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あじろ けい

Author:あじろ けい

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キャッチアップ 14

 涼子が知らなかった川崎病を、真紀は知っていた。
「看護師だもん、知ってて当たり前か」
「看護師でも知らないことはいっぱいあります。たまたま幼稚園の知り合いに川崎病の子がいたから知ってるだけ」
 誠の入院からすぐに涼子は真紀に連絡を取った。看護師をしているからということは二の次で、頼りになる人間は真紀しかいなかった。
「来てくれてありがとね」
 夜勤明けだというのに、留守電のメッセージを聞いた真紀はその足で誠の病室に駆けつけてくれた。大部屋の窓際のベッドで、誠は薬が効いて、おとなしく寝ている。午前中だというのにすでに刺すような威力の陽ざしがカーテン越しにさしこんでいる。今日も暑くなりそうだ。
「心臓の血管に瘤が出来たりしたら、命にかかわるかもしれないって……」
 それまで淡々と入院までの経緯や医者から聞かされたことを語っていた涼子の唇がわなないた。全身の震えをとめようと、潰しかねない勢いで両手でペットボトルを握りしめた。真紀が差し入れてくれたペットボトルのジュースだ。他にも、菓子や本、水を使わないでも髪の洗えるシャンプーなど、24時間付き添いの涼子を気遣って細々したものを真紀は持ってきてくれた。
「まだ瘤が出来たわけじゃないでしょ」
 真紀は震える涼子の手にしっかりと自分の手を重ねた。そのぬくもりに涼子は泣き出しそうになった。
「でも、もしそうなったら」
「そうならないよう、治療しているの。最悪の事態を考えるのは医者の仕事。そうなったらそうなったで解決を試みるのも医者の仕事。しっかりしなさい、涼子。あなたは母親なのよ。母親が弱気になっていたら誠くんだって不安になるでしょ」
 口ではそう叱咤激励しながらも、真紀は、泣き出した涼子に肩を貸してくれた。人目をはばからず、涼子は声をあげて泣いた。誠が起きてしまうかもしれない、他の患者に迷惑かもしれないと思いながらも、嗚咽はとめられなかった。泣き続ける涼子の頭を、真紀は母親のように撫で続けていた。
「私、母親失格だわ」
 涼子は真紀の肩に頬を埋めたまま、つぶやいた。真紀の体からはほんのりアルコールの匂いがした。病院のにおい、医者たちの体臭。清潔な死の香り。
「熱が出た時、私はいつものちょっとした発熱だと思ったの。でも、母は異常を感じていた。いつも誠をみているから、何か違うってわかったのね」
「涼子は学生で忙しいんだから、誠くんにべったりというわけにはいかないでしょ」
 真紀の肩から顔をあげ、涼子は姿勢を正した。
「私、誠をほったらかして男と会ってたの。彼も同じ学校の生徒。最低よね。勉強しに行ってたんだか、男に会いに行っていたんだか。私、母親であることよりも女をとったのよ」
「それのどこが最低なの」
 はっとして見た真紀の顔は笑ってさえいた。
「母親だって恋愛したっていいじゃない。涼子は独身なんだから」
 庇ってもらったはずの涼子は咎めるように真紀を見据えた。
 悪い母親だから罰として誠が入院するはめになった。反省しているという態度でいれば赦されて誠は元気になるのではないか。そんな風に考えている涼子は、真紀の言葉に救われてはならなかった。
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テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 15

 責めてくれたほうがいっそ気が楽と言わんばかりの涼子にむかって、真紀は大きなため息をついた。
「わかってる。世間は、まだまだ、母親が女として恋愛することにいい顔はしないのよね。滅私奉公じゃないけれど、100パーセント子どものために生きることを強いるもの」
「子どもには母親が必要よ」
「いい母親がね。四六時中一緒にいるからっていい母親とは限らないし、仕事や何かで家を空けがちだからといって悪い母親とは限らない。要は、子どもとどんな関係を築いているかということでしょ。愛されているという自信を与えることが一番大切なのよ。涼子は誠くんを愛しているでしょう」
 涼子は大きく頷いた。何を失っても誠だけは失えない。苦しむ誠と出来るなら変わってやりたいとさえ思う。それができないもどかしさが胸をしめつける。
「男にかまけているのは、たとえ子どもを愛していてもいい母親とは言えないと思うけど」
「そうね。世間はそう言うわね。それじゃ、夫にかまけているのはどうなのかしら。私たちは独身の母親だから男となるけど、結婚している母親は? 夫にかまけていても何も言われないでしょう。それはどうして」
 涼子は言葉に詰まってしまった。雅弘にかまけていなかったから、離婚という結果になったのだ。
「確かに、女の一生では母親として子どもと密着する時期があるのは認めるわ。でもだからといって、女を捨てろと言われるのはひどいと思わない? 子どもはいつか離れていくもの。そうなった時、私たちに残っているものは何? 結婚していない私たちには何もないの。いきなりひとりきりで、子育てしていた時間よりずっと長い時間を過ごすことになるのよ。そうなってから人生のパートナーをさがそうたって、女としてはもう盛りを過ぎている。悲しいけど、これが現実よ。年老いてひとりきりにならないよう、今のうちに恋をして、人生のパートナーをつかまえておかないといけないの。子育てして、恋をして、仕事をして。女はね、忙しいのよ」
「真紀、付き合っている人がいるのね?」
 二歳年下の、病院の出入り業者だと真紀は言った。
「浩介くんは何と言ってるの? 真紀の彼のこと」
「嫌がってる。女である前に母親だろって。まるで女であることが汚らしいみたいな言い方をするわ」
「確か十五歳よね。多感な年ごろだわ」
「母親に性を感じるのが嫌なのね」
「男の子だからじゃない? 真紀が恋人のようなものだから、人に取られたような嫉妬のような気持ちがあるのじゃないかしら」
「自分は男ですらまだないのに、一人前の男と張り合おうなんて十年早いわ」
 憎まれ口を叩きながらも真紀の頬は緩んでいた。子どもの成長が嬉しくて仕方ないのだろう。同時にさびしそうな口ぶりでもあった。親離れはすぐそこまで近づいている。誠の成長に目を細める日がいつかは来るのだろうか。そうであってほしいと、涼子はむくみと発疹のひどい誠の小さな手を握った。
「真紀の言いたいことはわかる。子ども中心の生活は、子どもにとっても重荷でしかないから、子どもだけの人生を送るなってことだろうけど、私の場合、彼とのことは恋愛ですらなかった。体を重ねるだけの関係。本当に遊びだったの」
 克弥とは喧嘩別れのような形で終わったが、涼子は何の痛みも感じていなかった。恋愛はミックスドロップを舐めているようなものだ。甘いドロップばかりではない。涼子は薄荷味が苦手で甘いドロップを舐めつくした最後には薄荷味のドロップばかりが残った。恋愛の終わりは、仕方なく最後に舐める薄荷の味がする。冷たくて苦い、出来たら口にはしたくないもの。だが、克弥との恋愛の終わりに薄荷の味はしなかった。全部が甘いだけのドロップ。甘味だけの単調さに飽きただけだった。
「それも恋愛のひとつじゃないの? パートナーの探し方はいろいろよ。涼子は必要としているパートナーがどんな人なのか、わかっていないのじゃない? だから今回は間違えた。彼とは?」
「もう終わったわ」
 克弥は、涼子が修一と付き合っているものだと勝手に誤解していた。勝手に腹をたて、勝手に涼子を悪い母親だと決めつけた。何もかも、自分勝手だった。ふたりとも別れるとは口にしなかったが、少なくとも涼子は今後一切付き合うつもりはなかった。
「涼子。恋愛しなね」
 真紀の言葉に涼子は微笑み返すのが精いっぱいだった。
「誠くんのこと、遠藤さんに連絡しないとね」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 16

 一回り年上の雅弘とは社内恋愛を経て結婚した。交際にしろ結婚にしろ、積極的だったのは雅弘の方だった。営業部で三十過ぎて独身だった男性社員は雅弘だけだった。
 見た目だけなら雅弘は若く見えた。若作りというのではなく、童顔な造りのせいで、年を聞いた涼子は驚いたものだった。黙っていれば十は若くみえる雅弘は、しかし口を開けばしっかりした話し方に年が垣間見えた。
 付き合っていた間、年齢差は笑い話だった。夢中になっていたテレビ番組が違う、好きなアイドルも聴いていた音楽もお互い知らないものが多かった。涼子が小学生の時には雅弘は大学生になっていたわけで、そう考えると、年齢差が重くのしかかってくる。子どもの頃と大人になった今では年の感じ方が違うと言って、雅弘は数字の年齢差をとやかく言われるのを嫌った。
 雅弘の話題についていけなかったことも多かったが、自分の知らない世界を教えてもらっているという気分で当時の涼子は世代間のギャップを楽しんでいた。年上の男性ならではの包容力があると思っていたのもこの頃だ。実際は涼子を子ども扱いしていただけだと分かるのはもっとずっと後になってからだった。
 今なら、と、独身の友人たちを横目に涼子は考える。分別のついた今なら、雅弘を伴侶になど選びはしない。
 雅弘は考える力の欠けた人間だった。思いやりと言い換えてもいいかもしれない。常に自分の考えが一番だと思い込んでいた。涼子がまだ働いていた結婚当初、共働きだというのに雅弘は一切家事を手伝わなかった。疲れた体にムチうち、夕食の仕度をする涼子にむかって、簡単なものでいいと言う。簡単なものとはいえ、料理の作業そのものはしなくてはならない。涼子の負担はあまり変わらない。それでも、雅弘としては涼子を思いやったつもりなのである。料理しなくてすむよう、外食にしようだとかそういうことには考えがまわらない。
 掃除にしても洗濯にしても同じだった。疲れているだろうからやらなくていいと言うが、だからといって自分が掃除するなり洗濯するなりするわけでもない。結局、涼子がするはめになる。
 そうした小さなことを積み重ねて耐えかねた涼子が腹を立てると、雅弘が逆に腹を立てた。家事を無理強いしているわけでもないのに何の文句があるのかというのだ。自分の立ち位置からしか物を考えられず、決して涼子の立場に立って考えようとはしなかった。
 二人三脚で歩んでいくという考えもなく一人勝手なペースで走る雅弘を追いかけるようにしていた結婚生活だったから、雅弘の浮気がなくてもいずれ離婚という結末をむかえただろう。
 離婚後も、雅弘とは連絡を取っていた。月に一度は誠に会わせて欲しいと言われていたからだが、誠に会いたいという連絡が雅弘から来たことは一度もない。涼子の方から気を利かせてメールで連絡するが、あればいい方の返事は大抵は仕事が忙しいといった内容だった。
 女との付き合いが忙しいのだろう。風の便りに、再婚するような話を聞いていた。女は涼子の一歳下、雅弘にしてももう若くはない。縁を切った人間のことだから何をしようと当人の勝手だが、誠の父親には違いない。
 涼子は誠について簡単に事情を説明したメールを送った。返事は三日後だった。すぐに見舞いに行くとあった。雅弘が誠の病室にやってきたのはそれから三日後だった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 17

 久しぶりに雅弘に会った印象は老けたというものだった。垂れ目がちの目はますます目じりが下がり、その目じりには皺が刻まれている。小ぶりで形の美しい唇の脇にはかすかに法令線がみてとれた。十歳は年をとったようだった。若く見られがちな雅弘だから、十歳も老けこんで見えたのなら四十過ぎの年相応なのだが、涼子は違和感を覚えた。
 雅弘を思い出す時に浮かんでくるのは出会ったばかりの頃、三十過ぎても少年の面影を残した顔であるせいもあるかもしれない。短い結婚生活の間、雅弘の顔を見ていなかったということなのか。雅弘は、付き合い始めた当時、好んでよく着ていたサーモンピンクのポロシャツに麻のジャケットを合わせていた。
「来てくれてありがとう」
 誠は父親に会えて喜んでいた。入院という非常事態でもなければ会いに来なかった雅弘でも、誠にとっては父親ではあるのだ。複雑な思いで無邪気に喜ぶ誠を横目に、涼子は雅弘が見舞いにもってきたクマのぬいぐるみを枕元に置いた。
「転院させられないの? 病院が東京ならもっと簡単に見舞いに来れるのに。今日はこっちに来るのにわざわざ休暇を取ったんだ」
「やたらと動かしたりしたらいけないのじゃない」
 両親や、いろいろと世話してくれる真紀のそばを離れての東京での付き添いは涼子にとってかえって負担になるとは雅弘には考えもおよばないことらしい。東京の病院に転院できたところで雅弘が毎日見舞いに来るとは到底思えない。
 涼子は、誠について、川崎病について一通り説明した。間に差し挟まれる雅弘の質問にも淡々とまるで医者のような態度で答えた。雅弘が引っかかったのは、後遺症の動脈瘤と心筋梗塞を起こす可能性についてを話した時で、涼子も同じ話を医者から初めて聞いた時、背筋が寒くなったのを覚えている。
「心筋梗塞って、大人の病気じゃないのか。子どもがなるものじゃないだろう」
「そういう病気なのよ」
 苛立たしさを隠さずに涼子は言った。
「それで、その心臓にできる瘤ってのはどうなんだ」
「まだ瘤が出来ているかどうかはわからない。検査しないと」
「検査してないのか?」
「今はとにかく熱を下げないといけないのじゃない」
 誠の熱はしつこく、涼子を不安にさせた。
「瘤が出来たらどうするんだ」
「瘤の中に血栓ができやすくなるし、血流も悪くなるから、手術で何とかするのじゃないかしら」
「それじゃ、瘤が出来てから、出来てるかどうかの検査なんて後手もいいところじゃないか」
「そうならないよう、治療しているのよ」
 涼子は、血流を促進するために血液製剤を用いた治療を行っていると説明した。血液製剤と聞いた途端、雅弘の顔が歪んだ。
「血液製剤って、エイズや肝炎なんかで問題になったあれだろ」
「ええ。肝炎やエイズに感染したっていう報告例はないけれど、そういう問題があるから使用同意書にサインしてくれって言われたわ」
「サインしたのか?」
「したわよ。他にどうすればよかったっていうの」
 涼子の苛立ちを読み取ったかのように、誠が不安げに涼子の顔を見上げた。夜中に起き出し、夫婦で離婚について話し合っていたところに出くわしてしまった時と同じ表情をしていた。当時と同じように、涼子は即座に笑顔を作ってみせた。
「信用できないな。所詮、田舎の病院、医者だ。万が一、手術ってことになって対応できるのか? 転院、できないものなの?」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 18

 雅弘の見舞いから一週間後、心臓エコー検査結果が出た。最悪な結果を、涼子は身じろぎひとつせずに医者から聞いていた。男にかまけていた罰として誠が病気になったのなら、最悪のシナリオが涼子のために用意されている。どこかでそうなるような予感があった。
 誠の心臓の血管壁には瘤が出来ていた。
 涼子は雅弘に連絡を取った。検査結果が出たら知らせてほしいと頼まれていたからだった。結果を聞いて、雅弘は黙りこんでしまった。今後の治療などについて、涼子は医者から聞いたままを繰り返したが、雅弘が聞いて理解したのかはわからなかった。
「ねえ、聞いてる?」
 電話の向こう側にむかって涼子は呼びかけた。顔の見えない相手の沈黙は底知れない不安をかりたてる。相手を襲った怪物が電話回線を通して自分のところに現れるのではないかという不安。
「涼子……」
 やっとのことで聞き取れるほど、かすかな雅弘の声がした。
「俺たち、やり直さないか」
 酔ってるのと言いかけて、涼子は口をつぐんだ。時計を確認するまでもない。病院の中庭のベンチに座っている涼子の頭上では夏の太陽が照り輝いている。仕事の邪魔にならないよう、昼休みの間にと思って連絡したのだ。
 雅弘は離婚したがらなかった。涼子に未練があるようで、雅弘の頑なな態度はかえって涼子の感情を逆なでた。女との関係は涼子の妊娠中から始まったとかで、涼子が知ったのはずっと後になってからだった。雅弘がしぶしぶ離婚に応じたのは女が妊娠したからだった。女とは再婚話が進んでいたはずだがどうなったのだろう。
「涼子、聞いているか?」
 沈黙にのみこまれそうになった雅弘が今度は口を開く番だった。
「彼女とは?」
「別れたよ」
「赤ちゃんは?」
「ダメだったんだ」
 同情する気にはなれなかった。他人の幸せを踏みにじって手に入れられる幸せなどない。涼子は家族を失った。女は子どもを失った。これでお相子だ。
「お袋が、誠に会えないんでさびしがってさ。お前が浮気なんかするから離婚なんてことになったんだ。お前はバカだ。今からでも頭下げて涼子に戻ってきてもらえって言うんだ」
「……」
「お袋に言われたからよりを戻そうって言うんじゃないんだ。俺はもともと別れたくはなかったんだし」
 離婚の話し合いをしていた間中、雅弘はずっと気持ちは涼子にあると言い続けた。女が妊娠しなければあるいは離婚していなかったかもしれない。
「誠のことがあって――」
「誠のことが何だって言うの」
 涼子は雅弘の言葉にかぶせるように言った。
「お前、今学生だろ。収入もないのにどうやって誠の面倒をみていくつもりだ。仮に就職できたとして、女手ひとつで子どもを育てていくのは大変だろう。その上、誠は医者に見せ続けないといけない体になった。今の局面は乗り切ったとしても将来、倒れたり、手術ということになったら金が要るだろう。そんな金あるのか?」
 涼子は返事につまった。金銭的な面倒は両親がみてくれると申し出てくれた。真紀も何かと気にかえてくれて、どうにか誠の世話ができている。しかし、それも誠が入院しているという非常事態だからで、退院して普通の生活に戻った時、どうしていくのか、涼子は何も考えていなかった。
「誠は俺の子でもあるんだ。何とかしたいと思うのは当然だし、復縁はお前にとっても悪い話じゃないだろう」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 19

「それで、遠藤さん、何だって」
 病室に戻ると、真紀が心配そうに声をかけてきた。雅弘に検査結果を伝える間、誠のそばについててもらっていたのだ。一緒に見舞いにきていた修一も、誠の相手をしながら涼子の様子をうかがっていた。
「ねえ、転院って簡単にできるものなの?」
 できるだけ修一の方を見ないようにしながら涼子は真紀に尋ねた。
「東京の病院で診てもらいたいって言ったの?」
 雅弘は転院させろとは言わなかったが、復縁となれば東京での生活が基盤になる。
「ここは総合病院だから誠くんの治療に関しては東京の病院とそん色ないから転院の必要性はないと思うけど」
「誠の見舞いに東京からこちらへ通うのは大変なのじゃない」
「そうね。家族が通うのが大変だからという理由での転院もあるけど。そういう理由なら担当医と話をすれば割とスムースに転院できるとは思うけど。でも、こっちで入院していた方がいいのじゃない? 涼子のご両親も近くにいるし、私も何かあったら助けてあげられるし。東京の病院じゃ、涼子ひとりだよ」
 そうねと言って、涼子は話を打ち切った。

「急に転院がどうとか言い出すから何かあるなと思ったけど、そういうことなの」
 三日後、ひとりで見舞いにきた真紀に、涼子は復縁をもちかけられたと打ち明けた。
「それで、どうするの?」
「まだ返事はしてない。よく考えておいてほしいって言われて」
「それにしても急な話よね」
「もともと離婚したくはなかったらしいし、誠のこともあって――」
「こういう言い方は何だけど、お金で涼子を釣って誠くんを取り戻そうとしているように感じるけど」
「実際そうなのよ」
 真紀に向かって涼子は苦笑いを浮かべてみせた。
「彼、子どもは好きなの。結婚してすぐにでも子どもが欲しいと言っていたくらいだから。私のことは、多分、子どもの面倒をみてくれる人間だぐらいにしか考えていないと思う。彼女の子がダメにならなかったら、誠のことがあったにしても、私とヨリを戻すそうなんて考えなかったと思うわ」
 涼子はベッドの誠を見やった。熱の下がった誠は見た目だけならすっかり元気になってベッドの上にじっとしていられなくなった。枕を山に見立て、家から持ってきたラジコンのダンプカーをその上に走らせて遊んでいる。
「でも私にとっては悪い話じゃない」
 涼子は雅弘の言葉を真似て繰り返した。
「遠藤さんに気持ちはあるの?」
 真紀の質問に、肯定的な返事はできなかった。涼子の沈黙を、真紀は否定の意味でとらえたらしかった。
「ATMだと思って我慢するつもり?」
「誠のためよ。それに、彼は誠の父親でもあるんだし」
「それでいいの? 前にも言ったと思うけど、子どもといる時間なんて長い人生の間でわずかなんだよ。誠くんが自立したら、涼子は遠藤さんとふたりきりになるんだよ。気持ちのない人と一緒にいられるの?」
 誠が二十歳になる時、涼子は四十九歳だ。寿命まで生きるとしても約三十年。誠と過ごす二十年よりも長い時間を雅弘とともに歩む。考えるだけでもぞっとする。
「涼子、何だか自分を罰しているようだわ」
「罰せられるだけのことをしたわ」
「付き合っていた彼のこと?」
 母親だということを忘れて男に走った。その罰として、愛情のない男と一生ともに過ごさなければならない。だが、その罰を甘んじて受け入れたならば、誠は十分な治療を受けることができる、大学にだって進学させてあげられるかもしれない。
「お金は大事だわ」
「それはそうだけど……」
 シングルマザーの真紀だからお金の重要性は痛いほどわかっているだろう。金がすべてではないともわかっていながら、真紀はそれ以上何も言わなかった。
「学校、どうするの?」
「休学の手続きを取ったわ……」
 女手一つで誠を育てていこうと通い始めた栄養士専門学校だったが、誠の入院が延びるにつれ、通うのは無理だと判断した。今、誠は母親を、涼子を必要としている。勉強はいつでもできる。しかし、誠のそばに寄り沿っているのは今しかできない。決断に迷いはなかった。

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 20

 誠が入院したと知って、修一は見舞いに駆けつけてきてくれた。はじめこそ一人で来たが、その時に真紀と居合わせて以来、真紀と連れだって見舞いに訪れる。看護師に誠の父親と間違えられたのを気にしての行動なのだと、真紀からこっそり打ち明けられた。誠の父親に間違えられた件についてはその場で笑い話として流したはずだが、修一は涼子の体面を気遣っているという話だった。
 熱が下がってくると、誠はベッドの上でじっとしていられなくなった。家から持ってきたおもちゃで遊んでもらうが、そうそう涼子も相手をしていられない。そんな時に修一が見舞いに来てくれて誠の相手をしてくれると助かった。その間、病院内の喫茶店で真紀とお茶を飲んで息抜きをしたり、買い物しに外出したりした。
 家から持ってきた物や、真紀と修一からの差し入れもあって、誠の枕元にはたくさんのおもちゃや絵本が積み上げられている。だが、誠が飽きもせずに気に入って遊んでいるのは、修一からもらったラジコンのダンプカーだ。家にいた時は庭の土を入れて遊んでいたが、病室ではそうはいかない。仕方なく、これも修一からもらった積木を荷台に乗せては降ろすを繰り返して遊んでいた。他にはけん玉だとかヨーヨー、トランプ遊びなどを一緒になってしている姿は、仲のいい親子にしか見えない。
 ふらりと見舞いに訪れた雅弘が出くわしたのは、まさに修一が誠と楽しそうに遊んでいる場面だった。
「中学時代の同級生の、都筑くんと広田さん」
 ふたりを雅弘に紹介し、雅弘については誠の父親だと紹介した。
「遠藤です」
 ふたりにむかって軽く会釈をし、雅弘は見舞いだと言って膨らんだ紙袋を涼子に渡した。中身は絵本と子ども向けのDVDだった。
「わざわざ、ありがとう」
 涼子が紙袋を誠の枕元近くの床に置いている間、修一の目は誠の手にしたオレンジのダンプカーに注がれていた。ついさっきまで修一と遊んでいたおもちゃだ。
「それじゃ、私たちはこれで失礼します。行こう、都筑くん」
 真紀に促され、修一は帰り支度を始めた。
「もう帰るの? もっとあしょんで」
 誠が修一のジャケットの裾をつかんで引き止めた。今にも泣き出しそうなほど顔が赤かった。誠の頭を軽く撫で、修一は
「また来るからな」
 と言い残し、病室を後にした。
「誠、元気にしてたか?」
 半べそをかいたまま、誠は頷いてみせた。
「退屈してるだろうと思って、パパ、いっぱいDVDを持ってきたぞ」
 雅弘はそう言って、紙袋からDVDを取り出し、携帯してきたポータブル再生機にディスクを差しこんだ。たちまちアニメのテーマソングが流れだす。画面が見えやすいよう、雅弘は再生機を持ってベッドの脇に腰かけた。
 ダンプカーを胸に抱いたまま、しばらく画面を見つめていた誠だったが、そのうちに船を漕ぎ出したかと思うと、ダンプカーを枕に寝入ってしまった。誠を起こさないよう、ダンプカーを枕と取りかえ、涼子は肩まで毛布をかけてやった。
「DVD、消してくれる?」
 涼子に言われ、雅弘はポータブル再生機を閉じた。
「この間の話、考えてくれたか」

テーマ:オリジナル小説
ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 21

 やはり復縁の話をしに来たのかと涼子は身を固くした。ゆっくり考えてくれと言われたのに甘えて返事は延ばしていた。頭ではどうするのが一番なのかわかっていながら、行動に移ることができないでいる。
「いい返事がもらえないでいるのは、あの男のせいか」
「……」
「付き合っているのか」
「ただの友だちよ」
 涼子は小さいため息をついた。克弥も、涼子と修一の仲を疑ってかかった。だが、克弥も雅弘も見当違いもいいところだ。過去の恋心を打ち明けられたものの、修一とは何もない。
「それにしちゃ、誠がえらく懐いているじゃないか。あの男、お前に気があるんじゃないか。将を得んと欲せば馬を射よって言ってだな。誠に取り入ってお前をものにするつもりじゃないのか」
「仮にそうだとして、だったら何だっていうの」
 涼子は苛立ちを覚えた。余計な詮索をする雅弘に対してもだが、修一の友人として節度のある態度にも腹が立った。雅弘の言う通りだとするならば、修一はもっとはっきりした好意を示していてもいいはずだ。
「お前もまんざらでもないんだな。だから、俺との復縁を迷っているんだ」
「……」
「気があるんだな」
 今度は雅弘が苛立つ番だった。両手を頭にやったり、時々は天井を見上げたりなどして、雅弘は仕切りのカーテンと誠の寝ているベッドの間を行ったり来たりを繰り返していた。しばらくそうしていたかと思うと、立ち止った雅弘は指の関節が白くなるほど強くベッドの鉄柵を握りしめ、涼子に迫った。
「子どもが大変な思いをしているって時に、恋愛している場合か!」
「私は独身よ。したい時に恋愛するわ。それに、そのつもりがなくても恋には落ちてしまうものだわ」
 涼子は雅弘の強い視線を受けても目を逸らさなかった。
「母親なんだぞ!」
「母親が恋してはいけないっていうの?」 
「女である前に母親なんだから、子どもの事を一番に考えるのは当たり前だろうが!」
「あなたは父親なのに、子どもの事を一番に考えたりしなかったわ。私の事もね。私が誠を妊娠中に浮気して、男であることを優先したあなたにとやかく言われたくはない」
 デジャブだった。離婚前に繰り返された、誠を起こさないように声を押し殺しての諍い。浮気を謝ろうとは決してしなかった雅弘に対し、涼子は子どもじみた頑固さで抵抗するしかなかった。
「もういい。よくわかった」
 鉄柵越しに乗り出していた身を、雅弘は引いた。怒りで真っ赤になっていた顔が急に冷静さを取り戻しつつあった。
「お前には誠を任せられない。男にかまけて誠の面倒をみなくなりそうだからな。誠は俺が引き取る。お前は恋愛でも何でも勝手にしてろ」
 雅弘はまるで汚いものでも見るようにして、椅子に座っている涼子を文字通り見下して言った。
「冗談じゃないわ、誠はあなたには渡さない! あなただけには渡さない。あなたみたいな父親失格な人間にだけは!」
 椅子から立ち上がった涼子は雅弘の目の前に立ちはだかった。
「俺はいい父親だっただろうが! 誠を風呂にも入れてやったし、ミルクだってあげてただろ」
「それは子育てじゃない。ただ、赤ん坊の世話をしたというだけ。それも自分のしたいことだけをね。汚いからと言ってオムツは絶対に替えてくれなかったし、自分が眠たいからってさっさと寝て、誠の寝かしつけは手伝ってくれなかった。そう、毎日夜遅かったものね。仕事じゃなくて、女の所に通っていたから遅くなっていたわけだけど。
 あなたに誠は任せられない。自分のしたい事だけを押し付けるような人間が、誠の気持ちをくみとったり、考えを尊重して子育てができるとは思えないもの」
「俺はいつだって誠を大事にしてきたぞ」
「そうかしら」
 そう言って涼子はベッドの上のポータブル再生機を指さした。
「誠はね、誰かと一緒に何かをするのが好きなの。絵本を読むのも好きだけど、読んでくれる人と一緒に声を出して読むことが好きなの。一方的に映像をみせられるだけのビデオは好きじゃないの。ビデオさえ見せておけばおとなしくしているだろうと考えるあなたにとっては都合のいいものだろうけど。
 自分の都合ばかりを優先するあなたは決して父親にはなれない人よ」
 雅弘と涼子とはむかいあったまま、身じろぎひとつしなかった。口では雅弘にかなわなかった。何かと言い返されてしまってばかりだったが、目の前に立ち尽くす雅弘は、見たこともない涼子の剣幕に驚いて硬直していた。
 胸につかえていた気持ちをすべて言葉にして吐きだした今、涼子はようやく雅弘に笑顔をむけることができた。
「私たち、縁がなかったのよ」

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ジャンル:小説・文学

キャッチアップ 22

 誠の退院が決まった。
 子どもの頃の瘤は自然になくなることもあるという医者の見立て通り、誠の心臓壁に出来た瘤は消滅した。医者から検査結果を聞いた涼子はその場に泣き崩れた。
 とはいえ、一時期の危険な状態から脱しただけというだけで、川崎病との付き合いは一生続く。退院後も定期健診などで病院へ通わないとならない。
 初めのうち、誠の将来を悲観していた涼子だったが、退院が決まると気持ちも切り替わった。
 一病息災。定期的に医者に診てもらうのなら、別の病気にかかったとしても発見は早いだろうし、その分、治療も早く開始できる。かえって健康に過ごせるのではないか。
「涼子、明るくなったね」
 頻繁に見舞いに来てくれていた真紀も驚くほどの涼子の変わりようだった。
「明るくなったよね。何だか生き生きしている」
 退院のその日も、真紀はそれまで何度となく繰り返したフレーズを口にした。
「落ち込んでいる暇があったら、誠を守ることに時間を使わないともったいないなって。いろいろとやることが山積みよ。せっかく勉強したんだから、食事から健康な体作りを目指していこうかなって。車の免許も取ろうと思ってる。病院とか幼稚園とかの送り迎えがしやすいように」
 涼子は目を輝かせながら、将来を語った。差し入れや付き添いの交替、病院までの送り迎えと、両親や真紀には助けてもらったが、いつまでも頼りにするわけにはいかない。
「車があると何かと便利よね。学校はどうするの?」
「春からまた通う。仕事もこっちで探すことに決めたわ。東京ならいくらでも仕事はありそうだけど、一人で子育てをするのは難しいって身にしみてわかったから。こっちなら母もいるし、真紀もいて、いざって時には頼りになるし」
 茶目っ気たっぷりに涼子は舌を出してみせた。
「そうよ、何かあったら人を頼りなさい。困ってますって大声出すの。私だって、散々周りに世話になって、というか、迷惑かけて子どもを育ててきたんだから。世間に育ててもらうぐらいの気構えでいた方がいいわよ」
 世話好きな真紀は手際よく、涼子の荷物をボストンバックに詰めていった。誠の荷物は涼子の担当である。退院のこの日、父が迎えにくるはずだったが、数日前に傷めた足のせいで車が出せなくなってしまった。タクシーを使おうと考えていたところに助け船を出してくれたのが真紀だった。
「遠藤さんとは?」
 涼子は黙って首を横に振った。
「彼にも言ったけど、私たちはもう終わったの。そもそも、私たち、縁がなかったのよ。でも、彼は誠の父親ではあるから、誠に会いたかったら会えばいいし、誠のことについてなら今後も連絡はする。でもどうかしら。会いにくるかしらね……」
 誠の瘤が消失したニュースについてはメールで雅弘に知らせてあったが、返信はなかった。
「彼、子ども好きじゃなかった?」
「あの人の子ども好きっていうのは、自分の言うことを聞く子どもなら好きってことなの。彼のような人間は父親にはなれないし、なってはいけない人。彼の浮気に腹を立てて離婚したと思っていたけど、違ったのね。浮気はきっかけに過ぎなくて、父親としての彼に不安を感じたから別れようと決心したんだって、今になってわかったの」
「父親にはなれない人間、か。母親もそうだけど、男も女も、子どもを持てば自動的に父親、母親になれるとは限らないのよね」
 自戒の意味をこめて、涼子は真紀の言葉に深く頷いてみせた。
「彼はどうだった?」
 荷造りの手を休め、涼子は尋ねた。
「彼?」
「浩介くんの父親。どうして結婚しなかったの?」
 ああと小さく呟いて、真紀は肩をすかしてみせた。
「彼も父親にはなれない人だった。人生のパートナーにもなれない人だった。オスとしては美しい生き物だったけど」
 「オスとして美しい生き物」とは言い得て妙だった。真紀の子どもの父親は、涼子たちの高校に実習生としてやってきた。若くて健康的な肉体を持ち、端正で甘いマスクの持ち主の彼に夢中になったのは真紀だけではなかった。涼子も、彼が受け持っていた数学の授業ではドギマギして勉強どころではなかったと覚えている。
「こっそりメルアド渡して、実習が終わってから付き合うようになって、開放的な夏休みに体の関係ができて、実りの秋にめでたく妊娠よ」
 十五年の年月を経た今だからこそ、真紀は自嘲気味に笑って語るが、当時はひと波乱あったはずだった。
 秋の深まりとともに真紀は学校に姿を見せなくなり、冬休みが始まる直前、高校を退学した。退学の理由を、涼子は真紀から聞かされて知っていたが、真紀の妊娠が公になったのは出産後間もなくの頃だった。
 真紀が実習生に熱をあげていたことは周知の事実だったから、父親は実習生だと誰の目にも明らかだった。小さな町だから噂はすぐに広まった

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キャッチアップ 23

「妊娠が分かった時、結婚の話にならなかったの?」
「なったわよ。私の両親は責任を取れって彼に迫ったもの」
「彼は何て?」
「結婚するって言ったわ」
「じゃあ、どうしてしなかったの?」
「そうだなあ……」
 真紀は視線を宙に泳がせた。揺れ動いた自分の感情、妊娠、出産に対する不安、相手の定まらない決意。どれが理由と言い切れるものかわかりかねるといった風に、沈黙が続いた。
「彼のお母さんが結婚には反対だったの。出産にもね。息子はまだ若い、結婚なんて早い、息子の将来に傷をつける気かとか、いろいろ言われたわ。子どもも堕ろせって言われたっけ」
「その話は初耳だわ」
「あらそう? 言ってなかった?」
 彼との間がうまくいっていないとは聞いていたが、中絶を迫られた話は初耳だ。
「同じ女から、自分の子を殺せって言われたのがショックだった。女ならわかるじゃない。お腹の子をどうにかすることだけはしたくなかったし、できなかった。命は尊いものだからという殊勝な気持ちからじゃなくて、自分の体がどうにかなってしまうんじゃないかっていう恐怖からで、私も子どもだったのね。自分のことしか考えていなかった。みんなそう。彼も、母親がお腹の子を始末しろって言い続けるものだから、赤ん坊さえいなくなれば結婚しなくて済むんだと思うようになって、そのうち母親と一緒になって堕ろせと言うようになったの。最初から結婚する気なんかなかったのね。私の父親の迫力にまけてつい口から出まかせで結婚すると言ったけど、本心では嫌だな、面倒だなって思ってたってわけ。彼も父親にはなれない人間だった――私も母親になる心構えがなかった」
「真紀はちゃんと母親しているじゃないの」
「今は、ね。でも十六の時は何も考えていなかった。子どもをつくるためにセックスがあるんだから、セックスしたら妊娠するのが当たり前なのに、ろくな避妊もしなかった。彼ね、フィニッシュさえ外で済ませれば妊娠しないと思ってたのよ。バカよね。まあ、私もバカだったけど」
「彼は二十歳過ぎの大人で、真紀は十六だったじゃない」
「そう、私は呆れるほど何も知らない子どもだった。セックスがどういうことかも、子どものことも、母親になるということがどういうことか何ひとつわかっていなかった。体はメスになりかけていて、セックスに興味を持ち始めていたところに、成熟した―といっても体だけだけど―オスが登場。当然、するわよね、セックス。相手が好きだからするんだなんて当時は思っていたけれど、今振り返ってみるとそんなに好きでもなかった気がする。ただ、セックスというものをしたいというそれだけの気持ちだった気がするの。同級生の男じゃ、子どもっぽくて相手にならないけど、彼は見てくれは大人だった。精神は未熟だったけど。結婚しなくて正解だった」
 真紀はくしゃっと顔全体に皺を作ったかと思うと、ぱっと笑顔を作ってみせた。後悔など微塵もないといった、明るい笑顔だった。
「今付き合っている人とは、結婚を考えている?」
 真紀は小首を傾げてみせた。
「今すぐはないかな。将来はわからないけど」
「浩介くんが成人するまでは結婚しない?」
「そういうことでもなくて。結婚は気持ちとタイミングの問題。今は気持ちがないし、そういうタイミングでもないってこと」
「遊びで付き合っているわけじゃないんでしょう」
「私は違うわ。彼はどうだかわからないけど」
「付き合ってどれくらい?」
 真紀は指を折って数えた。
「五年かな」
「浩介くんが十歳の時からなのね。浩介くんの反応はどうだった?」
「付き合って割とすぐに彼を紹介したけど、冷めたものだったわね。相性悪いのよ、彼と浩介」
「仲悪いの?」
「仲が悪いっていうか、とにかく相性が悪いの。考え方とかまるで正反対。浩介が白と思うことが彼には黒っていうこと」
「それじゃ、結婚は考えられないのじゃない?」
「どうして?」
 驚いたように真紀は目をぱちくりさせていた。その真紀の反応に驚いたのは涼子の方だった。
「どうしてって、結婚したら彼は浩介くんの父親になるわけでしょう? 相性が悪いと面倒じゃない」
「彼は浩介の父親になるために私と結婚するわけじゃないわ。結婚する時が来るとしたら、それは私のパートナーになるためによ」
「浩介くんと気があわないってわかって、彼との付き合いを止めようとは思わなかったの?」
「浩介の気持ちを少しは考えるけど、よほどの悪い人間でない限り、浩介と気があわないからって理由で付き合わないってことにはならない」
「逆に――」
 涼子はオレンジのダンプカーを手に取った。
「浩介くんと物凄く気のあう人だったら、タイプではない人でも好きになる?」
「ならないわ」
 真紀は即座に否定してみせた。
「私が必要とするのはパートナー、恋人であって、子どもの父親ではないもの。子どもの父親にふさわしい人だからってその人を好きになることはないわ」
「でも、子どもと仲のいい人を好きになったとしたら、それはそれでいいのじゃない」
 涼子はダンプカーをボストンバックの中に大切にしまった。
「子どものことがなくても好きになったと思える人なら、ね」
 誠が懐こうとどうしようと、修一に惹かれただろうか――涼子は胸の内で自分自身に問いかけた。雅弘と病室で会った日から、修一の見舞いはぱたりと途絶えていた。誠の父親を目の当たりにした修一の気持ちに何か変化があったとしても、涼子にはもうどうすることもできない。
 ボストンバックに荷物を詰め込んでしまうと、涼子はナースセンターに挨拶をしてくるからと真紀に誠についていてくれないかと頼んだ。
「都筑くん、誠が退院するって知ってるかな……」
「うん……」
 真紀は何故か歯切れが悪かった。
「何?」
「うん、本人からは涼子には言うなって口止めされていたんだけど……」
 深呼吸の後、真紀は言った。
「都筑くん、今、入院してるんだ」

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