二人掛けの隣の席にリュックをおろすなり、涼子は我知らずのうちにふっとため息が漏れ出た。リュックをあけ、中から分厚い教科書を取り出し、膝の上に広げる。儀式として身についてしまった習慣だ。
最後に乗ってきた客は老婦人だった。ショッピングカートを引き上げ、ポシェットからパスを取り出し、運転手に見せる。見慣れた光景が繰り返された。
だが、バスは老婦人が席に着くのを待たずに発車した。正確には発車しようとしたが、乗客の男性が運転手に声をかけたため、バスは発車できなかった。
後ろの席から運転席にむかって歩いていく男は修一だった。修一は運転手にむかって何か語りかけていた。話を終えると、修一は涼子の座っている席の隣に立った。
「隣、いいかな」
「どうぞ」
リュックを移動させて空いた席に、修一は腰かけた。老婦人は涼子たちの座る席の少し前に腰かけた。老婦人が席に着いたのを確認するかように運転手が客席を振り返り、バスは発車した。
「新人の運転手なんだ。乗客が全員席に着くのを確認してから発車しろって言ってるけど、つい忘れるんだな」
「都筑くんは、いつもあのおばあさんが席に着くまで発車しなかったものね」
「年寄りは足腰が弱っているんだから、特に気をつけてみてやらないといけないんだ」
「バスに乗っていたの、気づかなかった。新人ドライバーの教育係りなの?」
「いや、たまたまこのバスに乗る用事があったから……」
涼子は修一の横顔を眩しそうに見つめた。最後に修一に会ったのは退院直前で、その時には顔下半分を覆っていた髭はきれいに剃り落されて影も形もなかった。
「元気そうね。もうすっかりいいの?」
「まだリハビリに通っている。完全に元に戻るまでにはもう少しかかりそうなんだ」
「仕事は?」
「内勤を主にやってる。いつか運転業務に戻れたらいいけど。誠くんはどうしてる?」
「定期的にお医者さまに診てもらっていて、元気にしているわ」
「小原は?」
「私?」
「元気か?」
「ええ、おかげさまで」
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