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あじろ けい

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第2話 せいたかのっぽ

クレーンのような長い手の持ち主は鈴木太一、奈々子の会社の後輩だ。後輩とはいえ、二浪して入った大学で2年留年しているので年は29歳と、奈々子よりも4つ上だ。
 奈々子の働く広報部に太一が配属されてくる前から、奈々子は太一の顔だけは知っていた。太一は新入社員ながら社内で一番の有名人だった。
 何しろ背が高いから目立つ。195センチだと、太一は広報部の新人歓迎会の飲み会で申告した。
 飲み会での話題は、当然、太一の背の高さに集中した。
 何かスポーツをしていたかという質問にはじまって、親や兄弟も背が高いのかという話になった。
「親父は180ちょっとで、兄貴もやっぱりデカいですね。アニキも190ちょいはあるんじゃないですかね。でもお袋は小さいんですよ。160ないんじゃないのかな?」
 太一は奈々子を意識して言ったわけではないのに、155センチの身長の奈々子は自分が小さいと言われたような気がして、内心むっとした。
 同僚として働くようになってからというもの、奈々子は太一を避け続けた。
 見上げて話さないといけない太一といると、自分の背の低さを強調されるようでイヤだったし、何より上から見下ろされている感覚がイヤだった。見下されているような気がするのだ。
年下のせいか、背が低いせいか、太一は奈々子を先輩扱いしなかった。
(社会人経験なら私のほうがあるのに!)
 奈々子と同期入社の他の社員には今だに敬語を用いるのに、奈々子にだけは対等な口をきくようになった太一が、奈々子は気にくわなかった。
 ある時、太一がメールボックスに入っていたメール便を軽々手にとって奈々子に渡してくれたことがあった。メールボックスは、奈々子にはほんの少し高い位置にある。奈々子が苦労しているのを見かねて太一は手を伸ばしたのだろうが、それがかえって奈々子の気にさわった。
「何よ、背が高いとおもって」
 “ありがとう”のかわりに口をついて出た言葉は、とげとげしかった。
「何だよ、高いところにあるものを取れるから取っただけだろ」
「自分で取れたのに」
 と言う奈々子の手の中に、太一はメール便をおしこんだ。
「俺、背が高いんだから、頼ってくれたっていいんだよ」
「メール便を取ってくださいなんて、くだらないこと、頼めるわけないじゃない」
「何でも自分だけでやろうとするなよ。できないことはできないで、できるやつに頼めばいいんだって」
 
 この日もまた、太一は奈々子がどうしても取れないで苦労していたカップ麺を易々と取ってみせた。
「低カロリーって。ダイエットの必要ないのに」
 ラベルをみて太一はそう言い、前のめりになってカップ麺を奈々子の目の前に差し出した。
 ダイエットに関して男の太一から指図を受けたくはない。むっとしたせいで礼を言おうとした気持ちがシャボン玉のように弾け飛んでしまった。またしても“ありがとう”という言葉を口に出来ずに奈々子はあからさまに不機嫌な様子で立ち尽くしていた。
 奈々子が受け取ろうとしないので、太一は大きな背中を丸め、奈々子の足元のレジかごにカップ麺を入れようとした。かごの中には他に、ポテトチップス、クッキー、チョコレート、他のカップ麺が入っていた。
「晩飯? 体に悪そうだなぁ」
「何だっていいじゃない。人の食べたいものに文句つけないでよ!」
 奈々子は太一の手からカップ麺をひったくり、かごに入れると、すたすたとその場を後にした。
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テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

第3話 もうひとつの足音

(私だって、その気になったら料理ぐらい!)
 野菜の入った太一のレジかごの緑の山が目にやきついている。奈々子は、ポテトチップスやクッキーをもとあった棚にひとつずつ戻していった。
 かわりにレジかごに投げ込まれたのは、フルーツやヨーグルト、サラダ用にむけばいいだけのレタスとトマトときゅうりだった。料理というほど手間がかかる代物ではないが、スナックより健康的な印象だ。
 今ならレジかごを見られても恥ずかしくない、いやむしろ見てもらいたいくらいだと、奈々子は太一を探した。頭ひとつ飛びぬけている太一はすぐに見つかった。太一は鮮魚売り場で魚を品定めしていた。
 そういえば、魚を最近食べていない。サバの味噌煮が食べたいとふとおもった奈々子の喉がごくりとなった。自分でつくるとなると手間だが、惣菜売り場にいけば出来合いのものが手に入る。だが、惣菜売り場は鮮魚売り場のすぐ隣だった。
 出来合いのものなんかを買ったりしたら、太一に料理のできない女というレッテルを貼られる。ただでさえ、カップ麺を大量に買い込もうとしたところを見られてしまっている。
 魚を手にとる太一を恨めしげに、奈々子はレジへむかった。
 途中、低カロリーのカップ麺だけがまだレジかごに残っていると気付いた奈々子は、カップ麺のあった棚へと引き返した。
 元あった場所へ戻そうとしたが、手が届かない。
 ふいに太一の顔を思い出した。
 カップ麺を奈々子に渡そうと間近に迫った太一とは、まともに目があった。切れ長の涼しい目もとだった。目元がはっきりわかるほど、男性の顔を間近にみることはめったにない。あるとしたら、恋人とキスをする時ぐらいなものだろう。あの時、太一は、まるで奈々子にキスを迫るかのように顔を近づけてきた。
 ドギマギするのと同時に、あっと、奈々子は声にならない声をあげて、額をおさえた。
 週末だし、近所に買い物に出かけるくらいだからとメイクはしていない。眉毛のない顔を、よりによって太一に見られてしまった。
(見られた、かなあ……)
 太一の眉は黒々として立派だった。
(見られたよねえ……)
 奈々子は前髪をはたき、今さらながら、ない眉を隠した。



 スーパーからマンションまで歩いて15分ほどの道のりを、奈々子は急いだ。マンションの近くにはコンビニもスーパーもあるが、少し歩く距離にあるスーパー、横綱に通うのは何といっても他にくらべて品物の値段が安いからだ。
 スーパー横綱では、採算あうのだろうかと心配になるほど、食料品から日用雑貨にいたる物が安く売られている。いつも大勢の客でごったがえしているが、この日は週末とあってレジには行列ができていた。人ごみを避けて夕方に行くようにしている奈々子だが、それでもどのレジも混雑していて、レジの行列を突破するのに時間がかかってしまった。
 太一がいつまでも惣菜売り場そばの鮮魚売り場にいるので、奈々子は惣菜を買い損ねて機嫌が悪かった。まさか同じ会社の後輩の太一が、同じスーパーにいるとは思わなかった。たぶん近所に住んでいるのだろう。太一も常連客のようなら、もう横綱では買い物できないなあと奈々子はがっくり肩を落として夜道を歩いた。
 つるべ落としの秋の夜はあっという間に訪れる。すっかり日の暮れた夜道をひとり歩いているはずだったが、奈々子は耳ざとくもうひとつの足音を聞いていた。
 足音は、リズム正しく奈々子の後をつけている。
 奈々子は、ほんの少し、歩くスピードをあげてみた。もうひとつの足音も少しテンポをあげて奈々子を追ってきた。
(まさか、痴漢!?)
 夏至を過ぎて日が暮れるのがはやくなってから、できるだけ夜道をひとりで歩かないようにしていた奈々子だったが、この日は思いがけず太一に出会って動揺したせいで、夜は避けて通る近道を歩いてしまっていた。
 近所の人間しか通らないような小さな道で、その道を通るとスーパー横綱まで10分とかからない。だが、夜には人通りが絶えてしまい、明かりといえば、近隣の家から漏れるものぐらいで、薄暗く、気味が悪い。人がやっとすれ違えるぐらいの細い道で、こんなところで襲われたら、ひとたまりもない。
 奈々子は歩くスピードを速めた。約50メートルの近道を抜ければ、広い通りに出る。住宅街だが、街灯もあり、声を上げれば誰かに聞こえる。
 奈々子は、目指す先に小さくみえてきた街灯の明かりを目指して急いだ。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

第4話 遠い横顔

街灯の投げかける丸い光の輪の中に入るなり、奈々子は足をとめた。逃げ回ってばかりでは、しゃくにさわる。一言、何か言ってやらないと気がすまない。
 街灯の明るさを味方に、奈々子は後ろを振り返った。
「ちょっと!」
 暗い夜道で女をつけまわすなんて卑劣だと続けようとした言葉がのどもとで立ち止まった。
 少し離れたもうひとつの街灯の陰に立っていたのは、太一だった。頭のすぐ上に街灯の明かりがあって、後光が差しているようにみえる。
 他に人影は見当たらない。奈々子を追い越していった人間もいない。だとすると、太一が足音の主、奈々子をつけてきた男なのだが?
「いつから、私の後ろにいたの?」
「スーパー出てから、ずっとだけど」
「他に、人はいなかった?」
「いや、俺だけだけど」
「もしかして、私のこと、つけてきた?」
「は?」
「つけてきたでしょ?! なんで痴漢みたいな真似するのよ!」
「痴漢って、わけわかんねぇ。ってか、俺んち、こっち方面なんだけど……」
 その瞬間、奈々子は足に力が入らなくなって、アスファルトの上にへたりこんでしまった。
「おいっ!」
 エコバッグを投げ出し、太一が奈々子のもとに駆け寄ってきた。太一の逞しい腕につかまり、奈々子はようやく立ち上がることができた。奈々子の手は、血の気を失って冷たく、小刻みに震えていた。
「びっくりさせないでよ。こっちは痴漢かストーカーかとおもったんだから……」
 文句のひとつでも言ってやろうと思いきったものの、本当は怖かったのだ。つけてきた男がストーカーではなくて、知り合いの太一だとわかって、ほっとしたのと同時に、別の怒りがこみあげてきた。
「家が同じ方向なら、どうして声かけてくれなかったの? 女が夜道をひとりで歩いていて、後ろから足音が聞こえたら怖い思いをするって思わなかった?」
「思わなかった……」
 自分の荷物と奈々子の荷物を手に、太一は奈々子と並んで歩き出した。
 ふたりの足音は一つに重なって、背後には誰の気配も感じられなかった。
「ストーカーとか、痴漢とか言って、『お前なんか誰が襲うか』、自意識過剰な女とか思ったでしょ……」
 奈々子はそっと太一の横顔をうかがった。奈々子の身長が低いせいもあるだろうが、隣に並ぶと太一は余計に背が高く感じられる。横顔が遠いなあと奈々子は思った。
 目と眉の間隔がつまった彫りの深い顔立ちをしているのに、暑苦しさを感じないのは、線の細い輪郭のせいだ。背が高く、体格もがっしりしているのに精悍なイメージがあまりないのは、顔つきにどこか繊細さが漂っているからだった。
「別に、そうは思わないけど。女の人は用心するにこしたことはないと思うし……」
 太一の表情はこわばっていた。痴漢と誤解されて、気分を悪くしているのだろう。奈々子と太一は黙ったまま、夜道を歩き続けた。
 太一ほど背が高いと、昼間であっても前を歩く女性は後ろを警戒してしまうかもしれない。まして夜道ならなおさらだろう。普通に女性の後ろを歩いているだけなのに、痴漢か何かのように誤解されて、嫌な思いをしたこともあったかもしれない。
 痴漢かと思ったとつい口に出してしまったことを謝ったほうがいいだろうか……などと考えているうちに、ふたりは奈々子のマンションについてしまった。
「ここ、私のマンション……」
 エントランスにあがる階段の前で奈々子が足を止めると、太一は持っていたレジ袋を差し出した。半透明のレジ袋からレタスの淡い緑色が透けていた。道々、太一はレジ袋の中身をみてくれただろうか、やっぱりカップ麺を棚に戻しておいてよかった、と奈々子はそんなことを思った。
「ありがとう」
 レジ袋を受け取った奈々子がエントランスへの階段をのぼろうとすると
「悪かったよ、怖い思いさせて……」
 背後から太一の声が追いかけてきた。
 振り返った奈々子は、小さくうなずいてみせた。
「じゃ、俺んち、この先だから」
 そう言うなり、太一はすたすたと夜道に消えていった。背が高い分、歩幅も広く、奈々子がその後ろ姿を追ったときには、太一はすでに遠くを歩いており、奈々子のマンションを少し行った先の曲がり角の先に消えてしまっていた。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

第5話 プロジェクト始動

渋谷のオフィスまで、電車を乗り継いで30分、始業時間の9時に間に合うように、奈々子は毎朝8時の電車に乗る。
 月曜の朝、いつもと同じホーム、いつもと同じ通勤客の顔ぶれの通勤客の見慣れた風景の中に、奈々子は太一の姿を探した。近所に住んでいるというのなら、太一もこの時間帯の電車に乗ろうとするはずだ。
 土曜日に近所のスーパーで太一にばったり出くわした時には、デニムにフリース、スニーカー姿だった奈々子だが、今朝はいつもより念入りにメイクをし、いつもはパンツスーツなのにこの日はスカートを選んで、5センチのパンプスを履いた。
(もっと早いか、遅い時間の電車なのかも)
 ホームにすべりこんできた電車のドアが開き、満員の車内に体を入れながらも、奈々子はホームに視線を泳がせ、頭ひとつ突き抜けた太一の姿をさがしてしまっていた。



「おはようございます!」
「おはよう」
 パーテーションの陰からあがった声の主は、広報部の先輩、鮎川美香だった。 
 奈々子が新人のころ、広報の仕事を一から教えてくれた人で、まだ30前だというのに部長の右腕のような存在だった。仕事には厳しいが、素顔は気さくな社交家で、社内外に顔が広かった。
 仕事ができるうえ、目のさめるような美人で、才色兼備という言葉は美香のためにあるようなものだ。すらりと背が高く、スタイルもよく、広報部の“顔”、しいては会社の顔としてマスコミに登場している。
 席につくなり、奈々子はPCをたちあげた。朝一番の仕事は、メールのチェックからだ。週明けとあって、メールボックスにはメールがたまっていた。
 なかには、大学時代の悪友、大木真衣からのプライベートなメールもまじっていた。毎月2回、真衣が中心となって合コンを開催していて、奈々子も出会いを求めて出来るだけ参加してきたが、今週末に開催予定だというその合コンには、奈々子は何だか乗り気になれなかった。
 真衣に今回はパスという返事を出し、総務や人事からの社内連絡事項についてのメールを取り除いてしまうと、直接仕事に関係するメールはわずかに数通となった。うち1通は、ミーティングのインビテーションで、差出人は美香だった。
 メールを開いた奈々子は、出席の返事をする前に椅子を立ち上がり、美香のワークステーションに駆け寄った。
「いつ決まったんですか!?」
「私がプロジェクトの話を聞いたのは先週なの」
「先週? ずいぶん慌しいんですね」
「会社あげての大きなポロジェクトだから、上も情報管理には気をつかっているの」
 メールには、来春発売予定の香水に関する広報活動について、ミーティングをもつとあった。
 奈々子の勤める会社、メルローズは大手の化粧品会社だ。若い女性たちに人気のコスメブランドをいくつか展開しており、今度発売する香水は新たに立ち上げるブランドの目玉アイテムだった。
 香水の開発、プロデュースにあたったのは、会社の企画開発部ではなく、ハリウッドセレブのジェーン・パークスだった。
 ジェーンは23歳、ニューヨークを舞台とした6人の男女の恋と友情を描くTVシリーズでブレイクした女優で、彼女がドラマで着た服や身につけたアクセサリーはあっという間に流行し、同世代の女性たちはみな彼女のヘアやメイクを真似したがった。
 これまでに洋服やバッグのプロデュースを手がけてきたが、どれも爆発的な人気を誇っている。
 そのジェーンが、メルローズ社とタッグを組んで香水をプロデュースすることになった。
会社としては最大限の宣伝を行いたい。効果的な宣伝には広報も含めて全社あげての戦略が必要だ。
 奈々子は、その香水の広報プロジェクトチームの一員に選ばれたのだ。チームリーダーは美香、他には広告・宣伝部や開発・企画部の人間が名を連ねていた。
「しばらく忙しくなるけど、よろしくね!」
「はい」
 奈々子の後頭部を、低い声がたたいた。いつの間にか、奈々子の後ろに太一が立っていた。
「こちらこそ、よろしくね、鈴木くん」
「え、何?」
「俺もプロジェクトのメンバーなんだけど」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

第6話 秘密

 午後2時からのミーティングに、太一はなかなか姿を現さなかった。会議室に、広告・宣伝部や開発・企画部のメンバーが集まり始めるなか、太一だけがやってこない。
 奈々子はひとごとながら、内心ひやひやしていた。美香は、世間話をしながら太一を待っていたが、5分、10分とたつうちにその表情がけわしくなっていった。
「はじめましょうか」
 時間は1分でも惜しい。10分すぎたところで美香はミーティングの資料を配り始めた。
「すいません……」
 大きな背中を丸めた太一が会議室のドアを開けて入ってきたのは、2時を20分すぎてからだった。美香の刺すような視線を交わし、太一は奈々子の隣に座った。奈々子は、太一のために取っておいた資料をすっと渡し、小声でそれまでのミーティングの様子を簡単に説明した。

 「鈴木くん、ちょっといい?」
 1時間のミーティングが終わり、関係者たちが次々と会議室を出ていくなか、美香が太一を呼び止めた。太一の少し前を歩いていた奈々子がちらっと後ろを振り返ったときには、会議室のドアは閉められてしまっていた。

「鮎川さんに怒られた?」
「まあな……」
 5分ほどすると、太一だけがワークステーションに戻ってきた。
「20分も遅刻したら怒られて当然ね。ミーティングがあるの、忘れてた? アラーム鳴ったよね?」
 社内にしろ、社外の人間と会うにしろ、時間を守るのは社会人としての基本だ。社内の人間同士だとつい気がゆるみがちになるが、1時間のミーティングで20分も遅れたら、自己管理がなってないとみなされても仕方ない。
「なんだよ、お前まで、鮎川さんみたいな口のきき方すんだな」
「20分も遅れたら、誰だって、どうしたの?っておもうけど」
 社会人としてのいろいろな基本を奈々子に叩き込んだのは美香だった。仕事をてきぱきとこなす美香は、奈々子の目標でもあった。
「ちょっと、腹の調子が悪くてさー。俺、緊張するとダメなんだ」
 太一はどうやらプロジェクトの大きさに緊張して、体調を崩してしまったらしい。
 もしかして、二浪したのも、試験前に緊張したせいかな、と、ふと奈々子はそんなことを思った。太一は、体の大きさに似合わず、案外と繊細な神経の持ち主なのかもしれない。
「鮎川さんには黙っててくれよな。昼に食ったもんが悪くて腹壊したってことになってっから」
「なんで? 正直に言えばいいじゃん」
「“緊張すると腹下すんです”なんてこと、鮎川さんに言えっかよ」
 美香には、太一は男として見栄を張りたいのだろう。
美香と太一は同い年だが、美香と話すときには太一は敬語を使う。奈々子も、美香ほど仕事はできないにしても経験からしたら先輩には違いないのに、太一は奈々子に敬語を使ったことがない。異性にはしにくいはずの下の話も、太一は奈々子には平気に話せて、美香には言い訳めいたウソをついている。美香を異性として意識しているのだろう。じゃあ、私は女として意識しない存在なのかと憤慨しつつも、奈々子は
「まあ、そういうんだったら……」
 と黙っていることを約束した。
 大きなプロジェクトごとに緊張して体調を崩すようでは、この先、プロジェクトをまかせてもらえなくなるかもしれない。キャリアを積んでいくつもりなら、致命的な欠点とみられかねない太一の秘密を、奈々子は守ることにした。
「鈴木くん、体調悪いなら、今日は早く帰っていいわよ」
 会議室から遅れて戻ってきた美香の声に、太一の背中がぴんとまっすぐにのびた。
「大丈夫です!」
 “頼むよ”と目で言い、太一は自分のワークステーションへと戻っていった。

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第7話 陽気な下戸

 ハリウッドセレブ、ジェーンが、奈々子たちの会社、メルローズ社でプロデュースする香水について、広報担当として、奈々子は特設ウェブページを、太一はプレスリリース関係を、美香は来日するジェーンの記者会見の準備に追われていた。
 その合間にルーティンワークをこなさければならない。社外からメルローズ社が販売している商品についての問い合わせに答えるのはもちろん、ジェーンの香水以外の情報も発信しなければならない。会社の“口”として必要なことを言い、“顔”としてイメージも作っていく。もちろん、いいイメージでなければならないのは言うまでもない。
 そうしたルーティーンワークの合間にジェーンの香水の広報活動の準備をするので、自然と奈々子は残業することが多くなっていった。 
 マンションに戻って寝る時間をのぞけば、奈々子は1日のうち、ほとんどの時間を太一と過ごしていた。
 一緒に過ごす時間が長くなると、仕事のリズムまで似てくるのか、ふたりそろって残業することも多く、帰宅時間も同じ時間に重なる。奈々子がばたばたと帰り仕度を始めると、太一もPCをシャットダウンしている。互いに声をかけあわなくても、近所同士、帰る道のりは一緒だった。
 渋谷のオフィスからずっと仕事の話をし続け、奈々子のマンションの前でふたりは別れる。
 太一がマンションの先の曲がり角に消えたのを確認すると、奈々子は急いで近所のコンビニにかけこむのが日課だった。
 太一と一緒にいると、カップ麺だのコンビニの弁当などが買いづらい。一人暮らしの女のさもしい食生活はすでに垣間見られてしまっていたが、あれは例外だと言わんばかりに、奈々子は頑固として太一の前ではカップ麺やスナック菓子に手を出そうとしなかった。とはいえ、残業したあとでは、自分で何か作って食べようという気力は残っていない。太一に見られやしないかとスリリングな気持ちで、奈々子はコンビニ詣出を毎晩のように繰り返すのだった。
 その日、奈々子は突然、おでんが食べたくなった。秋風が冷たさを増してきたせいだ。渋谷のオフィスを出たときから口の中がおでんモードになってしまい、太一との仕事の話にも身が入らない。頭の中でおでんの具がぐつぐつ煮立っている。
(また、コンビニにダッシュだなー)
 そんなことを思いながら駅からの道をマンションへとむかって歩いていると、
「おでん食わねえ?」
 と、太一が足を止めた。その視線の先におでんの屋台があった。屋根の陰から、ほくほくの湯気がたちのぼっている。奈々子はごくりと唾を飲み込んだ。
「おでんー?」
 奈々子は気乗りのしないふりをした。テレビをはじめとしたマスコミと華やかにわたりあう広報部で働く女性として、地味なおでんは似合わないだろうというアピールのつもりだった。少なくとも、メルローズ社の広報の顔、美香とおでんは似合わない。もしかしたら、美香はおでんを食べたことすらないかもしれない。
「なんだよ、うまいんだぞ、おでんは。特に寒い時期の屋台のおでんは最高なんだぞ」
 太一は、必死に女の子ぶった演技をしている奈々子をほったらかしに、ひとりさっさと屋台へとむかっていった。
「さっきの話、まだ途中だったしね」
 ろくに聞いてもいなかった仕事の話の続きをするための言い訳をし、奈々子は太一の横に腰を下ろした。
「おじさん、俺、がんもとちくわと、あと、たまごね」
「はいよー」
 威勢のいい声とともに、たちまち太一の前に湯気のたつ皿が置かれた。
「そちらのお客さんは?」
「あ、はい、えっと、じゃあ、大根と―」
「俺、熱燗も」
 コップの縁にもりあがった日本酒を、太一は目を細めてすすった。
「お酒、好きだったっけ?」
 新人歓迎の飲み会以来はじめて太一と酒の席にいる奈々子だが、奈々子の記憶が確かであれば、太一は歓迎会だというのに、酒には手をつけていなかった。
「弱くてさー。すぐ顔赤くなるんだよ。でも、飲めないと男は仕事にならないからなぁ」
 そう言っているそばから太一の顔は、みるみる耳まで赤くなっていった。
「ちょっと! 弱いのになに飲んでんのよ!」
「酒、好きなんだよ。いいじゃんか、飲ましてくれたって」
「酔っ払ってもしらないわよ。鈴木くんみたいな大男、かついで家までおくるってわけにはいかないんだから!」
 小さな奈々子が大男の太一を重そうにひきずる場面を想像したのか、屋台の主人はくっくと声を殺して笑った。
「心配すんなって。酔っ払ったら、お前んちに泊めてもらうから」
「冗談でしょ! 泊めないわよ。ここに置いきぼりにするから!」
「ひでぇ」
 口ではそう言いながら、太一の目は笑っていた。酔うと機嫌がよくなるたちらしい。悪い酒を飲む人ではないようだった。

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第8話 夫婦漫才

「俺たち、社内で何て言われてっか知ってるか?」
 酔いがまわりはじめた太一の目のふちが赤い。
「知ってるわよ。でこぼこコンビでしょ」
 忙しいルーティンワークの合間に、奈々子は関係各方面とミーティングをもった。ミーティングには太一も同席した。背の高い太一と奈々子とは、並んだときの見た目で、社内ではでこぼこコンビと呼ばれていた。
「昼飯さ、安東さんと食ってきたんだけど、安東さんに『お前ら、夫婦みたいなのな』って言われてさぁ」
「夫婦ぅ?!」
 広告・宣伝部の安東とは、太一、奈々子はもっとも頻繁にミーティングをもち、メールのやりとりを一番している相手である。30代後半の、雪だるまを彷彿とさせるファミリーパパだが、口がやや悪く、太一と奈々子をつかまえて「ジンベイザメとコバンザメみたいだな」とからかったことがある。
 悔しいので、「ええ、小判ならざくざっく」と応酬したら、それ以来、安東には面とむかってだろうと、メールの宛名だろうと奈々子は名前ではなく「コバン」と呼ばれるようになってしまい、太一は「ジンベイ」になった。
 その安東が今度は「夫婦みたいだ」と言い出したのだという。四六時中一緒にいる太一と奈々子とをからかったつもりなのだろうが、太一は「夫婦」と言われた意味がわかっていないらしく、だらしなく笑っている。
「仕事で一緒にいることが多いからって、夫婦呼ばわりされたら、たまったものじゃないわよ」
 付き合っているようにみえるカップルではなくて、いきなり夫婦とは、色気がなさすぎる。
「何だよ、イヤなのかよ」
 奈々子をみすえる太一の目がとろんとしている。奈々子はドキリとした。
「イヤっていうか……」
 太一を好きだったら、「夫婦みたいだ」と言われたら嬉しいのかもしれない。だが、奈々子にとって、太一はただの仕事仲間でしかないのだ……。
「付き合っているみたいな言い方されたら、困るでしょ? 彼女がイヤがると思うよ。自分の彼氏が他の女性と『夫婦みたいだ』なんて言われてるって知ったら、私なら傷つくなぁ」
「別に気にしないと思うけどなぁ」
 太一の何気ない一言は、彼女の存在をうかがわせた。
 付き合っている彼女らしい女性がいるのだと知っても、奈々子は驚かなかった。29歳、いい年した男性がひとり身であるわけはないし、見た目だけでいったら太一はモテる部類に入る。
 太一自身は気付いているかどうか、精悍な顔立ちでありながら繊細なイメージのある太一は、女性社員の熱い視線をあびている。仕事で常に一緒にいる奈々子は、彼女たちの嫉妬をひしひしと感じていた。
「気にするわよ。夫婦みたいだなんて言われた相手を意識しちゃうんじゃないかなあって、不安になるものよ。あまり彼女を不安にさせちゃダメだよ」
「お前は意識したか?」
「は? しないわよ!」
「じゃ、大丈夫じゃん」

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第9話 衝突

 夜は退社時間が重なり、同じ電車に乗って奈々子のマンションまで同じ道のりを歩く太一と奈々子だが、朝は顔をあわせたことがない。同じ駅を使っているのに、とおもっていたら、太一は朝早くに出社していた。
 残業しないで済むよう朝のうちに仕事を片付けてしまおうと、いつもより早めに出社するようになってわかったことで、朝のオフィスには、大抵美香か太一が一番に出社していた。
 ジェーンのプロデュースした香水は、クリスマスプレゼントとしての需要を見込んで12月頭に発売される予定だった。その発売日が間近に迫り、広報プロジェクトはいよいよ大詰めをむかえつつあった。
 奈々子の担当する特設ウェブページはすでに最終OKが出ている。美香が関わってきたジェーンの記者会見も、場所をすでに押さえて後は本人が来日するだけとなっている。太一が担当している記者会見や一連の情報についてのプレスリリース関係の処理が少しスケジュールから遅れていた。
 無理もない。経験も浅いのに、太一はいきなり大きなプロジェクトにかり出されたのである。仕事に対しては厳しい美香は、太一にも厳しい指導であたった。太一が用意したプレスリリースは、美香の指摘にあって、もう何度書き直されたか分からない。美香に注意されるたび、太一はワークステーションに戻って黙々と仕事を続けるのだった。
 そんな太一を、奈々子はイライラしながら見ていた。分からないことがあったり、問題にぶつかったりしたら、美香や自分に聞くなり、相談するなりしてくれたらいいのにと奈々子は思う。何といっても新人なのだから、分からないことがあって当たり前で、恥ずかしがることはない。だが、太一ときたら、誰に助けを求めるわけでも相談するでもなく、ひとりでデスクにむかうだけなのだ。
(手伝ってやるかなー)
 奈々子はPCにむかった。
 この数日、連日で美香から、奈々子にはCCで、太一あてにプレスリリースを投げる先のリストを出すようにと催促のメールが送られている。
 主だったメディア関係の連絡先のリストはすでに作成されているのだが、今回は特別にいつもはプレスリリースを出さないところにも投げると決まっていた。
 香水をプロデュースしたジェーンは、年代を問わず女性たちから圧倒的な支持を得ている。メルローズ社の主だった顧客は20代の女性たちだが、今回は上下ともに年齢層をひろげ、30代、40代やティーンをターゲットとした雑誌などにもプレスリリースを送ってみようということになった。
 女性誌など読みそうもない太一に、送付先のリスト作成は難しかったかもしれない。だが、奈々子にはどうということのない作業で、かたっぱしから連絡先を調べ上げ、さっさとリストを作成してしまった。
(こんなものかなー)
 出来上がったリストを、奈々子は太一にメールで送った。
 メールを受け取った太一は、奈々子のデータをコピーして美香に送るだろう。奈々子はそう思っていたが、夕方になっても太一から美香へのメールは送られず、CCで来るメールときたら、美香から太一へのリスト提出について催促するものばかりだった。
 太一からの返信はなく、しびれを切らした美香が太一のワークステーションにむかった。
「鈴木くん、リスト、今日中に出してくれる?」
「はい」
「もうずっとリストを出して、って言ってるわよね?」
「はい」
「私、今日は出張の飛行機の都合で早く出ないといけないけど、メールで送っておいてくれたら、出張先で確認するから」
「はい」
 というやりとりがあった後、美香は飛行機の時間がせまり、太一からのメールを受け取らずに退社してしまった。
 リストは、奈々子が作成して、太一に送ってある。どうしてそのリストを使わないんだと奈々子は疑問におもった。
(メール、届いてないとか?)
 太一から受け取ったという返信はもらっていない。奈々子は送信記録を確かめた。メールは確かに太一に送られている。添付し忘れたかと疑ったファイルも、きちんと添付されている。届いてはいるようだが、何通ものメールに埋もれて見逃されてしまっているのかもしれない。
 それなら口で直接言っておこうと、奈々子は太一のワークステーションにむかった。
「あのさ、さっきリストを送ったんだけど、メールみた?」
 椅子に座ったまま、太一は奈々子の方を向こうともしない。不機嫌なオーラがただよっている。
「メールなら見た」
「あのリスト、使っていいから」
 すると、それまでPC画面にむかっていた太一は、くるりと奈々子をふりかえった。
「なあ、あれ、俺がやらなくっちゃいけない仕事だろ? 人の仕事に手を出すなよ」
 太一はせいいっぱい感情を抑えていたが、あきらかに低い声には怒りがこもっている。
 手伝って感謝されるどころか、怒られたかっこうになってしまった奈々子は、むっとしていた。“俺の仕事”というが、厳密にはチームの仕事である。チームメンバーの奈々子が太一の仕事を手伝って文句を言われる筋合いはない。
「何よ、その言い方。私ならリスト作成は簡単にできるから、手伝ってあげたのよ。できないことはできないで、できる人間に頼ればいいじゃないの! それがチームワークってものでしょ!」
 奈々子は太一をきっと睨みつけた。椅子に座っている太一と、立っている奈々子とでは同じ高さに目線がくる。
 太一は何か言い返したそうだったが、いきなり立ち上がったかとおもうと、すたすたと廊下に消えていってしまった。

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第10話 気まずい空気

 太一の怒った顔を、奈々子は初めて見た。怒らせたのは奈々子だが、仕事を手伝ってやって怒鳴られたのだから、たまったものではない。
(私なら、手伝ってもらって喜ぶのに……)
 そう思いながら、奈々子は暗い夜道をマンションまでとぼとぼと歩いていた。
 背後には、ひたひたと後をつける足音が聞こえている。
 少し遅れてついてくるのは太一だった。
 何もこんな時にまで帰りが同じ時間にならなくてもいいものを、オフィスを出てから奈々子と太一は少し距離をおいて駅までむかい、同じ電車を乗り継ぎし、駅を降りてからも、少し離れてではあるが、同じ道のりをそれぞれの自宅へとむかっている。
 この時ほど、太一が近所でなければいいのにと奈々子が思ったことはなかった。
 奈々子の歩くスピードにあわせて、ゆっくりとした太一の歩調は地面を踏みつけるようで、まだ怒りがおさまっていないようだった。
 感謝されようとおもって、奈々子は太一の仕事を手伝ったわけではない。太一にも言ったように、できる人間がやれることをやったほうが効率がいいと、奈々子はそうおもって太一の仕事に手を貸したまでだった。
(私だったら……)
 自分が太一の立場だったら、どうおもっただろうか。
 初めて関わる大きなプロジェクト。任された仕事に対する責任感。空回りするほどのやる気。仕事をやり終えたときの達成感。
 奈々子は自分が新人だったころを思い出していた。美香は決して奈々子を手伝おうとはしなかった。アドバイスはくれるが、手は出さない。当時は厳しいとおもったが、今となっては、どうにか一人前に仕事ができる人間に育ててもらって、奈々子は美香に感謝している。
 どんな困難な状況にあっても、自分でやり遂げていかなければならない仕事というものがある。太一の場合はリスト作成だった。太一が成長する機会を、奈々子はむざむざと奪ってしまったのである。
(自分でリストを作ってみたかったんだろうな……)
 太一が怒ったのも無理はない。自分が太一の立場で、自分の力でどうにかしようとしているのを横から手を出されたりしたら、やはり気分を悪くするだろう。奈々子は自分がしでかしたことの大きさに、今さらながら気付いて、気持ちが重くなった。
(悪いこと、しちゃったなあ……)
 奈々子は、メール便を取ってくれた太一を思い出していた。手も届かないのに取れるはずだからとおもっていた奈々子は、上から手を伸ばした太一に感謝するどころか、頼んでもいないのに、と失礼な態度をとったのだ。
 対して、太一は、『背が高いから取っただけ』『できないことはできないで、できるやつに頼めばいいんだ』と、リストを勝手に作成してしまった奈々子と似たようなことを言ったのだった。
(私の場合は、単なる郵便物だけど、仕事で同じことをされたらイヤだし……)
 考えてこんでいるうちに、奈々子はマンション前についてしまった。
 いつもなら軽く挨拶して分かれるのだが、今日は少し遅れて歩いている太一がマンション前につくころには、奈々子は自分の部屋までたどりついてしまっているだろう。
 謝ろう。
 奈々子はエントランス前で足をとめ、太一を待った。

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第11話 トイレ、借ります

 なんか悔しい気持ちがしないでもないけど、謝ろう。
 奈々子はそう決めた。悪いことをしたわけではないが、コミュニケーション不足だったのは確かで、頼まれもしないのに一方的に太一の仕事に手を出してしまったのは奈々子が悪い。
 何と言って謝ろうか。奈々子が口の中でもぐもぐとセリフを考えているうちに、太一がエントランス前までやってきた。
 奈々子をみるなり太一は
「悪りぃ、トイレ借りていい?」
 と言った。
 暗がりから現れた太一の思いつめたような様子に、何を言われるのかと体をこわばらせた奈々子は、足元がすくわれる思いがしていた。
「い、いいけど」
 奈々子が部屋の鍵を開けるなり、太一は案内されるがまま、トイレにかけこんだ。
(あと少しで自分のマンションなのに、我慢できなかったのかしら?)
 太一は、奈々子のマンションを少し行った曲がり角を行った先に住んでいるはずだ。
 お茶ぐらいは出したほうがいいかと奈々子は思ったが、よくよく考えてみれば、夜遅く、独身の女性の部屋にあがりこんでいる男性を歓待しなければならない理由がない。太一は恋人でも何でもない、ただの仕事仲間なのだ。
 それとも、太一はトイレを口実に奈々子の部屋にあがって、とよからぬことを考えていたのだろうか……。
(トイレ借りにきただけよ、あとはさっさと帰ってもらって―)
 リビングで奈々子がそわそわしていると、さっきまでの青ざめた顔色はどこへやら、すっきりした様子の太一がトイレから出てきた。
「トイレの電球、切れてるぜ」
「あ、そうだった」
 今知ったような顔で奈々子は聞いていたが、実は一週間前から切れてしまっている。換えないといけないとおもいつつ、奈々子の背では届かないのと、別に生活に支障がないのとで、ほったらかしにしてある。ユニットバスの風呂に入るときには、キャンドルを使った。かえってリラックスできる。
「…あのさ、ありがとな」
 居残られたら……という奈々子の心配をよそに、太一はさっさと玄関先へむかい、靴を履こうとしていた。
「トイレのことじゃなくて、イヤ、トイレもそうだけど、リスト…な」
「うん」
 パンプスを脱いだ奈々子と太一の身長差が5センチ開いていた。いつもにもまして、太一の横顔が遠い。
「私こそ、頼まれもしないのに手伝ったりして、ごめんね。一言、きけばよかったよね」
「俺ら、チームだし。お互い、できることをやって補っていくっていうかさ」
「うん」
「できない時は、助けを求めてもいいよな……」
「うん」
「じゃ、また明日な」
「うん……」
 来たときとは打って変わっての笑顔で、太一は奈々子の部屋を後にした。
 カーテンを閉めようと窓際に近寄った奈々子は偶然、マンションを出ていく太一の姿を目にした。暗がりで姿はよく見えないが、大男の影は間違いなく太一だった。太一は、自宅のあるはずの方角とは逆の方向、駅にむかって歩いていた。
(コンビニにでも寄るのかな?)
 その時の奈々子はそう思っていた。

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