藤さんに気持ちはあるの?」
 真紀の質問に、肯定的な返事はできなかった。涼子の沈黙を、真紀は否定の意味でとらえたらしかった。
「ATMだと思って我慢するつもり?」
「誠のためよ。それに、彼は誠の父親でもあるんだし」
「それでいいの? 前にも言ったと思うけど、子どもといる時間なんて長い人生の間でわずかなんだよ。誠くんが自立したら、涼子は遠藤さんとふたりきりになるんだよ。気持ちのない人と一緒にいられるの?」
 誠が二十歳になる時、涼子は四十九歳だ。寿命まで生きるとしても約三十年。誠と過ごす二十年よりも長い時間を雅弘とともに歩む。考えるだけでもぞっとする。
「涼子、何だか自分を罰しているようだわ」
「罰せられるだけのことをしたわ」
「付き合っていた彼のこと?」
 母親だということを忘れて男に走った。その罰として、愛情のない男と一生ともに過ごさなければならない。だが、その罰を甘んじて受け入れたならば、誠は十分な治療を受けることができる、大学にだって進学させてあげられるかもしれない。
「お金は大事だわ」
「それはそうだけど……」
 シングルマザーの真紀だからお金の重要性は痛いほどわかっているだろう。金がすべてではないともわかっていながら、真紀はそれ以上何も言わなかった。
「学校、どうするの?」
「休学の手続きを取ったわ……」
 女手一つで誠を育てていこうと通い始めた栄養士専門学校だったが、誠の入院が延びるにつれ、通うのは無理だと判断した。今、誠は母親を、涼子を必要としている。勉強はいつでもできる。しかし、誠のそばに寄り沿っているのは今しかできない。決断に迷いはなかった。

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ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 20

 誠が入院したと知って、修一は見舞いに駆けつけてきてくれた。はじめこそ一人で来たが、その時に真紀と居合わせて以来、真紀と連れだって見舞いに訪れる。看護師に誠の父親と間違えられたのを気にしての行動なのだと、真紀からこっそり打ち明けられた。誠の父親に間違えられた件についてはその場で笑い話として流したはずだが、修一は涼子の体面を気遣っているという話だった。
 熱が下がってくると、誠はベッドの上でじっとしていられなくなった。家から持ってきたおもちゃで遊んでもらうが、そうそう涼子も相手をしていられない。そんな時に修一が見舞いに来てくれて誠の相手をしてくれると助かった。その間、病院内の喫茶店で真紀とお茶を飲んで息抜きをしたり、買い物しに外出したりした。
 家から持ってきた物や、真紀と修一からの差し入れもあって、誠の枕元にはたくさんのおもちゃや絵本が積み上げられている。だが、誠が飽きもせずに気に入って遊んでいるのは、修一からもらったラジコンのダンプカーだ。家にいた時は庭の土を入れて遊んでいたが、病室ではそうはいかない。仕方なく、これも修一からもらった積木を荷台に乗せては降ろすを繰り返して遊んでいた。他にはけん玉だとかヨーヨー、トランプ遊びなどを一緒になってしている姿は、仲のいい親子にしか見えない。
 ふらりと見舞いに訪れた雅弘が出くわしたのは、まさに修一が誠と楽しそうに遊んでいる場面だった。
「中学時代の同級生の、都筑くんと広田さん」
 ふたりを雅弘に紹介し、雅弘については誠の父親だと紹介した。
「遠藤です」
 ふたりにむかって軽く会釈をし、雅弘は見舞いだと言って膨らんだ紙袋を涼子に渡した。中身は絵本と子ども向けのDVDだった。
「わざわざ、ありがとう」
 涼子が紙袋を誠の枕元近くの床に置いている間、修一の目は誠の手にしたオレンジのダンプカーに注がれていた。ついさっきまで修一と遊んでいたおもちゃだ。
「それじゃ、私たちはこれで失礼します。行こう、都筑くん」
 真紀に促され、修一は帰り支度を始めた。
「もう帰るの? もっとあしょんで」
 誠が修一のジャケットの裾をつかんで引き止めた。今にも泣き出しそうなほど顔が赤かった。誠の頭を軽く撫で、修一は
「また来るからな」
 と言い残し、病室を後にした。
「誠、元気にしてたか?」
 半べそをかいたまま、誠は頷いてみせた。
「退屈してるだろうと思って、パパ、いっぱいDVDを持ってきたぞ」
 雅弘はそう言って、紙袋からDVDを取り出し、携帯してきたポータブル再生機にディスクを差しこんだ。たちまちアニメのテーマソングが流れだす。画面が見えやすいよう、雅弘は再生機を持ってベッドの脇に腰かけた。
 ダンプカーを胸に抱いたまま、しばらく画面を見つめていた誠だったが、そのうちに船を漕ぎ出したかと思うと、ダンプカーを枕に寝入ってしまった。誠を起こさないよう、ダンプカーを枕と取りかえ、涼子は肩まで毛布をかけてやった。
「DVD、消してくれる?」
 涼子に言われ、雅弘はポータブル再生機を閉じた。
「この間の話、考えてくれたか」

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キャッチアップ 21

 やはり復縁の話をしに来たのかと涼子は身を固くした。ゆっくり考えてくれと言われたのに甘えて返事は延ばしていた。頭ではどうするのが一番なのかわかっていながら、行動に移ることができないでいる。
「いい返事がもらえないでいるのは、あの男のせいか」
「……」
「付き合っているのか」
「ただの友だちよ」
 涼子は小さいため息をついた。克弥も、涼子と修一の仲を疑ってかかった。だが、克弥も雅弘も見当違いもいいところだ。過去の恋心を打ち明けられたものの、修一とは何もない。
「それにしちゃ、誠がえらく懐いているじゃないか。あの男、お前に気があるんじゃないか。将を得んと欲せば馬を射よって言ってだな。誠に取り入ってお前をものにするつもりじゃないのか」
「仮にそうだとして、だったら何だっていうの」
 涼子は苛立ちを覚えた。余計な詮索をする雅弘に対してもだが、修一の友人として節度のある態度にも腹が立った。雅弘の言う通りだとするならば、修一はもっとはっきりした好意を示していてもいいはずだ。
「お前もまんざらでもないんだな。だから、俺との復縁を迷っているんだ」
「……」
「気があるんだな」
 今度は雅弘が苛立つ番だった。両手を頭にやったり、時々は天井を見上げたりなどして、雅弘は仕切りのカーテンと誠の寝ているベッドの間を行ったり来たりを繰り返していた。しばらくそうしていたかと思うと、立ち止った雅弘は指の関節が白くなるほど強くベッドの鉄柵を握りしめ、涼子に迫った。
「子どもが大変な思いをしているって時に、恋愛している場合か!」
「私は独身よ。したい時に恋愛するわ。それに、そのつもりがなくても恋には落ちてしまうものだわ」
 涼子は雅弘の強い視線を受けても目を逸らさなかった。
「母親なんだぞ!」
「母親が恋してはいけないっていうの?」 
「女である前に母親なんだから、子どもの事を一番に考えるのは当たり前だろうが!」
「あなたは父親なのに、子どもの事を一番に考えたりしなかったわ。私の事もね。私が誠を妊娠中に浮気して、男であることを優先したあなたにとやかく言われたくはない」
 デジャブだった。離婚前に繰り返された、誠を起こさないように声を押し殺しての諍い。浮気を謝ろうとは決してしなかった雅弘に対し、涼子は子どもじみた頑固さで抵抗するしかなかった。
「もういい。よくわかった」
 鉄柵越しに乗り出していた身を、雅弘は引いた。怒りで真っ赤になっていた顔が急に冷静さを取り戻しつつあった。
「お前には誠を任せられない。男にかまけて誠の面倒をみなくなりそうだからな。誠は俺が引き取る。お前は恋愛でも何でも勝手にしてろ」
 雅弘はまるで汚いものでも見るようにして、椅子に座っている涼子を文字通り見下して言った。
「冗談じゃないわ、誠はあなたには渡さない! あなただけには渡さない。あなたみたいな父親失格な人間にだけは!」
 椅子から立ち上がった涼子は雅弘の目の前に立ちはだかった。
「俺はいい父親だっただろうが! 誠を風呂にも入れてやったし、ミルクだってあげてただろ」
「それは子育てじゃない。ただ、赤ん坊の世話をしたというだけ。それも自分のしたいことだけをね。汚いからと言ってオムツは絶対に替えてくれなかったし、自分が眠たいからってさっさと寝て、誠の寝かしつけは手伝ってくれなかった。そう、毎日夜遅かったものね。仕事じゃなくて、女の所に通っていたから遅くなっていたわけだけど。
 あなたに誠は任せられない。自分のしたい事だけを押し付けるような人間が、誠の気持ちをくみとったり、考えを尊重して子育てができるとは思えないもの」
「俺はいつだって誠を大事にしてきたぞ」
「そうかしら」
 そう言って涼子はベッドの上のポータブル再生機を指さした。
「誠はね、誰かと一緒に何かをするのが好きなの。絵本を読むのも好きだけど、読んでくれる人と一緒に声を出して読むことが好きなの。一方的に映像をみせられるだけのビデオは好きじゃないの。ビデオさえ見せておけばおとなしくしているだろうと考えるあなたにとっては都合のいいものだろうけど。
 自分の都合ばかりを優先するあなたは決して父親にはなれない人よ」
 雅弘と涼子とはむかいあったまま、身じろぎひとつしなかった。口では雅弘にかなわなかった。何かと言い返されてしまってばかりだったが、目の前に立ち尽くす雅弘は、見たこともない涼子の剣幕に驚いて硬直していた。
 胸につかえていた気持ちをすべて言葉にして吐きだした今、涼子はようやく雅弘に笑顔をむけることができた。
「私たち、縁がなかったのよ」

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キャッチアップ 22

 誠の退院が決まった。
 子どもの頃の瘤は自然になくなることもあるという医者の見立て通り、誠の心臓壁に出来た瘤は消滅した。医者から検査結果を聞いた涼子はその場に泣き崩れた。
 とはいえ、一時期の危険な状態から脱しただけというだけで、川崎病との付き合いは一生続く。退院後も定期健診などで病院へ通わないとならない。
 初めのうち、誠の将来を悲観していた涼子だったが、退院が決まると気持ちも切り替わった。
 一病息災。定期的に医者に診てもらうのなら、別の病気にかかったとしても発見は早いだろうし、その分、治療も早く開始できる。かえって健康に過ごせるのではないか。
「涼子、明るくなったね」
 頻繁に見舞いに来てくれていた真紀も驚くほどの涼子の変わりようだった。
「明るくなったよね。何だか生き生きしている」
 退院のその日も、真紀はそれまで何度となく繰り返したフレーズを口にした。
「落ち込んでいる暇があったら、誠を守ることに時間を使わないともったいないなって。いろいろとやることが山積みよ。せっかく勉強したんだから、食事から健康な体作りを目指していこうかなって。車の免許も取ろうと思ってる。病院とか幼稚園とかの送り迎えがしやすいように」
 涼子は目を輝かせながら、将来を語った。差し入れや付き添いの交替、病院までの送り迎えと、両親や真紀には助けてもらったが、いつまでも頼りにするわけにはいかない。
「車があると何かと便利よね。学校はどうするの?」
「春からまた通う。仕事もこっちで探すことに決めたわ。東京ならいくらでも仕事はありそうだけど、一人で子育てをするのは難しいって身にしみてわかったから。こっちなら母もいるし、真紀もいて、いざって時には頼りになるし」
 茶目っ気たっぷりに涼子は舌を出してみせた。
「そうよ、何かあったら人を頼りなさい。困ってますって大声出すの。私だって、散々周りに世話になって、というか、迷惑かけて子どもを育ててきたんだから。世間に育ててもらうぐらいの気構えでいた方がいいわよ」
 世話好きな真紀は手際よく、涼子の荷物をボストンバックに詰めていった。誠の荷物は涼子の担当である。退院のこの日、父が迎えにくるはずだったが、数日前に傷めた足のせいで車が出せなくなってしまった。タクシーを使おうと考えていたところに助け船を出してくれたのが真紀だった。
「遠藤さんとは?」
 涼子は黙って首を横に振った。
「彼にも言ったけど、私たちはもう終わったの。そもそも、私たち、縁がなかったのよ。でも、彼は誠の父親ではあるから、誠に会いたかったら会えばいいし、誠のことについてなら今後も連絡はする。でもどうかしら。会いにくるかしらね……」
 誠の瘤が消失したニュースについてはメールで雅弘に知らせてあったが、返信はなかった。
「彼、子ども好きじゃなかった?」
「あの人の子ども好きっていうのは、自分の言うことを聞く子どもなら好きってことなの。彼のような人間は父親にはなれないし、なってはいけない人。彼の浮気に腹を立てて離婚したと思っていたけど、違ったのね。浮気はきっかけに過ぎなくて、父親としての彼に不安を感じたから別れようと決心したんだって、今になってわかったの」
「父親にはなれない人間、か。母親もそうだけど、男も女も、子どもを持てば自動的に父親、母親になれるとは限らないのよね」
 自戒の意味をこめて、涼子は真紀の言葉に深く頷いてみせた。
「彼はどうだった?」
 荷造りの手を休め、涼子は尋ねた。
「彼?」
「浩介くんの父親。どうして結婚しなかったの?」
 ああと小さく呟いて、真紀は肩をすかしてみせた。
「彼も父親にはなれない人だった。人生のパートナーにもなれない人だった。オスとしては美しい生き物だったけど」
 「オスとして美しい生き物」とは言い得て妙だった。真紀の子どもの父親は、涼子たちの高校に実習生としてやってきた。若くて健康的な肉体を持ち、端正で甘いマスクの持ち主の彼に夢中になったのは真紀だけではなかった。涼子も、彼が受け持っていた数学の授業ではドギマギして勉強どころではなかったと覚えている。
「こっそりメルアド渡して、実習が終わってから付き合うようになって、開放的な夏休みに体の関係ができて、実りの秋にめでたく妊娠よ」
 十五年の年月を経た今だからこそ、真紀は自嘲気味に笑って語るが、当時はひと波乱あったはずだった。
 秋の深まりとともに真紀は学校に姿を見せなくなり、冬休みが始まる直前、高校を退学した。退学の理由を、涼子は真紀から聞かされて知っていたが、真紀の妊娠が公になったのは出産後間もなくの頃だった。
 真紀が実習生に熱をあげていたことは周知の事実だったから、父親は実習生だと誰の目にも明らかだった。小さな町だから噂はすぐに広まった

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ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 23

「妊娠が分かった時、結婚の話にならなかったの?」
「なったわよ。私の両親は責任を取れって彼に迫ったもの」
「彼は何て?」
「結婚するって言ったわ」
「じゃあ、どうしてしなかったの?」
「そうだなあ……」
 真紀は視線を宙に泳がせた。揺れ動いた自分の感情、妊娠、出産に対する不安、相手の定まらない決意。どれが理由と言い切れるものかわかりかねるといった風に、沈黙が続いた。
「彼のお母さんが結婚には反対だったの。出産にもね。息子はまだ若い、結婚なんて早い、息子の将来に傷をつける気かとか、いろいろ言われたわ。子どもも堕ろせって言われたっけ」
「その話は初耳だわ」
「あらそう? 言ってなかった?」
 彼との間がうまくいっていないとは聞いていたが、中絶を迫られた話は初耳だ。
「同じ女から、自分の子を殺せって言われたのがショックだった。女ならわかるじゃない。お腹の子をどうにかすることだけはしたくなかったし、できなかった。命は尊いものだからという殊勝な気持ちからじゃなくて、自分の体がどうにかなってしまうんじゃないかっていう恐怖からで、私も子どもだったのね。自分のことしか考えていなかった。みんなそう。彼も、母親がお腹の子を始末しろって言い続けるものだから、赤ん坊さえいなくなれば結婚しなくて済むんだと思うようになって、そのうち母親と一緒になって堕ろせと言うようになったの。最初から結婚する気なんかなかったのね。私の父親の迫力にまけてつい口から出まかせで結婚すると言ったけど、本心では嫌だな、面倒だなって思ってたってわけ。彼も父親にはなれない人間だった――私も母親になる心構えがなかった」
「真紀はちゃんと母親しているじゃないの」
「今は、ね。でも十六の時は何も考えていなかった。子どもをつくるためにセックスがあるんだから、セックスしたら妊娠するのが当たり前なのに、ろくな避妊もしなかった。彼ね、フィニッシュさえ外で済ませれば妊娠しないと思ってたのよ。バカよね。まあ、私もバカだったけど」
「彼は二十歳過ぎの大人で、真紀は十六だったじゃない」
「そう、私は呆れるほど何も知らない子どもだった。セックスがどういうことかも、子どものことも、母親になるということがどういうことか何ひとつわかっていなかった。体はメスになりかけていて、セックスに興味を持ち始めていたところに、成熟した―といっても体だけだけど―オスが登場。当然、するわよね、セックス。相手が好きだからするんだなんて当時は思っていたけれど、今振り返ってみるとそんなに好きでもなかった気がする。ただ、セックスというものをしたいというそれだけの気持ちだった気がするの。同級生の男じゃ、子どもっぽくて相手にならないけど、彼は見てくれは大人だった。精神は未熟だったけど。結婚しなくて正解だった」
 真紀はくしゃっと顔全体に皺を作ったかと思うと、ぱっと笑顔を作ってみせた。後悔など微塵もないといった、明るい笑顔だった。
「今付き合っている人とは、結婚を考えている?」
 真紀は小首を傾げてみせた。
「今すぐはないかな。将来はわからないけど」
「浩介くんが成人するまでは結婚しない?」
「そういうことでもなくて。結婚は気持ちとタイミングの問題。今は気持ちがないし、そういうタイミングでもないってこと」
「遊びで付き合っているわけじゃないんでしょう」
「私は違うわ。彼はどうだかわからないけど」
「付き合ってどれくらい?」
 真紀は指を折って数えた。
「五年かな」
「浩介くんが十歳の時からなのね。浩介くんの反応はどうだった?」
「付き合って割とすぐに彼を紹介したけど、冷めたものだったわね。相性悪いのよ、彼と浩介」
「仲悪いの?」
「仲が悪いっていうか、とにかく相性が悪いの。考え方とかまるで正反対。浩介が白と思うことが彼には黒っていうこと」
「それじゃ、結婚は考えられないのじゃない?」
「どうして?」
 驚いたように真紀は目をぱちくりさせていた。その真紀の反応に驚いたのは涼子の方だった。
「どうしてって、結婚したら彼は浩介くんの父親になるわけでしょう? 相性が悪いと面倒じゃない」
「彼は浩介の父親になるために私と結婚するわけじゃないわ。結婚する時が来るとしたら、それは私のパートナーになるためによ」
「浩介くんと気があわないってわかって、彼との付き合いを止めようとは思わなかったの?」
「浩介の気持ちを少しは考えるけど、よほどの悪い人間でない限り、浩介と気があわないからって理由で付き合わないってことにはならない」
「逆に――」
 涼子はオレンジのダンプカーを手に取った。
「浩介くんと物凄く気のあう人だったら、タイプではない人でも好きになる?」
「ならないわ」
 真紀は即座に否定してみせた。
「私が必要とするのはパートナー、恋人であって、子どもの父親ではないもの。子どもの父親にふさわしい人だからってその人を好きになることはないわ」
「でも、子どもと仲のいい人を好きになったとしたら、それはそれでいいのじゃない」
 涼子はダンプカーをボストンバックの中に大切にしまった。
「子どものことがなくても好きになったと思える人なら、ね」
 誠が懐こうとどうしようと、修一に惹かれただろうか――涼子は胸の内で自分自身に問いかけた。雅弘と病室で会った日から、修一の見舞いはぱたりと途絶えていた。誠の父親を目の当たりにした修一の気持ちに何か変化があったとしても、涼子にはもうどうすることもできない。
 ボストンバックに荷物を詰め込んでしまうと、涼子はナースセンターに挨拶をしてくるからと真紀に誠についていてくれないかと頼んだ。
「都筑くん、誠が退院するって知ってるかな……」
「うん……」
 真紀は何故か歯切れが悪かった。
「何?」
「うん、本人からは涼子には言うなって口止めされていたんだけど……」
 深呼吸の後、真紀は言った。
「都筑くん、今、入院してるんだ」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 24

 修一は、同じ病院の六階、整形外科の病棟に入院していた。
 大部屋の窓側のベッドの上で、脚にギプスをした姿で眠っていた。いつも涼子を見つめてくれている目が固く閉じられている。
 窓からは誠の病室から見えたものと同じ景色がより高い位置から見えていた。涼子は修一を起こさないよう、傍らの椅子に腰かけた。
 しばらくぶりに人に会うと、記憶の顔立ちとのずれに戸惑う。数週間ぶりに目にする修一は、額に負った傷が痛々しいせいもあるが、顔半分が濃い髭に覆われてまるで別人だった。もともと老け顔だったが、さらに十歳は年をとってみるように見えた。
 真紀の話によれば、修一は意識不明の状態で倒れていたところを駐車場で発見された。その日、真紀と修一とは真紀の運転する車で誠の見舞いに訪れていた。雅弘と鉢合わせになった日だ。
 雅弘に気をつかって早々に病室を引き上げた後、二人は喫茶店で話し込んでいた。そろそろ帰ろうかと駐車場にむかおうとして真紀は喫茶店に忘れ物をしたと気づき、修一には駐車場で待っていてくれと言い、引き返した。忘れ物の傘を持って駐車場に戻ったところ、入り口付近で倒れている修一を発見した。額がざっくり割れて出血がひどかったのだという。意識はその時点ですでになかった。真紀は慌てて救急に運ぶよう手配した。
「倒れたのが病院の駐車場でよかったわよ」
 真紀が看護師であることも修一には幸いだっただろう。修一はその場で入院させられたということだった。 
 修一は脳震盪を起こしていた。何らかの原因で倒れ、頭を強く打ったらしく、額の傷も打った時に出来たものらしい。らしいというのは、修一本人が何が自分の身に起きたのかを覚えていないからだった。
 真紀は、修一は駐車場で事故に遭ったのではないかと推測していた。鎖骨と大腿骨を骨折、肋骨にはヒビの入った修一の怪我は、額の傷も含めてすべて体の左側に集中していた。右側から来た車に気づかずにはねられたというのが真相じゃないかと真紀は睨んでいる。
 だが、駐車場内だからとスピードを落として走っているはずの車にはねられて、意識を失うほどの大怪我をするだろうか。修一をはねた車は駐車場内にもかかわらず、かなりのスピードを出していたのではないのか。
 運悪く事故に遭ったとは、涼子は思えない。
 あの日の雅弘は激昂していた。復縁の話を断られたうえ、父親失格だとまで言われ、怒りをあらわに病室を後にした。その直後に修一と出くわしていたとしたら……。
 涼子の推測を裏付ける証拠は何もない。「事故」に遭った修一には当時の記憶がなく、目撃者もいないようだった。真紀によれば、脳震盪を起こした場合、その前後の記憶が飛んでしまうのはわりとあることらしい。何かのきっかけで思い出すことはないのかと真紀に尋ねると、思い出すかもしれないし、一生思い出さないかもしれないという答えが返ってきた。
 仮に思い出したとしても、修一は真実を語らないだろうという気がする。もしかしたら記憶がないと言っているのは嘘かもしれない。涼子には事故については何も知らせるなと真紀に口止めしたのは修一らしい気遣いなのだろう。
 涼子は額の傷の縫目を数えた。七針。傷痕は残ってしまうだろうか。汗で額にはりついた髪を、涼子はそっとぬぐった。あっと小さく声をあげて、修一が目を開けた。
「ごめんなさい、起こしちゃったわね。顔見たら帰るつもりだったんだけど」
 目を何度かしばたかせ、修一は髭だらけの頬を緩めた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 25

「事故に遭ったって」
「広田の話だと『事故』らしいんだけど。俺は何も覚えていないんだ。また頭でも打てば思い出すかもしれないけど」
 修一が笑ったのにつられて涼子も微笑みを浮かべた。何が起きたのか詮索するのはやめにしようと涼子は胸の内で誓った。修一が元気になればそれでいい。
「都筑くんがお見舞いに来てくれないものだから、誠がさびしがっていたわ」
「こんな状態だからなあ」
 修一は、左半身の手と脚を動かしてみせようとしたらしかった。しかし、ギプスやサポーターで固定されているので、肘の先からの腕しかあがらなかった。
「誠くん、どうしてる?」
「今日退院なの」
「それはよかった!」
 興奮して体をあげようとした拍子に痛みを感じたらしく、修一は笑顔の額に皺を寄せていた。
「小原もほっとしただろ」
 心配されていた瘤は消失したものの、しばらくは薬を飲み続けること、定期的に検査を受けるために通院することなどを涼子は語った。
「大変だろうけど、定期的に医者に診てもらえるのなら、かえって安心できるかもな」
「一生抱える病気だから、うまく付き合っていく方法を考えるわ」
「無理するなよ。小原が倒れたりしたら大変だからな」
「大丈夫よ。これでも栄養士の勉強をしていたんだから、食べるものには気をつけているから。春からまた通うつもりでもいるし。それまでに車の免許も取ってしまおうかと思ってるの」
 頬を紅潮させながら未来を語る涼子を、修一は目を細めてみつめていた。
「仕事もこっちで探そうと思ってる」
 涼子がそう言った瞬間の修一の細い目は一際光輝いていた。
「栄養士ってどんな仕事するの?」
「簡単に言うと、栄養バランスのとれた食事を考えるのが仕事ね。保育園とか給食のメニューを考えたり、病院の食事を考えたりもするわ」
「小原、今すぐこの病院に就職してくれ」
 「病院の食事」と言ったとたん、修一が口をはさんだ。
「食事ぐらいしか楽しみがないのに、まずいんだ」
 修一のしかめっ面は驚くほど誠に似通っていた。熱が下がって元気になってきた誠も食事のまずさに閉口し、涼子を手こずらせた。そんな時は、真紀から差し入れてもらったポン酢やふりかけで味を調節して何とか食べさせたものだった。
 修一のベッドサイドテーブルにもポン酢の瓶があった。真紀からの差し入れらしい。テーブルには雑誌や本の間に埋もれるようにして花瓶に生けられたピンク色のガーベラがあった。
「退院までの我慢だから」
「辛いものがあるなあ」
 修一は深いため息を天井にむかって吹き上げた。
「どれくらい入院することになりそうなの?」
 涼子はポン酢の瓶に目をやった。動けないから入院しているだけで、食事制限もない健康な修一だから、ポン酢の味付けだけではそのうち我慢しきれなくなりそうだ。ガーベラの花言葉は何だろうとふと気になった。
「三か月はみておいてくれだとさ」
「クリスマスか、遅くてもお正月前には退院できるといいわね」
「だといいけど。早くくっついてくれよ」
 修一の目線がギプスの脚にむけられていた。
「さわってもいい?」
 涼子がきくと、ほんの一瞬の躊躇の後、修一は笑顔でうなずいてみせた。
 手のひらに、ギプスの冷たさがしみこんでいく。幾重にもぬりこめられたギプスの層の下には修一の脚が横たわっている。修一の肌に触れたような熱さを感じ、涼子はとっさに手を引いた。
 その拍子に妙なものが目に飛び込んできた。ギプスの表面に黒い糸くずのようなものがはりついている。顔を近づけてみると、それはサインペンのようなもので書かれた文字たちだった。そのほとんどは、「元気になってください」といった見舞いの言葉だった。
 字の上手い下手といった違いはあるものの、似通ったメッセージが連なっている中に、涼子の目を引く文字があった。筆圧の低い丸みを帯びたその文字は、明らかに女性の手によるものだった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 26

「早く元気になってください」
 たわいもない見舞いの文言を目にして、涼子は軽い眩暈を覚えた。花瓶のガーベラを目にした時と同じ感覚だった。真紀は、花束を手にするくらいなら、一本でも多くポン酢の瓶を持ってくる人間だ。
「誰かお見舞いに来たの?」
 修一の顔を見ずに涼子は尋ねた。
「会社の連中。ギプスにいろいろ何か書いてあるだろ? 人が動けないのをいいことに、いろいろ好きなこと書きやがってさ。そうそう、辰雄も嫁さん連れて来てくれたんだ。そうだ、小原、ちょっと頼んでいいか?」
「何?」
「辰雄がギプスになんて書いたのか、見てくれないかな。あいつ、わざと俺に見えない場所に書いたんだ。書いている間中、ニヤニヤしてたから、絶対、まずいこと書いているに違いないんだ」
「どこなの?」
「足の裏」
「それは見えないわね」
 涼子は指先を天井にむけている修一の左足の裏側にまわりこんだ。
「なあ、何て書いてある?」
「ええとね。『看護師さんへ こいつはヘンタイでエロいヤツなので気をつけてください』だって」
「あの野郎! 退院したらタダじゃおかねえ!」
 顔を真っ赤にして怒りを露わにする修一にむかって、涼子は笑顔で右手を差し出した。
「サインペン、ある?」
「あるけど?」
 修一は首から上だけをサイドテーブルにむけた。涼子はサインペンを手に、再び修一の足の裏にまわった。
「何すんだ?」
「かわいそうだから、タッちゃんの変なメッセージを消してあげる」
「おお、ありがとう!」
 修一には、消すといった辰雄のメッセージはそのままに、涼子はその下、シーツに埋もれて看護師も他の見舞客にも見えない場所に、修一にむけたメッセージを書きつけた。ペンの走る音がキュッキュと鳴る。その間、何も知らない修一は上半身の動く部分を妙にくねらせていた。
「なんか、くすぐったいな」
「ギプスしてるんだから何も感じないでしょ」
「そうだけどさあ」
 書き終えても、修一は何だかむずがゆさのすっきりしない顔でいる。
「なあ、本当に消してくれた?」
「消したわよ」
「ペンの走らせ方が、何か書いているみたいだった」
「そう? 気のせいよ」
 涼子はとぼけてみせた。
「早くギプスが取れて退院できるといいわね」
 そう言い残し、涼子は病室を後にした。ギプスの取れるその日、修一は涼子のメッセージを目にすることができるだろう。

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キャッチアップ 27

 春になった。誠の経過は順調だった。今では涼子の心配をよそに、元気に走り回るまで回復した。まるで誠の身には何も起きなかったかのように錯覚するそんな時に限って、あの夏の出来事がすべて夢であったらならどんなにいいかという気になる。しかし、過去は変えられないのだから前に進むしかない。母親として今できること、将来へのリスクを出来るだけ少なくすることを心がけるしかない。
 秋から冬にかけての間に、涼子は車の免許も取得した。自分の車を買う余裕はないので、父親の車を借りて使っている。復学した専門学校にも今では車で通っている。
 教習所では恵美に出くわした。停学した理由を正直に話したところ、次の日に恵美からCDを手渡された。
「後期の授業の資料と、私の書いたレポートです。参考になれば」
 涼子は恵美の親切を素直に受け取った。二年目の前期までの授業は頭に入っているが、後期は未知の世界である。安定しているとはいえ、油断ならない誠を面倒を見ながら勉強するのに、恵美の資料は、砂漠のオアシスなみの価値があった。
 克弥とは別れたと恵美は聞かれないうちに言った。克弥は復職し、希望通り、栄養相談にものってもらえるインストラクターをしているという。恵美自身は保育園に就職が決まったということだった。
 涼子よりも一足先に免許を取った恵美は、授業のことでわからないことがあったら連絡くださいと言い残し、教習所を去っていった。人生のトラックを走り始めた恵美の背中を見送りながら、涼子は気を引き締めた。次は自分が走り出す番だ。

 その日、涼子は久しぶりにバスに乗った。父が終日車を使う用があるというので、いつもより早起きをしてバスに乗り、帰りのバスの時間を気にしながら授業を受けた。一年前の同じ授業内容、同じ講師。くらりとするような既視感のなかで、涼子の気持ちだけが確実に変化を遂げていた。
 涼子は五時のバスを待った。ベンチにはグリーンのショッピングカートに両手をもたれかけさせた老婦人が座っている。五時少し前、バスがやってきた。
 運転手は修一ではなかった。二十歳を少し過ぎたくらいだろうか、つるりとした肌がほんのりと赤く染まっていた。修一はシフトが変わったか、ひょっとしたら運転業務にはまだ復帰していないのかもしれない。
 もしかしたら会えるだろうかと期待していた涼子は苦笑いを浮かべて席についた。修一にはしばらく会っていない。退院するまでは誠を連れて時々見舞いに行っていたが、その後は涼子から連絡を取るのをやめた。
 ギプスの取れた修一は、踵に書かれた涼子のメッセージを目にしたはずだった。涼子の意思表示に対する修一の答えを待とうと自分からは連絡を絶ったが、修一からの連絡はふつりと途絶えた。沈黙は修一の答えなのだろうと、涼子は身を引いた。
 気持ちだけではどうにもならない恋愛もある。踏み出せないでいる修一を、涼子は責める気にはなれない。立場が逆であれば、涼子も躊躇しただろうから。

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キャッチアップ 28

 二人掛けの隣の席にリュックをおろすなり、涼子は我知らずのうちにふっとため息が漏れ出た。リュックをあけ、中から分厚い教科書を取り出し、膝の上に広げる。儀式として身についてしまった習慣だ。
 最後に乗ってきた客は老婦人だった。ショッピングカートを引き上げ、ポシェットからパスを取り出し、運転手に見せる。見慣れた光景が繰り返された。
 だが、バスは老婦人が席に着くのを待たずに発車した。正確には発車しようとしたが、乗客の男性が運転手に声をかけたため、バスは発車できなかった。
 後ろの席から運転席にむかって歩いていく男は修一だった。修一は運転手にむかって何か語りかけていた。話を終えると、修一は涼子の座っている席の隣に立った。
「隣、いいかな」
「どうぞ」
 リュックを移動させて空いた席に、修一は腰かけた。老婦人は涼子たちの座る席の少し前に腰かけた。老婦人が席に着いたのを確認するかように運転手が客席を振り返り、バスは発車した。
「新人の運転手なんだ。乗客が全員席に着くのを確認してから発車しろって言ってるけど、つい忘れるんだな」
「都筑くんは、いつもあのおばあさんが席に着くまで発車しなかったものね」
「年寄りは足腰が弱っているんだから、特に気をつけてみてやらないといけないんだ」
「バスに乗っていたの、気づかなかった。新人ドライバーの教育係りなの?」
「いや、たまたまこのバスに乗る用事があったから……」
 涼子は修一の横顔を眩しそうに見つめた。最後に修一に会ったのは退院直前で、その時には顔下半分を覆っていた髭はきれいに剃り落されて影も形もなかった。
「元気そうね。もうすっかりいいの?」
「まだリハビリに通っている。完全に元に戻るまでにはもう少しかかりそうなんだ」
「仕事は?」
「内勤を主にやってる。いつか運転業務に戻れたらいいけど。誠くんはどうしてる?」
「定期的にお医者さまに診てもらっていて、元気にしているわ」
「小原は?」
「私?」
「元気か?」
「ええ、おかげさまで」

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キャッチアップ 29

「学校に戻ったんだな」
 修一の目が涼子の膝の上の教科書をとらえていた。
「勉強、大変なのか」
「そうね、最後の一年だから。でも何とかなりそう」
 恵美からの情報提供で何とか授業と通院とをやりくりできそうだという話を涼子は語って聞かせた。その間中、修一は穏やかな微笑みを浮かべたまま、涼子の話に耳を傾けていた。
 市内を出たバスは、降りる客も乗る客もいないバス停を次々と走り去っていった。スピードに乗ったバスの車体はカーブを曲がるたびに大きく揺れ、そのたびに、乗客の多くが前のシートの背もたれに手をかけてバランスを取っていた。
「ちょっと」
 信号待ちでバスが停車すると、修一は席を立って運転席へとむかった。二言三言言葉を交わし、信号が青に変わる直前に席へと戻ってきた。
「運転が荒いって注意してきたの?」
「小原もそう思った?」
 修一は鼻頭に皺を寄せていた。
「人を乗せているってことを忘れるなって言っておいた」
 修一の忠告が効いたらしく、信号が青に変わった後のバスの走りは穏やかになった。カーブを曲がるたびに膝にあたっていた修一の腿が当たらなくなったので、涼子はほんの少しだけ、修一の真面目さを恨んだ。
「都筑くんの運転するバスはいつもゆったりした走りだったわ。あまり揺れないからバスに乗っているような気がしなかった」
 自分も運転するようになり、隣に誠を乗せている時と一人の時とではまるで運転の仕方が違うと知った。大切な人を乗せている時は、気配りが二倍や三倍は増す。誠は車酔いしやすい方だったから、なおさら、揺れを感じさせないよう、涼子は運転には気をつかった。
 住宅街が近づいてくると、降りる客が多くなった。わずか数十メートルの距離を、バスは走っては停車しを繰り返し、乗客を降ろしていく。乗客の数が少なくなるのとともに修一の口数も重くなっていった。
 修一が口をきいたのは、商店街の少し手前のバス停を過ぎた時だった。そこから住宅街へと走っていくバスは再び商店街近くのバス停へと戻り、そこから涼子が乗り降りするバス停へとむかう。
「相合傘、書いたの、小原か」



明日最終回です。

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キャッチアップ 最終話

涼子は黙って頷いた。
 自分の気持ちを伝えるのに相合傘を使ったのには、真紀との思い出話がヒントになっていた。中学時代、修一が涼子に思いを寄せていたと真紀は話してくれた。修一が真紀に恋の話を打ち明けるとは考えられなかったので、涼子はなぜわかったのかと尋ねた。
「流行っていたでしょ。黒板とか掲示板に好きな人と自分の名前を並べて相合傘を書くのが。一種の告白みたいなものだったけど。山下くんとも、相合傘に名前を書かれたことがきっかけで付き合い始めたんだよね」
 朝、登校したら教室の黒板に、涼子と孝輔の名前の入った相合傘が書かれていた。クラスメートに散々からかわれながら、まんざらでもない気で涼子は大輔と付き合い始めたのだった。
「あの相合傘ね、最初は涼子と都筑くんの名前だったんだよ。少なくとも私が見た時は都筑くんの名前だった。朝礼の直前には山下くんの名前に変わっていて、あれって思ったんだけども」
 真紀から昔物語を聞かされた涼子は、修一のギプスに自分と修一の名前を連ねた相合傘を書いた。修一になら意味がわかるだろう。だが、ギプスの取れた修一からは連絡がなかった。
「人を好きになる気持ちって不思議ね。いつもの風景に出現した見慣れない物のように、ある日突然、ああ、私はこの人が好きなんだって気づくけど、きっとそれまでもずっと目にしていたものなのよね。ただ、気にとめていなかったというだけで」
 涼子の目は車窓の景色を追っていた。九か月の間に変わったものもあれば、変わらぬものもあった。
「今も昔も、人を好きになるということがどういうことかよくわからない……。中学時代、山下に小原をとられて悔しかったけど、何もできなかった。本当に小原のことが好きなのかもよくわからなくなった。こっちに戻ってきてるって聞いて、バスで見かけた時、やっぱり好きだって思ったけど、どうすればいいのかわからなかった。誤解してほしくないんだけど、小原に好きになってもらおうとして誠くんに取り入ったわけじゃない――」
「私だって……。誠がなついたから、都筑くんを好きになったわけじゃない。誠が都筑くんに会う前に、私はあなたを好きになっていた」
 バスは商店街近くのバス停で停車した。買い物帰りの主婦と老人夫婦をおろし、バスは発車した。涼子が降りるバス停まではあと五分もない。
「ずっと小原が好きだった。中学の頃から、ずっと小原だけを見てきたんだ――」
 左頬に修一の熱い視線を感じた。バックミラー越しではない視線の強さは増していた。
「小原、俺と付き合ってくれないか」
 修一の手が、膝の上の教科書にそえた涼子の手を握った。
「中学生みたいな告白ね」
 そう言うと、修一は照れたように笑った。オヤジと揶揄された中学時代とそっくり同じな笑顔だった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

あとがき

今回はちょっと大人な恋愛模様を書いてみました。

三十過ぎると、好き好き、だけじゃすまない。だからこそ、小説では好き好き恋愛物語がうけるんだろうけど。夢みさせてくれるから。

でもたまには苦めなお話を。現実は甘くはないけど、だからといってしょっぱすぎるってこともない。

いくつになっても、恋愛はすべきと思います。

恋愛が人と人とを結びつけるものである限り。

テーマ:物書きのひとりごと
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