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あじろ けい

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ずれる 1-2

 狭いワンルームのキッチンにはゴミ袋がいくつも散乱して足の踏み場もない。そのどれもがはちきれんばかりに膨れている。ゴミ袋の中身は燃えないゴミで、1か月分はゆうにある。
 一人暮らしで、帰宅は夜遅くなってからとなると、疲れ切ってしまって自炊する気にもなれない。自然とコンビニの弁当などで済ますことが多くなり、燃えないゴミばかりが増えていく。2週間に一度のゴミの日を逃すとすぐに部屋の中がゴミ袋で埋まってしまう。祥子はすでに二度も収集日を逃してしまっていた。
 それというのも、ゴミは収集日の当日、朝8時までに出しておかなければならないというマンションの決まりのせいだった。真夜中過ぎに帰宅、出社は朝10時すぎてからという生活の祥子にとって朝の8時は夢みている時間帯だ。ゴミを出すためにわざわざ起き出したくはないというので夜中のうちにこっそりとゴミを出していたが、同じマンションの住民に注意されてしまった。
猫があらすので夜のうちには出さないでくれと言うのである。
 夜のうちにゴミを出さないというのはマンションの自治会の決まりでもあり、祥子も知ってはいたが面倒で守ってはいなかった。祥子の他にも夜のうちにゴミ出しをしている住人はいる。祥子が集積所に行けばすでに先客があるというのはしばしばだった。それなのに祥子だけが自治会長からじきじきに注意された。なぜ夜中にゴミ出しをしているのがわかったのかと不思議に思っていたのだが、どうやら目撃者がいて自治会長に告げ口をしたらしい。
 その目撃者とは、隣りに住む中年の女性だった。表札には風間とあるその女性とは特に親しいわけでもないが、顔を会わせれば会釈をする。若い女性と住んでいて、どうやら娘らしく、薄い目と鉤鼻がそっくりだった。
 毎日のように夜遅くに帰宅し、朝は出の遅い祥子を、水商売の女か何かだと思っているらしい風間婦人は、祥子に並々ならぬ関心を抱き、その行動を逐一見張っていたらしい。らしいというのはあくまでも祥子の推測だが、確信はあった。
 4階にある祥子の部屋は集積所の真上にあった。夜にゴミ出しをする際には、ベランダから体を乗り出し、集積所に先客の存在を確かめてから階下に降りていくのが習慣だった。先にゴミがあれば、自分の出したゴミとの見分けがつかないだろうとカモフラージュのつもりだった。にもかかわらず、名指しで注意されたのは祥子だけだった。
 祥子のベランダから集積所が見えるということは、隣の風間婦人の部屋からも集積所が見えるということだ。彼女は祥子がゴミを出している場面を目撃したのだろう。
 注意されてからというもの、祥子は集積所にゴミが出ているかどうかを確かめる前に隣のベランダをうかがうようになった。明かりが漏れていれば風間婦人が起きているだろうから、ゴミ出しにいけない。玄関のドアを開けようものなら、風間婦人は耳ざとく聞きつけてベランダから祥子を監視するのに違いないのだ。他の日はさっさと寝ているようなのに、ゴミの日の前日に限って夜中すぎまで明かりがついている。
 前回の収集日も前々回の収集日も逃してしまって、たまったゴミは1か月分にもなった。明日の収集日にこそは出さなければならないのだが早起きはつらい。
 祥子は隣のベランダの様子をうかがった。カーテン越しに淡い光が漏れていた。
 早く寝ればいいものをと苦々しく思いながら、祥子はしぶしぶ朝早く起きてゴミ出しをすることにした。さすがにこれ以上ゴミ袋をためておくわけにはいかない。
 起きてすぐに出せるよう、ゴミ袋を玄関先に積み上げておき、目覚ましをセットして眠りについた。
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テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

ずれる 1-3

 人身事故の影響で電車のダイヤが乱れていたため、大幅に遅れて出社すると、社内の様子がおかしい。
 いつもならコーヒー片手にたわいもない朝のおしゃべりに興じているはずの編集部員たちが、今朝はコーヒーと立ち話の風景は同じでも、声をひそめてまるで通夜の席のようである。
 顔をみせるなり、祥子のもとへと駆け寄ってきたのは同じ編集部の斎藤リカだった。
「さやかちゃん、亡くなったんだって」
 あたりを憚って声を落としているが、どことなく弾んだ声音だった。
 リカは社内のゴシップに通じていた。学生時代から編集部でアルバイトをしていたので社内での付き合いが広く、誰と誰が付き合っているだの他部署の内情や人間関係にやたら詳しい。
 だが、この朝リカが口にした「さやか」という名前を祥子は知らなかった。誰だっただろうかと不思議な顔でいると、リカはぱっと口を開いた。
「そうか、祥子さん、知らないよね、さやかちゃんのこと。藤重さやか、祥子さんが入社してすぐに辞めちゃった人で、すごい美人だったの。受付の彼女目当てに、電話で済む用件をわざわざ来社して伝えにきた人もいたくらい」
 藤重さやかなる人物を知らない祥子とでは話に花が咲かないと思ったのか、祥子に遅れて出社してきた別の雑誌の編集部員を見るなり、リカは身をひるがえして去っていった。
「さやかちゃん、亡くなったんだって」
 まったく同じ台詞、少しだけ弾んだリカの声が聞こえてきた。音量は小さいが、通る声なので聞こえてしまう。ラジオでも聞くかのように、祥子は何とはなしに耳を傾けていた。
「藤重さんが? え、何で? 病気とか? 彼女、まだ若かったよね?」
 祥子からは得られなかった反応に満足するかのように、リカは矢継ぎ早に話し始めた。
「まだ26。電車にはねられた事故らしいよ」
「電車にはねられたって、まさか……」
「うん、私もちょっと気になった。例のことで思いつめて飛び込み自殺しちゃったのかなって」
 飛び込み自殺という言葉を聞いて、祥子は今朝の人身事故を思い出していた。
 祥子の使う路線では人身事故が多発していた。自殺の強い意思をもった人間が集まって来てしまうという噂だから、彼女が死に場所に選んだとしてもおかしくはない。
 素晴らしい美人だったという彼女の肉片の飛び散った線路の上を走ってきたのかもしれないと考えると、祥子は胸にむかつきを覚えた。そして、そんな偶然のあるはずがないと自分の馬鹿げた考えを否定した。別の路線でも“事故”は起こりうるではないか。
 リカたちは音量をさらに下げてしまったため、会話はもう聞き取れなかった。知り合いでもない人間の話だ、祥子は気分を切り替えた。
「あれ、編集長は?」
 すでに出社しているはずの五十嵐悦子の姿がデスクになかった。
「さやかちゃんの葬儀の段取りとかいろいろあるから今日は休みとるって」
 リカの首だけが祥子の方を向いて答えた。
「お葬式って、普通、家族が動くものじゃないの?」
「編集長とさやかちゃん、親しかったみたい。さやかちゃん、一人暮らしだったから、とりあえず簡単な通夜と告別式をこっちでしてしまうんだって。実家のお母さんからも頼まれたみたいで、さやかちゃんが亡くなったっていう電話もらってすぐに社を出ちゃった」
 祥子とはすれ違いだったらしい。悦子のデスクの上のタンブラーからはコーヒーの香りが湯気とともに立ち上っていた。
 洋風な華やかな外見とは裏腹に、悦子は時代劇に出てきそうな姉御肌の女性だった。彼女が率いるインテリア雑誌「ハーモニー」編集部のチームワークがいいのは、その統率力の賜物だ。
 アルバイトを経て社員になったリカと、はじめから正社員として入社した祥子、他に2人の派遣社員とを含めて女ばかり5人もいると、さざ波程度の波はたつ。リカは誰とでも親しく口をきくが、無邪気なつもりのひと言が相手の気分を害してしまうことがある。大抵は自分より年上の派遣社員たちに対しても横柄ともとられがちな口をきいてしまって揉めそうになるのを丸く収めているのが悦子だった。
 波がしらがたとうものなら悦子がさっとやってきて、不平不満のガス抜きをする。自ら先頭だって悦子が受け止める不満は仕事上のこととは限らず、プライベートな事柄、たとえば恋愛などの相談にものっているらしく、他の部署からの人望も厚い。祥子も、今のマンションに引っ越す際には悦子に身元保証人になってもらっていた。藤重さやかという女性も悦子を慕っていて、退職した後も関係が続いていたのだろう。
 部署を超え、退職後も親しくしていた友人を亡くしたとあっては仕事どころではないだろう。覚悟していた死ではなく事故死だったのだから、悦子は気持ちの整理がついていないかもしれない。
 仕事のことは心配ないからしばらく休みを取ってはどうかという主旨のメールを打ち、祥子は悦子のタンブラーをもって給湯室にむかった。しばらくは出社できそうにもない悦子のためにコーヒーを処分しておこうと思ったからで、丁寧に洗われたタンブラーは悦子のデスクに戻された。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

ずれる 1-4

 編集長がいなくては仕事もはかどらない。その日は結局、夜の11時ごろまで残業し、祥子は久々に電車で帰宅した。
 金曜の夜とあって酔った客が多かった。酒くさい息の電車を降り、駅のホームに立つとひんやりとした空気に包まれた。とはいえ、夜気の寒さに険がなくなりつつある。この分では桜の開花宣言もじきだろう。早くシャワーを浴びてゆっくり寛ぎたいと、祥子は帰り道を急いだ。
 コンビニに寄って弁当を買ってくると、マンションの入り口で風間婦人に出くわした。小腹が空いて夜食でもと思ったのか、スウェット姿のラフな格好で、手には祥子と同じコンビニのレジ袋があった。目があうなり、祥子は軽く頭を下げた。
 ゴミだしを注意されて以来、どうやら自治会長に告げ口したらしい風間婦人を忌々しく思わないわけではなかったが、態度に出すほど子どもではない。顔を見れば会釈はしてきたし、相手も愛想よく挨拶し返してきたのだが、この夜はいつもと様子が違った。
 祥子を見るなり、風間婦人は魔物にでも出くわしたかのような勢いでマンションに入っていった。ちょうどエレベーターが一階に降りていたらしく、乗り込むなりさっさとドアを閉めて上がっていってしまった。同じ階の隣人だから待っていてくれてもよさそうなものをと、祥子は正直、不愉快に思った。
 風間婦人の気に障るようなことを言ったかしたりしただろうかと思い巡らせるも、思いあたる節は何もない。トラブルらしいものといえばゴミ出しの問題ぐらいだが、この1か月は夜のうちのゴミ出しが出来ないでいる。と考えて、祥子は今朝のゴミ出しを忘れていたと思い出し、憂鬱になった。
 ゴミの山にさらなる塵をつもらせるコンビニ弁当を手に祥子は玄関の戸を開けた。しかし、そこに築かれてあったはずのゴミの山はきれいさっぱり片付けられていた。出し忘れたとばかり思っていたが、どうやら早起きして出しておいたらしい。寝ぼけていて出したことも忘れてしまったようだ。
 しっかりしろとばかり、祥子はげんこつで頭を二度、三度こづいた。テレビでもパソコンでも、調子の悪い時には叩くと不思議と調子を取り戻す。頭も叩いておけばゆるんだねじがしまるだろうと、祥子は根拠のない期待を抱いた。
 遅い夕食の弁当を食べながらテレビでもみるかと、祥子はスイッチを入れた。夜遅い時間なので音量は控えめにし、それとなくベッドの接する壁をうかがう。バルコニーから明かりは漏れていないところをみるとどうやら風間婦人は寝てしまったらしい。しんとした空気が壁越しに伝わってきた。寝ているというよりは息を殺して祥子の様子をうかがっているようにも感じられる。そう思うなり、隣人が気になっているのは自分の方ではないかと祥子は我ながらあきれた。
 弁当を温めようとレンジに入れ、スイッチを押す。ピッピッピと電子音が鳴ったとたん、タイミングを見計らっていたかのように重低音が聞こえてきた。ズッズッ、ドッドッと、まるで巨大生物の心音のような規則正しいリズムで、風通しのために開けたバルコニーの窓ガラスが震えている。
 また隣の女が音楽をかけはじめたのだ。女はこの冬に越してきたばかりで、火曜日と金曜日の夜になると決まって大音量で音楽を聞き始める。しかも夜といっても8時9時といった浅い時間ではなく、11時、12時と夜更けてからである。横になって休もうかという時間帯だがとてもではないが寝ていられない。
 一度音楽がかかると1時間ほどは鳴りやまない。祥子は開け放していた窓を腹立たしい思いで閉めた。
 テレビでは古い洋画が放送されていた。日本語の吹き替えはしかし、隣の音楽にかき消されて何を言っているのかまるで聞き取れない。かといって音量を上げれば、風間婦人からうるさいと文句を言われるのは祥子の方だろう。理不尽だと思いつつ、祥子はテレビを見るのを諦め、スイッチを消した。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

ずれる 1-5

 その朝、編集部には客があった。
 祥子が編集部に入っていくと、悦子のデスクの前に見慣れぬスーツの背中がたちはだかっていた。客の男は悦子と親し気に話をしていた。右手をパンツのポケットに入れ、話にあわせて宙を舞う左手の薬指には指輪が光っていた。
 顔は見えなかったが、見なくとも祥子には話し声だけで男の正体がすぐにわかった。
 聞き慣れた声の主は二階堂隆だった。
 祥子の会社では、編集部のある本社のほかに営業所という拠点を全国各地にもっていた。各地の書店を訪問して自社の出版物の売り場を確保するのが主な仕事で、二階堂はある地方都市の営業所に勤務していて、祥子は彼とは何度か電話でやりとりをしたことがある。 
「あ、祥子。こちら、本日付でご昇進の二階堂営業部長」
 二階堂の広い背中から悦子が顔をのぞかせた。紹介された二階堂は腰をひねって祥子にむきあった。
「八田祥子です。よろしくお願いします」
 祥子は頭を深々と下げた。電話でのやりとりを通して親しくなっていたとはいえ、顔を見るのは初めてなのできちんと挨拶をした。
「何だか変な気分だなあ。電話では話してきたから八田さんをまったく知らないわけじゃないんだが、顔をみて話すのは初めてだから、初対面の人に会うような緊張感もあるよ」
 電話線にのらない二階堂の声にはノイズがなく、生身の声がもつしめっぽさがより増していた。
「今日から本社勤務になりました、二階堂隆です。よろしくお願いします」
 祥子に倣うかのように、二階堂も丁寧にお辞儀をしてみせた。そうやってふざけてみせるところも、電話でのやりとりとまるで変わらない。背を真っ直ぐに戻した二階堂と祥子とは顔を見合わせて笑った。
「せっかく同じ本社勤務になったことだし、今度、飲みにでも行こうか」
 社交辞令だとわかっていても、祥子はふつりと血の沸き立つのを禁じ得なかった。それは二階堂の声のせいだった。湿り気を帯びた二階堂の低い声に、祥子は男を感じずにはいられない。
 人の声が全身の血を震い立たせるほどの性的魅力をもつものなのだと祥子は二階堂の声を聞いて初めて知った。
 顔をみないうちに祥子は二階堂に惹かれた。
 二階堂の声を聞きたいと、メールで済む用事でも営業所に電話をかけた。書店をまわっている二階堂だからなかなかつかまらない。営業所の女子社員が気をきかせて二階堂の携帯電話の番号を教えてくれた。逡巡した挙句、祥子は自分の携帯から二階堂にかけた。結局、携帯でのやりとりでもすれ違い、その時のメッセージは祥子の留守電に残っている。祥子はそのメッセージを保存し、何度も聞き返していた。
「こら、既婚者がナンパしてんじゃないよ!」
 悦子がすかさず手元の書類で二階堂の手をはたいてみせた。二階堂は大げさに痛がってみせた。
「ナンパじゃないって、飲みニケーション。悦子も、ハーモニーの編集部の子たちとうちの営業の子たちとでさあ」
「あんたさあ、それを世間で何ていうか知ってる?」
「教えてもらおうか」
「合コンっていうんだよ! 悪い虫はさっさと巣に帰りな」
「はいはい。退散しますよ」
 悦子に追い払われるようにして、二階堂は他の編集部への挨拶にむかっていった。
「編集長、二階堂部長と随分親しいんですね」
 祥子は名残惜しそうに二階堂の背中を見送った。
「私ら同期なのよ。あいつも本社の営業部勤務だったけど、2年前に営業所に異動になってさ。出世して帰ってきたっていうんで、真っ先に私のところに挨拶にきたんだと」
「編集長に挨拶しないと怖いからじゃないですかぁー」
 すかさず、リカが茶々を入れた。
「取って食いやしないっていうの。それにしても、あいつが営業部長か」
 悦子は目を細めて二階堂のたくましい背中をみつめていた。
 同期ともなると、新人の頃の苦楽をともにしてきた仲間という意識が強いのだろう。二階堂をみつめる悦子の目はまるで母のようでもあった。もともと本社勤めだったのが営業所に異動になったというからには左遷の憂き目にあったのだろうが、本社に返り咲いたということで悦子としても感慨深いものがあるのだろう。
 悦子と同期入社ということは、少なくとも40を超えているだろうが、二階堂は年よりは若くみえる。声の艶と張りから想像していた通り、引き締まった体をしていた。人懐っこい笑顔は電話での軽口そのままで、嫌味がない。これからは毎日のように二階堂と顔をあわせるかもしれないのだと思うと、祥子の体が熱くなった。



 帰宅するなり、祥子の携帯が鳴った。二階堂からだった。メールには、今度飲みに行きましょうとだけあった。ふたりきりでとは書かれていなかったが、編集部のみんなでとも書かれていなかった。
 体中の血がざわついた。だが、祥子は思いとどまった。二階堂の左手薬指の結婚指輪の煌めきが警告を発していた。苦しむとわかっている関係なのだから、どんな小さな始まりでも摘み取っておかなければならない。祥子はしばらく携帯の画面と睨み合いを続けた後、思い切って電源を切り、バッグの中に放り入れた。
 その時だった。
 誰かがバッグの中の携帯を拾い上げたようなような気がして祥子はバッグを覗き込んだ。携帯はきちんとそこにあった。
 携帯との睨み合いからバッグに放り込むまでの一連の動作を、祥子は姿見の前で行っていたのだが、鏡の前を離れた時に鏡に映り込んだ自分の影がバッグを覗いているように見えたらしい。鏡に映った姿が自分と違う動きをするはずがない。また疲れ目かと、祥子は例のこめかみをもむマッサージを何度か繰り返した。
 ここのところ、祥子は部屋でゆっくりと休めないでいた。それというのも、せっかく早く帰宅しても隣の女が夜中近くになって音楽を大音量で流すからであって、一度苦情を申し立てようと思いつつ、言いそびれてしまっていた。今夜こそはゆっくりと眠らせてもらいたいものだと、祥子は姿見の向こうの壁を睨みつけた。
 また音楽を鳴らされたらかなわないと、祥子はイヤホンを耳にあて、音楽を聞きながら寝ることにした。だが、そんな用意は今夜に限っては不要に終わった。その夜、隣の女は気味悪いほど静かで、以降、夜中の音楽はぴたりと止んだのだった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

【雑記】一人称

一人称の小説を書いたことがない。

ふと気づいてしまった。

何故だろうと考えてみた。

一人称だと、より深く登場人物の感情に踏み込んでいけるのだが、そうした作業で自我が出てしまうのを恐れているのかもしれない。

登場人物の感情としているが、呼称に「私」を用いるため、作者としての考えを述べていると思われてしまいはしないか。

私は己の考えを述べたり、自分をさらけ出すことをあまりしない。小さい頃はそうでもなかったのだけれど、周りから変わっているねと言われ続けたので、大人になるにつれ、周りに合わせるようになった。

周りに合わせているといろんなことが楽だった。第一、何も言われない。ひとりにならないですむ。ひとりになるのがどれだけ恐ろしいことか、一度でも周りから浮いたことのある経験のある人ならわかるはず。

どうやら私は、一人称の小説によってさらけ出される己が非難されるのを恐れているらしい。

小説とは、共感するエンターテインメントだと私は考えている。登場人物の感情の動きに自分の感情を沿わせ、彼らが体験していることをあたかも自分も体験しているかのように感じる。これが小説を読む面白さだろう。

その登場人物の感情の動きがもっともつかみやすいのが、一人称の小説だ。作中、「私は」「僕は」という字面を追うだけで、自分が同じ感情を抱いているかのような錯覚に陥る。

これが、太郎や花子だと、そう簡単にはいかない。そこで小説家はあの手この手で、読者の花子さんに、登場人物、太郎の気持ちになってもらう。これがうまいのがプロの小説家。

私を含めた素人物書きはよく語彙の少なさを嘆くが、実は豊かな感情表現が出来ていないだけの話である。語彙の問題ではなく、表現力の問題。語彙の問題だとおもって感情に関わる語彙を増やしても、無駄である。喜怒哀楽は、感情を表す動作の語彙を用いなくてもできるし、むしろあえて用いないのがプロの技ではないだろうか。

わが身を振り返ってみる。

私は、自分自身を出したり、感情を表現するのが下手だ。自分を抑えるようにしてきたから、今さら出せと言われても難しい。

自分の思うところや感情がないわけではない。表現の仕方がわからないというだけ。

この人間としての欠点が、共感するエンターテインメント、小説を書く上で決定的な欠陥となる。

登場人物に感情を表現させてあげられないのだ。

最悪だ。

だから私の書く小説は面白味がないんだ。

私は自分自身の感情表現ですら苦手だ。現実では、抑えるだけ抑えていて、こらえきれないと爆発してしまう。

それは個人の問題として。

物書きとしては、面白い筋立ての小説うんぬんの前に、ありきたりの話の、それでも登場人物に心のある小説を書く修行をしたほうがいいのかもしれない。

テーマ:物書きのひとりごと
ジャンル:小説・文学

ありがとうございます

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ずれる 2-1

 ランチの後、化粧室の個室に入ったものの、祥子は出るに出られなくなってしまった。祥子が個室に入るなり化粧室に押し寄せてきた3人が祥子の噂話を始めたからだった。
 声の違いから話しているのは3人と判別でき、そのうちの1人は同じ編集部のリカだった。主に話をしているのはリカで他の2人は二言三言付け加えるか、時々相槌を打つだけだった。
「祥子さんってさ、最近変わったと思わない?」
 リカは個室に祥子がいるとは思ってもいないらしい。編集部のフロアの化粧室には人がいたので、祥子は別のフロアの化粧室にかけこんだ。リカたちも同じ口だろう。別フロアの化粧室だから祥子はいないだろうと踏んでリカは祥子についての噂話をし始めたようだった。
 自分の名前を聞いて祥子は息を殺した。
「変わったってどう?」
「カラーリングで髪を明るくしたり、パーマかけたりさ。着るものも何か女の子っぽいワンピとかスカートとか。何っていうか、女らしくなったっていうの?」
「何それ。前は女らしくなかったって言ってるようなものじゃない」
 3人は声をたてて笑った。
「だって、そうじゃん? パンツスーツとかかちっとした格好が多くてさ。色も黒っぽい服が多かったし」
 そういうリカのスーツ姿をそういえば祥子はみたことがなかった。季節を問わず、いつでも寒そうな薄い生地のワンピースかブラウスにスカートをはいている。
「最近の祥子さんてさ、誰かに似てきたとおもわない?」
 リカが他のふたりを促したが、思い当たる人物がいないようでふたりは沈黙し続けた。しびれを切らしたリカはとうとう口を割った。
「さやかちゃん! 元受付の!」
「藤重さん?」
 同意しかねるといわんばかりに、ひとりが声を裏返した。
「似てないよ。藤重さんは女優っていってもいいくらいの美人だったけど、祥子さんは地味な人じゃない。何ていうか、いかにも文学少女っていう」
「そうだけど。だからさっき言ったように、最近雰囲気変わったの。その雰囲気がさやかちゃんに似てるんだって」
「そうかなあ」
 祥子を地味だと言った方はリカの意見に否定的だった。祥子を知っているような口ぶりだが、祥子の方では相手の声に聞き覚えがなかった。リカは部署を超えた付き合いが多いから、別の編集部か、人事や経理といった他部署の女子社員だろう。
「ひょっとしてさ、二階堂さんと不倫してたりして」
 リカはわざと声を落とした。
「うちの部長と? それはないと思うなあ。部長のタイプじゃないじゃん、祥子さんて」
 すかさず否定したその声の主はどうやら営業部の人間らしい。こちらの声には祥子は聞き覚えがあった。顔と名前は思い出せないが、何度か電話でのやりとりをしたことがある。低めの落ち着いた声の持ち主で、国営放送局のアナウンサーのように滑舌がよかった。
「二階堂部長のタイプって藤重さんみたいな、華やかで女の子らしいひとだもの」
 ただでさえ低い声がさらに低くなった。祥子は思わず個室の壁に身を乗り出していた。
「二階堂さんとさやかちゃんが不倫してたって話、本当だったんだ」
 うんという返事がかろうじて聞き取れた。
「二年前、二階堂さんが営業所に異動になったのって、さやかちゃんとの不倫が原因の左遷だったっていう噂、やっぱり本当だったんだ」
「藤重さんとの不倫は公然の秘密っていうか、みんな疑ってはいたけど何も言わなかった。でも、誰かが社長に密告したみたいなんだよね。ある時、社長が営業部に急に来てさ、当時の部長と二階堂さんとで話して、その後、二階堂部長の営業所への異動が決まったの。藤重さん、社長のお気に入りだったからね。社長としてはふたりを別れさせたかったってところなのかな。その藤重さんも急に会社辞めちゃったし」
「確か、田舎に帰ってお母さんの面倒をみるっていう理由だったんだよね。お母さん、体が不自由だとか言ってたような」
「田舎に帰るっていってたのに、こっちにいたんだってね。お葬式もこっちで簡単に済ませたっていうし。悦子さんが全部取り仕切ったらしいよ。亡くなってもう半年にもなるんだね。さやかちゃんの事故ってさ、本当に事故だったのかなあ……」
「自殺だったんじゃないかっていう噂だけど……」
 祥子の知らない声がリカの疑問を受けて答えた。
「田舎に帰るって嘘ついてこっちに残って、二階堂さんとの関係続けてたっぽいじゃない。不倫に苦しんで自殺したって考えられないかなあ」
 藤重さやかが亡くなったという知らせが飛び込んできた日、すでにリカは、自殺の疑いをほのめかしていた。「例の件で」とは、二階堂との不倫を指していたのだろう。
「私さ……実は見ちゃったんだよね」
 営業部が重々しく口を開いた。
「その時は藤重さんだってわからなかったんだけど、あの日、事故を目撃しちゃったんだ」
 個室に隠れて聞き耳たてている祥子の心臓が一瞬にしてひやりと固まった。
「乗る電車がホームに入ってきて、危ないってわかってたけど、前の方の車両に乗りたかったからホームのはじを走って電車を追いかけたのね。遅刻ぎりぎりだったから。ずっと電車の先頭を見てたんだけど、そしたら突然ホームから人がこぼれて線路に落ちたんだ。それが藤重さんだったんだよね……。私、気分悪くなってその日は会社を休んだんだけど、後で藤重さんが亡くなった話を聞いて、あれは彼女だったんだって気づいて、気持ち悪くてもうあの路線の電車に乗れないから、引っ越ししたんだ」
 営業部がぽろりとこぼした路線名は祥子の通うものと同じだった。とたんに胃の底がただれたように熱くなった。祥子はこみ上げる吐き気を抑えようと口元に手をあてた。多発する事故の犠牲者についてはなるべく考えないようにしてきたが、見知らぬ他人とはいえ、そこで命を落とした人間の名前を聞いてしまった以上、平静ではいられなかった。
 毎朝毎晩、自分は藤重さやかの肉体の散った場所を踏みつけてきたのかと思うと、胃そのものを取り出してしまいたいほどの嫌悪感に襲われた。心なしか、電車が踏んだであろうブレーキの鋭い音まで聞こえるような気がする。その音にかき消されたのは藤重さやかの断末魔の叫びであっただろう。
 線路に散った肉片の腐臭すら嗅ぎ取ったような気がし、祥子は食べたばかりのものをすべて吐き出してしまった。すえた臭いが化粧室にたちまち充満し、リカたちはそそくさと化粧室を出ていってしまった。
 リカたちが化粧室を出るのを待ち、祥子は個室を飛び出した。洗面台へかけよると、蛇口をひねって口元をゆすいだ。肩で荒い息をしながらふと鏡をみると、そこには笑う女の姿があった。
 藤重さやか――とっさにそう思い、祥子は洗面台から素早く身を引いた。笑う女も祥子に合わせて鏡の奥へと身を引いた。
 祥子はおそるおそる鏡に近づいた。
 死んだ藤重さやかが鏡に映っているはずがない。映っているのは祥子自身だった。
 祥子が鏡に顔を近づけるにつれ、鏡の向こうの像も祥子にむかって顔を寄せてきた。口角のあがったその口元に水滴がついている。祥子の口元にも濡れた感覚があった。だが、口角があがっている感覚はない。
 自分は笑っているのか?
 笑っているつもりはないのだが、確かめようがない。確かめる手段であるはずの鏡には、笑っている自分が映っている。
 祥子は頬に口に両手をあてて表情をさぐった。笑っている筋肉の動きではなかった。しかし、鏡の中で両手を頬にあてている女は笑っている。
 映っているのは本当に自分なのだろか。
 祥子は背後を振り返った。だが誰かがいるはずはなかった。化粧室には祥子きりしかいない。
 蝶番のきしむ音がしたかとおもうと、化粧室に華やかな声がなだれこんできた。祥子の顔をみるなり、2人の女性たちは会釈をした。アルバイトの女の子たちである。祥子はすばやく口元のしぶきをぬぐい、会釈を返した。
 そっと鏡を覗きみると、笑う女は姿を消し、そこには祥子が映っているだけだった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

ずれる 2-2

 シャワーを浴び終え、祥子はドライヤーで髪を乾かし始めた。熱風にあおられ、セミロングの髪の毛先が舞い踊る。祥子は、チョコレートのコマーシャルを思い出していた。清楚なイメージの美少女が、彼女に憧れているのであろう少年とチョコレートを分け合うそのコマーシャルで、少女の黒く長い髪はそよ風にもてあそばれていた。
 ドライヤーをもつ手を遠ざけ、祥子は心持ち小首を傾げてみた。熱風の勢いが少しは弱まり、春風のような優しさで毛先を揺らした。モデルみたいだと、祥子は鏡にうつった時分の姿にみとれていた。
 黒髪の艶は残しつつ、重くならないようにと軽めにカラーリングした髪は、蛍光灯のもとで艶めいている。肌はしっとりとしてはりがあり、いつまでも触っていたい感触だ。瞳にも唇にも潤いがあり、はちきれんばかりの若さとほのかな色香を発している。
 おもわず見惚れる自分の姿に、とある人物の姿を見出し、祥子はおもわず顔をしかめた。
 藤重さやか――美人と評判だった彼女に自分は似ているのだろうか。
 昼間、化粧室でリカは祥子が藤重さやかに似ていると言っていた。そう言われても、藤重さやかの顔を知らない祥子にはピンとこない。
「鏡ばっかりみてないで、何か作ってくれ。“運動”したから、腹減った」
 祥子の背後に立った二階堂は、かじる真似事で祥子の首筋を甘く噛んだ。ふつりと血が沸き立つのを抑えながら
「ねえ……私、藤重さんに似てる?」
 祥子は、鏡の中の二階堂にたずねた。
 営業部長の二階堂との関係は半年ほどになる。男と女の関係になったのは二階堂が営業所から本社の営業部に異動になったすぐ後で、二階堂の強引な誘いを祥子は拒み切れなかった。
 藤重という名前に、舌先で祥子の耳たぶを弄んでいた二階堂の動きが止まった。
「誰?」
「藤重さやか。元受付の人。私が入社してすぐに辞めた人らしいけど」
 二階堂は知り尽くしたはずの祥子の体を新たな気持ちで探るように眺めつくし
「似てない。祥子は祥子。それより、なあ……食事はやめにして“運動”しようや……」
 四十を少し過ぎたばかり、男盛りの二階堂の体は活力を取り戻していた。贅肉のない引き締まった体はしなやかだが、祥子を求めるときには獲物を狙う獣のように猛々しい。それでいて愛撫は繊細で、気配りが行き届いている。ときに技巧的だと感じるのは、二階堂の女性経験が豊富なせいだろう。
 おくての祥子は、二階堂が初めての男だった。二十四にもなって何も知らないというわけではなかったが、具体的な事柄はすべて二階堂から教え込まれた。祥子は、二階堂の愛撫にはただ身を任せ、二階堂の望みは黙って受け入れた。他の男を知らないから、二階堂との情事が「普通」であるのかどうか、祥子にはわからない。他の男を知りたいとは思わないほど、祥子は二階堂の体に慣らされてしまっていた。
 藤重さやかもまた、二階堂に同じように抱かれたのだろうか。二階堂の愛撫に身を委ねながら、祥子は砂を噛んだような不愉快な気持ちになった。
 さやかを知らないふりをしてみせた二階堂だが、「似てない」という返事はひるがえってよく知っているという意味だった。本当に知らない人間なら「わからない」という返事があるはずで、祥子はひそかにその返事を期待していた。
 二階堂は自分のうえにさやかの姿を重ねているのではないか。祥子が処女だったのをいいことに、さやかと同じ反応を示すように教えこんだのではないのか。
 髪型も髪の色も、メイクも、祥子は二階堂がそうしろと言うものに従った。洋服も、二階堂が好きだと言うものを着た。二階堂の好みだとばかり思っていたが、それらは藤重さやかの好みではなかったのか。
 二階堂との関係が始まった半年前は、丁度さやかが死んだ頃と重なる。死んだ恋人の面影を新しい愛人のうえに求めたというのか……。
 二階堂の激しくなっていく愛撫に身をよじらせながら、祥子は鏡にうつった自分の姿をみつめた。そこにうつっているものが、はたして自分の顔なのか、祥子にはもはやそうであると言い切る自信がもてなかった。
 二階堂に触れられている感覚がなければ、祥子は鏡の外に自分の肉体が存在していると確かめられなかったかもしれない。
 二階堂の猛る血の流れを受けとめながら、祥子は、鏡にうつった藤重さやかに似ているという女にむかって勝ち誇った笑みを浮かべてみせた。鏡の像など、しょせんは虚像、祥子という人間なくしては存在しえないものだ。二階堂に愛されているのは祥子という肉体だ、違う熱をもった肉体がひとつに溶け合う恍惚感を、虚像が感じえるものか。
 祥子の優越感を悔しくおもったかのように、鏡のなかの女は顔を歪めた。顔の筋肉の動きとは異なる表情を浮かべた鏡の像を気味悪くおもいながら、祥子はのぼりつめていく快感に押し流され、ゆっくりと目を閉じていった。

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ずれる 2-3

「物がずれて見えるんです」
 悩んだ挙句、祥子はそう医者に告げた。
 鏡にうつった像が実際の自分の動きに遅れる現象は「ずれる」としか言いようがない。だが、自分が抱えている問題をうまく言い表せないでいる不満が残った。「ずれる」とは別の言葉がふさわしい気がするが、他の言葉が思い浮かばない。
 初めのうち疲れ目のせいだと思っていた「ずれる」現象は、最近になって頻発するようになった。電車の窓、ショーウィンドウ……鏡でなくても祥子の像が現れる場所で、ふとした動作がずれてみえる。時間にするとわずか1、2秒の出来事だ。疲れ目という単純な問題ではなく、もしかしたら目に重大な異常があるのかもしれない。一度、医者に診てもらったほうがいいだろうと祥子は眼科の門を叩いた。
「物がずれてみえると」
 中年の男の医者は祥子の言葉を復唱し、カルテに書き付けていた。
「八田さん、普段はメガネですか?」
 医者の視線が祥子の黒縁のメガネをとらえていた。医者もメガネをかけている。
「いいえ、普段はコンタクトです」
 眼科だから目の検査をするだろうとコンタクトは外してきていた。
「物がずれて見えるのは、裸眼の時ですか、それともコンタクトをしている時?」
「裸眼でも、コンタクトをしていても、ずれて見える時があります」
「なるほど」
 医者はカルテを書き込む手を止め、
「乱視と言われたことは?」
 と尋ねた。
「乱視だと物の輪郭がぼやけて、その物がずれて二重にも三重にもあるように見えるんです。乱視のほかにも、複視といって、やはり物がずれて二重に見える症状もあります」
「複視というのは? 乱視とはどう違うんですか?」
 乱視は知っていたが、複視という言葉は祥子は初耳だった。
「複視の複は、複数の複です。文字通り、物が複数、つまり二重にも三重にも見える状態を言います。乱視も複視もどちらも物がずれて見える状態なのですが、乱視は片方の目だけでもずれて見えますが、複視の場合は片方の目だけで見ると物が1つに見えるのです。片目だけでもずれて見えますか?」
「はい」
 片目をつぶってみたことはないが、いつでも見える時にはずれて見えるのだから片目だろうと両目だろうと関係ないだろう。そもそも、「物がずれて見える」とは言ったが、乱視や複視のずれて見える見え方とは違う。医者の言葉によれば、乱視などでは物が二重にみえるようだが、祥子が見ているずれとは、物そのものではなく動きのずれを指している。ほかに言葉が思いつかずに「ずれる」という表現を用いたが、医者にはうまく伝わっていないようだった。
「あの、うまく言えないんですけど……」
 祥子は口ごもった。
「物が二重に見えるのではなくて、鏡にうつった像と、実際の自分の動きとがずれて見えるんです。たとえば、私が鏡の前で右手をあげてみせると、鏡の像の動きが1秒か2秒ぐらい遅れて見えるんです。まるで鏡の中に誰か別人がいて、私の真似をしているけど動きについてこれないでいるといった風に――」
 と言ってしまって、祥子が背筋が寒くなった。鏡の中に誰かがいるとは何だ? そんなことのあるはずがない。だが、そう考えるとしっくりくる動きのずれ方なのだ……。
 医者は、祥子の言い分をどう理解したらいいものやらと首を傾げていた。
「すいません。ほかに言い様がなくて。でも、本当に、誰かが真似しきれないで動きがずれる、そんな感じなんです」
 汗が祥子のセーターの下のブラウスの背中を滑り落ちていった。
 鏡の像が実際の自分の動きとずれるのを見てもらえば一番わかってもらいやすいのだが、鏡と実在の自分とを同時に見てもらうことは不可能だ。像を見ることに集中すれば実体の動きを見逃してしまうし、逆もまた同じ結果だ。祥子は苛ついた。
「いいえ、おっしゃってる意味はよくわかります」
 医者にそう言われ、祥子はほっと胸をなでおろした。乱視、複視以外に、ずれてみえる目の異常を訴える患者が祥子以外にもいるのだろう。目に異常があるらしいにせよ、どうにかなりそうだと先の見通しが明るくなる気がした。
「とにかく、まずは視力検査をしてみましょう」
 メガネをかけた状態と裸眼の状態とで視力検査表の文字を読み取り、視力を測定する。メガネで1.5、裸眼では0.1と、知っている数字に変化はなかった。念のためと言われて行った乱視の検査では、放射状に伸びた線の濃淡や太さの違いが見えるかどうかを問われたが、すべての線が均一に同質のものに見えたため、乱視の疑いは否定された。
 検査を終えると、医者はカルテに結果を書き込んでいた。その間の時間がやけに長く感じられた。祥子は一刻も早く結果を知り、異常があるというのなら治療を開始してしまいたかった。
 医者はペンを走らせていた手をとめ、祥子に向き直った。ようやく判決が下されるのかと祥子は緊張から膝の上にそろえた両手で拳を握った。
「結論からいうと、八田さんは乱視でも複視でもありません」
「何か別の異常でも?」
 膝の上の拳がますます固くなった。
「それは別に検査をしないとわからないでしょうが」
 とっさに祥子は脳の異常を疑った。目と脳とは位置が近い。素人判断ではあるが、目に問題なければ脳の方に問題があるような気がした。
「体の異常ではないと思います。鏡の像の動きが実体とずれて見える症状というのは聞いたことありませんから。おそらく、心の問題でしょう。最近、仕事やプライベートで強いストレスを感じるような出来事がありましたか? どなたか親しい方を亡くされたとか」
「いいえ、そういったことは……。仕事は忙しくしていますが」
 体に異常はないと聞いてほっとしたのもつかの間、心の問題だとなるとやっかいだと祥子は困惑していた。ウィルスとは違い、ストレスは取り除きようがない。医者には言わなかったが、二階堂との後ろめたい関係は祥子にとってはストレスに違いなかった。
 黙りこんでしまった祥子に、医者は自分の判断は正しかったと自信をもったようだった。
「鏡の像の動きがずれてみえるのは一種の幻覚でしょう。幽霊の正体みたり枯れ尾花。心はいろいろなものを私たちに見せるのです。枯れた花でも、心がそう思えば幽霊にだって見える。自分の見ているものがその場に存在しているものとは限らないのです。ちょっと怖い話ですね。とにかく、心に異常があると、普通の人には見えないものが見えてしまうものなのです」
 確かに怖い話だと、祥子は聞きながら思った。医者は、祥子の見ているものを幻覚だと一蹴したが、彼は祥子の見たものを見てはいないのだ。見てもいないのに、なぜ祥子の方を異常だと判断できるのか。ずれて見える方が正常で、見えない医者側が異常だということはないのか。鏡の像が虚像だとみな知っている。だが、あれらは本当に虚像なのだろうか。別人であったり、または自分とは別の存在だということはないのか。
「一度、心療内科で診てもらってください」
 医者はそう言ってカルテの挟まったフォルダを閉じた。

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ずれる 3-1

 店名の染め抜かれた暖簾をくぐり、悦子は引き戸を開けて店内へと踏み入っていった。その後を祥子が追う。カウンターの席には男女の客があった。親子ほど年の差があったが、親子ではないだろう。
 祥子たちは悦子が予約しておいた個室の座敷へと通された。掘り炬燵の堀に足を入れるなり、悦子はふうと息を漏らした。その顔は職場での上司という仮面を脱ぎ捨て、40すぎのひとりの女に戻っていた。
「ここの主人はね、もともとはフランス料理のシェフだったんだって。でも何だかしらないけど急に和食に目覚めたらしいのよ。フランス料理を和風にアレンジしてあって、ちょっと面白いんだ」
 悦子の言った意味は料理を口にして初めて理解できた。食材の味をそのままにという姿勢は和食のスタイルに違いない。しかし、味付けにどこに重みを感じるのはフランス料理の手法によるものなのかもしれない。それを箸で食べ、悦子はワインではなく日本酒をグラスで飲んでいた。
 おいしいから飲んでみてはどうかと日本酒を勧められた祥子だったが、悦子と飲んだ後に二階堂に会う約束になっていたので、遠慮していた。
 帰り際、祥子は悦子に飲みに行こうと誘われた。次号の発行準備にとりかかるまでまだ少し余裕のある時期だ。そんな時期でないと二階堂とゆっくり過ごせないのだが、上司の悦子の誘いを断るわけにはいかない。二階堂には合鍵を使って部屋にあがって待っていて欲しいと連絡し、祥子は気もそぞろに悦子の晩酌に付き合っていた。
「先週の水曜日にさ、銀座で祥子を見かけたよ」
「銀座ですか?」
 祥子はこの一週間の記憶をさかのぼってみた。しかし、一週間どころか、1か月ほど銀座には足を向けていない。
「夜遅い時間で、二階堂と一緒だった――」
 悦子はグラスに残っていた日本酒を一気に飲み干した。江戸切子の美しい細工のグラスだった。
「付き合ってるの?」
 祥子を見据える悦子の目が血走っていた。祥子は黙ったまま首を横に振った。悦子は嘘だろうと言わんばかりに祥子を見据え続けていたが、祥子はその強い視線に屈しなかった。先週の水曜日の夜、銀座で祥子と二階堂を見かけたというのは悦子の嘘だ。二階堂との関係を白状させようとして、悦子はかまをかけているのだ。
「二階堂部長は結婚しているんですよ」
 淹れてもらったばかりの日本茶の湯呑に添えていて温まっているはずの指先が冷たい。
「大人同士の割り切った関係なら、不倫だろうと何だろうといいんだけど――いや、よくないね」
 空のグラスを力強く握る悦子の手が白くなっていた。
「あいつの、二階堂の今の奥さんね、2人目なんだよ。今の奥さんと関係があった時、あいつは結婚してた。前の奥さんとは社内恋愛で同じ営業部の子だった。私と同期。浮気相手も同じ社内で、あいつ、経理の女の子に手をつけたんだよ。浮気がばれたのか何か知らないけど、あいつは離婚して再婚した。こういうのは当人同士の問題だから他人がとやかく言う問題じゃない。不倫も浮気も嫌だけどね。子どももいなかったし、誰かを傷つけるわけでもなし――そう思っていたんだけどね。傷ついて死んだ人間がいるんだよ……」
「藤重さやかさん……」
 祥子がその名を口にしたので、悦子は驚いていた。
「知ってた?」
「はい。噂で」
「その噂は本当だよ。さやかは二階堂と不倫の関係にあった……」
 悦子のもらしたため息は酒臭かった。
「みんな気づいていたんだ。知らぬは当人同士だけ。いくら気をつけているつもりでも、周りには分かるんだ。みんな知ってて何も言わなかった。二階堂の病気がまた始まったぐらいに思っていたんだ。でも、誰かが社長に密告した」
「誰だったんです?」
「わからない。たぶん、社内の女の子の誰かだろうと思うけど」
 女の嫉妬だろうと祥子は勘ぐった。二階堂と藤重さやかの関係を暴露し、ふたりが破局すれば二階堂が自分に振り向くとでも思った女がいたのだろう。あまりに浅はかな考えだが、その女に同情しないでもない祥子だった。
「社長は不倫なんてとんでもないっていって、二階堂を首にするって言いだした」
「不倫で解雇ですか」
「さやかが社長のお気に入りだったんで、社長の気持ちの半分は嫉妬もあったんだと思うよ。とにかく、首にだけはしないでくれって、私から社長に頼んだんだ」
「悦子さんが、ですか?」
「同期のよしみでね。あいつ、女にはだらしないけど、いいやつには違いなかったから。それに仕事も出来たしね。社長も冷静になって考えたら首にはできないって思ったんだろう」
「それで、営業所に異動に」
「向こうでも営業成績はトップクラスだったらしいから、部長に出世して帰ってきやがったけどね」
 祥子は初め、悦子は二階堂に気があるのではないかと疑っていた。しかし、悦子の口ぶりからは男女の感情などみじんもうかがえず、あるのは強い仲間意識だけだった。
「さやかは会社を辞めた。二階堂とは別れる、新しい人生を歩むっていうんで、私が保証人になって引っ越ししたけど、関係は続いていたんだね。あいつの、妻とは別れるという言葉を信じてしまったんだろうね……」
 二階堂の再婚は不倫のあげくだった。藤重さやかが二階堂の言葉を信じたことを祥子は責められなかった。祥子との関係で結婚の二文字は出てきたことがないが、もし二階堂が妻とは別れると言ったら、自分もその言葉を信じてその時を待つだろうと容易に想像できた。
「さやかに、二階堂とは別れろと何度も言ったけど、ダメだった。結局、さやかは自殺したんだよ……」
 かみしめて口紅のはげた下唇に、悦子の口惜しさが滲んでいた。
「事故だったと聞いていますけど」
「事故には違いないよ。電車にはねられたんだから。でも自分から線路に落ちていったのなら、それは自殺だろう?」
 悦子は美しい眉を人差し指でなぞった。まるで涙の出るのを止めるまじないのような所作だったが、そのまじないは効かなかった。
「二階堂とだけは関わるんじゃないよ。あいつが魅力的な男だっていうのはよくわかる。いい奴には違いないんだ。でも、こと女に関してはだらしない奴なんだ。私はね、もう誰にも傷ついたり、死んでもらいたくはないんだよ――」
 真珠のような悦子の瞳から大粒の涙がいくつも零れ落ち、テーブルを濡らした。

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