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あじろ けい

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あと5センチ あらすじ

平均身長よりちょっぴり低めの上原奈々子と、社内一の大男、鈴木太一とのでこぼこな日々。

5cm

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テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

第1話 ヒールは5センチ

ヒールは5センチ ― パンプスを買う時、上原奈々子はそう決めている。9センチでもなく3センチでもなく、5センチ。身長155センチの奈々子がちょうど160センチの高さになる。
 「小さく産んで大きく育てる」つもりだったのにと母に文句を言われる奈々子は、大きく生まれた。
 女の子にしては大きな3800グラムで生まれ、幼稚園、小学校といつも誰かの後頭部を見続けてきた。自分の後頭部に視線を感じるようになりだしたのは、中学に入ってからだ。高校生になってからは、低いほうから数えたほうがはやくなった。
 クラスメートたちがぐんぐん成長していくので列の前へ前へと押し出されていく奈々子は、小さくなる薬を飲んでしまったアリスの気分だった。
 奈々子の身長は155センチでとまった。高くも低くもない。20~24歳の平均身長約159センチをほんの少しだけ下回る中途半端な身長が奈々子は不満で仕方ない。
 不満をぶちまける相手の母親は、だが、高すぎず低すぎず、ちょうどいい背の高さではないかと言う。
「女の子はちょっと小さいぐらいが可愛げがあっていいじゃないの」
 そういう母は150センチあるかないかぐらいだ。
「どんなに小生意気でも、背が小さいと可愛いもんだですんじゃうわよ」
 母は暗に、勝気なところのある奈々子の性格を批判していた。
 いっそ150センチを大きく下回るというのなら小動物のような可愛い女の子のアピールができただろう。モデルになれるほどの美貌は持ち合わせていないので高すぎても困っただろうが、せめて160センチは突破したかった。
 身長160センチは奈々子の目標でもあり、こだわりでもあった。
 第一に、160という数字はきりがいい。一の位がゼロというのは清々しく、そこから何かが新しく始まるような期待感に満ちている。成長過程の150センチ台は少女時代のもの、新たにゼロから始まる160センチとは大人の女性となる出発地点なのだ。大人の素敵な女性の身長は160センチ以上あるべきものだ。少女だった奈々子はそんな妙なこだわりをもった。
 そのこだわりは、大ファンだったアイドルの結婚をきっかけに強くなった。彼の結婚相手は一般人だという理由で写真も名前も公開されていなかった。結婚報道記事にはただ一文、「身長162センチのすらりとした美人」とだけあった。世間一般の考えでも、160センチが女の子と女の人の分岐点なのだと、奈々子は確信した。高校2年の時だった。しかし、身長は155センチでとどまったまま、奈々子は成人式をむかえてしまった。
 二十歳を過ぎて世間一般には大人の女性として見られているものの、奈々子自身は脱皮しかけた途中でさなぎの殻にひっかかってしまったような、中途半端な感覚がぬぐえない。
 たかが5センチ、されど5センチ。この5センチが奈々子にとっては大きな壁だった。
 初めてハイヒールを履いたのは、二十歳を過ぎてすぐの頃だ。アルバイトして買った5センチのハイヒール。ふらつく足元でおそるおそる町へ繰り出した奈々子の世界が変わった。
 それまで知っていた世界には続きがあった。奈々子には見えないように折り返されていた世界。5センチのヒールは、折り返してあった部分をほどいてみせてくれた。
 他の人はこの世界をずっと見てきたんだ ― 奈々子は自分だけが損をしてきたと感じた。
 右利きの人間の都合のいいようにできている世の中で左利きの人間が不自由を強いられるように、平均身長よりほんの少し背の低い奈々子は日常生活で不自由を感じることが多かった。
 電車の吊り革は指の先をかろうじてひっかけられる程度で、しっかりつかまろうとすると腕がつった。吊り革に手が届かないほどの不便さなら潔く諦めてポールにつかまるが、手が届かないわけではないというほんの少しの不自由さが奈々子を苛立たせた。
 そんな時、奈々子はいつも思う。
 あと5センチ、背が高ければ……

 土曜日の夕方、夕食の買い物でごった返すスーパーで、奈々子は「あと5センチ」と思った。
 ここのところ気に入って食べ続けている低カロリーのカップ麺の置かれた棚に手が届かない。
 そのカップ麺は、いつもは奈々子の目線の高さの棚に置かれているのに、その日の棚はからっぽだった。人気商品で、2つの棚に並べられているのだが、今日に限ってセール価格の札が貼られ、上の棚にほんのわずかな数が残っているだけだった。
 届くだろうかと、奈々子は爪先だって手を伸ばした。少し奥まったところに転がっていたカップ麺の胴体に指先がわずかにかかったかとおもったら、あと少しというところで、カップ麺は奥へと転がっていってしまった。あとはいくら背伸びをしても、手を伸ばしても届かない。それが最後のカップ麺だった。
 しょうがない、他のもので我慢しようと奈々子は諦めようとした。だが、どうにも諦めきれない。
 あと5センチ背が高かったら、きっと棚の奥に転がってしまったカップ麺にだって簡単に手が届いていただろう。
 土曜日とあって、奈々子はスニーカーを履いていた。
 欲しいものはそこにあるのだ、手が届かないというだけで諦めるのは悔しい。
 奈々子はきょろきょろと周囲を見渡した。店員がいたら頼んで取ってもらおうと思ったのだ。
 その時だった。
 背後から長い腕がぬっと伸びてきたかとおもうと、棚の奥に転がったカップ麺をつかみ、クレーンのように奈々子の目の前におりてきた。
 見上げた顔と、見下ろす顔とが見合って「あっ」と同時に声があがった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

第2話 せいたかのっぽ

クレーンのような長い手の持ち主は鈴木太一、奈々子の会社の後輩だ。後輩とはいえ、二浪して入った大学で2年留年しているので年は29歳と、奈々子よりも4つ上だ。
 奈々子の働く広報部に太一が配属されてくる前から、奈々子は太一の顔だけは知っていた。太一は新入社員ながら社内で一番の有名人だった。
 何しろ背が高いから目立つ。195センチだと、太一は広報部の新人歓迎会の飲み会で申告した。
 飲み会での話題は、当然、太一の背の高さに集中した。
 何かスポーツをしていたかという質問にはじまって、親や兄弟も背が高いのかという話になった。
「親父は180ちょっとで、兄貴もやっぱりデカいですね。アニキも190ちょいはあるんじゃないですかね。でもお袋は小さいんですよ。160ないんじゃないのかな?」
 太一は奈々子を意識して言ったわけではないのに、155センチの身長の奈々子は自分が小さいと言われたような気がして、内心むっとした。
 同僚として働くようになってからというもの、奈々子は太一を避け続けた。
 見上げて話さないといけない太一といると、自分の背の低さを強調されるようでイヤだったし、何より上から見下ろされている感覚がイヤだった。見下されているような気がするのだ。
年下のせいか、背が低いせいか、太一は奈々子を先輩扱いしなかった。
(社会人経験なら私のほうがあるのに!)
 奈々子と同期入社の他の社員には今だに敬語を用いるのに、奈々子にだけは対等な口をきくようになった太一が、奈々子は気にくわなかった。
 ある時、太一がメールボックスに入っていたメール便を軽々手にとって奈々子に渡してくれたことがあった。メールボックスは、奈々子にはほんの少し高い位置にある。奈々子が苦労しているのを見かねて太一は手を伸ばしたのだろうが、それがかえって奈々子の気にさわった。
「何よ、背が高いとおもって」
 “ありがとう”のかわりに口をついて出た言葉は、とげとげしかった。
「何だよ、高いところにあるものを取れるから取っただけだろ」
「自分で取れたのに」
 と言う奈々子の手の中に、太一はメール便をおしこんだ。
「俺、背が高いんだから、頼ってくれたっていいんだよ」
「メール便を取ってくださいなんて、くだらないこと、頼めるわけないじゃない」
「何でも自分だけでやろうとするなよ。できないことはできないで、できるやつに頼めばいいんだって」
 
 この日もまた、太一は奈々子がどうしても取れないで苦労していたカップ麺を易々と取ってみせた。
「低カロリーって。ダイエットの必要ないのに」
 ラベルをみて太一はそう言い、前のめりになってカップ麺を奈々子の目の前に差し出した。
 ダイエットに関して男の太一から指図を受けたくはない。むっとしたせいで礼を言おうとした気持ちがシャボン玉のように弾け飛んでしまった。またしても“ありがとう”という言葉を口に出来ずに奈々子はあからさまに不機嫌な様子で立ち尽くしていた。
 奈々子が受け取ろうとしないので、太一は大きな背中を丸め、奈々子の足元のレジかごにカップ麺を入れようとした。かごの中には他に、ポテトチップス、クッキー、チョコレート、他のカップ麺が入っていた。
「晩飯? 体に悪そうだなぁ」
「何だっていいじゃない。人の食べたいものに文句つけないでよ!」
 奈々子は太一の手からカップ麺をひったくり、かごに入れると、すたすたとその場を後にした。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

第3話 もうひとつの足音

(私だって、その気になったら料理ぐらい!)
 野菜の入った太一のレジかごの緑の山が目にやきついている。奈々子は、ポテトチップスやクッキーをもとあった棚にひとつずつ戻していった。
 かわりにレジかごに投げ込まれたのは、フルーツやヨーグルト、サラダ用にむけばいいだけのレタスとトマトときゅうりだった。料理というほど手間がかかる代物ではないが、スナックより健康的な印象だ。
 今ならレジかごを見られても恥ずかしくない、いやむしろ見てもらいたいくらいだと、奈々子は太一を探した。頭ひとつ飛びぬけている太一はすぐに見つかった。太一は鮮魚売り場で魚を品定めしていた。
 そういえば、魚を最近食べていない。サバの味噌煮が食べたいとふとおもった奈々子の喉がごくりとなった。自分でつくるとなると手間だが、惣菜売り場にいけば出来合いのものが手に入る。だが、惣菜売り場は鮮魚売り場のすぐ隣だった。
 出来合いのものなんかを買ったりしたら、太一に料理のできない女というレッテルを貼られる。ただでさえ、カップ麺を大量に買い込もうとしたところを見られてしまっている。
 魚を手にとる太一を恨めしげに、奈々子はレジへむかった。
 途中、低カロリーのカップ麺だけがまだレジかごに残っていると気付いた奈々子は、カップ麺のあった棚へと引き返した。
 元あった場所へ戻そうとしたが、手が届かない。
 ふいに太一の顔を思い出した。
 カップ麺を奈々子に渡そうと間近に迫った太一とは、まともに目があった。切れ長の涼しい目もとだった。目元がはっきりわかるほど、男性の顔を間近にみることはめったにない。あるとしたら、恋人とキスをする時ぐらいなものだろう。あの時、太一は、まるで奈々子にキスを迫るかのように顔を近づけてきた。
 ドギマギするのと同時に、あっと、奈々子は声にならない声をあげて、額をおさえた。
 週末だし、近所に買い物に出かけるくらいだからとメイクはしていない。眉毛のない顔を、よりによって太一に見られてしまった。
(見られた、かなあ……)
 太一の眉は黒々として立派だった。
(見られたよねえ……)
 奈々子は前髪をはたき、今さらながら、ない眉を隠した。



 スーパーからマンションまで歩いて15分ほどの道のりを、奈々子は急いだ。マンションの近くにはコンビニもスーパーもあるが、少し歩く距離にあるスーパー、横綱に通うのは何といっても他にくらべて品物の値段が安いからだ。
 スーパー横綱では、採算あうのだろうかと心配になるほど、食料品から日用雑貨にいたる物が安く売られている。いつも大勢の客でごったがえしているが、この日は週末とあってレジには行列ができていた。人ごみを避けて夕方に行くようにしている奈々子だが、それでもどのレジも混雑していて、レジの行列を突破するのに時間がかかってしまった。
 太一がいつまでも惣菜売り場そばの鮮魚売り場にいるので、奈々子は惣菜を買い損ねて機嫌が悪かった。まさか同じ会社の後輩の太一が、同じスーパーにいるとは思わなかった。たぶん近所に住んでいるのだろう。太一も常連客のようなら、もう横綱では買い物できないなあと奈々子はがっくり肩を落として夜道を歩いた。
 つるべ落としの秋の夜はあっという間に訪れる。すっかり日の暮れた夜道をひとり歩いているはずだったが、奈々子は耳ざとくもうひとつの足音を聞いていた。
 足音は、リズム正しく奈々子の後をつけている。
 奈々子は、ほんの少し、歩くスピードをあげてみた。もうひとつの足音も少しテンポをあげて奈々子を追ってきた。
(まさか、痴漢!?)
 夏至を過ぎて日が暮れるのがはやくなってから、できるだけ夜道をひとりで歩かないようにしていた奈々子だったが、この日は思いがけず太一に出会って動揺したせいで、夜は避けて通る近道を歩いてしまっていた。
 近所の人間しか通らないような小さな道で、その道を通るとスーパー横綱まで10分とかからない。だが、夜には人通りが絶えてしまい、明かりといえば、近隣の家から漏れるものぐらいで、薄暗く、気味が悪い。人がやっとすれ違えるぐらいの細い道で、こんなところで襲われたら、ひとたまりもない。
 奈々子は歩くスピードを速めた。約50メートルの近道を抜ければ、広い通りに出る。住宅街だが、街灯もあり、声を上げれば誰かに聞こえる。
 奈々子は、目指す先に小さくみえてきた街灯の明かりを目指して急いだ。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

第4話 遠い横顔

街灯の投げかける丸い光の輪の中に入るなり、奈々子は足をとめた。逃げ回ってばかりでは、しゃくにさわる。一言、何か言ってやらないと気がすまない。
 街灯の明るさを味方に、奈々子は後ろを振り返った。
「ちょっと!」
 暗い夜道で女をつけまわすなんて卑劣だと続けようとした言葉がのどもとで立ち止まった。
 少し離れたもうひとつの街灯の陰に立っていたのは、太一だった。頭のすぐ上に街灯の明かりがあって、後光が差しているようにみえる。
 他に人影は見当たらない。奈々子を追い越していった人間もいない。だとすると、太一が足音の主、奈々子をつけてきた男なのだが?
「いつから、私の後ろにいたの?」
「スーパー出てから、ずっとだけど」
「他に、人はいなかった?」
「いや、俺だけだけど」
「もしかして、私のこと、つけてきた?」
「は?」
「つけてきたでしょ?! なんで痴漢みたいな真似するのよ!」
「痴漢って、わけわかんねぇ。ってか、俺んち、こっち方面なんだけど……」
 その瞬間、奈々子は足に力が入らなくなって、アスファルトの上にへたりこんでしまった。
「おいっ!」
 エコバッグを投げ出し、太一が奈々子のもとに駆け寄ってきた。太一の逞しい腕につかまり、奈々子はようやく立ち上がることができた。奈々子の手は、血の気を失って冷たく、小刻みに震えていた。
「びっくりさせないでよ。こっちは痴漢かストーカーかとおもったんだから……」
 文句のひとつでも言ってやろうと思いきったものの、本当は怖かったのだ。つけてきた男がストーカーではなくて、知り合いの太一だとわかって、ほっとしたのと同時に、別の怒りがこみあげてきた。
「家が同じ方向なら、どうして声かけてくれなかったの? 女が夜道をひとりで歩いていて、後ろから足音が聞こえたら怖い思いをするって思わなかった?」
「思わなかった……」
 自分の荷物と奈々子の荷物を手に、太一は奈々子と並んで歩き出した。
 ふたりの足音は一つに重なって、背後には誰の気配も感じられなかった。
「ストーカーとか、痴漢とか言って、『お前なんか誰が襲うか』、自意識過剰な女とか思ったでしょ……」
 奈々子はそっと太一の横顔をうかがった。奈々子の身長が低いせいもあるだろうが、隣に並ぶと太一は余計に背が高く感じられる。横顔が遠いなあと奈々子は思った。
 目と眉の間隔がつまった彫りの深い顔立ちをしているのに、暑苦しさを感じないのは、線の細い輪郭のせいだ。背が高く、体格もがっしりしているのに精悍なイメージがあまりないのは、顔つきにどこか繊細さが漂っているからだった。
「別に、そうは思わないけど。女の人は用心するにこしたことはないと思うし……」
 太一の表情はこわばっていた。痴漢と誤解されて、気分を悪くしているのだろう。奈々子と太一は黙ったまま、夜道を歩き続けた。
 太一ほど背が高いと、昼間であっても前を歩く女性は後ろを警戒してしまうかもしれない。まして夜道ならなおさらだろう。普通に女性の後ろを歩いているだけなのに、痴漢か何かのように誤解されて、嫌な思いをしたこともあったかもしれない。
 痴漢かと思ったとつい口に出してしまったことを謝ったほうがいいだろうか……などと考えているうちに、ふたりは奈々子のマンションについてしまった。
「ここ、私のマンション……」
 エントランスにあがる階段の前で奈々子が足を止めると、太一は持っていたレジ袋を差し出した。半透明のレジ袋からレタスの淡い緑色が透けていた。道々、太一はレジ袋の中身をみてくれただろうか、やっぱりカップ麺を棚に戻しておいてよかった、と奈々子はそんなことを思った。
「ありがとう」
 レジ袋を受け取った奈々子がエントランスへの階段をのぼろうとすると
「悪かったよ、怖い思いさせて……」
 背後から太一の声が追いかけてきた。
 振り返った奈々子は、小さくうなずいてみせた。
「じゃ、俺んち、この先だから」
 そう言うなり、太一はすたすたと夜道に消えていった。背が高い分、歩幅も広く、奈々子がその後ろ姿を追ったときには、太一はすでに遠くを歩いており、奈々子のマンションを少し行った先の曲がり角の先に消えてしまっていた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

第5話 プロジェクト始動

渋谷のオフィスまで、電車を乗り継いで30分、始業時間の9時に間に合うように、奈々子は毎朝8時の電車に乗る。
 月曜の朝、いつもと同じホーム、いつもと同じ通勤客の顔ぶれの通勤客の見慣れた風景の中に、奈々子は太一の姿を探した。近所に住んでいるというのなら、太一もこの時間帯の電車に乗ろうとするはずだ。
 土曜日に近所のスーパーで太一にばったり出くわした時には、デニムにフリース、スニーカー姿だった奈々子だが、今朝はいつもより念入りにメイクをし、いつもはパンツスーツなのにこの日はスカートを選んで、5センチのパンプスを履いた。
(もっと早いか、遅い時間の電車なのかも)
 ホームにすべりこんできた電車のドアが開き、満員の車内に体を入れながらも、奈々子はホームに視線を泳がせ、頭ひとつ突き抜けた太一の姿をさがしてしまっていた。



「おはようございます!」
「おはよう」
 パーテーションの陰からあがった声の主は、広報部の先輩、鮎川美香だった。 
 奈々子が新人のころ、広報の仕事を一から教えてくれた人で、まだ30前だというのに部長の右腕のような存在だった。仕事には厳しいが、素顔は気さくな社交家で、社内外に顔が広かった。
 仕事ができるうえ、目のさめるような美人で、才色兼備という言葉は美香のためにあるようなものだ。すらりと背が高く、スタイルもよく、広報部の“顔”、しいては会社の顔としてマスコミに登場している。
 席につくなり、奈々子はPCをたちあげた。朝一番の仕事は、メールのチェックからだ。週明けとあって、メールボックスにはメールがたまっていた。
 なかには、大学時代の悪友、大木真衣からのプライベートなメールもまじっていた。毎月2回、真衣が中心となって合コンを開催していて、奈々子も出会いを求めて出来るだけ参加してきたが、今週末に開催予定だというその合コンには、奈々子は何だか乗り気になれなかった。
 真衣に今回はパスという返事を出し、総務や人事からの社内連絡事項についてのメールを取り除いてしまうと、直接仕事に関係するメールはわずかに数通となった。うち1通は、ミーティングのインビテーションで、差出人は美香だった。
 メールを開いた奈々子は、出席の返事をする前に椅子を立ち上がり、美香のワークステーションに駆け寄った。
「いつ決まったんですか!?」
「私がプロジェクトの話を聞いたのは先週なの」
「先週? ずいぶん慌しいんですね」
「会社あげての大きなポロジェクトだから、上も情報管理には気をつかっているの」
 メールには、来春発売予定の香水に関する広報活動について、ミーティングをもつとあった。
 奈々子の勤める会社、メルローズは大手の化粧品会社だ。若い女性たちに人気のコスメブランドをいくつか展開しており、今度発売する香水は新たに立ち上げるブランドの目玉アイテムだった。
 香水の開発、プロデュースにあたったのは、会社の企画開発部ではなく、ハリウッドセレブのジェーン・パークスだった。
 ジェーンは23歳、ニューヨークを舞台とした6人の男女の恋と友情を描くTVシリーズでブレイクした女優で、彼女がドラマで着た服や身につけたアクセサリーはあっという間に流行し、同世代の女性たちはみな彼女のヘアやメイクを真似したがった。
 これまでに洋服やバッグのプロデュースを手がけてきたが、どれも爆発的な人気を誇っている。
 そのジェーンが、メルローズ社とタッグを組んで香水をプロデュースすることになった。
会社としては最大限の宣伝を行いたい。効果的な宣伝には広報も含めて全社あげての戦略が必要だ。
 奈々子は、その香水の広報プロジェクトチームの一員に選ばれたのだ。チームリーダーは美香、他には広告・宣伝部や開発・企画部の人間が名を連ねていた。
「しばらく忙しくなるけど、よろしくね!」
「はい」
 奈々子の後頭部を、低い声がたたいた。いつの間にか、奈々子の後ろに太一が立っていた。
「こちらこそ、よろしくね、鈴木くん」
「え、何?」
「俺もプロジェクトのメンバーなんだけど」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

第6話 秘密

 午後2時からのミーティングに、太一はなかなか姿を現さなかった。会議室に、広告・宣伝部や開発・企画部のメンバーが集まり始めるなか、太一だけがやってこない。
 奈々子はひとごとながら、内心ひやひやしていた。美香は、世間話をしながら太一を待っていたが、5分、10分とたつうちにその表情がけわしくなっていった。
「はじめましょうか」
 時間は1分でも惜しい。10分すぎたところで美香はミーティングの資料を配り始めた。
「すいません……」
 大きな背中を丸めた太一が会議室のドアを開けて入ってきたのは、2時を20分すぎてからだった。美香の刺すような視線を交わし、太一は奈々子の隣に座った。奈々子は、太一のために取っておいた資料をすっと渡し、小声でそれまでのミーティングの様子を簡単に説明した。

 「鈴木くん、ちょっといい?」
 1時間のミーティングが終わり、関係者たちが次々と会議室を出ていくなか、美香が太一を呼び止めた。太一の少し前を歩いていた奈々子がちらっと後ろを振り返ったときには、会議室のドアは閉められてしまっていた。

「鮎川さんに怒られた?」
「まあな……」
 5分ほどすると、太一だけがワークステーションに戻ってきた。
「20分も遅刻したら怒られて当然ね。ミーティングがあるの、忘れてた? アラーム鳴ったよね?」
 社内にしろ、社外の人間と会うにしろ、時間を守るのは社会人としての基本だ。社内の人間同士だとつい気がゆるみがちになるが、1時間のミーティングで20分も遅れたら、自己管理がなってないとみなされても仕方ない。
「なんだよ、お前まで、鮎川さんみたいな口のきき方すんだな」
「20分も遅れたら、誰だって、どうしたの?っておもうけど」
 社会人としてのいろいろな基本を奈々子に叩き込んだのは美香だった。仕事をてきぱきとこなす美香は、奈々子の目標でもあった。
「ちょっと、腹の調子が悪くてさー。俺、緊張するとダメなんだ」
 太一はどうやらプロジェクトの大きさに緊張して、体調を崩してしまったらしい。
 もしかして、二浪したのも、試験前に緊張したせいかな、と、ふと奈々子はそんなことを思った。太一は、体の大きさに似合わず、案外と繊細な神経の持ち主なのかもしれない。
「鮎川さんには黙っててくれよな。昼に食ったもんが悪くて腹壊したってことになってっから」
「なんで? 正直に言えばいいじゃん」
「“緊張すると腹下すんです”なんてこと、鮎川さんに言えっかよ」
 美香には、太一は男として見栄を張りたいのだろう。
美香と太一は同い年だが、美香と話すときには太一は敬語を使う。奈々子も、美香ほど仕事はできないにしても経験からしたら先輩には違いないのに、太一は奈々子に敬語を使ったことがない。異性にはしにくいはずの下の話も、太一は奈々子には平気に話せて、美香には言い訳めいたウソをついている。美香を異性として意識しているのだろう。じゃあ、私は女として意識しない存在なのかと憤慨しつつも、奈々子は
「まあ、そういうんだったら……」
 と黙っていることを約束した。
 大きなプロジェクトごとに緊張して体調を崩すようでは、この先、プロジェクトをまかせてもらえなくなるかもしれない。キャリアを積んでいくつもりなら、致命的な欠点とみられかねない太一の秘密を、奈々子は守ることにした。
「鈴木くん、体調悪いなら、今日は早く帰っていいわよ」
 会議室から遅れて戻ってきた美香の声に、太一の背中がぴんとまっすぐにのびた。
「大丈夫です!」
 “頼むよ”と目で言い、太一は自分のワークステーションへと戻っていった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

第7話 陽気な下戸

 ハリウッドセレブ、ジェーンが、奈々子たちの会社、メルローズ社でプロデュースする香水について、広報担当として、奈々子は特設ウェブページを、太一はプレスリリース関係を、美香は来日するジェーンの記者会見の準備に追われていた。
 その合間にルーティンワークをこなさければならない。社外からメルローズ社が販売している商品についての問い合わせに答えるのはもちろん、ジェーンの香水以外の情報も発信しなければならない。会社の“口”として必要なことを言い、“顔”としてイメージも作っていく。もちろん、いいイメージでなければならないのは言うまでもない。
 そうしたルーティーンワークの合間にジェーンの香水の広報活動の準備をするので、自然と奈々子は残業することが多くなっていった。 
 マンションに戻って寝る時間をのぞけば、奈々子は1日のうち、ほとんどの時間を太一と過ごしていた。
 一緒に過ごす時間が長くなると、仕事のリズムまで似てくるのか、ふたりそろって残業することも多く、帰宅時間も同じ時間に重なる。奈々子がばたばたと帰り仕度を始めると、太一もPCをシャットダウンしている。互いに声をかけあわなくても、近所同士、帰る道のりは一緒だった。
 渋谷のオフィスからずっと仕事の話をし続け、奈々子のマンションの前でふたりは別れる。
 太一がマンションの先の曲がり角に消えたのを確認すると、奈々子は急いで近所のコンビニにかけこむのが日課だった。
 太一と一緒にいると、カップ麺だのコンビニの弁当などが買いづらい。一人暮らしの女のさもしい食生活はすでに垣間見られてしまっていたが、あれは例外だと言わんばかりに、奈々子は頑固として太一の前ではカップ麺やスナック菓子に手を出そうとしなかった。とはいえ、残業したあとでは、自分で何か作って食べようという気力は残っていない。太一に見られやしないかとスリリングな気持ちで、奈々子はコンビニ詣出を毎晩のように繰り返すのだった。
 その日、奈々子は突然、おでんが食べたくなった。秋風が冷たさを増してきたせいだ。渋谷のオフィスを出たときから口の中がおでんモードになってしまい、太一との仕事の話にも身が入らない。頭の中でおでんの具がぐつぐつ煮立っている。
(また、コンビニにダッシュだなー)
 そんなことを思いながら駅からの道をマンションへとむかって歩いていると、
「おでん食わねえ?」
 と、太一が足を止めた。その視線の先におでんの屋台があった。屋根の陰から、ほくほくの湯気がたちのぼっている。奈々子はごくりと唾を飲み込んだ。
「おでんー?」
 奈々子は気乗りのしないふりをした。テレビをはじめとしたマスコミと華やかにわたりあう広報部で働く女性として、地味なおでんは似合わないだろうというアピールのつもりだった。少なくとも、メルローズ社の広報の顔、美香とおでんは似合わない。もしかしたら、美香はおでんを食べたことすらないかもしれない。
「なんだよ、うまいんだぞ、おでんは。特に寒い時期の屋台のおでんは最高なんだぞ」
 太一は、必死に女の子ぶった演技をしている奈々子をほったらかしに、ひとりさっさと屋台へとむかっていった。
「さっきの話、まだ途中だったしね」
 ろくに聞いてもいなかった仕事の話の続きをするための言い訳をし、奈々子は太一の横に腰を下ろした。
「おじさん、俺、がんもとちくわと、あと、たまごね」
「はいよー」
 威勢のいい声とともに、たちまち太一の前に湯気のたつ皿が置かれた。
「そちらのお客さんは?」
「あ、はい、えっと、じゃあ、大根と―」
「俺、熱燗も」
 コップの縁にもりあがった日本酒を、太一は目を細めてすすった。
「お酒、好きだったっけ?」
 新人歓迎の飲み会以来はじめて太一と酒の席にいる奈々子だが、奈々子の記憶が確かであれば、太一は歓迎会だというのに、酒には手をつけていなかった。
「弱くてさー。すぐ顔赤くなるんだよ。でも、飲めないと男は仕事にならないからなぁ」
 そう言っているそばから太一の顔は、みるみる耳まで赤くなっていった。
「ちょっと! 弱いのになに飲んでんのよ!」
「酒、好きなんだよ。いいじゃんか、飲ましてくれたって」
「酔っ払ってもしらないわよ。鈴木くんみたいな大男、かついで家までおくるってわけにはいかないんだから!」
 小さな奈々子が大男の太一を重そうにひきずる場面を想像したのか、屋台の主人はくっくと声を殺して笑った。
「心配すんなって。酔っ払ったら、お前んちに泊めてもらうから」
「冗談でしょ! 泊めないわよ。ここに置いきぼりにするから!」
「ひでぇ」
 口ではそう言いながら、太一の目は笑っていた。酔うと機嫌がよくなるたちらしい。悪い酒を飲む人ではないようだった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

第8話 夫婦漫才

「俺たち、社内で何て言われてっか知ってるか?」
 酔いがまわりはじめた太一の目のふちが赤い。
「知ってるわよ。でこぼこコンビでしょ」
 忙しいルーティンワークの合間に、奈々子は関係各方面とミーティングをもった。ミーティングには太一も同席した。背の高い太一と奈々子とは、並んだときの見た目で、社内ではでこぼこコンビと呼ばれていた。
「昼飯さ、安東さんと食ってきたんだけど、安東さんに『お前ら、夫婦みたいなのな』って言われてさぁ」
「夫婦ぅ?!」
 広告・宣伝部の安東とは、太一、奈々子はもっとも頻繁にミーティングをもち、メールのやりとりを一番している相手である。30代後半の、雪だるまを彷彿とさせるファミリーパパだが、口がやや悪く、太一と奈々子をつかまえて「ジンベイザメとコバンザメみたいだな」とからかったことがある。
 悔しいので、「ええ、小判ならざくざっく」と応酬したら、それ以来、安東には面とむかってだろうと、メールの宛名だろうと奈々子は名前ではなく「コバン」と呼ばれるようになってしまい、太一は「ジンベイ」になった。
 その安東が今度は「夫婦みたいだ」と言い出したのだという。四六時中一緒にいる太一と奈々子とをからかったつもりなのだろうが、太一は「夫婦」と言われた意味がわかっていないらしく、だらしなく笑っている。
「仕事で一緒にいることが多いからって、夫婦呼ばわりされたら、たまったものじゃないわよ」
 付き合っているようにみえるカップルではなくて、いきなり夫婦とは、色気がなさすぎる。
「何だよ、イヤなのかよ」
 奈々子をみすえる太一の目がとろんとしている。奈々子はドキリとした。
「イヤっていうか……」
 太一を好きだったら、「夫婦みたいだ」と言われたら嬉しいのかもしれない。だが、奈々子にとって、太一はただの仕事仲間でしかないのだ……。
「付き合っているみたいな言い方されたら、困るでしょ? 彼女がイヤがると思うよ。自分の彼氏が他の女性と『夫婦みたいだ』なんて言われてるって知ったら、私なら傷つくなぁ」
「別に気にしないと思うけどなぁ」
 太一の何気ない一言は、彼女の存在をうかがわせた。
 付き合っている彼女らしい女性がいるのだと知っても、奈々子は驚かなかった。29歳、いい年した男性がひとり身であるわけはないし、見た目だけでいったら太一はモテる部類に入る。
 太一自身は気付いているかどうか、精悍な顔立ちでありながら繊細なイメージのある太一は、女性社員の熱い視線をあびている。仕事で常に一緒にいる奈々子は、彼女たちの嫉妬をひしひしと感じていた。
「気にするわよ。夫婦みたいだなんて言われた相手を意識しちゃうんじゃないかなあって、不安になるものよ。あまり彼女を不安にさせちゃダメだよ」
「お前は意識したか?」
「は? しないわよ!」
「じゃ、大丈夫じゃん」

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第9話 衝突

 夜は退社時間が重なり、同じ電車に乗って奈々子のマンションまで同じ道のりを歩く太一と奈々子だが、朝は顔をあわせたことがない。同じ駅を使っているのに、とおもっていたら、太一は朝早くに出社していた。
 残業しないで済むよう朝のうちに仕事を片付けてしまおうと、いつもより早めに出社するようになってわかったことで、朝のオフィスには、大抵美香か太一が一番に出社していた。
 ジェーンのプロデュースした香水は、クリスマスプレゼントとしての需要を見込んで12月頭に発売される予定だった。その発売日が間近に迫り、広報プロジェクトはいよいよ大詰めをむかえつつあった。
 奈々子の担当する特設ウェブページはすでに最終OKが出ている。美香が関わってきたジェーンの記者会見も、場所をすでに押さえて後は本人が来日するだけとなっている。太一が担当している記者会見や一連の情報についてのプレスリリース関係の処理が少しスケジュールから遅れていた。
 無理もない。経験も浅いのに、太一はいきなり大きなプロジェクトにかり出されたのである。仕事に対しては厳しい美香は、太一にも厳しい指導であたった。太一が用意したプレスリリースは、美香の指摘にあって、もう何度書き直されたか分からない。美香に注意されるたび、太一はワークステーションに戻って黙々と仕事を続けるのだった。
 そんな太一を、奈々子はイライラしながら見ていた。分からないことがあったり、問題にぶつかったりしたら、美香や自分に聞くなり、相談するなりしてくれたらいいのにと奈々子は思う。何といっても新人なのだから、分からないことがあって当たり前で、恥ずかしがることはない。だが、太一ときたら、誰に助けを求めるわけでも相談するでもなく、ひとりでデスクにむかうだけなのだ。
(手伝ってやるかなー)
 奈々子はPCにむかった。
 この数日、連日で美香から、奈々子にはCCで、太一あてにプレスリリースを投げる先のリストを出すようにと催促のメールが送られている。
 主だったメディア関係の連絡先のリストはすでに作成されているのだが、今回は特別にいつもはプレスリリースを出さないところにも投げると決まっていた。
 香水をプロデュースしたジェーンは、年代を問わず女性たちから圧倒的な支持を得ている。メルローズ社の主だった顧客は20代の女性たちだが、今回は上下ともに年齢層をひろげ、30代、40代やティーンをターゲットとした雑誌などにもプレスリリースを送ってみようということになった。
 女性誌など読みそうもない太一に、送付先のリスト作成は難しかったかもしれない。だが、奈々子にはどうということのない作業で、かたっぱしから連絡先を調べ上げ、さっさとリストを作成してしまった。
(こんなものかなー)
 出来上がったリストを、奈々子は太一にメールで送った。
 メールを受け取った太一は、奈々子のデータをコピーして美香に送るだろう。奈々子はそう思っていたが、夕方になっても太一から美香へのメールは送られず、CCで来るメールときたら、美香から太一へのリスト提出について催促するものばかりだった。
 太一からの返信はなく、しびれを切らした美香が太一のワークステーションにむかった。
「鈴木くん、リスト、今日中に出してくれる?」
「はい」
「もうずっとリストを出して、って言ってるわよね?」
「はい」
「私、今日は出張の飛行機の都合で早く出ないといけないけど、メールで送っておいてくれたら、出張先で確認するから」
「はい」
 というやりとりがあった後、美香は飛行機の時間がせまり、太一からのメールを受け取らずに退社してしまった。
 リストは、奈々子が作成して、太一に送ってある。どうしてそのリストを使わないんだと奈々子は疑問におもった。
(メール、届いてないとか?)
 太一から受け取ったという返信はもらっていない。奈々子は送信記録を確かめた。メールは確かに太一に送られている。添付し忘れたかと疑ったファイルも、きちんと添付されている。届いてはいるようだが、何通ものメールに埋もれて見逃されてしまっているのかもしれない。
 それなら口で直接言っておこうと、奈々子は太一のワークステーションにむかった。
「あのさ、さっきリストを送ったんだけど、メールみた?」
 椅子に座ったまま、太一は奈々子の方を向こうともしない。不機嫌なオーラがただよっている。
「メールなら見た」
「あのリスト、使っていいから」
 すると、それまでPC画面にむかっていた太一は、くるりと奈々子をふりかえった。
「なあ、あれ、俺がやらなくっちゃいけない仕事だろ? 人の仕事に手を出すなよ」
 太一はせいいっぱい感情を抑えていたが、あきらかに低い声には怒りがこもっている。
 手伝って感謝されるどころか、怒られたかっこうになってしまった奈々子は、むっとしていた。“俺の仕事”というが、厳密にはチームの仕事である。チームメンバーの奈々子が太一の仕事を手伝って文句を言われる筋合いはない。
「何よ、その言い方。私ならリスト作成は簡単にできるから、手伝ってあげたのよ。できないことはできないで、できる人間に頼ればいいじゃないの! それがチームワークってものでしょ!」
 奈々子は太一をきっと睨みつけた。椅子に座っている太一と、立っている奈々子とでは同じ高さに目線がくる。
 太一は何か言い返したそうだったが、いきなり立ち上がったかとおもうと、すたすたと廊下に消えていってしまった。

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第10話 気まずい空気

 太一の怒った顔を、奈々子は初めて見た。怒らせたのは奈々子だが、仕事を手伝ってやって怒鳴られたのだから、たまったものではない。
(私なら、手伝ってもらって喜ぶのに……)
 そう思いながら、奈々子は暗い夜道をマンションまでとぼとぼと歩いていた。
 背後には、ひたひたと後をつける足音が聞こえている。
 少し遅れてついてくるのは太一だった。
 何もこんな時にまで帰りが同じ時間にならなくてもいいものを、オフィスを出てから奈々子と太一は少し距離をおいて駅までむかい、同じ電車を乗り継ぎし、駅を降りてからも、少し離れてではあるが、同じ道のりをそれぞれの自宅へとむかっている。
 この時ほど、太一が近所でなければいいのにと奈々子が思ったことはなかった。
 奈々子の歩くスピードにあわせて、ゆっくりとした太一の歩調は地面を踏みつけるようで、まだ怒りがおさまっていないようだった。
 感謝されようとおもって、奈々子は太一の仕事を手伝ったわけではない。太一にも言ったように、できる人間がやれることをやったほうが効率がいいと、奈々子はそうおもって太一の仕事に手を貸したまでだった。
(私だったら……)
 自分が太一の立場だったら、どうおもっただろうか。
 初めて関わる大きなプロジェクト。任された仕事に対する責任感。空回りするほどのやる気。仕事をやり終えたときの達成感。
 奈々子は自分が新人だったころを思い出していた。美香は決して奈々子を手伝おうとはしなかった。アドバイスはくれるが、手は出さない。当時は厳しいとおもったが、今となっては、どうにか一人前に仕事ができる人間に育ててもらって、奈々子は美香に感謝している。
 どんな困難な状況にあっても、自分でやり遂げていかなければならない仕事というものがある。太一の場合はリスト作成だった。太一が成長する機会を、奈々子はむざむざと奪ってしまったのである。
(自分でリストを作ってみたかったんだろうな……)
 太一が怒ったのも無理はない。自分が太一の立場で、自分の力でどうにかしようとしているのを横から手を出されたりしたら、やはり気分を悪くするだろう。奈々子は自分がしでかしたことの大きさに、今さらながら気付いて、気持ちが重くなった。
(悪いこと、しちゃったなあ……)
 奈々子は、メール便を取ってくれた太一を思い出していた。手も届かないのに取れるはずだからとおもっていた奈々子は、上から手を伸ばした太一に感謝するどころか、頼んでもいないのに、と失礼な態度をとったのだ。
 対して、太一は、『背が高いから取っただけ』『できないことはできないで、できるやつに頼めばいいんだ』と、リストを勝手に作成してしまった奈々子と似たようなことを言ったのだった。
(私の場合は、単なる郵便物だけど、仕事で同じことをされたらイヤだし……)
 考えてこんでいるうちに、奈々子はマンション前についてしまった。
 いつもなら軽く挨拶して分かれるのだが、今日は少し遅れて歩いている太一がマンション前につくころには、奈々子は自分の部屋までたどりついてしまっているだろう。
 謝ろう。
 奈々子はエントランス前で足をとめ、太一を待った。

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第11話 トイレ、借ります

 なんか悔しい気持ちがしないでもないけど、謝ろう。
 奈々子はそう決めた。悪いことをしたわけではないが、コミュニケーション不足だったのは確かで、頼まれもしないのに一方的に太一の仕事に手を出してしまったのは奈々子が悪い。
 何と言って謝ろうか。奈々子が口の中でもぐもぐとセリフを考えているうちに、太一がエントランス前までやってきた。
 奈々子をみるなり太一は
「悪りぃ、トイレ借りていい?」
 と言った。
 暗がりから現れた太一の思いつめたような様子に、何を言われるのかと体をこわばらせた奈々子は、足元がすくわれる思いがしていた。
「い、いいけど」
 奈々子が部屋の鍵を開けるなり、太一は案内されるがまま、トイレにかけこんだ。
(あと少しで自分のマンションなのに、我慢できなかったのかしら?)
 太一は、奈々子のマンションを少し行った曲がり角を行った先に住んでいるはずだ。
 お茶ぐらいは出したほうがいいかと奈々子は思ったが、よくよく考えてみれば、夜遅く、独身の女性の部屋にあがりこんでいる男性を歓待しなければならない理由がない。太一は恋人でも何でもない、ただの仕事仲間なのだ。
 それとも、太一はトイレを口実に奈々子の部屋にあがって、とよからぬことを考えていたのだろうか……。
(トイレ借りにきただけよ、あとはさっさと帰ってもらって―)
 リビングで奈々子がそわそわしていると、さっきまでの青ざめた顔色はどこへやら、すっきりした様子の太一がトイレから出てきた。
「トイレの電球、切れてるぜ」
「あ、そうだった」
 今知ったような顔で奈々子は聞いていたが、実は一週間前から切れてしまっている。換えないといけないとおもいつつ、奈々子の背では届かないのと、別に生活に支障がないのとで、ほったらかしにしてある。ユニットバスの風呂に入るときには、キャンドルを使った。かえってリラックスできる。
「…あのさ、ありがとな」
 居残られたら……という奈々子の心配をよそに、太一はさっさと玄関先へむかい、靴を履こうとしていた。
「トイレのことじゃなくて、イヤ、トイレもそうだけど、リスト…な」
「うん」
 パンプスを脱いだ奈々子と太一の身長差が5センチ開いていた。いつもにもまして、太一の横顔が遠い。
「私こそ、頼まれもしないのに手伝ったりして、ごめんね。一言、きけばよかったよね」
「俺ら、チームだし。お互い、できることをやって補っていくっていうかさ」
「うん」
「できない時は、助けを求めてもいいよな……」
「うん」
「じゃ、また明日な」
「うん……」
 来たときとは打って変わっての笑顔で、太一は奈々子の部屋を後にした。
 カーテンを閉めようと窓際に近寄った奈々子は偶然、マンションを出ていく太一の姿を目にした。暗がりで姿はよく見えないが、大男の影は間違いなく太一だった。太一は、自宅のあるはずの方角とは逆の方向、駅にむかって歩いていた。
(コンビニにでも寄るのかな?)
 その時の奈々子はそう思っていた。

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第12話 折られたヒール

 その日はいつもと変わらない朝だった。
 太一がいるかとホームを探すが、朝は一度もみかけたことがない。
 出社してすぐに奈々子はメールのチェックをはじめた。太一はまだ出社していない。
 重要フラグのたったメールから、奈々子は読み始めた。
 それは、香水の発売が中止になったことを知らせるメールだった。
 奈々子の背筋を冷たいものが走り抜けていった。
 取り急ぎ、香水発売中止のプレスリリースを出さなければならないが、すでに美香が動いているはずだ。美香のワークステーションには、飲みかけのコーヒーがあったが、ラップトップが見当たらないことから、おそらくどこかでミーティングをしているのだろう。
 次第に出社する人間が増え、みるみるうちにメールボックスがいっぱいになった。遅れて出社してきた太一とは直接話をする余裕もなく、メール上で他の関係部署をまじえてのやり取りに追われた。
 夕方になると、騒ぎはいったん落ち着きをみせた。
 中止のプレスリリースの段取りは決まって、あとは明日、一斉に各マスコミに連絡を取るだけとなった。
「ジェーンのPRと、うちの上とでもめてね。表向きはジェーンのイメージ戦略と、今回の香水プロデュースがあわないってことなんだけど―」
 美香は言葉を濁したが、言外に金銭がからんでいることをにおわせていた。来日するジェーンのための記者会見の段取りを進めていた美香は悔しそうな表情をみせたが、奈々子はもっと悔しかった。
 それまで、残業しようものなら人生の時間が食いつぶされるような気がしていた奈々子だったが、今回に限っては残業もいとわないほど働いた。
 社会人になって3年、ようやく一通りの仕事にも慣れ、そつなくこなせるようになった奈々子は、もう一段上を目指していた。会社のイメージを保つための地道な裏方もそれなりに楽しいが、表舞台も体験してみたい。奈々子は野心を抱いていた。そんな矢先にふってわいたジェーンの香水プロジェクトである。
 奈々子は、広報として「ハリウッドセレブのプロデュースによる香水発売」という事実以上の情報を発信したいと思った。ジェーンはアイデアと名前を出したかもしれないが、実際に商品を形として世に送り出すのは、企画・開発部の関係者たちだ。彼らの香水に対する思い、熱意をどうしても伝えたい。
 奈々子は、自分が発信した情報がどこに到達するかを見届けたかった。会社としては売上という到達地点があるが、奈々子の仕事、広報には数値目標がない。イメージという、形のないものを作っていくのが奈々子の仕事で、今回ほどやりがいを感じた仕事はなかった。
 香水発売という事実以上の情報を発信する。それは奈々子の出したアイデアだった。香水が発売されて、いい反応が得られていたら、奈々子はひとまわり成長できていたように思う。
 だが、プロジェクトは頓挫した。奈々子のアイデアは世に出ることはない。成長する機会を奪われた奈々子は、プロジェクト前の奈々子に戻ってしまった。
 しょせん、ルーティンワークをこなしていればいいのだと言われた気がする。それ以上の伸びはない。ちょうど、身長が155センチで止まってしまったように。
 プロジェクトのために一生懸命働いていたときの奈々子の世界は輝いていた。自分の背丈より少し高い位置にある世界。成功すればその世界を堂々と歩けるのだと思っていた。
 だが、奈々子がのぞきみていた世界は、5センチのヒールに乗った世界だった。
 のびるはずだったキャリアは、プロジェクトというヒールが折れたせいで、成長が止まってしまった。
 あと5センチ ― いつも5センチたりない。手に入れたいものは、奈々子の指先を逃れていってしまう……。

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第13話 バレエシューズ

 香水発売中止の事後処理は、あっけなく済んでしまった。準備には相当な時間をかけたというのに、中止のプレスリリースを出し、問い合わせに対応しているうちに、会社は別の方向へと進みだしていた。
 奈々子だけがまだ同じ場所にとどまっている。
 ルーティンワークをこなすだけの奈々子は、ヒールを脱がされて素足で立たされているようなみじめさを感じていた。
「お先に失礼します」
 仕事はまだあったが、残業する気にはなれない。明日に持ち越してもどうということのない仕事である。
 奈々子は定時でオフィスを出た。
 だからといって、いくあてもない。マンションにもまっすぐには帰りたくない。あてもなく、奈々子はセンター街へふらりとむかった。
 週のなかば、水曜の夜とあって、街を歩く人々の足は速い。気分がせいて、金曜日を待ちかねている足取りだ。
 ショーウィンドウをみてまわるだけで、奈々子は買い物をする気にもなれなかった。
 シューズを扱う店には、バレエシューズが目立つ。
(背の高い人だから、似合うのよ)
 平均身長以下の奈々子に、ぺたんとしたバレエシューズは似合わない。幼稚園生が上履きを履いているようにしか見えないだけで、かえって足の短さを際立たせてしまう。
 むしゃくしゃした気分で、奈々子はゲームセンターに立ち寄った。
 いつもならうるさいと思う喧騒が今日は逆に心地よい。心に浮かぶひとり言の恨み節を聞かないで済む。
 両替をすませ、小銭を握りしめた奈々子は、パンチングマシーンにむかった。
 バカやろう バカやろう
 マシーンのグローブに奈々子はやりきれない怒りをぶつけた。
 誰が悪いわけでもない。突然契約を打ち切ったジェーンは悪いが、彼女を責めようがない。
 せいいっぱい仕事をしてきたのに、あの時間は無駄になった。あの時間を返して欲しい……。
 奈々子はグローブにむかって、拳を繰り出し続けた。
「俺にもやらせてくれ」
 太一の声はよく通る。ゲームセンターのけたたましい音のなかで、太一の声だけがはっきり奈々子の耳に聞こえてきた。いつの間にやってきたのか、太一が背後に立っていた。奈々子は黙って太一に順番をゆずった。
 スーツのジャケットを脱ぐなりネクタイをゆるめ、シャツの袖をまくりあげた太一は、マシーンに殴りかかっていった。
「駅前にさっ、うまそうな焼き鳥の店っ、みつけんだけどっ、今日寄ってかねっ?」
 太一は奈々子の倍のスコアをたたき出した。
「おごりならね」
「おごるよ。リストの借りもあるし」
「結局、使わなかったリストで、私、役には立ってないけどね」
 太一の最後のパンチは最高記録を叩きだし、ふたりはゲームセンターを後にした。

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第14話 酒と牛乳と男と女

一坪ほどの小さな店で、太一は縮こまるようにして焼き鳥をつついている。食べっぷりのいい太一を目の前に、奈々子はチューハイを傾けていた。
「酒強いなー」
 奈々子はまるで酔った様子がない。酒が弱く、ビール一杯でも顔が真っ赤になる太一は、まったく顔色の変わらない奈々子に感心していた。
「女の子が強いと、かわいげがないでしょ」
 と言いながら、奈々子は何杯目になるかわからないチューハイを注文した。すでにかけつけのビールは飲み終わっていて、口をつけただけの太一はまだ少し赤味が顔に残っているが、奈々子は素面である。
「父の血なの。父はお酒が強くて、でも、母は下戸」
「俺んとこと逆だな。親父は下戸だけど、お袋は強くてさー」
「お父さんの血が強いんじゃない? お父さんも背が高いって言ってたよね?」
「親父もアニキもでかいから、正月とか集まると暑苦しくてさ」
「うちと逆だなあ。うちは弟だけが大きくて、親も私もこじんまりとしてる」
「弟、身長いくつ?」
「んーんと…180あるのかな? 牛乳が大好きで、水みたいに飲んでたわよ。私は苦手だったけど」
 牛乳を飲めば身長が伸びると言われている。現に、成長期に毎日飲み続けた弟は、それこそ1日1日と背が伸びていった。苦手だが、背が伸びるならと、奈々子は飲もうと努力した。だが、体に合わないので、結局、飲まなくなった。上原家では、奈々子の身長が伸びなかったのは牛乳を飲まなかったせいということになっている。
「牛乳は関係ないと思うぜ」
「そう?」
「俺、牛乳苦手で全然飲まなかったけど、でかくなったし」
「遺伝なのかなぁ」
 奈々子の両親は、ふたりそろって平均そこそこの身長でしかない。どういうわけか、ひとり背の高い弟は、牛乳を飲み続けたからだと思っていたが、牛乳嫌いの太一の背が高いのは遺伝のせいだと知ると、奈々子はがっかりした。
 持って生まれた以上のものは得られないのだとしたら…奈々子の背が遺伝子で決められた高さで伸び留まったように、どんなに努力しても、奈々子は自分の能力以上のものを手に入れられない。
 5センチのヒールで、望んでいた身長160センチの世界をのぞいているが、しょせんはごまかしに過ぎない。ヒールを脱いでしまえば、みじめな現実が待っている。
 香水プロジェクトは、しょせん、5センチのヒールでしかなかった。プロジェクトに関わっていた時に見えていた世界は、自分が本来手にするものではないのだ。
 奈々子は悔しさをチューハイとともに胃の底へと流し込んでしまった。



 どんなに飲んでも酔った気がしないとおもっていた奈々子だが、あまりいい酒の飲み方をしなかったらしい。店を出た時には、めずらしく足元がふらついていた。
「あー、もう、めんどくせっ」
 千鳥足で歩く奈々子を見かねて、太一はひょいと奈々子を肩に抱き上げた。抵抗する間も気力もないままに肩車された奈々子は、だらしなく顎を太一の肩に乗せていた。
 酔いのひいた白い太一の耳たぶが目の前にある。整髪剤のムスクの香りが奈々子の鼻をくすぐった。うっすらとヒゲが伸び始めている。奈々子は手をのばして太一の頬に触れた。チクチクとした感覚が手の平をくすぐった。
「おい、やめろって」
 口ではそう言いながら、太一は奈々子のしたいようにさせていた。
 太一に肩車されて見る世界は、未体験のものだった。視界が広い。街灯が縮んで、アスファルトの地面が遠くにある。これではアリや虫が歩いていても気付かない。
世界が奈々子の(正確には太一の)足元にひれ伏している。
 195センチの太一の世界、奈々子のみているものとは違う世界。
いつもこんな世界をみているんだ ―
 並んで歩いたら、頭の上が見えるだけで、人の顔なんか見えないんだろう ―
 頭の上のほかに、彼は私の何をみているんだろう……

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第15話 トイレの電球

 金属のこすれあう音で、奈々子は目を覚ました。寝ぼけた目に、ドアノブがくるりと回転したのが見えた。
 玄関の鍵を開けて入ってきたのは、太一だった。
「悪りぃ、起こしたか」
 玄関をあがってずかずかと歩いて部屋に入ってきた太一は、奈々子がいつもそうするようにキッチンのテーブルに鍵を置いた。
「ちょっと、何、人んちにあがってきてるのよ。ってか、何で鍵もってるの?」
「昨日、お前が渡したんだろ」
 最寄駅の近くの焼き鳥屋で悪酔いし、太一の肩車に揺られて気持ちよく寝入ってしまってからの記憶が奈々子にはない。
 とっさに布団をめくって、奈々子は身につけているものを確かめたが、昨日と同じ洋服のままだった。カーテンからは薄い朝の光が漏れ入ってきている。
「ねえ、もしかして、昨日うちに泊まった?」
 緩めてあるものの、太一のネクタイは昨日と同じもので、見た目にもはっきりとわかるほどにヒゲが伸びていた。
「まあな」
「『まあな』じゃなくってっ! 自分ち、すぐ近所じゃないの?! どうして帰らないで、一人暮らしの女の部屋に泊まったりしたのよ!」
 太一の住んでいる場所は、奈々子のマンションの先をいった曲がり角の先のはずだった。
「俺だって、泊まろうとしたわけじゃないぜ。帰ろうと思ったんだけど、鍵がさ」
「鍵がなによ」
「俺が鍵をおいて出てったら部屋に鍵がかかってなくて不用心だろ? かといって俺が外から鍵かけて出ていったら、お前が部屋から出られなくなるし」
「で、しょうがなく、うちに泊まったってわけ?」
「言っとくけど、俺、何もしてないからな」
 太一に言われないまでも、すでに何もなかったと奈々子は確認してある。太一はリビングのソファーで寝たらしく、クッションが片側に寄っていた。
「鍵のことがあって泊まったのはわかったけど、何で出ていってまたうちに戻ってきたの?」
 朝になったなら、奈々子を起こして部屋を出ていけばいいだけの話だ。それなのに太一は奈々子を寝かせたまま外出し、再び部屋に戻ってきた。
「電球、かえようと思ってさ」
 太一の手には電球の球がにぎられていた。朝早く、コンビニで買ってきたらしい。
 トイレの電球が切れたままなのは奈々子も知っている。かえないといけないと思っていながら、椅子にあがって電球を取りかえなければならない手間を面倒くさがって、奈々子はほったらかしにしていた。
「まだかえてなかったんだな」
 と言うなり、太一はトイレに入っていった。
 ユニットバスの低い天井に今にも頭のつかえそうな太一は、ひょいと手を伸ばし、くるくると切れた電球を取り除き、新しい電球に付けかえた。奈々子にはちょっとした一仕事を、太一はいとも簡単にやってのけた。
「朝飯、食えるか?」
「たぶん」
 胃がもたれた感じはあったが、何か食べておかないと身がもたない。
「一応、作っておくから、食えたら食っとけよ」
 まるで自分のうちのように、太一は奈々子の部屋のキッチンに入って朝食の仕度を始めた。
 奈々子には広いキッチンが、太一のせいでプレイハウスのように小さくみえる。奈々子には少し高いシンクは太一には低すぎて、洗い物をする太一は使いづらそうにしていた。
 奈々子の目の前でたちまち卵焼きができあがっていった。食欲はないはずだったが、ふわりとした卵の匂いにつられて口の中につばが湧いてきた。
「コンビニでおにぎり買ってきておいたから食えるなら食っとけ。味噌汁も買っといた。二日酔いには味噌汁が効くらしいから、飲んどけよ。じゃ、あとでな」
 コンビニの袋から取り出したものをテーブルに並べ終わるなり、来た時と同じようなあわただしさで、太一は奈々子の部屋を後にした。時計は7時をまわっていた。
 窓から太一を見送る奈々子は、再び自宅があるはずの方向とは反対にむかう太一の姿をみた。太一は駅へとむかって走っていた。
(昨日と同じ格好だといろいろ勘ぐられるから、家に帰って着替えてくればいいのに―)
 そんなことをまだ酔いの残る頭で考えながら、奈々子も身支度にとりかかった。

 「おはようございます」
 奈々子が出社した頃には、太一はすでにオフィスにいて、美香のワークステーションで話しこんでいた。そのシャツもネクタイも、昨日とは違う。ヒゲもきちんと剃られていた。

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第16話 淡い恋心

 身長195センチの太一は、どこにいても目立つ。太一を探すのに、奈々子は苦労したことがない。渋谷の金曜日の夜の雑踏の中でも、奈々子は太一を見つけだせる自信がある。
 いつの間にか、奈々子は気付くと太一の姿を探してしまうようになっていた。見渡すオフィスで、頭ひとつ突き出ているのが太一だ。そして、気付いてしまった。
 太一の隣には、いつも美香がいる。
 すらりと背の高い美香は、いつもハイヒールを履いている。もともと165センチ以上ある背はヒールを履いて170センチを超え、背の高い太一とよくつりあっている。
 奈々子が香水のプロジェクトで太一と行動をともにしていたときには、あまりのつりあいの取れなさに、でこぼこコンビだの、ジンベイザメとコバンザメだの、あまりよろしくないあだ名をもらったのに、美香と太一とでは似合いすぎて、誰も何も言わない。
 首をあげて太一を見上げなければならなかった奈々子とは違って、美香は少しあごをあげるだけ、上目遣いで太一を見つめている。その目の縁が甘たるい媚を帯びていた。
(美香さんは、鈴木くんが好きなんだ)
 奈々子は美香の気持ちに気付いてしまった。太一もまんざらではない様子で、美香との話に花を咲かせている。同い年とあって、話もあうのだろう。
 社にいるときは、似合いすぎるふたりを見ないようにする奈々子だったが、駅のホームでは朝も夜もつい太一の姿を探してしまう。香水のプロジェクトが中止になってしまってからというもの、奈々子は太一と帰りが重ならなくなっていた。
 もしかしたら、近所のスーパーで出くわすかもと思って、休日でも化粧を忘れずに外に出るが、太一の姿を見かけることはなかった。
 香水のプロジェクトであれだけ長い時間一緒にいたのに、今さらながら奈々子は太一をあまり知らないと思った。
 近所に住んでいるとは知っているが、詳しい場所は知らない。緊張すると体調を崩すことも、酒好きだが弱いことも、実は牛乳が苦手だということも知っている。だが、趣味は何か、休日には何をして過ごすのか、どんな女性が好きなのか ―。
 毎日のようにマンションまでの道のりを一緒に歩いてきたのに、話といえば仕事のことばかりだった。
 今になって、奈々子は、なぜもっと太一自身を知ろうとしなかったのかと悔やんだ。
 だが、太一はもう手の届かないところ、彼の似会う場所、美香のそばにいってしまった。
 あともう少しで手が届きそうだったのに―。
 酔ったところをマンションまで送ってくれたり、切れた電球を取り換えてくれたり、朝食まで用意してくれた。太一はもしかしたら自分のことが好きなのではないか。そう思い始めたが、ただ親切なだけだったようで、太一から色めいたアプローチはまったくない。
 しょせんヒールを履かないと届かない恋なんて ―。
 素足のままでも十分太一とつりあいのとれる美香と、ヒールを履いてもジンベイザメとコバンザメとからかわれる奈々子とでは、勝負にならない。
 奈々子は、このところろくに連絡を取っていない大学時代からの悪友、真衣に、今度の合コンへは出席するというメールを送った。

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第17話 新しい出会い

 きっちり月2回、真衣は合コンを開催している。大学卒業してすぐに始められた合コンはもう何度行われたかわからない。出会いは多いにこしたことはないというのが真衣の考えで、ぐずぐずしているといい男は他に取られてしまうからと、まだ焦る年でもないのに、真衣は結婚に対して真剣だった。
 真衣ほど真剣ではないにしろ、奈々子も出会いを求めてできるだけ参加するようにしていた。結婚も就職活動も、早目に手を打っておいて損はない。だが、香水プロジェクトに携わるようになって合コンどころではなくなり、しばらく足が遠のいてしまっていた。
 考えてみれば、このところ太一以外の男性と話をしていない。男の人とはどんな話をすればよかったかと考えているうちに、奈々子は待ち合わせ場所のイタリアンレストラン「ピノキッオ」に着いてしまった。
 青いドアが目印だと聞かされていたレストランの前にはすでに真衣が来ていて、男性と楽しそうに話をしていた。
「奈々子!」
 真衣のほうがめざとく奈々子をみつけ、手をふった。振り返った男も軽く、会釈をしてみせた。
「女性の『かわいい子を連れていくから』は、あてにならないけど、今日はホントにかわいい子ばかりだね」
 村上和也と名乗った男性側の幹事の男は、失言とも取れるお世辞を口にした。
 細身のスーツに身を包み、ネクタイは外してシャツのボタンを開けていたが、だらしないというのではなく、うちとけた感じがする。ややパーマのかかった髪は長く、少し明るい色が入っている。男性とは思えないほど肌がきれいで、ヒゲなど生えなさそうな、つるりとしたあごだった。外見から華やかな職種を連想した奈々子の予想はあたっていて、その後の自己紹介で和也は広告関連の仕事をしていると言った。
「もう1人は遅れるってメールがあったから、先に入ってようか」

 和也はワインに詳しいらしく、席につくなり、真衣と奈々子の好みを聞き出し、それぞれにあったワインをあてがってしまった。
「ねえ、この店、選んだの、真衣?」
 奈々子は小声で真衣にたずねた。
「ううん、村上さんのチョイス。センスいいよね」
 真衣はどうやら村上に狙いを定めたようだった。自分のホームで勝負するなら村上に勝ち目がある。真衣はまんまと村上の手の内にはまったらしい。
 外見がソフトで、女性のエスコートに長けた男性は、どうかすると女性を、自分を飾りたてるためのアクセサリーのように考えがちだ。彼らは、自分のテリトリー内に獲物を誘い込んで狩りをする。彼らは恋愛という狩りを楽しむだけであって、結婚は考えてもいなかった。
 口当たりのよさについ手を出してしまって悪酔いし、あとで泣くはめになるとわかっていながら、真剣に結婚を考えているはずの真衣はそういう男性にばかりひかれている。当の真衣ではなく、毎度愚痴を聞かされ続けてきた奈々子のほうに、その手の男への免疫抗体ができてしまって、和也もその手合いの男かと、奈々子はガードをかたくした。
「悪りぃ」
 ワインで乾杯し、3人それぞれの簡単な自己紹介が終わった頃、2人目の男性が現れた。
 男性側の2人目は、鈴木太一だった。

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第18話 元カノ

「上原奈々子です」
 合コンの席で太一を見るなり、奈々子は太一だとすぐにわかったものの口をついて出たのは初対面の挨拶だった。奈々子が他人のふりで名前だけを名乗ったので、太一も奈々子に合わせる格好で、初対面のふりで頭を下げた。
「こいつ、大学のときの同級生。っても、こいつの方が2つ年上なんだけど」
 放っておくと和也は浪人だの留年だのといった話をしかねない。太一が気を悪くするだろうからと奈々子はすかさず
「背高いですね、何センチあるんですか?」
 と話題を変えた。とたんに真衣がくいついて、話は年から太一の身長へと反れていった。
「鈴木さん、仕事は何してるんですかぁ?」
 酔うと真衣は舌足らずなしゃべり方になる。ただでさえ垂れた目が酔うとますます目じりがさがって、かわいらしさが倍増する。
「広報、だけど……」
 知り合いの和也の手前、嘘はつけないと太一は白状した。出来れば言いたくはなかったと言わんばかりの小声だったが、真衣にはしっかりと聞こえていた。
「広報? 偶然! 奈々子も広報だよね、メルローズ社の」
 真衣は純粋に驚いて、奈々子の体を軽くゆすった。仕方なく、奈々子はうなずいてみせた。そっと太一の顔をうかがうと、太一はふいっと横をむいて不機嫌な様子だった。
「メルローズ社? こいつもメルローズ社だけど。あれ、もしかして2人とも、知り合い?」
 和也にそう言われ、2人は観念して顔を見合わせてうなずいた。
「なんだ、知り合いか。それならそうと言ってくれないと。合コンは新しい出会いを求める場所なんだから」
 知り合い同士話をしてもつまらないからと、和也は無理やり席替えを要求し、奈々子は和也のとなりに、太一は真衣のとなりへと移動させられてしまった。
「ねえ、もしかして鈴木と付き合ってたりする?」
 奈々子が移動してくるなり、和也は単刀直入、奈々子に尋ねた。
「まさか、ただの同僚です」
「ふうん、『だだの同僚』ねえ」
 意味ありげに和也は含み笑いを浮かべていた。
「奈々子ちゃんて、太一のタイプなんだよね。あいつ、小さい子が好みなんだよ、なあ、太一」
「はぁ?」
 話の前後がわかっていない太一は、不機嫌に聞き返した。
「お前の好み。小さい子が好きだよな。元カノも小さかったもんな。30センチぐらい差があったんじゃなかったっけか?」
 でこぼこしたカップルを思い出しておかしくなったのか、和也は笑ったが、太一は笑っていない。奈々子も笑えなかった。太一の元カノの話なんか聞きたくはなかった。
「村上さんのタイプは?」
 村上に狙いを定めている真衣がすかさず尋ねた。
「僕はねえ……」
 和也の理想の女性像とやらをえんえん聞かされながら、奈々子は太一の元カノに思いをめぐらしていた。
 美香のような背の高い美女ではなく、背の低い女性。美香には勝ち目がないから最初から勝負を挑まないが、小さかったという元カノには嫉妬した。
 小さいというけれど、どれくらいの背の高さだったんだろう。平均身長でも、太一と並ぶと小さくみえるから、奈々子より背が高かったかもしれない。低かったかもしれない。
 かわいい人だったんだろうか。その人のために、切れた電球を換えてやったりしたのだろうか。
 背の高さは違っても、太一と同じ世界を見ていた人がいるのだ……。
 
 「ちょっと失礼します」
 真衣が席を離れて数分後、奈々子のケータイが鳴った。真衣からのメールで、「集合」とあった。
 女子トイレは、合コンの戦略会議室だ。メイクを直し、ヘアスタイルを整えて、いざ戦う相手の見極めに入る。真衣のメイク直しはいつになく念入りだった。
「私、村上さんに決めた」
 奈々子が姿をみせるなり、真衣はそう宣告した。村上と親しげに話している奈々子への牽制のつもりらしい。
「ねえ、なんで鈴木さんと知り合いだって黙ってたの? 彼がお店に来た時にわかったんじゃないの?」
 真衣は女子トイレの鏡にむかって唇を尖らせていた。
「ごめん。合コンの場で同僚に出くわすってなんか気まずくて。向こうも他人のふりしてたから、こっちも合わせてつい……」
 奈々子は鏡の真衣にむかって手を合わせた。太一に会って気まずい思いをしたのは本当だが、他人のふりをしたのは奈々子が先で、合わせたのは太一の方だった。
「彼女さがしにやっきになっていると思われたって思ったのかもね」
 真衣の推測は、奈々子にこそ当てはまった。太一の顔を見てとっさに他人のふりをしたのは、彼氏さがしにやっきになっていると思われたという気になったからだった。
「ただの同僚? 付き合ってたりはしない?」
 鏡のむこうからの真衣の視線が痛かった。まだ嘘があると思われているらしい。
「ただの同僚」
 口にしてみると何だか無味乾燥な関係だった。太一とは同僚以上の何の関係もない。
「そうなの? お似合いだと思うけど」
「彼、たぶん彼女、いるわよ」
「いるんだ?」
 美香の姿を思い浮かべ、奈々子はうなずいてみせた。
「ふうん。村上さんの話だと、奈々子、鈴木さんのタイプらしいのにね」
「元カノの話で、今は好みが変わったんじゃない?」
 鏡にうつった自分の顔と、美香とを奈々子は較べていた。大人っぽい色香のただよう美香に対し、奈々子の顔にはどこか子どもっぽさが残っている。
 メイクの仕方を変えようかな ― そんなことを思いながら、奈々子は口紅を塗りなおした。

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ジャンル:小説・文学

第19話 送り狼

 和也たちと別れ、奈々子は駅ではなくタクシーを拾おうと大通りを目指した。電車はまだ走っているが、今夜に限って太一と同じ道を帰る気になれなかった。
 目の前にとまったタクシーに乗り込み、行き先を告げようとすると、閉まろうとするドアの隙間からするりと体を入れてきた男がいた。和也だった。
「送るよ」
 送ってきたついでにマンションまであがりこむつもりでいるのだろう。簡単な女にみられたものだと奈々子は悔しい思いで唇をかんだ。
 それなら自分がタクシーを降りてしまおうとおもったその時、助手席の窓を叩く音がした。
 太一が背中を丸めて後部座席をにらみつけている。運転手は奈々子たちの知り合いだろうと、助手席のドアを開けた。
 奈々子のマンションにあがろうともくろんでいたらしい和也はあからさまにイヤな顔をしてみせた。
「同じ方向なんで、俺も乗ってっていいか?」
「ウソだろ? 奈々子ちゃんを送って自宅の場所を知ろうっていう気なんじゃないのか?」
 太一を非難する和也の言い分は、そのまま和也の魂胆だった。
「本当です、私たち、近所なの」
 自分を避けるために奈々子までウソをついているのではないかと疑っているような和也だったが、もめるのは時間の無駄だとおもったらしく、おとなしくなった。
 タクシーは3人を乗せ、太一の告げた場所にむかって走り始めた。

 奈々子のマンションに着き、タクシー代についてひとしきりもめた後、ようやく奈々子は和也から解放された。奥にすわった奈々子を降ろすため、先に和也がタクシーをおりていた。開いたドアにもたれた和也は、まるで奈々子がタクシーから降りるのを阻止しようとしているようにもみえた。
 助手席には太一がすわって、和也に睨みをきかせている。太一のおかげで奈々子は無事にタクシーをおりることができた。太一がいなかったら、和也は何だかんだと理由をつけて強引に奈々子の部屋まであがりこんできていたかもしれない。
「それじゃ、おやすみなさい」
 名残惜しそうな和也を乗せ、タクシーは少し先の角にはいり、曲がってみえなくなった。そこには太一のマンションがあるはずだ。太一をおろしたあと、和也が戻ってくるかもしれない。奈々子はあわてて部屋にもどり、カーテンをきつく閉めた。



「はい、昨日のタクシー代」
 出社するなり、奈々子は太一のワークステーションにむかった。
 昨夜、奈々子のマンションまでのタクシー代を、和也は自分が出すといい、奈々子は断った。太一は自分が出すと言ったが、それも断り、割り勘にしようと提案した。だが、太一は大きな金額しかもっていなかったので、その場は太一に払ってもらい、後で精算しようという話に落ち着いたのだった。
「昨日、どっかに泊まったの?」
 太一が昨日と同じネクタイをしていると、奈々子はめざとく気付いた。
「なんでわかるんだ?」
「昨日とネクタイが同じ」
「よく見てんな」
 太一はするりとネクタイをほどき、シャツのボタンをはずした。ちらりとみえてしまった胸元から、奈々子は慌てて視線をそらした。
「村上のとこに泊めてもらった。あいつんちからだとオフィスが近いからな」
 だとすると、和也は自宅よりも遠くの奈々子をわざわざ遠回りして送ったことになる。
「…村上さんとはよく合コンするの?」
 夕べのうちに聞きたかったことを奈々子は思い切ってたずねた。知り合い同士だとわかるなり、太一とは離されてしまって、ろくに話もできなかった。
「数合わせに呼び出されただけだよ。そっちこそ、どうなんだよ」
「合コン? いろんな人と出会える場だから楽しんでるわよ」
 太一の語気が奈々子を責めているようで、受ける奈々子もつい強い調子で返してしまった。
「鈴木くん、ちょっと」
 美香に呼ばれ、太一は飛ぶように美香のワークステーションにむかっていった。
 仕事の話をしているわけではないようで、太一も美香も表情がゆるい。時折、ふたりは笑顔をみせていた。
 太一の横には美香が似合う。
 その朝、奈々子は和也からメールを受け取っていた。映画の誘いを受けようかな ― 奈々子はケータイを手にメールを打ち始めた。

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第20話 となりの女(ひと)

 恋愛映画とあって、映画館は大勢のカップルでにぎわっていた。映画は和也の好きなワインにまつわる男女の恋物語だった。
 和也は混雑振りを予想していたのか、指定席をとっていた。
「人気の映画だからね」
 和也の行動はいちいちスマートだ。合コンでの仕切りぶりにも嫌味はなかった。送っていくとみせてそのまま奈々子の部屋にあがりこもうとしたらしいが、下心でさえもキレイな包装紙で包み隠してしまって、外側だけならいい男にみえる。
 包装紙のキレイな男性には警戒心を抱く奈々子だが、合コンであげたはずのガードをさげて和也からの映画の誘いをうけてしまった。時間を愉快にやり過ごす術なら和也は心得ている。今の奈々子は、思い切り時間を浪費してしまいたかった。
 席につくなり、奈々子は思いがけないものを目にした。
 スクリーンに近い前の方の席で、ひときわ高い人影が動いた。どんな雑踏でも見逃さない自信のある太一の姿だ。
 通路側の席に腰掛けようとする太一のとなりに、美香がすわっていた。
 とたんに、奈々子は首をすくめてシートに体を隠したが、太一には気づかれてしまった。
「ああ…太一のやつか」
 和也も気付いたようで、太一にむかって軽く手をあげてみせた。
「となりの人、太一の彼女?」
「たぶん……」
 美香と付き合っているのだろうと疑っていたものの、奈々子はそうでなければいいのにと願っていた。
 楽しそうに話をしているふたりをよく見かけるが、それはオフィスでのことだった。同じ職場で、先輩と後輩という立場とはいえ、年は同じなのだから、話もあうのだろう。仲のいい先輩と後輩というだけかもしれない。そう思いこむことで、奈々子は嫉妬の炎に焼き尽くされずに済んだ。
 和也から、太一の好みのタイプは小さな女性だと聞いてから、もしかしたら自分にもチャンスがあるのかもと希望をつないだが、オフィスの外で一緒にいる太一と美香に、わずかな望みは粉々に打ち砕かれてしまった。
「美人だね。太一のやつ、隅におけないなあ」
 美香は奈々子には気付かなかったようで、太一にしきりと話かけていた。もともと美人の顔立ちだが、今日は肌が艶めいて一層美しさが際立っている。オフィスでの凛とした雰囲気はなく、柔和な女らしい表情が目立っていた。
 そういえば美香はワインが好きで、ソムリエの資格も持っていると聞いたことがある。映画を誘ったのは美香のほうだろうか。太一はどんな顔をして誘いを受けたのだろう。
 美香は、何を着ていこうかと悩んだりしたのだろうか。オフィスでは、清潔感のあるスーツ姿が多い美香だが、今日は明るい色のワンピースを着ていた。足元はもちろんヒールだろう。
(私が男だったら、美香さんを選ぶものね……)
 奈々子はシートに体を埋めたまま、何を観たのか内容が頭に入らないまま、上映時間を終えてしまった。

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第21話 ハイヒール

 「買い物につきあってくれない?」
 和也がそう言うので、奈々子は黙って和也について銀座にむかった。
 何の映画を観たのか、2時間の記憶がまるでない。頭の中では、初恋の彼に失恋した時によく聞いていた歌が鳴り響いていた。
 連れていかれたのは、靴の専門店だった。
 薄暗い窓ガラスに阻まれ、外からは何の店か検討がつかない。和也に連れられて入ったところで、がらんとした店内に人影はほとんどなく、黒のワンピースをきた売り子らしき女性たちがところどころに控えていた。だが、和也と奈々子をみても、親しげに声をかけてくるわけでもない。
 店というよりはギャラリーのような空間に、商品の靴がアートのように陳列されていた。アップライトの光を受けて、ハイヒールたちは誇らしげなポーズをとっている。
 滑らかな曲線、心細げなヒール…彼女たちは、もはや履いて歩くという実用的な用向きを失って、女性を美しく演出するためだけに作り出されたアクセサリーだった。
「はいてみる?」
 美術品でもみるかのように眺めてまわるだけの奈々子に、和也は試着を勧めた。
「え、でも……」
 ためらう奈々子を、和也は革のソファーに座らせた。和也と二言三言言葉を交わした店員は店の奥に引っ込み、箱を両手に抱えて再度登場した。
 店員がうやうやしくささげもってきたのは、奈々子が一番熱心にみていたハイヒールだった。品よく艶めいた赤いエナメルのハイヒールで、ヒールの高さは10センチはあった。
「ステキなクツはステキな恋を運んでくれるんだよ」
 はかなげなものを扱うかのように奈々子の足をそっとその手にとると、和也はパンプスを脱がせ、その足にハイヒールを履かせた。ハイヒールは、すっぽりと奈々子の足を覆った。
「男はね、脱ぎ捨てられていったクツを片手に、そのクツの持ち主の女の子を探しているようなものなんだ」
 和也はもう片方のパンプスも脱がせ、ハイヒールを履かせた。
「ほら、ぴったりだ」
 和也の肩をかり、奈々子は鏡の前に立った。細い10センチのヒールは心もとなく、足元がふらついたが、見えた世界は大人びて、目も眩みそうなほど煌いていた。
「持ち主はあなたでしたか」
 和也は、シンデレラの王子のセリフを冗談めかして言った。
 みがいた硝子玉のように透き通る瞳が目の前にある。つるりとした肌には、ヒゲなど生えそうにもない。和也は、小さい頃、憧れていた童話の王子さまそのものだった。
「僕だけのお姫様になってくれない?」
 和也は、肩にのった奈々子の両手を取った。
「…真衣が……」
 今さらながら、奈々子は真衣が気にかかった。
真衣は和也が気に入ったと宣言した。奈々子に、和也には手を出すなと釘を刺したのだ。真衣が和也に狙いを定めたと知っていながら、映画を観るだけだからと、奈々子は言い訳をして、和也の誘いに乗ってしまった。ふと人恋しくなったのと、太一への腹いせのつもりだったのかもしれない。その太一は美香とデートを楽しんでいた。
「真衣ちゃんのクツの片方は、別の男が持っているんだ。僕じゃない」
 和也は首を横に振った。
「僕が持っていたクツの片方は、君にぴったりなんだ―」

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第22話 好きなものと似合うもの

 和也とのデートをひかえ、奈々子はトイレで10センチのヒールに履き替えた。和也が買ってくれた赤いエナメルのハイヒールだ。
 ハイヒールにあわせて、洋服も大人びたワンピースを選んだ。髪色を明るくし、ゆるふわパーマをかけて大人っぽさを演出、メイクもハイヒールの色にあわせた少し濃い目のルージュをひいた。
 和也の好みははっきりしていて、服もメイクも、自分の好みにあったものを奈々子に指示する。足元のハイヒールにはじまって、洋服、メイク、ヘアスタイル、アクセサリーと、全体にバランスが取れるよう、いろいろと口出しする。宣伝関係の仕事をしているだけあってセンスは抜群で、大人びた色気をまとわせてくれる和也の演出を、奈々子は気に入っていた。
 和也と付き合っていると、自分の意外な一面を知らされ、何だか成長していくような気がする。
 付き合い程度に飲むだけだったワインも、ワイン好きの和也と付き合うようになって詳しくなった。和也は食べるものも洗練されていた。和也と食べるものは、食べ物ではなく、芸術品だった。宝石のように彩り鮮やかな食べ物たちを口にすると、魂から磨かれていく気がする。
 夢見心地な気分でつま先立って歩きだすと、トイレから出たところで人にぶつかりそうになった。
 胸のあたりに顔をうずめそうになった相手は、太一だった。
 いつもより太一の顔が近い。10センチのハイヒールを履いているせいだった。美香とはいつもこの距離で話をしているのか……。
「デートか」
 和也から話は聞いているだろう。奈々子は黙って頷いた。
「付き合ってんのか、おまえら」
 太一のその質問には奈々子は答えられなかった。
 和也とは、付き合っているとはいえないかもしれない。会えば楽しい時間を演出してくれるし、センスも磨かれる。恋人同士というより、先生と弟子のような関係とでもいったらいいだろうか。
「そっちこそ、美香さんとどうなってるの?」
 嫉妬がこめかみのあたりを引きつらせた。
「なんで、鮎川さんが出てくるんだよ?」
「このあいだ、映画館でデートしてたじゃない」
「あれはデートっていうか、たまたま券があるからって誘われただけで。あれきり、どこにも行ってないぞ」
「別に言い訳しなくてもいいわよ。私には関係ないことだもの」
 バランスを崩しそうになりながら、奈々子はその場を去ろうとした。10センチのヒールにはまだ慣れない。
「似合わねぇよ、その靴! 服も化粧も、全部、似合わねぇ!」
 太一の文句は、和也とは不釣合いだと言っているように、奈々子には聞こえた。
「そちらは美香さんとお似合いじゃん!」
 こめかみがますます引きつっていく。
「好きなものと、似合うものは違うんだ!」



 「…でね」
 和也のチーズに関する薀蓄は、奈々子の耳をすり抜けてしまっていた。予約がなかなか取れない評判のレストランの料理も、味わうことなく胃袋を通り過ぎていってしまった。
「僕の話、聞いてた?」
「ええ、チーズの話ですよね」
「いや、今度の連休の話」
 会うたびに、春分の日の連休をどうすごそうかという話をされていたが、奈々子は何だかんだと理由をつけて会うのは難しいかもしれないと言い続けていた。
「泊まりで箱根にいかない?」
 和也はふたりの関係を先に進めたがっていた。和也の気持ちをわかっていながら、奈々子は、先生と生徒のような清い関係から先には足を踏み出せないでいた。
 和也の胸に飛び込んでいけたら楽しいのだろうな、と奈々子は思う。
 だが、飛び込みたい胸は、タワーのようによじのぼっていかなければならない太一の胸だった。

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第23話 尾行

 部屋に入るなり、奈々子はハイヒールを脱ぎ捨てた。
 ハイヒールを履いていると背筋がのびて、凛とした気持ちになる。と同時に、無理をして背伸びしているというストレスも感じていた。つま先だけで立っていると足元が不安定で、いつ崩れるかわからないという不安感が常につきまとう。
 ハイヒールを脱いだ素足で、床を足の裏全体でつかむように踏みしめていると、不思議と気分が落ち着く。とともに、沈んだ気持ちにもなる。ヒールを履いて見る外の世界はしょせん、つま先立って壁のむこうの隣の芝生を見ているようなもの、自分の足元に青い芝生は存在しないのだという現実に打ちのめされるのだ。
 奈々子は冷蔵庫を開けて飲み物を探した。
 ここのところ外食が続いて、ろくな買い物をしていない。冷蔵庫は空だった。
 ふいにビールが飲みたくなり、奈々子はスニーカーにはきかえ、スーパー横綱にむかった。
 夜遅くまで開いているスーパーは、それなりの客が入っていた。
 つまみになりそうなスナック類をレジかごに入れ、奈々子はビール売り場へむかった。
 スナック菓子のコーナーをぬけたところで、奈々子は見覚えのある後頭部を目にした。太一だった。
 太一は惣菜コーナーをうろついている。奈々子はとっさにクッキーの棚の陰に身を隠した。太一は奈々子に気付かないまま、惣菜をかごに入れ、レジにむかった。
 スーパー横綱で太一をみかけるのは久しぶりだ。
 初めて太一をみかけた時、太一のかごには野菜を中心とした食材が山盛りだった。いつだか朝食を用意してくれたことがあったが、その時の腕前からして料理は得意らしい。
 奈々子は、酔っ払った朝に太一が用意してくれた卵焼きの味を思い出していた。険のない、どこかほっとする味付けだった。
 太一がレジを通過するのを待ち、奈々子も列に並んだ。
 顔をあわせたくない ― 奈々子はゆっくりと品物を袋につめ、太一の大股ならもうずいぶん遠くへ行ってしまっただろうタイミングをみて、店の外へ出た。
 太一は確かに奈々子が追いつけないところまで歩いていってしまっていた。
 だが、その方向は奈々子のマンション、その先あるはずの太一の自宅とは反対の、駅にむかう方角だった。
 他に寄る店でもあるのだろうか。だが、スーパーから駅まで店らしい店はないはずだ。
 マンションの窓からいつかみた太一は、やはり駅の方向に向かって歩いていた。
 今もまた、太一は駅に向かって歩いている。
 (こんな夜遅く、どこにいくのかしら?)
 マンションへと戻りかけた道を引き返し、奈々子は太一の後をつけた。

 太一は大股で歩く。気付かれないように後をつける奈々子は急ぎ足でつけていかないければならない。
 思ったとおり、太一は駅にむかった。
 だが、電車に乗るわけではなく、駅のコンコースをわたり、反対側の出口へとむかった。
 駅前のコンビニを通りすぎ、太一は住宅街へと入っていった。
 駅から15分ほど、住宅街を歩き回った太一はとあるマンションへと入っていった。
(まさか、美香さんのマンション?!)
 太一の姿が完全に見えなくなったのを確認し、奈々子はポストを見渡し、「鮎川」の文字を探した。ポストにはありふれた名前の「鈴木」が氾濫していた。そのうちのいくつかは、下の名前まで書き連ねてあった。
 「鮎川」の名前を追う奈々子の目にとまったのは、「鈴木(太)」という表札だった。「太」は太一の太だろう。204号室、2階の部屋だった。
 引越しでもしたのかと、奈々子は追跡をやめ、来た道を戻ろうとして、道に迷ってしまった。
 夜遅く、住宅街を歩いている人間は少ない。ようやく、犬の散歩をしている女性をみつけ、奈々子は駅までの道のりをたずねた。
 親切な女性に教えてもらった道を5分も歩くと、煌々と明かりのともる駅についた。
 だが、それは奈々子がいつも使っている駅ではなく、ひとつ手前の駅だった。

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第24話 探偵、奈々子

 翌日、奈々子は太一の後をつけた。太一は、奈々子の乗り降りする駅のひとつ手前の駅を降り、昨日の夜と同じマンションへと入っていった。
 引越ししたのではない。太一はこのマンションにもう3年近く住んでいる。
 昼間、奈々子は太一との世間話で、引越しをしようと思っていると話した。
「今週末、物件をみてまわろうかなあとおもって」
「急だなあ」
「時間のある時でないと、いろいろ準備もしないといけないし。今のところ、もう5年住んでいるんだけど、飽きてきたし、気分転換もしたいし。場所はいいんだけどね」
「いいところじゃないか。俺なんか今んとこ3年住んでるけど、一回住んだら引っ越せないなあ」
 太一との会話から、引越しはしていないと奈々子は結論づけた。
 駅の反対側、しかも最寄り駅もちがう場所にあるマンションに3年も住み続けていながら、なぜ太一は奈々子のマンションの近所に住んでいるとウソをついたのか。
 奈々子には思い当たる節があった。
残業が続いて、毎日のように太一と帰りが重なった時期がある。同じプロジェクトに関わっていたのだからと気にはしていなかったが、今にしておもえば、太一は奈々子をマンションまで送ってくれていたのではないか。
スーパー横綱でばったり会った帰り道、太一は、暗い夜道を歩く奈々子をつけてきた。痴漢かと誤解した奈々子だったが、あれはこっそり奈々子を送り届けるつもりだったのではないのか。季節は、日の沈むのが早くなる頃だった。あの時、太一は、夜道は用心したほうがいいと言ったのだ。プロジェクトに関わって帰宅が毎晩遅くなった頃も、夜が長い時期だった。
 いつだか、トイレを借りていったこともあった。自分のうちはすぐそこなのに我慢できないのかと奈々子はおもったのだが、奈々子のマンションから本当の自宅まで歩いて25分ほどかかるとあれば、我慢できないのも納得がいく。
ときたま見かけた駅の方向へと歩いていく太一は、実は本当の自分の住む場所へ帰るところだったのだ。朝、ホームで太一をみかけないのも当然だ、使っている駅が違うのだから。

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最終話 電球切れました

 クリスマスイブを翌日に控えた休日のその日、奈々子は2本のメールをうった。1通目は和也あてに、旅行のキャンセルを伝えた。
 もう1通は、太一にあてた。

 電球切れました

 奈々子は太一の返事を待った。
 ハイヒールはもう履かない。和也に買ってもらったハイヒールは押入れの奥深くにしまいこんだ。
 村上といた世界は、きらびやかで華やかだった。その世界で、奈々子は自由ではなかった。村上の目線で物を見、村上の好みの服を着て、村上の与えてくれる物を口にする。奈々子は奈々子自身ではいられなかった。ハイヒールに押し込まれた足のように窮屈で、ふらつく足元は奈々子を不安にさせた。
 背伸びしないでのびのびとしていられる場所はどこだったか。考えた結果、奈々子はハイヒールを脱ぎ捨てることにした。
 スニーカーをはき、リップはグロスだけで、奈々子は街に出た。
 5センチ、ちぢんだ世界。
 だが、そこが奈々子のいる場所、落ち着く場所だった。
 つま先立たなくても手の届くもの、そこで手にしたもの ― 奈々子は自分が手にしていたものをみつめなおしていた。それは太一だった。
 メールの着信音が鳴った。

換えの電球は?
 買ってきて
ワット数は?
 わからない
先そっちいく

太一からの最後の返信を受け取ったとき、奈々子は太一の住むマンション前についてしまっていた。メールの数分後、あわただしくエントランスをかけだしてきた大きな影があった。
「ここに住んでたんだ」
 スニーカーのかかとを踏んだままの太一は、奈々子の顔をみてぽかんとしていた。言い訳でも考えているのか、その口元がかすかに動いていたが、結局は観念したような深いため息をもらすだけに終わった。
「なんで、うちの近所に住んでるってウソついたの?」
 奈々子は太一を責めてはいなかった。ただ、純粋に理由が知りたい、それだけで奈々子は太一の答えをゆっくり待った。
「送っていくのに、そのほうが都合がよかったから……」
 太一のほうがよほど奈々子を理解している。心細い思いで夜道を歩いていても、「送る」と言われたら奈々子は反発してしまっていただろう。ちょうど、メール便を取ってくれた太一にむっとしたように。
「電球切れたってのは……」
「いつかは切れるものじゃない? 切れる前に換えたっていいわよね」
 奈々子は電球だってひとりで換えられる。少し手間がかかるが、台を使えばいいだけのことだ。だが、人を頼ってみてもいいのではないかと思う。
 太一に頼ってみても……。
 自分ひとりで何でもやるより誰かと一緒のほうが楽しい。その誰かが太一だといい。太一と一緒にいたい。
「電球、横綱でセールだって」
「よってくかー」

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あとがき

恋愛小説って、読むのも書くのも苦手なんです。

読むのが苦手なのは、苦手というか、あまり読まないのは、現実世界で恋愛している方が好きだからです(現在は恋愛休止中・・苦笑)

書くのが苦手なのは、おおざっぱな性格なので、登場人物の繊細な感情を丁寧に表現しきれないから。恋愛小説はそこがポイントですものね。

でも苦手だからと敬遠していると成長しないので、チャレンジしてみた作品がこの「あと5センチ」でした。

恋愛って、人と人との感情の行き来だと思うのです。通じあったり、すれ違ったり。歩み寄ったり、主張したり。

奈々子と太一も、通じ合ったかとおもったら、すれ違ったり、互いに意地を張ったりしてきました。

ふたりとも感情表現が不器用です。でもそんなふたりだから、親としては愛おしくも思えました。

情熱的な恋愛もいいけれど、たまにはこんなちょっとぬるめの、ほんわかした恋愛もいいですよね。

ご愛読、ありがとうございました。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

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